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不可逆の満ち欠けー1

 その音に、その声に、今が夢の中なのだと思った。いずれは醒めてしまう、現実ではもう手に入らぬ幸福な夢なのだと。


「お姉ちゃん、朝」


 その声が帰ってきたなんて信じられなくて、起きるのが怖くて、もう一度闇に沈むために布団へと潜り込む。でも。


「今日、月曜日でしょ。遅刻しても知らないよ」


 紛れもない現実なんだ──。

 ばっと布団が取り上げられる。一気に身体が冷えたことで、ようやく意識はこの現実を認識し始めた。今が、決して夢ではないのだと。


「もー、時雨ちゃんってば。せっかくウイが起こしてくれてるんですから、ちゃんと起きなくちゃ駄目ですよ」


 めっ、と人差し指を立てた月は布団をベッドの上に下ろす。私にかからない位置へと。


「……わかってる。もう起きるよ」

「はい! あ、朝ごはん、今日もウイが作ってくれたんですよ。今朝はなんと、チーズトーストとソーセージ、おまけにスープ付きです!」

「なんでお前がそんなに喜ぶんだよ」


 ため息混じりにこぼしながら身体を起こす。カーテンはとっくに開けられていて、朝の日差しが室内へと入り込んでいた。


「だって誰かが作ったご飯なんて、そう食べる機会もないじゃないですか」

「悪かったな、作れなくて。って、そもそもお前には食事の必要はないだろう。基本的には霊体なんだし。それにほら、食べる必要があったとして、だ。師匠とやらが作ることもあったんじゃないのか? 言ってたろ、家事は一通り教えてもらったって」


 シャツのボタンを適当に留める。一週間ほど前までは皺まみれだったそれは、月が来てからはしっかりとアイロンがかけられるようになっていた。


「まあ、それはそうなんですけど。師匠、手作りとかしない主義なんです。基本的に全部魔法で済ませちゃうんですよ」


 そういえば、月も初日は魔法で全てを済ませようとしていた。だがそれに不満を示してみれば、あっさりと手動に変えていたではないか。


「師匠、自分は魔法で全部済ませちゃいますけど、他人には自分の手でやらせる人なんです。魔法で全て済ませてしまったら愛情が感じられないだろう、って」

「いや、それ、師匠の方からの愛情はどうなるんだよ」


 しっかりと洗濯された黒いズボン。いつもの青い上着も清潔な状態に保たれている。それでも上着がくたびれて見えるのは、単にそればかり着てしまっているせいだろう。

 付けっぱなしのネックレスが肌に冷たい。別に、何か思い入れがあるわけじゃない。でもなんとなく、外すことができないままで過ごし続けていた。


「師匠の方からの愛情は、受け取ることが愛情だって言ってました。誰かに何かをあげるだけじゃなくて、受け取ることも愛情の示し方の一つなのさ、って」

「はっ、怠け者の言い訳じゃないのか……と、言いたいところだけど、それも愛情だって言葉は否定できないな」


 そうですかねえ、と首を傾げる月を連れて居間へと向かう。テーブルの上に目をやれば、月の言葉通りのメニューが並べられていた。


「あっ、起きた。おはよう、お姉ちゃん」


 まだ、夢の中じゃないのか。そう思ってしまいそうな頭を軽く叩く。目の前の光景は変わらず、台所にはエプロンを外す初の姿があった。


「──おはよう、初」

「うん。ほら、早く食べて二人とも。時間、ギリギリになっちゃうでしょ」


 言いながら、彼女はテーブルにつかずソファへと向かう。改めてテーブルの上を確認すれば、そこには二人分の食事しか用意されていない。昨日の朝と同じように。


「……月は、食べないのか」

「たーべーまーすー。今の見ててなーんで私が食べないことになるんですか。もう、しっかりしてください時雨ちゃん。食べないのはウイですよ。昨日もそうだったでしょう」


 不満気に口を尖らせた月はわずかに声を落とす。


「時雨ちゃん。わかってると思いますけど、彼女は所詮人形です。どれだけ人に近づけられて作られていたとしても、人形でしかないんですよ」

「……わかってるよ」


 咎めるようなその声を振り払うように頭を振る。席に着けば、月は私の正面へと腰を下ろした。いただきます、と手を合わせる彼女は今日も実体。外に出る時は霊体でいるくせに、家の中では基本的に実体化しているようだった。

