不可逆の満ち欠けー7
これが夢だとわかっているのに、それでも目が熱くて堪らなかった。
熱が瞳を焦がしていく。じりじりと、何もかもを焼いていく。柔らかなイグサの香りを与えてくれた畳も、真白な和紙が使われていた障子も、艶やかな板張りの廊下も、内と外とを区切っていたガラス戸も、ごうごうと音を立てて燃やしていく。
「は、っ、は──」
浅い呼吸は犬のよう。聞こえる息の音は自分のものだけ。立ち上がれない身体で、それでも手を少しだけ動かしてみる。触れたそれが熱くて、でも、手を離すということが何を意味するのかをわかっていたから、もう本当に動けなくなってしまう。
「母さん、父さん」
動かない。どうして私が助かったのかを示すように。動かない。私なんかを助けて死んだのだと突きつけるように。
ぱちぱちと鳴るその音は拍手のよう。何を祝っているというのか。何を褒め称えていると言うのか。
わからぬままで、歩き出した。
だって、探さなくちゃ。
「う、い、初、初──!」
他の誰が死んだって。構わない。
他の誰が生きてたって。関係ない。
ただ一人、あの子だけは守るって誓ったのに。ただ一人、あの子のそばに居続けると約束したのに。
煩い呼吸が鼓膜を震わせる。それが自分の出している音なのだと、どうしたって認識できない。屋敷の奥、あの子の部屋に近づくほどに煙の濃度が増していく。苦しいのに、それでも足は止まらない。居てくれなきゃ、困る。生きていてくれなきゃ、嫌だ。
「初──!」
その願いは叶った。彼女は居たのだ。かつて彼女の部屋であった場所に、ちゃんと。初を閉じ込めていたはずの障子はとっくに燃え尽きて、それでもまだ彼女の周囲を炎が踊っている。赤い光の中心で、汚れ一つない薄花色の着物が上下していた。
「──っ、──う、ぐ」
小さな手が着せられた着物を強く握りしめていた。まるで自分自身を抱きしめるみたいに。いつでも眉一つ動かさなかった人形のような顔が苦しみに歪んでいた。いつだって涙一つ見せなかった幼い少女の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちていた。
「っ、初!」
それで、何もかもがどうでもよくなった。大嫌いな親族たちが死んだのに喜べないことも、自分だけが助かってしまったことも、その原因が何なのかさえ、全部全部、どうでもよくなった。
手を伸ばす。炎に囲まれてもなお寒そうに震えるその身体に。だけどそれよりも先に、枯れ枝のような腕が彼女を抱き上げてしまう。
「な、ばあさん、生きて」
生きていたのか、と。私の声に、薄水色の瞳がこちらを見た。紅の塗られた薄い唇がわずかに開いて、祖母はすぐに私から目を逸らしてしまう。その目が見たのは苦しげな息を漏らし続ける幼子。
何をするつもりなのかわからなかった。何を考えているのか、少しもわからなかった。
「ババア、初を、離せ」
だから、殺すのだと思った。奪われると思った。私にとって、他の何よりも大切なその子を。
「初を、返せよ!」
持ち上げた腕に痛みが走る。それは私に目も向けぬ老女のせいではなく、ただこの炎に焼かれたせい。祖母は私を見ようとしない。見てくれない。
「っ、ばあさん」
返してくれと、言葉にならずに、それでも訴える。黒紫の羽織は炎に揺らされても、そこに火が宿ることはなく。
「頼む、ばあさん」
膝をつく。誠意を見せろと言われている気がして。頭を下げる。そこに躊躇いはなく。ただぼんやりと、二回目だと考えていた。こうして祖母に頭を下げるのは二回目だな、と。
「初を、取らないでくれ」
老女は何も言わず。ただ、小さな足音がすぐ目の前に。許しがないままで顔を上げる。わずかに腰を落とした祖母が差し出した初の顔にはもう、苦しみはないようだった。
