不可逆の満ち欠けー5
夕食は和やかな空気のまま幕を閉じた。台所では天音先生と初の二人が後片付けをしてくれている。隣に立って会話をする二人を見るのは少し複雑な気持ちだ。でもその感覚も今は愛おしく感じられる。失われた時間を取り戻せたと、そう確かに証明してくれているように思えたから。
「むぅ。ウイが片付けする必要、別にないのに」
が、月はどうやら不満の様子。頬を膨らませて、二人の様子を椅子に座ったまま見つめていた。
「それじゃあ、わたしはそろそろ」
「あ、はい。すみません、後片付けしてもらって」
軽く頭を下げれば、天音先生はいえいえと首を横に振る。キッチンペーパーで手を拭いて、彼女はさっさと帰り支度を始めてしまった。
「ご馳走になったんですもの、このくらい当然です。……神童さん、今日はありがとう」
「あ、い、いえ! その、お口にあったならよかったんですけど」
「ええ、とても美味しかった。ぜひまた食べさせてほしいわ」
こくこくと月は勢いよく頭を振る。そんな月に天音先生が返した笑顔には、どこか、見覚えがあるような気がした。
「神宮さんも、話せてよかった。それじゃあ……」
玄関に向かおうとしたのだろう。足を動かしかけた天音先生は、けれどその動きを止めて私に顔を向ける。どこか、険しい表情を浮かべて。
「……天宮先生。その、少し、彼女と二人で話しても?」
「え、ええ、どうぞ」
ありがとうございますと頭を下げて、天音先生は歩き出す。初は何を言うこともなくその後をついていき、二人は外へと出てしまった。
「なに話すんでしょうか」
「覗きは趣味が悪いぞ」
「そう言いながら、時雨ちゃんだって後を追いかけてるじゃないですかー。もう、身体は正直なんですから」
「……おい。そんな言葉、何処で覚えたんだ」
そっと開いた玄関ドアの向こう、かすかな話し声が聞こえていた。そろりと顔を覗かせてみるが、二階に二人の姿はない。どうやら階段の下で話をしているらしい。
「二人で話がしたい、なんて、驚かせちゃったかしら」
「ああ。お姉ちゃんも月も、変な勘違いしそう」
くすくすとこぼされた二つの笑みは、その二つとも、楽しそうなのに笑っていないように聞こえた。
ねえ、と。呼びかける声は波紋のない水面のように静か。
はい、と。応えた声もまた、人形の身体のように冷たかった。
「無理して神宮さんの真似、しなくてもいいんじゃないかしら」
「────」
その言葉に凍りついたのは、誰だったのだろう。ただ一つ確かなのは、今、私の心臓は確かに動きを止めていた。握りしめた手に伸びた爪が突き刺さる。痛みはきっと、そのせいだ。痛いのは、手のひらじゃないのに。
「……なんのことでしょうか」
「あら。信用されてないのかしら、わたし。ま、その反応は神宮さんらしいけれど……ね、あなたのことはなんて呼べばいい?」
やめろ。
「……ウイ、です。でも」
「あの子のこと、気にしてるんだ。大丈夫よ。同じだけど、違うでしょう」
やめろ。やめてくれ。
「その名前で呼んだって、あなたのこと、あの子と同じようには見ないから。……絶対に」
なんだよ、それ。何が違うって言うんだよ。
「っ、クソ」
同じだろうが。声も、姿も、言動だって、全部、全部。
「わかったような口、聞きやがって」
なのに、なんで否定するんだ。どうしてその子を初だと言わないんだ。
階段を上がる音に顔を上げる。初は私の姿を見つけて小さく目を見開いた。でもすぐに、その顔はいつものなんでもないような表情へと戻ってしまう。
「……なに、話してたんだ」
「べっつにー。お姉ちゃんのこと、よろしくってさ」
そこには動揺も悲しみも、何もなくて。初はさっさと部屋の中に入っていく。
嘘だ。聞いてたんだぞ、本当は。わかってるんだぞ、何を話していたのか。だけど呼び止められない。居間へと歩いていくその背を引き止める言葉が、何一つ出てこない。初はそのまま居間に。
「っ」
入る前に、その身体が崩れ落ちた。
「初、どうした!」
慌てて駆け寄れば、大丈夫、と弱々しい声が出される。繰り返されるのは浅い呼吸。皮膚はわずかに赤みを帯びていて。彼女の額にそっと手を触れれば感じられたのは熱。体温などないはずなのに。なかったはずなのに。
「初、熱が」
「だい、じょうぶ、だけど、ごめん、今日は、もう寝るね」
おやすみ、と。ひどく苦しげな声を残して、初は自分の部屋へと戻っていく。閉じられた扉の音は弱々しくて。それがどうしてか、拒絶されたように思えてしまって。
「……天音先生」
その名を呼んだ。責めるように。彼女はもうここには居ないとわかっているのに、黙っていることもできなくて。
「それでも、彼女は初なんですよ」
その言葉は誰に向けたものなのか。まるで呪いだと思った。魔法には遠く、魔術ですらない。何の役にも立たない、ただのおまじないだ、と。




