見知った夜闇ー4
アパートへの帰り道、身体が軽く感じられたのは随分と久しぶりのことだった。繋ぐ手は冷たいまま。いつまで経っても温かくはならない。
「こうやって帰るの、なんか久しぶりだな」
「う、だってもう中二だよ、私。手を繋いで歩くとか子供じゃないんだからさ」
「まだまだ子供だろ」
握りしめる。その手を。一度手を取ってしまった以上離せるはずもなかった。離したいだなんて思えなかった。
空いてしまったものを埋めるように彼女と話し続けて、あっという間に家へとたどり着く。玄関を開けようとして、そこでようやく気がついた。
「あ、しまった」
初に月の話はしていない。月にも初のことを、どう説明するべきか。
「……まあ、なんとかなるか」
月とて人外の存在なのだ。そのまま説明しても問題はないだろう。ドアノブを握る。冬の夜の寒さのせいだろう、それはよく冷えた氷のようだった。
「ただい」
ま、と。開けた扉の向こう。
「──え?」
瞳が在った。明るい部屋の中でも強く輝く琥珀の瞳。そこに人の感情はなく。まるで満月か太陽か。宝石にも例えられぬ輝きが、そこには在った。
「つ、き?」
動けない。動けるはずもない。首の真横には冷たい気配。動かせない。瞳も首も、指先さえも。それでも彼女の持つそれが何であるかを知ってしまう。
「────」
銀色の大鎌。山吹色のリボンが巻かれたそれが、私の首にかけられている。心臓の音が煩い。息ができているなんて少しも思えない。
すっと、目が細められる。満月は私を、いや、私ではなくて。
「時雨ちゃん」
私の少し後ろを見ていた。
「それ、なんですか」
「な、に、って」
敵意。今この場を支配する彼女の感情は敵意に他ならない。その空気がわずかに緩められる。恐らくは私の答えを聞くためだけに。
「なに、って」
温度のない手が私の手を握り返す。振り返れない。その顔を見られない。見られなくとも、とっくに答えは決まっていた。
「……初。神宮初。私の、はとこだ」
「……神宮さん、ですか。亡くなったはずでは?」
「っ、それは、そう、なんだが。その、ばあさんが」
生き返らせた。その言葉を彼女が信じると、どうしてか思えなくなってしまう。それでも事実は変わらない。神宮初は神宮梅花の手によって生き返った。その事実しか私は知らない……他には何も知らないんだ。
「ばあさんが、生き返らせたんだよ。だから、今日からまた一緒に暮らす」
琥珀の瞳はまだ強く、満月よりもずっと強く輝いている。けれど数度の瞬きの後、その目はいつもの彼女のものへと戻っていた。空気はいまだ緊張感を孕んだまま。それでもゆっくりと、大鎌が下ろされる。銀の凶器はするりと空気に溶けて消え去ってしまった。
「……そうでしたか。では、同居人として自己紹介をしなくてはなりませんね」
こほん、と咳払いが一つ。桃色の唇に笑みが浮かべられる。整いすぎたその笑顔に、親しみは少しも感じられなかった。
「初めまして、神童月と申します。先日から訳あってこの家でお世話になっているんです」
「あ、ご丁寧に、どうも。ええと、ウイです。その、よろしくお願いします」
頭を下げた初に、いえいえと月もまた頭を下げる。やっぱり空気は少しも緩まない。顔を上げた月はまた、にこりと整った笑みを浮かべて居間へと戻っていく。こちらを振り返ることもせずに。
「……ええと、すまなかった、初。驚かせたよな。いきなり、あんな」
「え、あ、ううん、大丈夫だよ。何か理由があったんだろうし。それより」
ちら、と。焦茶色の目が何か言いたげに部屋の中へと向けられる。月が掃除してくれたおかげでいくらか綺麗になった家だったが、廊下はまだ数日前と変わらぬ状態であった。
「もう。あとで掃除しとくから」