ふと、目が吸い寄せられる。初の前髪に、二つの山吹色の髪留めが付けられていた。
「この子を連れて、ここを出ても構いません」
淡々とした声音にその目を見た。薄水色の瞳は氷のよう。それは人間の目をしているのに、滲む感情を少しも読み取れない。
「その代わり、出来る限り屋敷のそばに住み続けなさい。あなたが大人になっても、この子が大人になっても、この子が死ぬまでは、ずっと」
「……命令かよ」
「必要なことだとわかっているでしょう。またこのようなことが起こった場合、あなたが適切に対処できるとは思えませんから」
はっきりと言葉にはされず、だけどその言い方が物語っていた。この惨状は、初のせいなのだと。
「……何が、起きたんだよ」
否定してほしかった。初のせいではないのだと。
「何があって、こうなったんだよ」
初は何も悪くないのだと。そう、はっきりと言葉にしてほしかった。なのに祖母は何も言わず。代わりに紡がれた言葉は、初めて初に会った時にも与えられたものだった。
「この子は、カミサマの子なのですよ」
「──っ、いい加減にしろよ、クソババア!」
何度聞いただろう、その言葉を。ああ、その度に気分が悪くなる。その度にこの老女を睨みつける。だけど何一つ変わらない。目の前に立つ祖母の顔も、初を取り巻く周りの態度も。何一つわからない。どうして初がそんな扱いを受けなきゃいけないのかも、その言葉の意味さえも。
「カミサマの子って何なんだよ。初が産まれた時からずっと、ずっとずっとそればっかり、なんでちゃんと教えてくれないんだよ! もういいだろ。教えてくれよ、なあ!」
答えてくれると思った。教えてくれると思った。こんなことになったんだ。だから、もう──でも、祖母は何も言わずに私から目を逸らした。吐き出されたのは言葉ではなく聞き取れぬ音。それだけ。それだけで、空から水が落とされる。ざあざあと降る雨のおかげで、屋敷を包んでいた炎はあっという間に消えていく。
「選びなさい、時雨」
雨音が鼓膜を震わせる。落ちてきた雨粒が身体を叩く。寒くて、痛くて。
「偽製魔術師として生き、この子をカミサマの子として育てるのか。それともこの子と二人で人としての人生を歩むのか」
寒さにも痛みにも、もう耐えられなかった。
差し出されたままだった彼女を枯れ枝のような腕から奪い取る。その温もりに目の奥がさらに熱くなる。炎はもう、消え去ったのに。
「人として生きる」
迷いなんてなかった。迷う理由は何処にもなかった。だって私にとってこの幼い子供は、ずっと、ただの人間でしかない。強い力を持っているのだとしても、人の子のように笑わずとも、それでも。
「当然だろうが。この子はカミサマの子なんかじゃない。この子は、初は、人間だ」
そうして、私にとって何より守りたい大事な相手だ。だから、間違ってもカミサマになんかさせない。絶対に。
──カミサマ。それが何かも知らないままで、そうなることを拒んだ。そんな得体の知れないモノになる未来を選ぶ理由なんてない。だから選んだんだ。初と共にこの家を出ることを。初に普通の人間としての人生を歩ませることを。そばでずっと守り続けることを。
そうして。
「人として生きさせるのであれば、この罪をどう償わせるのですか」
静かで鋭利な問いかけに、目の前がわずかに揺れ動く。でも、その揺れはすぐに止まった。
そうして誓った。
「私が代わりに背負う。初が罪を背負う必要は、何処にもない」
たとえこの子がこの出来事を覚えているのだとしても、たとえこの子がこの出来事を覚えていなくとも、どちらでも答えは変わらない。
「……初はもう、誰も殺さない。私が、誰も殺させない」
あの日、確かにそう決めた。そう、決めたのに──お前はこのまま、あの子をバケモノにでもするつもりなのか?




