見知った夜闇ー1
ようやく迎えた金曜日の夜、音楽番組のつけられたテレビから目を逸らす。テーブルの上には二人分の食事。甘口のドライカレーとカット野菜のサラダは、いつかあの子が作ってくれたものと全く同じメニューだった。
誰かの手料理は冷凍食品やコンビニ弁当とは違う味がする。それがわかっていながら自分で料理を作れなかったのは、ただ単に火が使えないから。月はその事実を咎めることもなく、追求することさえせず、家にある料理本を適当に読んでは毎日食事を用意してくれるのであった。
「ふむふむ、これはなかなか美味しくできたのでは」
月はどうしてか、わざわざ実体化して自分の作った晩飯を私と一緒に食べている。食事は必要ないはずなのに。……大方、なるべく人間らしい生活をしろとでも師匠さんに命じられているんだろう。
実体となった彼女は霊体の時とは少しだけ姿が異なっていた。髪の毛は上段のミディアムヘアだけに。水色のケープはその姿を消し、山吹色のリボンは真白なシャツに。右目の下にあったはずの赤い十字の傷も、今はその姿を消していた。
「む、なんですか時雨ちゃん。味付けに何か不満でも?」
「ないよ」
ないどころか、自宅で作られたものとは思えないほど美味しい。あの子の料理と似た味がするけれど、月の料理はどこか洗練されているような気もする。食材は近くのスーパーで買ったもの。料理の手順もレシピ通り。一体何が違うのだろうか。
美味しい、と。
言いかけて口を閉ざす。素直に褒めるのがなんだか難しく感じられて。月は褒められることを求めていたわけではないのか、特に何を言うこともなく食事を再開していた。
奇妙な同居が始まってまだ一週間も経っていない。毎朝騒がしく起こされ、学校に行き、無遠慮に話しかけてくる月を無視して仕事をして帰る。家に帰れば温かな食事と掃除された空間が用意される。そんな生活は、なんだか。
「…………」
思いかけて、首を横に振った。その感情を抱いていい理由など今の私にはない。それでも月を追い出せないのは、彼女が少し欠けているからなんだと思う。
家に入れたその日は家事を一瞬で終わらせてしまった。指先一つ、軽く振るだけで。
『料理も洗濯も、魔法を使えば一発ですよ?』
『そんなもん信用できるか!』
入るなと言った部屋には言いつけ通り入ろうとしない。訊ねればわずかに首を傾げて。
『入っちゃいけない部屋には入りませんよ。別に、興味もありませんし』
『……まあ、それは助かるんだが』
毎日着いてくるから学校に行きたいのかと思っていた。それに歳の近い相手と話す方が彼女も退屈しないだろう、と。けれど。
『学校で友達、ですか? 別に必要ないと思います。だってほら、私は結局人間じゃないですし。前にも言いましたけど、ただの道具ですから』
『いや、だから、お前は道具じゃないだろ……』
基本的にその言動は普通の少女と変わらない。変わらないのに、どこか欠けている。根底にあるのは自身が道具であるという考え。きっとそれが大きすぎるからこそ、師匠とやらは彼女に人間らしくなってほしいのだろう……と、私は推測している。
「……でも」
でも、今のままがいいのかもしれない。何かが欠けているからこそ、私は彼女と居られるのだろう。これがもし、あの子と変わらないただの少女だったなら──考えるだけでゾッとする。想像したくもない。あの子を忘れて、あの子とは違う少女と、あの子と暮らしていた頃のように楽しく生きていくなんて。
「時雨ちゃん。時雨ちゃんってば」
「お、あ、なんだ?」
「電話、鳴ってますよ」
「ああ、本当だ。すまない」
月に促されて気がついた。家電が鳴るなんて珍しい。詐欺かアンケートか、それとも叔父夫婦か。気が進まぬまま受話器に手を伸ばす。ディスプレイに表示された文字も見ないままで。それが、失敗だった。
「もしも」
し、と。言い切ることさえ許されず。
「──教員というのはよほど疲れる仕事のようですね、時雨。それとも、電話対応はあまりないのでしょうか。いずれにせよ感心しませんね。相手を待たせるだなんて」
「……ばあさん」
挨拶もなしに嫌味を言うその声に口からこぼれたのは舌打ち。きちんと番号を確認してから出るべきだった。もうかかってくることはないと思っていたのに。
「なんだよ、ばあさん。珍しく電話してきたと思ったらそれか。言っておくが、神宮の家は継がない。歳をとりすぎて忘れたかもしれんが、そういう約束だろう。ああ、もう寝る時間なんじゃないか? 年寄りは早く寝たがるもんだ。じゃあな、ばあさん。……二度とかけてくるな。もうお前と関わり続ける理由もないんだから」
そうして耳から受話器を遠ざける。そのまま終わりにするつもりだった。なのに。
「──明日は、初の四十九日でしょう」
なのに、終われない。
「だから、なんだよ」
泣かなかっただろ、お前。いつもと同じ冷たい目を向けて、それだけだっただろうが。なのに、なんで。
耳元に戻した受話器の向こう、そこに在る感情は少しだった読み取れない。
「あなたに贈り物があります。夜、屋敷に来なさい」
「はっ、四十九日に贈り物だ? 趣味が悪いな、クソババア」
あの子のことじゃ、ないのかよ。落胆は一瞬。そんな感情は無駄だと知っている。もう二十五年もこの祖母と関わってきたのだ。今更何も期待していない。今更。
今度こそ受話器を置くつもりだった。だけど祖母はそれを許さない。いや、許さなかったのは私なんだろうか。
「初に会いたいのでしょう、時雨」
「──どういう意味だ」
問いかけに、答えはなく。
「明日の夜、屋敷に来なさい」
「……どういう意味だって訊いてるんだよ、おい、ばあさん──って、おい、おい!」
残されたのは機械的な音だけ。もう祖母の声など何処にもない。それでも、手を離せなかった。
「どういう、意味なんだよ」
何処にも繋がっていない受話器からも。
意味のわからない、祖母の言葉からも。




