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不可逆の満ち欠けー8

 扉の開く音で目が覚めた。

 明かりは何処にもない。暗い部屋の中、金属が擦れるような音に目を向ける。明かりなんて、ない。なのに輝いていた。その瞳は人間のそれではない。まるで満月。夜の闇の中、静かに輝くそれが、私を見ていた。


「時雨ちゃん。ウイを、殺せますか」


 握ったままだった手をさらに強く握りしめる。その手にはまだ温度があった。だから、彼女はまだ生きている。


「…………」


 暖房はとっくに切れていたらしい。室内を満たすのは冬の寒さ。けれど額から汗がこぼれ落ちる。ぽたり、ぽたりと。敷き詰められたカーペットを濡らしていく。

 銀色の大鎌が持ち上げられる。

 やめてくれとこぼしたつもりだった。でも聞こえなかったんだろう。

 刃が鈍い光を放っている。

 月の表情は凍りついたまま、少しも変わらない。それは、よくできた人形のようで。


「ウイをこちらに」

「……どうするつもりだ」


 馬鹿な問いかけだ。答えなんてわかってる。桃色の唇が開く。言葉は、予想通りに。


「核ごと、その身体を切り捨てます」


 淡々と、紡がれた。


「ま、待ってくれ、月」


 裏返る声に、やっぱり月は眉一つ動かさない。それでも信じたかった。目の前に立つ彼女を、カミサマではなく、月自身を。


「あと少し、あと少しでいい、だから」


 だけど今ここに居るのは月じゃない。きっと、月と同じ名前を持つだけのカミサマ。そうだ。そうに決まっている。だって月が頷かないはずがない。欠けている。でも優しい子だ。ちゃんと思いやりがある子だ。本当は普通の女の子と、何にも変わらないんだよ。


「だから、お願いだから、なあ、月」


 でも、その瞳は少女に戻ってくれない。カミサマは頷かない。私の願いを叶えない。満月のような瞳には何の感情もなく。不穏なはずの空気には、しかし殺気はなく。それどころか神聖さすら滲ませて──やめてほしい。やめてくれ。それじゃあお前は、本当に、人間じゃないみたいじゃないか。


「──っ!」


 何が許せなかったのかわからない。それでも許せなかった。その目もその姿も、突きつけられた大鎌も……きっと、何もかも。覚めたくないと願ったはずの今さえも。

 眠ったままのウイを抱き上げる。視界の端でわずかに銀色が動く。だけど止まれない。止まるわけにはいかない。だから飛び込んだ。ベランダへと。


「ぐ、う」


 硝子の破片が飛び散る。それに、一瞬誰かの顔が映り込んだ。人の顔をした、誰かの顔が。

 地面に落ちることに躊躇いはなかった。これは死ぬためじゃない。生きるためで、守るためなのだから。


「い、っ!」


 アスファルトの上を転がって、後ろも見ずに走り出す。何処へ。そんなの一つしかない。逃げ場も行けるところも、今は一つしか存在しない。


「クソ、クソ、クソ」


 頼れる相手だなんて思っていない。頼りたくなんてない。それでも他に何処に行けるというのだ。行けない。何処にも。だから走る。頼ることなどもうないと思っていた相手に縋るために。


「は、は──っ、は──」


 吸い込む息が喉を、肺を、心臓を突き刺す。嗚呼、痛い。痛くて堪らない。目の奥が熱くて仕方がない。きっと走っているせいだ。それ以外に、理由なんてあるはずがない。


「大丈夫。大丈夫だからな、初」


 答えはないとわかっていた。それでも、眠り続ける彼女にそう言葉をかけ続ける。何度も。何度だって。頼りにならないと笑ったはずのおまじないに縋るみたいに。


「大丈夫。お姉ちゃんが、絶対に」


 そんな言葉を口にしていなければ、今すぐにでも足が止まってしまいそうだった。足を止めてしまいそうだった。

 坂道を駆け上がった先に、その屋敷は建っていた。古びた門をくぐり抜けて、呼び鈴も押さず玄関の戸を開く。がらがらと耳障りな音を響かせて。


「おい、居るんだろ、ばあさん!」


 誰にも受け止められない声を置き去りにして中へと飛び込んだ。床板を踏み鳴らしながら向かうのは屋敷の奥。進めば進むほど増していくのは寒さ。吐き出す息はこんなにも熱いのに。

 梅の模様が描かれた襖が、ぴたりと閉じられていた。中からは何の音もしない。それでも、そこに居るとわかった。だから開ける。迷わずに。声もかけず。戸を叩くことさえせず。

 小さく息を吐き出す音。私を見るその瞳は、まるで氷に覆われた真冬の海。


「……ばあさん」


 目の前が滲む。歪んで何もかも見えなくなりそうだった。耐え切れなくて膝をつく。柔らかなイグサの香りは穏やかなのに苦しくて。人の熱を持つ人形の身体を抱く手は震えている。先ほどよりも苦しげな呼吸をしている初の顔が目に入った。


「頼む、ばあさん」


 目の前に座る祖母がどんな顔をしているのかなんて、わからない。今は、今だけはわかりたくなかった。

 頭を下げる。胸が痛くて仕方がないのは、それが最もしたくないことだったからなのか。それとも懐かしさを覚えているからか。


「初を、助けてくれ」


 三度目。こうして彼女に頭を下げるのは、これが三度目だった。小さく吐き出された息に空気が震える。降ってきた声はあの日と同じ。


「着いてきなさい、時雨」


 感情の見えない、冷たい声だった。

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