不可逆の満ち欠けー4
無言のまま、アパートへと向かう。天音先生がうちに来るのは初めてのことだった。とはいえ場所を知らなかったわけではないそうで。
『副担任だったんですから当然でしょう』
だった、と。過去形にされるのは嫌だった。だってまだ二年生は終わっていないのだから。
「じゃあ、開けますけど」
玄関の前、立ち止まって顔を向ける。天音先生は神妙な面持ちのまま、ゆっくりと頷いた。
扉を開く。ただいま、と。私が声を出すより先に彼女が居間から姿を現した。あの悪夢に襲われる前と、何一つ変わらぬ様子で。
「おかえり、お姉ちゃ──」
言葉が止まる。黒い靴下に包まれた足も、廊下の途中でその動きを止めた。息を呑んだのは二人とも。その顔を見るのが怖かった。どんな表情を浮かべているのか、誰の顔も見ることができなかった。
「本当に、神宮、さん?」
ゆらりと、隣に天音先生が並ぶ。狭い玄関、肩が触れる距離。身体の震えが確かに伝わってきていた。
「……お姉ちゃん、お客さんって」
そっと、床に落としていた視線を上げる。初が私に向けるのは非難するような瞳。そこに、喜びの色はなく。大きく吐き出された息に込められた感情は、私が予想していたものとは異なっているようだった。
「お姉ちゃん、隠しきれなかったんですね」
そう口にして、初はようやく天音先生へと顔を向ける。浮かべられた笑みは。
「すいません、こんな、ちょっと、信じられませんよね」
整いすぎている。あの子が浮かべるには、あの子が天音先生に向けるには、あまりにも。
「え、いえ、その」
「あの、よかったら晩御飯食べて行かれませんか。お客さんが来ますから、って月が……お姉ちゃん、月のこと言った?」
「え、あ──言ってない」
もう、とまたため息をこぼして初は背を向ける。私たちの方には近寄らないままで。
隣から、もう震えは伝わってこなかった。
「とにかく上がってください、天音先生。晩御飯、天音先生の分もあるので」
「え、ええ」
ぼんやりとした様子で頷いて、天音先生はそろそろと靴を脱いで部屋へと上がる。頼りない足取りで廊下を進む彼女は、ふと、足を止めて顔だけをこちらに向けた。
「それで、その、天宮先生。月、さん、っていうのは」
「あー、ええと」
その打ち合わせ、きちんとしておくべきだった。言い訳が思いつかない私を置いて、天音先生はその顔を居間へと向ける。
冷たい風が入り続ける玄関をようやく閉めた。それでも冷たさはまだ消えない。
「……なんで」
喜ぶと思ったのに。あんな整った笑顔を向けるはずがないのに。記憶の中の彼女と、違う。
「っ、馬鹿。死んで生き返ってるんだ。喜ぶとかの前に、ああいう反応するのが普通だろうが」
そうだ。だから、違わない。何も、違ってなんかいないんだ。
「天宮先生?」
居間の入り口、天音先生はわざわざ私を待っている。今行きます、と。その声は、自分でも信じられないほどぎこちないものだった。
「おかえりなさい、時雨ちゃん!」
空気を切り替えた声は月のもの。たった今まで真冬の寒さに侵されていたのに、その一言で部屋に満ちていた暖かさが肌に沁みてきた。台所から姿を現した彼女は宣言通り実体化しているらしい。家の中だから当然と言えば当然だが、それは、彼女が初めて誰かに認識されるということで。
「あ、え、っと」
足を止めた月の前に立つのは天音先生。琥珀の瞳が小さく揺れ動く。ぎゅっと両手を握り締めた彼女の顔に、笑みが浮かべられた。
それは。
「は、初めまして。神童月と申します」
その、笑顔は。
「──天音。天音光です。天宮先生の同僚で、神宮さんの副担任兼部活の顧問でもあるの。今日は突然お邪魔してごめんなさいね、神童さん」
「い、いえいえ。お邪魔とか全然、ないですし」
慌てたように顔の前で動かされる両手。きょろきょろと忙しなく動かされる瞳。そうして、照れたような喜んでいるような、なんとも言い難い笑顔。
それは、全部が。
「あ、すぐに夕食の支度をしますね。座って待っててください」
小さく頭を下げて、月はまた台所へと戻っていく。その背を、天音先生はどこか不思議な雰囲気をまとって見つめていた。
「なんか、なんだか」
こぼれた声は、きっと無意識。
「初めて神宮さんに会った時みたい」
その言葉に、何を返せばいいのかわからなかった。初ならそこに居るじゃないですか、とか。月は初じゃないですよ、とか。多分、いくらでもあった。あったはずなのに、何も言えない。
だって、それは全部が、あの子と同じだったから。
月と初は三人分の食事をテーブルの上へと並べてくれた。ご飯、これはいつも通り。カボチャのスープ、これも、まあ。水菜と油揚げのサラダ、サラダを出すときは大抵カット野菜を使ったり野菜単品ではなかっただろうか。メインは目玉焼きの乗った大きなハンバーグ、中にチーズも入っているという。並べ終わったと思ったら、デザートもありますから、と冷蔵庫を指差していた。
「……おい、月」
「ん、なんですか、時雨ちゃん。あっ、もしかしてこれじゃ全然おもてなしになってませんか!?」
「いや、逆、というか。張り切りすぎじゃないのか?」
「はっ、張り切ってなんてないですー。ただその、お客様がいらっしゃるのでしたら少しでも美味しいものを、と思っただけで」
だから別に深い意味とかないんですからね、と。人差し指を人に向けるのはやめてもらいたい。
「まったく、誕生日じゃないんだから」
「ほんとにそう。月ってば、帰ってくるなりばたばたと。普段の料理で十分じゃないの? って何回も言ったのにこれなんだもん」
「うえっ、だ、だってぇ」
そんなやりとりに、くすりと笑みがこぼされる。楽しそうに肩を揺らすのは大人しく座って待っていた天音先生。彼女がこんな風に自然な笑みをこぼすのを見たのは随分と久しぶりな気もする。
「ふふ、ごめんなさい。その慌てっぷり、なんだか神宮さんに良く似ていたから」
「む、そうなんですか?」
「ええ。さ、料理はこれで全部なんでしょう? 冷めないうちにいただきたいわ」
似ていた。まあ、この慌てぶりは確かに似ているかもしれない。だって初ならきっと、天音先生が来ると分かったら手料理にご馳走のハンバーグくらい作るだろう、し──。
「天宮先生、どうかされましたか?」
「……いえ、なんでも。食べましょうか」
首を振って、箸を手に取った。何を馬鹿なことを考えてしまったんだろうか、私は。月は初じゃない。初はちゃんと、ここに居るのだから。




