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不可逆の満ち欠けー2

 毎日が前と同じだった。それを実感するたびに気持ちは軽くなっていく。前よりも眠れるようになった。目の下のクマが薄くなった。食欲が戻ってきた。生徒の声を聞き逃さなくなった。それは周りから見ても明らかな変化だったらしい。


「天宮先生、なんか、今週元気っすね」


 たんと音を立ててボールが跳ねる。他の部員たちは真面目に練習をしているというのに、古賀(こが)は私の隣に並んで、意味もなくボールを床にぶつけていた。


「なんだよ、文句でもあるのか?」


 ふんと鼻を鳴らしてそう答えれば、彼の口からこぼれたのは戸惑いの音。たん、と。また、ボールが跳ねる。なんとも言い難い顔をした男子生徒は、手にしたボールを強く抱きしめていた。


「あ、はは、らしくないっすね。なんか、いいことでもあったんすか」

「別に、そういうわけじゃないが」

「──い、いやいや、絶対なんかあったでしょうが! だって今週の天宮先生、ずっと普通じゃないっすか。なんか、それ」


 ぎゅうと、さらに強くボールが抱きしめられる。だけどまた、ボールは古賀の手から離される。


「なんか、神宮が、生きてた頃、みたい、で……」


 たん、と。体育館の床にボールが打ち付けられる。たん、たん、たん。音は何度も繰り返される。ずっとこのまま続くと思ったその音は、けれど唐突に途切れてしまった。


「あ、っ、すんません、バカなこと、言って」


 掴み損ねたボールが転がっていく。自分の吐き出した言葉を後悔するかのように口元を押さえる少年。まるで、話してはいけないことを話してしまった時のように。


「なんだよ、その顔は。……お前の方こそ、ずっと変に気を遣ってるだろ」


 それがわからないほど愚かじゃない。生徒に気を遣われていることがわからないほど、生徒たちのことを見ていないわけじゃない。

 ゆっくりと手を下ろした古賀は、でも、転がっていくボールを拾おうとはしない。彼が私に向けたのは、いやに真剣な眼差しだった。


「天宮先生。病院、行った方がいいっすよ」

「はあ? なんでそうなるんだよ。残念だが体は健康だし、頭がおかしくなったわけでもないぞ」

「そ、そういうのはお医者さんに診てもらわないとわかんないじゃないっすか。健康とかまともだとか、そんなの、思い込みの可能性だってあるんすから」

「おい、微妙に失礼なこと言ってないか、お前」


 だが古賀の目は変わらない。それは彼が本気で私を心配してくれているということだ。……その気持ちにきちんと応えるべきなんだろう。そうするべきだとわかっている。だけど。


「……古賀の方こそ、病院に行った方がいいんじゃないのか?」

「な、なんでですか」


 だけど、すまない。多分、私は。

 その目を見られぬままで、言葉を紡ぐ。


「病院にでも行かないと、その怠け癖は治らないだろうが。ああ、病院に行っても無駄だったか。好きな女の子にかっこいいところ見せたいだけで部活やってたんだもんなー」


 多分、いや、確実に、私は最低な人間だ。


「あーあ。見せられないと思った途端にこれだ。どっかで見てるかもしれないのに」


 ちらと彼に視線を向ける。突き放したつもりだった。もう放っておいてくれればと思って。なのに彼は私の期待を裏切る。


「ちぇ、バレてら」


 一瞬だけ目を見開いたのに、浮かべたのは快活な笑み。それで、わからなくなる。私は取り残されているのだろうか。私一人だけが、あの日に。


「っ、ほら、ちゃんと練習しないとかっこいいところは見せられないぞ。いつまた見にくるかわからないんだから。……あの子が試合を見に来たこと、今まで一度もなかったけど」

「ぐっ、そーれーはー、天宮先生がちゃんと誘ってくれなかったからでしょうが!」

「いや、一応声はかけたぞ。かけた上で、バスケに興味はないと断られた」


 でも、そんなはずない。取り残されてなんていない。だって戻ってきたんだ。このまま、何もかもが元に戻るはずなんだから。


「ふん、どうだか。ま、でもこれからのことはわかりませんからね。天宮先生目当てでひょっこり覗きに来るかもしれませんし」


 仕方ない、と息を吐いて古賀は歩き出す。転がっていたボールを拾い上げて、彼は練習を続けるみんなの中へと戻っていった。

 とん、と。古賀が居た方とは反対側、足に重みがかけられる。体育座りをした月は私にもたれかかって、ぼんやりと部員たちの様子を眺めていた。


「なんだよ、月」


 小声で声をかける。月はそっと顔を上げて私を見たけれど、またすぐに顔を逸らしてしまった。


「おい。何か言いたいことでもあるのか? この数日、やけにぼんやりしてる気がするぞ」

「そういうんじゃ、ないですけど」

「そういうんじゃないならなんなんだよ。そら、今日はせっかくの金曜日なんだぞ。週末だぞ。先週お前が見てた音楽番組もドラマもあるんだ。もう少し、こう、なあ」


 だが月はにこりともしない。ただ何か言いたげな瞳を時折私に向けて、また別の場所へと目を向けてしまう。結局、部活終了の音楽が鳴り始めるまで彼女はそれを繰り返していた。


「……あとで、ちゃんと話聞くから」


 ぽんと月の頭に手を置く。それがわずかに動いたのを確認して、壁際から身体を離した。


「ほら、片付けー」


 背中に感じる視線に振り返れぬまま、生徒たちの方へと向かう。物言いたげなその空気の意味を読み取らないままで。読み取ろうともしないままで。

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