「う、本当にすまない。ああ、そうだ、和室には入るなよ。えーっと、お姉ちゃんの仕事の大事な書類とか、そこに押し込んだから」
「……なら、和室はちゃんと自分で整理してよね」
初は一瞬だけ和室に目を向けたが、すぐに居間へと歩き出した。離れていく手が名残惜しくて、だけど追いかけられずに上着のポケットへと逃げる。
ひりついた空気の残る家へと上がって、ちらと和室の方を確認する。扉はしっかりと閉められていた。空気の入る隙間もないくらいに。
「初」
呼びかけに、黒い靴下に包まれた足が止まる。なに、と。首を傾げた彼女は無愛想。記憶の中とは少し違う表情をしている気がしたけれど、現実はきっと、ずっとこうだったんだろう。
「あ、いや。初の部屋はそのままになってるって言っとこうと思って。何も触ってないから安心してくれ」
「……そう。ならいいけど」
焦茶色のショートヘアが揺れる。前を歩く姿は何度も見たというのに、抱いた気持ちは懐かしさでも安堵でもなく寂しさ。まるで、そこに在ってほしいものが無いような。そんなはずないのに。身体以外は何も変わってはいないはずなのに。
居間はどこか寒さを感じる空気で満たされていた。エアコンはきちんと稼働しているから、私自身の気持ちの問題なのだろう。月はソファに座ってテレビを見ている。かけられているドラマが興味深いのか、こちらに顔を向けようとはしない。
「ん、ちょっと私、お風呂入ってきてもいいかな。それともお姉ちゃん、先に入る?」
「いや、私は後でいいよ」
そう、と頷いて、初は自室の扉に手をかける。ふと、彼女の右手が動かされた。持ち上げられた手が前髪に触れる。強い風が巻き起こったのはそれと同時だった。
「──は、え?」
ぱちぱちと瞬きが繰り返される。何が起きたのか理解できずに。それは初も同じ。大きく見開かれた硝子玉の瞳が彼女を見つめ返していた。自身の右手首を強く掴んでいる、月を。
「──な」
ぎち、と。音がして、月はぱっと初の手首から手を離す。桃色の唇から吐き出された息に滲むのは安堵の色。その意味がわからぬままで駆け出していた。もっと早く動かなきゃいけなかったのに。
「なにしてるんだ、月!」
驚きから力が抜けたのだろう。へにゃりと床に崩れ落ちかけた初の身体を受け止める。そっと、小さく震える人形の指が青い髪留めをなぞった。
「外さないでください、それ」
ひどく厳しい声だった。ここ数日、いや、出会ってから一度も聞いたことのない声。そもそもあの少女がこんな声を出すなんて思えないのに。
「その髪留め、絶対に外さないでください」
思いたくないのに、その声のままで月は言葉を続けた。恐る恐る目を向ける。そこに居るのは月という名の少女のはずなのに、なんだか別の、知らない人みたいで。
「いいですね?」
「わ、わかった。外さないよ」
初が頷いたのを確認して、月はそっと彼女に手を差し出す。おずおずとその手を取った初に、月はにこりと微笑みを返した。
「すみませんでした、急に」
まるで真冬が急に春になったよう。それに戸惑っているのは私だけじゃない。だが月は何を気にする様子も見せず言葉を続ける。
「お風呂に入るんでしたよね。さ、どうぞ、ごゆっくり」
ぱっと手を離して月はソファへと戻っていく。初は静かに頷いて、私から離れて自室へ。着替えを手に出てきた彼女は不安げな視線を月へと向ける。顔を向けた月に、初は。
「外さなきゃ、いいんだよね」
「ええ。絶対に、ですよ」
明るさも何もない、真剣な声だった。その真剣さが伝わったからか、初はそれ以上何も訊かず、わかった、と頷いて風呂場へと消えていった。洗面所の扉が閉められる。月の顔からはまた、笑みが消え失せていた。




