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不可逆の満ち欠けー3

 言葉のないまま職員室へと戻る。話を聞くとは言ったものの、月とまともに会話をするのは学校を出るまで難しそうだった。

 ふと、視線が吸い寄せられる。隣の席、同じく部活を終えて帰ってきたのであろう天音先生が座っていた。彼女はまだ仕事をするつもりなのか、帰り支度を始める様子を見せない。


「……お疲れ様です、天音先生」


 椅子に座りながら、久しぶりにその言葉を口にした。ばっと、向けられた顔に浮かべられるのは驚きか恐怖か。なんだか幽霊でも見たような顔だった。少なくとも同僚に向ける顔ではないだろう。


「お、お疲れ様です、天宮先生」


 怪訝そうなその声に思わず眉を寄せてしまう。だがこの反応も当然と言われれば当然なのだろう。悪夢が始まってから今日まで、私が彼女に自分から話しかけたことは一度もなかったのだから。


「天音先生、少しは取り繕ってくださいよ。その反応だと私がおかしな人みたいなんですけど」


 そうこぼしながら帰り支度を始める。月の話を聞くと言ったのだ。今日はもうさっさと帰ってしまおう。

 隣の席から伝わってくるのは空気の揺らぎ。彼女が動揺しているのがあからさまに伝わってくる。


「そりゃあ、まあ、おかしいんですもの。天宮先生、わたしのこと思いっきり避けていたじゃありませんか」

「そ、れは、その」


 言い訳などできない。それは事実だったから。だけどそうするしかなかったんだ。だって。


「……どうしていいか、わからなかったんですよ」


 あの子と深く関わりのあるあなたと接する理由はもう無くなったと思ったから。あの子が好意を寄せていたあなたが、あの子が居なくなったことを受け入れる現実を見たくなかったから。


「……すみませんでした」

「し、時雨ちゃんが、謝った──」


 嘘だ、と言いたげな声を出したのはそれまでずっと黙り込んでいた月だった。目を丸くした彼女はしれっと天音先生のそばに立っている。


「や、やっぱり」

「やっぱりおかしいですよ、天宮先生」

「そうです。時雨ちゃん、ぜえったいにおかしいです!」


 ああ、もう、一緒に喋らないでほしい。


「おかしくないだろうが──いえ、おかしくないですよ」


 むうと不満気な表情を浮かべたのも同時。それに笑みをこぼしそうになって、でも、その顔を見て笑えなくなる。作り笑いさえ浮かんでいない天音先生の顔を見て。


「いいえ、おかしいです。天宮先生、今週はずっとおかしいんですよ。その、まるで」


 ──この人も、同じことを言うのか。


「まるで初が生きてた頃みたいだ、ですか」


 ぐ、と。淡いリップの塗られた唇が噛み締められる。それが腹立たしい。だってとっくに乗り越えたはずのお前がそんな顔をする理由は、何処にもないはずなのに。


「そうですよ。きっと、みんな同じように思っているはずです。まるで神宮さんが生きてた頃と同じだ、って。いいえ、違いますね。神宮さんが生き返ったみたいだ、って」

「……どう違うんですか、それ」

「違いますよ、全然。生きてた頃と同じならもう少し落ち着きがあります。だけど今の天宮先生は」


 その先を言わず、秋の湖に似た瞳が伏せられる。そっと、額に指を当てて。言葉を探すようなその挙動が気に食わない。なんだってそんな風に扱われなきゃいけないんだ。全部が元に戻っただけなのに。全部がこのまま、元に戻っていくはずなのに。


「今の時雨ちゃんは、夢の中に居るみたいなんですよ」


 天音先生の発言にそんな言葉を続けたのは月だった。どうしてか、苦しそうに。彼女は哀れむような目を私に向けている。わからない。そんな目を向けられる理由なんて私にはない。だって。


「初が戻ってきたのは、夢じゃないだろうが──」


 そう口にして気がついた。月の言葉は天音先生には聞こえていない。何よりこの事実は、誰にも言うべきじゃないことなのだと。

 周囲の音は遠く。ただ、納戸色の瞳には波紋が。


「それ、どういう、意味ですか」


 聞いたことのない声だった。感情全てが抜け落ちたみたいな。そこにいつもの薄っぺらい笑みはなく、胡散臭い穏やかさもない。


「え、は、いや」

「今の、どういう意味ですか」


 呆然とした声は変わらない。伸ばされた手が私の腕を掴んだ。


「神宮さんが帰ってきたのは夢じゃないって、どういう意味ですか」


 その手は、震えていた。


「説明してください、天宮先生」


 その声も、瞳も、震えていた。

 見ていられない。いや、受け入れられない。この女がそんな態度を取るなんて。こんな風に、私に縋り付くなんて。


「天宮先生!」


 それでもその叫びを無視することができなかった。できるはずもなかった。だって今にも泣きそうな声で叫ばれて、放っておけるはずがないだろう──。


「……その、うちの家は、少し特殊で。おかしな家系なんです。それで、祖母が……生き返らせたんですよ。初を。あの人、そういう不思議なことが、できるから」


 ぼんやりとした言葉を返す。どうせ信じやしない。病院に連れて行かれて終わりだろう。

 そのはずだったのに。


「会わせてください」

「……は?」

「それが本当なら、その神宮さんに会わせてくださいって言ったんです。聞こえませんでしたか」

「いや、聞こえました。聞こえましたけど、でも天音先生は」


 乗り越えたんだろう、とっくに。平気なんだろう、もうあの子が居なくたって。あの子が死んだって。なのにどうしてそんなことを言うのか少しもわからない。どうしてその声が震えているのか、少しも理解したくない。それでもその手の強さが示していた。


「わたしだって、会えるなら、もう一度、って」


 その手の震えが、示していた。私が読み取りたくない彼女の感情を。


「わかり、ました。じゃあ、その、いつ」

「今日。今から行っても?」


 断らせないという圧に仕方なく頷く。よかった、と息を吐き出しながらこぼした天音先生は、ようやく私の腕から手を離してくれた。


「あまねせんせいが、うちに、くる」


 ロボットのようにそう呟いた月は、はて、と首を傾げる。そのまま数秒。そうして浮かべられたのは花が咲いたような笑みであった。


「ど、どう、どうしましょう。わわ、私、実体化しててもいいですかね!?」


 淡々と帰り支度を進める天音先生のそばで、彼女とは対照的に喜びをこれでもかと現す月。いいのか、それで──だが今は何も言えない。とりあえず頷けば、月はその場でぴょんぴょんと飛び跳ねていた。


「じゃ、じゃあ、今日の晩御飯は私が作ることにしますね。時雨ちゃん、私、先に帰って待ってますから!」


 引き止める間もなく月は職員室を出ていってしまった。

 あんな風に、喜ぶのか。

 欠けているのは間違いない。普通は喜ぶとか、そういう場面じゃない。けれどあの笑顔と反応に安堵している自分も居た。多分、月は今、初めて心から喜んだんじゃないだろうか。どうしてか、根拠もなくそう思ってしまって。


「…………」


 その喜びと同じものを、いや、それ以上のものを彼女は見せてくれるだろうか。見せてくれるはずだと信じているはずなのに、疑わずにはいられなかった。

 家で一人過ごし続けるあの子が、本当に喜んでくれるのかどうかを。

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