 一度それについて訊ねたことがあったのだが。


『だってせっかくの現世ですよ? これを逃したら次いつ楽しむ機会があることやら』


 と、ため息をこぼしていた。どこか欠けているという印象は変わっていないが、彼女にもそれなりに欲があるようだった。


「ん、どうかしましたか?」

「いや、なんでもない……って、おい」


 もぐもぐとトーストを頬張る月の口元にはパンのかけら。とんとんと口元を叩いて示すが、彼女は首を傾げるばかり。だから、と言いかけて、ティッシュがその口元を拭った。


「月、パンが付いてた。急いで食べ過ぎなんじゃないの」


 わざわざ立ち上がってこっちまで来てくれたらしい。初はもう、と呆れたような声をこぼしているけれど、その表情は穏やかだ。


「ああ、成程。って、自分で拭けますー。ウイってば世話焼きさんですねぇ」

「月がだらしないだけでしょうが。ほら、ティッシュ、ここに置いとくから」


 まるで姉妹だ。どうやら昨日一日でそれなりに打ち解けることができたらしい。なんだか複雑な気持ちにならなくもないが、同居人として仲良くしてくれるならそれに越したことはない。


「ごちそうさま。初、朝ごはんありがとな。美味しかったよ」

「ん。ああ、お皿はそのままでいいよ。あとで洗っとくから」


 わかった、と頷いて洗面所へ。ぼさぼさの髪の毛は艶を失った焦茶色。ろくに手入れしていないせいだとわかってはいるが、清潔感さえあれば文句を言われる筋合いもない。横髪を後ろでまとめてハーフアップに。化粧、は、軽く。面倒だが全くしないわけにもいかなかった。


「時雨ちゃん、そろそろ出ないと遅れちゃいますよー」

「わかってる。すぐ行くから」


 鏡に目を戻せば、そこには疲労に満ちた目をした女が居た。でもその目には、ほんのわずかに生気が宿っていると思う。少し前と比べれば、だけど。それをいい事だと思っていいのかは、まだわからない。


「時雨ちゃーん」

「ああ、もう、はいはい」


 洗面所を出れば、私の鞄を手にした月が立っていた。はい、と。笑顔と共に渡されたそれは今日もずっしりと重たい。行きますよー、と呑気な声を出して月は玄関へと向かう。その一方で、初は制服に着替えることもせずに皿を洗っていた。


「初、学校は──」


 きょとん、と。目を丸くした初は何度か瞬きをして、眉間に皺を寄せた。


「いや、行けるわけないでしょ。私の席、もう無いだろうし。っていうか、死人が現れたらみんなひっくり返るでしょうが」


 その言葉に、あの悪夢が現実のものであったのだと改めて突きつけられる。この現実が、決して悪夢から覚めた先ではないのだと。


「……案外、喜ばれるかもだぞ」

「ないよ。別に誰も喜ばないでしょ」


 そんなこと、ない。そんなことは、絶対にない。そう言い返そうと思った。けれどそれより先に彼女が動き出す。


「ほら、そろそろ出ないと遅刻するよ」


 ぐい、と。肘で背中を押されてしまった。だけど、と言いかけて、その顔が目に入る。それは一瞬。でも確かに、彼女の顔は苦し気に歪んでいた。瞬きをした次の瞬間には、いつもの何でもない顔へと戻っていたけれど。

 だから、もう何も言えなかった。


「……それじゃあ、行ってくる。留守番、よろしくな」


 胸が痛くて堪らない。本当に今を喜んでいいのかわからなくなる。それでも。


「うん。行ってらっしゃい、お姉ちゃん。それから、月もね」


 その笑みに見送られて踏み出した外は、冬だというのにどこか暖かく感じられた。浮かれているわけじゃないと自分に言い聞かせて歩き出す。けれど喜びは消えず。取り戻したかったものが取り戻せた。その事実はどうしたって喜ばしかったんだ。たとえこの現実があの悪夢と地続きなのだとしても──それでも、全部があの日の前に戻ると、そう思い込んでしまうくらいに。

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