不可逆の満ち欠けー6
部屋に響くのは浅い息の音。額に手を触れる。熱は昨日の晩よりも上がっていた。
ベッドのそばに置かれた電子時計へと目をやる。土曜日の午前中、病院は開いている。だけどこの子は人じゃない。人じゃないと、言い聞かせたって私の気持ちが変わるわけじゃなかった。
「時雨ちゃん、ひんやりするやつってこれですか?」
「あ、ああ。すまない、代わりに行ってもらって」
「いえ。弱っている相手のそばに居たいと思うのは良いことだと思います」
はい、と手渡された箱を開けて、冷感シートを初の額に貼り付ける。こんなもの気休めでしかない。わかってる。わかってるのに。でも、わかりたくなかった。
「……月」
それでも訊ねる。訊いてしまう。
「何が起きてるのか、お前にはわかるのか」
彼女の苦しみを取り除く方法が知りたくて。彼女を助ける方法が知りたくて。失わずに済む方法を、教えて欲しくて。
人形の手を握る。壊さぬよう、優しく。血の通っていない身体は、指の先まで熱くなっていた。
「簡単ですよ。ウイの中の厄災を封じている髪留め、それの限界が近いんです。だから、えーと、身体の中で厄災が暴れてる、みたいな。外に出せー、って」
「……治らないのか」
「治る治らないの話じゃないですよ。限界が近いって言ったでしょう? このままだと中身の暴走に耐えきれずに器が壊れるでしょうね。そうして中身があふれだすか、それとも器ごと厄災に成ってしまうか。……どちらにせよ、髪留めが壊れてしまえばそこでおしまい。その時点で、ウイは周囲に害を与える存在となる。それだけで済めばまだいい方で、最悪、厄災本体を呼び起こしてしまうかもしれません」
事実は重く、月の声は軽く。ちぐはぐなそれを素直に受け止めるなんてできなくて。
苦しげに眠るこの子が周囲に害を与えるような存在になるとか、ただの少女が厄災と呼ばれるような存在で作られているだとか、そんなこと──本当は、知っている。たとえ誰かを害するように思えない存在であったとしても、事故で、本人の意思とは無関係に、そうなってしまうことがあることくらい。
山吹色のスカートが視界に入り込んだ。足音も立てずに。見上げた琥珀の瞳は人のものではなく、けれど、それに恐れは感じられなかった。そんな目をしたままで、月は優しく初の髪留めを撫でる。何を、と問いかける間もなく彼女はさっさと部屋を出て行ってしまった。
小さな寝息が耳に届く。先ほどまで感じ取れていた苦しみが、少しだけ薄れた寝息が。でもその身体には依然として熱がこもったまま。生きている人間と変わらないように温度があった。
そっと手を離して部屋を出る。居間で立ち尽くす月は、こめかみに指を当ててぼんやりと視線を彷徨わせていた。
「月、あの子に何をしたんだ」
「ただの応急処置ですよ」
小さく息を吐いて、琥珀が私を見た。それは人間の瞳。きちんと感情の宿った、一人の存在としての瞳が私を見ていた。そこに宿る彼女の気持ちまでは読み取れないけれど。
「あの髪留めが壊れない限りは、ウイはウイとして生きられますから。……だから、応急処置をしました」
「……殺すんじゃなかったのか」
その問いかけに、月は不恰好な笑みを浮かべる。
「本当に、ただの応急処置ですよ。その場しのぎでしかありません。だから、近いうちに間違いなくアレは壊れます。必ず」
笑みが消える。こめかみに当てられていた手が下ろされて、目の前に立つ少女から人間味が薄れていく。それでもまだ、その目には感情があった。彼女はまだ、人として私の前に立っていた。
「時雨ちゃん、殺せますか」
問いかけは無慈悲。唇を噛み締める。そうしていなければ、こぼれてはいけないものがこぼれ出してしまいそうだった。握りしめていたのは前髪。縋るように。縋りたかった。助けて欲しかった。でも縋れるものなどない。誰も助けてはくれない。
「このままでは、ウイは間違いなく厄災に成ってしまう、いえ、戻ってしまうと言った方が正しいでしょう。……ほんと、製作者の正気を疑います。いくら膨大なエネルギーを必要としていたからといって、世界に害を為すものを使用するなんて。それも、ただの人形を動かすためだけに」
「っ、初は、人形なんかじゃ」
「いいえ、人形です。そうして世界を、星を滅ぼすかもしれない存在でもある」
今度こそ、彼女は人ではなくなった。わずかに細められた琥珀の瞳に感情はなく、言葉を紡ぐ声にも温度なんて感じられない。これじゃあ、まるで。
「彼女の中から厄災が溢れだせば、それに影響を受けて、裏側に封じられている本体が出てきてしまう可能性があります。結界が破られて、厄災本体が出てきてしまえば、その時は」
まるで。
「この世界を消さなくてはならない」
本当に、人間じゃないみたいじゃないか。
「そ、そんなこと、厄災をなんとかするのがお前の目的なんじゃないのかよ」
「今の私にどうにかできるのは漏れ出た厄災の処理だけですよ。それを消して、厄災の封印を維持する。師匠が厄災本体をどうにかする目処を立てられるまで封印を維持すること──それこそが私に与えられた命令です。厄災本体を解決する力は私にはない。だから万が一にもアレが本当に解き放たれたのならば、その時はこの世界を終わらせるように言われています」
「けど、だからって、世界を消すなんて。そんなことしたら厄災をどうにかもこうにかもないだろうが!」
「この世界で解決できないならば、他の世界でそれを叶えればいいだけの話ですから」
その発言は、正に、人外のそれだった。
は、と漏れた声に月はなんの反応も示さない。満月は少しも揺れ動かず、真っ直ぐに私を見ている。
「私には何かを殺す以外の道はないんですよ。所詮、破壊装置でしかありませんから」
人の姿をした人ではない少女は、ただ、事実だけを口にしたようだった。そこに悲しみの色はなく、怒りもなく、何の感情も存在しない。
見ていられなかった。見たくなかった、今の彼女の顔を。だって受け入れられない。何も。何一つ。
「時雨ちゃん。あなたは彼女が厄災に成るのをこのまま見届けますか。それとも、約束通り殺しますか」
それでも月は選択を迫る。目を逸らした私をまだ見つめ続けている。だけど、私は。
「……まだ、時間はあるんだろ。もう少し、もう少しだけ、考えさせてくれ」
私はその目を見つめ返せない。顔さえ上げられない。月は頷かない。けれど拒絶の言葉を口にすることもしなかった。
「……すまない」
それは誰への謝罪か。わからないままで初の部屋へと戻る。扉は静かに閉じたはずなのに、その音がやけに大きく感じられた。
眠る彼女のそばに座り込む。ベッドの上、初の呼吸はまだ少し苦しそうだった。
「……ごめん」
撫でた髪留めは冷たくて。あの子と同じ位置に付けられたそれは、あの子のものとは違うもので。
「ごめん、初」
わかっている。このままじゃ、この子まで──。
「もう誰も殺させないって、誓ったのに」
そう。あの日、確かにそう誓った。
そのはずなのに、手を取ってしまった。人間と同じ温度を感じられる人形の手を。誓いを破ることになるかもしれないと、わかっていながら。




