不可逆の満ち欠けー10
「ふぅん、私のこと知ってるんですね。初対面のはずですけど」
左手を腰へと当てた月は眉を寄せて祖母を見つめている。右手には鈍い光を放つ銀色の大鎌。ゆったりとした足取りで庭へと向かう祖母に、月はまだその凶器を動かそうとはしない。
「ええ、もちろん。とはいっても、この世界で顔を合わせたのは初めてですが」
忌々しげな声に、月はますます眉間の皺を深くする。
「なるほど。並行世界の観測ができる、と。魔眼か何かをお持ちのようですね。……そうでもなきゃ、私が見えるはずもないか。それで、私が何をしましたか。随分と敵意を見せつけてくれていますけど。それってつまり、私があなたに何かをしたってことでしょう?」
「ええ、ええ、それはもう──今すぐにでも、殺したくなるようなことを」
初を抱きしめたままの腕に力が入る。それは無意識。守るためじゃないとわかっていた。ただ強く抱きしめていないとここに立っていられない。軋む、空気が。薄くなる、酸素が。冷え切った空気は、きっと氷ですら暖かいと思えるほどで。
「ですが、この世界ではそれは起こらない。わたくしが観測した事柄はこの世界では現実にはなりませんもの。まあ、あくまでも全く同じ出来事は起こらない、というだけですけれど」
ふ、と。こぼされた笑みは勝ち誇ったようで、なのにどこか悲しげであった。
「……何が目的なんですか。わざわざ厄災を使って人形を作る、なんて」
大鎌はまだ動かず。琥珀の瞳はいまだカミサマのそれに近いまま。でも、静かな問いかけには軽蔑の色。そこに人の感情を見た。そこには確かに、人の感情があると思った。そうでなければそんな声、出すはずがない。
「わたくしはただ、破壊装置を壊したいだけですよ」
「私を? 復讐か何かのおつもりで?」
「さあ、どうでしょう。けれど確かなことは一つ。破壊装置など、必要ありません」
黒紫の羽織が揺れる。空気にはヒビ割れ。ぴしりぴしりと音を立てて。そんなものは幻聴だ。わかってる。それでも今この空気が砕けていくような心地がして仕方がない。
「ま、まって、まってくれ」
枯れ枝のような右腕が持ち上げられる。琥珀の瞳が小さく揺れたのが見えた。月はすぐに腰を落として大鎌を──けれど、その続きが始まる前に。
「あ、ぐ、っ」
その声に、全てが止まった。
「う、い?」
腕に抱えたままの彼女の顔が苦しげに歪んでいた。必死に噛み締められた唇の隙間から漏れるのは唸り声のような音。
「おい、どうした、初」
慌てて頬に手を当てる。熱は先ほどよりもずっと、ずっと高くなっている。人の肌よりも、ずっと。
「は、あ──ぐ、う──あ」
じわりと。黒が、白い肌に滲んだ気がした。
「時雨、結界を──!」
祖母の声が聞こえた。いつになく慌てた声が。だから、動くべきなんだろう。言葉通り、結界をすぐに、この屋敷にでも張るべきなんだろう。なのに動けない。浮かんでは消えるほんのわずかな黒、それから目が逸らせない。身体は凍りついたように動かなくなってしまっていた。
「ま、に、あ」
でも現実は進んでいく。私を置き去りにして。
「えーっ!」
幾重にも重なる鈴の音。神聖さを孕むその音が響くたび、空気がその色を変えていく。まるで自分だけがこの世界から浮かび上がっていくような。一度世界から切り離されて、改めて貼り直されたような。その不可思議な感覚の中で、何かが砕け散った。
「は……?」
その正体を確認する間もなく、身体に走ったのは強い衝撃。
「時雨ちゃん!」
突き飛ばされたのだと、遅れて気がついた。一瞬の暗転。次に現れた景色の中で、彼女は。
「──う、い」
宙を舞っていた。砕け散った青と共に。
「っ、初!」
手を伸ばす。届かぬ距離だとわかっていた。彼女の身体は音を立てて地面へとぶつかる。あり得ない。信じられない。なんてことしてくれたんだ。言葉が背を押す。身体はすぐにでもあの子の元へと向かおうとして、だけど立ち上がることすら阻止されてしまう。
「なっ、ふざけるな、月!」
力任せに腕を引かれて倒れたのは畳の上。初は依然として寒空の下、土の上に倒れ伏したまま。それを放っておけとでも言うのか。放っておけるはずがない。だってあの子はまだ──まだ、厄災なんかじゃない。そう断言することも、できなくなってしまっていた。
「……うい?」
その手が地面を引っ掻いていた。がりがりと、何度も何度も土を抉る。目の前の景色を認識できているはずなのに、理解ができない。きっと苦しいだけ、そう言い聞かせても、私の頭はその言葉に頷かない。
獣のような呻き声が、彼女の口からはこぼれていた。
「時雨ちゃん、前に出ないでください」
「な、ちょ、おい!」
止める暇などない。勢いよく飛び出した月は大鎌を構える。
やめろ。
鈍く光る刃が持ち上げられて、彼女めがけて下ろされていく。
やめろ。
初の首を、刈り取ろうと。
「っ、やめろ、月──」
その刃は。
「な、っ」
地面から現れた黒い何かに弾き飛ばされてしまった。ゆらりと揺らめくそれは闇よりも黒く、きっと何の光も届かない。そんなもの、一体、何処から。
「は……?」
ごぽり、と。音を立ててこぼれ落ちていく。口元を必死に押さえる両手の隙間から、彼女が咳き込むたび、その黒が流れ落ちていく。
「なんだよ、あれ」
わからない。あの黒は何だ。わからない。どうして初の口からそんなものが。わからない。なんで月は何も言わずにそれを切り伏せてるんだ。わからない。わからない。わからない──わかりたく、なかった。




