見知らぬ月明かりー1
月光がその場所を照らしていた。
前髪を握りしめたのは無意識。気がついて、でも手を離せない。唇を噛み締めたのはわざと。そうしていなければ今にも叫び出してしまいそうだった。
目の前の現実は何度見たって変わらない。電信柱に括り付けられた花は夜の中でも鮮やか。缶ジュースや菓子の群れは真新しいのにくすんで見える。ちぐはぐな現実が描くのは誰かの親切心や同情の気持ち。それら全てが、がりがりと胸を引っ掻いてくる。優しい感情を与えられているはずなのに、目にするたびに首が絞められていく。
「……余計なこと、しやがって」
要らないと叫んでやりたかった。こんなもの、誰かが救われるわけじゃない。あの子が喜ぶはずがない。こんなもの、私は、一つだって欲しくない──。
……なら、蹴り飛ばせばいい。こんな現実も消えぬ感情も無駄な供物たちも、全部、何もかも──だけどつま先にぶつかった缶ジュースはびくともしない。込み上げてきた熱は言葉にならず、唇の隙間から漏れるのは意味もない音だけ。膝をついた地面はひどく硬い。触れた缶ジュースは冷え切っていて、掴むことさえできなくて。
「……あー」
寒さで震えの止まらない手を、上着のポケットに突っ込んだ。誰もいない。ここに居るはずがない。そもそもあんなのは何かの間違いだ。
そう思っているのに、供え物を捨てることも壊すことも、手に取ることさえできなかった。
「なあ、う…………っ、クソ」
名前すら、呼べない。呼べないまま、それでも言葉はこぼれ落ちる。
「なあ、早く、帰ってきてくれよ」
悪夢を現実にしないための言葉が。そう、これはまだ悪夢が続いているだけ。あの日からずっと。だってこんな現実があってたまるか。あの子はまだ中学生で、だから、あり得ない。これが現実なわけない。現実なわけないのに、目の前の景色は変わらない。何度瞬きをしても、そこに置かれた缶ジュースも菓子も花も、瞼を閉じるたび見え隠れするあの日の記憶も、消えてはくれない。
「……犯人、まだ見つからないんだ。だからさ、多分、違うんだ。お姉ちゃん、ずっと夢の中から出られないんだよ。このままじゃ寝坊しちゃいそうだ」
だから早く、起こしてくれよ。
そう呼びかけさえすれば、すぐに目を覚させてくれると思った。だけど望む痛みはいつまで待ってもやってこない。誰も、早く起きてと叩き起こしてはくれない。ただ無意味に体が冷えていくだけ。
このままここで、冬の冷気に削られて消えてしまいたかった。けれど人間はずっと同じ状態には浸れない。離れたくはないのに、座っていることに飽きて、重たい身体を立ち上がらせてしまう。歩き始めた足はうまく動かず。きっとあの子が引き留めているんだ、なんて、馬鹿な考えが一瞬だけ頭をよぎった。こんなところにずっと居るなんて思いたくないのに。
「……はは、寒すぎるもんな、こんなところ」
呼吸も上手くできないくらいに。目の奥の熱に、負けそうになるくらいに。本当に、寒くて堪らなかった。
鼻をすすれば冷え切った空気が肺を刺し貫く。十二月になったばかりの夜、寒さは日に日に厳しさを増していた。いずれは春が来るとわかっているのに、このまま、地球が凍ってしまうような気がするほどに。それは予感じゃなくて願望なのかもしれないけれど。
「ん……」
ふと、視線を上げる。何処からか声が聞こえたような気がして。それがあの子の声であってほしかったからか、名前を呼ぼうとして、でもやめた。やめたんだ。呼べなかったんじゃなくて。呼ぶのが怖かったわけじゃ、なくて。
周囲に人の姿はなく、空にはただ満月が浮かぶだけ。間違いなく気のせいだ。そう断じて帰るはずが足は動かず。だから本当は、気のせいになんてしたくなかったんだろう。あの光景を目にしていながら、こんなこと、無駄な抵抗でしかないのに。
ぼうと空に浮かぶ月を見る。冷えた空気のおかげか、丸く大きなそれはいつもよりもはっきりと見える気がした。今夜の月はやけに綺麗で、眩しくて──それは、夜を照らす。太陽を越えるほどの輝きで。
「は……?」
強く目を閉じて、開いて、もう一度それを繰り返して。月は変わらず空に。そこに太陽は無く、夜空を照らすのは淡く柔らかな月光。見間違いだ。なのに瞳が動かない。満月から目が逸らせない。何もないはずなのに。おかしなところなんて、ないはずなのに。
「気のせい、だよな」
それでも違和感を振り払えず瞼を擦った。ゆっくりと瞬きをして、変わらぬ世界に安堵して、月を見上げて──そこに、人影が在った。