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不可逆の満ち欠けー12

「それで、話ってなんだよ」


 もうその顔に、先ほど見えた感情は存在しない。だからきっと、さっきのは見間違い。だってこの老女があんな顔をするはずないんだから。


「さっさと終わらせろ。どうせろくな話じゃないんだろ」

「……あなたは」


 これきりだと叩きつけて帰るつもりだった。けれど祖母はそれを許さない。いや。


「あなたは、初を取り戻したいですか」


 許さなかったのは、私の方なのだろうか。


「……どういう、意味だよ、それ。ついにボケたか、クソババア。初なら──」


 もう取り戻したじゃないか。そう口にするより先に、祖母は首を横に振る。


「あれは初ではありませんよ、時雨」


 否定、したかった。そんなわけがないと。それでも祖母はいつものように言葉を紡ぐ。ただ事実だけを、淡々と。


「あれはあくまでも初の記憶を持つだけの人形。身体に保存された初の記憶から、その人格を再現しているだけ」


 それはきっと、紛れもない真実なんだろう。


「……はっ、そんなこと」


 否定してやればなかったことになるはずだ。背を向けて帰れば日常へと戻れるはずだ。今ならまだ。なのに、できない。だって、本当は。


「そこにあの子の魂はない。あの子はいない。あれは、初本人ではないのですよ」

「そんな、こと」


 本当は、わかっていた。わからないはず、ないだろうが。そんな簡単なことがわからないほど、私は適当にあの子を愛していたわけじゃない。


「そんなことを言うためだけに引き留めたのかよ」

「時雨」

「だったら──だったらそんなもん作るなよ!」


 恨んでいた、あの子を奪った現実を、覚めない悪夢を、あの子に似せた人形を作り出して押し付けて来た祖母を。本当はずっと、恨んでいたんだ。日常に戻れたと思い込もうとしている自分自身さえも、ずっと。


「人形なんか、あの子に似た人形なんか作るんじゃねえよ! 少しもあの子を気にかけなかったくせに。少しもあの子を愛さなかったくせに!」


 滲む視界を振り払うように頭を振る。噛み締めた口の中、冷たい鉄の味がした。必死に捕まえ続ける涙は、けれど私の瞳から勝手に離れていきやがる。見えない。何も。屋敷も、そこに立つ祖母の姿も、どんな顔をしているのかも。ただ、小さく息を吐く音だけが聞こえた。


「……話はそれだけなんだろ。帰る」


 背を向ける。これじゃあ不貞腐れた子供じゃないか。でも話し合いなど無駄でしかない。どうせこの老女に私の気持ちなど、いや、私たちの気持ちなどわかるわけがないのだから。

 今度こそ、これきりにするつもりだった。だけど足が動かせなくなる。その言葉に、影を縫い付けられたかのように。


「あの人形よりももっと、初に似た子を知っているのではないですか」

「────」


 引き攣った喉のせいだ。声は出ず、代わりに漏れたのは空気の音。


「わかっているのでしょう、時雨」


 何をだ。わかるわけない。


「あなたならわかるでしょう、時雨」


 喋り方。違う。見た目。泣きぼくろは同じ位置に、でもそれ以外は違っている。振る舞い。似ている、面影はある、でも違う。力加減や料理の味。似ている気がした、気のせいかもしれないけれど。あの女への態度。似ていた、少しだけ違うけれど。だけどあの女に抱いた気持ち。それだけは、紛れもなく、あの子と──。


「そんなわけ、ない」


 そんなわけない。そんなわけない。そんなわけない。


「……言ったでしょう。初は、カミサマの子だと」


 薄水色の瞳と目が合う。足を止めて振り返ったのは無意識。氷の仮面の下、その感情はわからず。冷たい。その顔もその声も、空気も何もかもが冷たいせいだ。濡れていく身体のせいだ。今が海の中だと錯覚してしまう。息苦しくて痛くて辛くて、ああ、水面は、遥か遠く。


「あの破壊装置こそが、初なのですよ」


 揺れる。視界が。揺れる。地面が。揺れる。信じていたはずのものも、信じていたかったものも、何もかもが。


「どういう、意味だよ」


 そんなわけないと拒絶もできず。口にした言葉は受け入れたくないと駄々をこねているみたいで。頭は、いや、心はとっくにわかっているはずなのに。


「どういう意味なんだよ、ばあさん」


 長い薄茶の髪の毛がふわりと舞う。黒紫の羽織があの子の部屋へと消えていく。


「おい、答えろ。答えろよ、ババア」


 追いかけた。その背を。振り向いてなどくれないと知っていながら。飛び込んだ。その部屋に。そこに何が待つのかも知らないままで。


「答えろ、なあ、答えてくれよ、ばあさん!」


 踏み込んだ部屋の中、祖母はゆっくりと振り返る。そこに在るのはいつもと何一つ変わらぬ感情のない顔。氷の張った海のような瞳。でも、見慣れぬものが一つだけ、薄い手のひらの上に。


「──どういう、つもりなんだよ」


 複雑な装飾の施された真白なナイフ。差し出されたそれの意味なんて、わかるはずもなかった。


「時雨、これを」

「なん、どういう、つもりだ。それを、私にどうしろってんだよ」


 声は震えていた。視界だって揺れている。地面だって、地震のように。なのに祖母は顔色一つ変えやしない。


「これは魂に干渉するナイフ、その模造品。性能は本物には劣りますが、それでも、最低限は」

「魂に、干渉?」

「ええ。身体は傷つけず、その中身だけを殺す。不老不死の身体を持つ者の魂を殺し、本当の意味での死を与える。そういったことが、このナイフを使えば可能となります。それに──魂と身体を切り分けてしまうことだって」


 ナイフを取れと言わんばかりにその手が差し出された。意味が、わからない。わかりたくない。そんなものを使って何をしろと。そんなことができて何になる。わかりたくない。わかりたくない。わかりたく、ないのに。


「言ったでしょう。あの破壊装置こそが初なのだと。あれの中身には初の魂が使われている」

「なんだって、そんなこと」


 ようやく動いた祖母の瞳は私から逸らされて畳へ。薄い唇がわずかに震えているような気がした。そんなもの、気のせいに決まっているのに。


「……そういう、契約でしたから」


 ですが、と。強く瞼が閉じられて、再び現れたその目が私を射抜く。突き刺すような視線から逃れる方法を、私は知らない。


「育てろと言われただけで、扱いをどうするかは我々の自由。ええ。ですから、これは契約違反ではない」


 誰かに言い聞かせるように口にして、祖母はまた、ナイフを差し出した。早くこれをとれと言いたげに。


「時雨。破壊装置の魂を奪い、あの人形に入れなさい。それだけ。たったそれだけであなたの望みは叶う。あなたは、日常(幸福)を取り戻せる」

「────」


 お姉ちゃん、と。私を呼ぶ声が聞こえた気がした。浅くなった呼吸は溺れているみたい。きっと海の底に沈められているせいだろう。苦しくて苦しくて、縋るように手を伸ばす。苦しいのはもう嫌で、寒いのに耐えきれなくて、だからもう、縋り付くしかなかった。誰かを殺すことになるとわかっていても。

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