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春は遠く

 柔らかな光に目が眩む。白んだ視界の中で、人影がわずかに揺れた気がした。数度瞬きを繰り返せば、次第に目の前の光景が浮かび上がり始める。青々とした畳の上に広がるのは薄花色の羽織。見覚えのないそれを、頭の中の記憶と照らし合わようとする。思い当たる何かがないか、と。


「大伯母さま」


 吸い込んだ息の音が、いやに大きく鼓膜を震わせた。青い香りに混じるのはほのかな甘さ。感じる懐かしさは痛みとなって胸の奥を引っ掻く。


 ──その声を、その姿を、何度求めただろう。


「大伯母さま、おはようございます」


 何度、この景色を夢見ただろうか。

 願いは此処に。

 いずれは醒める夢なのだとしても。

 そう、これは夢。

 だから、怖かった。その顔を見るのが。だってもし、見た瞬間に醒めてしまったら。だってもし、見ることも叶わずに醒めてしまったら──それでも、身体は勝手に動いてしまう。


「────」


 そこに、何より望んだ未来が在った。

 随分と伸びた焦茶色の髪の毛がさらりと流れ落ちる。隠された表情はわたくしには見えず。数秒、その状態が続く。呼吸の音さえも聞こえない。彼女は静かに、自身の動きを止めていた。生きているのか不安になる程、静かに。


 ──嗚呼、どうして。


 言葉が出ないわたくしを置いて、顔が上げられる。前髪にはあの日わたくしが与えたはずの山吹色の髪留めはなく。その事実が益々わたくしの胸を締め付ける。これはお前の現実ではないのだと、突きつけられているように感じて。

 吊り目がちな目がこちらに向けられる。長いまつ毛が数度上下して、どこか作り物めいた焦茶色の瞳がわたくしを見た。


「……どうかされましたか、大伯母さま」


 涼やかで憂いのある声がわたくしを呼んだ。こてんと首を傾げた彼女は、少女らしさを残しながらも、一人の大人へと美しく成長していた。カミサマの子という呼び名が相応しいと、そう心から思ってしまうほどに。

 胸の奥、泣き叫ぶ声を必死になって無視をする。ぐるりぐるりと渦巻く言葉を、言ってしまえと暴れ回る感情を、わたくし自身は少しも正確に翻訳できない。

 どうしてこうならなかったのだろうか。どうしてこの世界を、決して手に入らぬ未来を視てしまったのだろうか。ずるい。羨ましい。妬ましい──。

 喉を駆け上がる言葉の正体も知らず。右手が勝手に持ち上がりかけて、でも、冷え切った声に全てが止まった。


「用事がないなら失礼させてもらうぞ、ばあさん」


 それで、ようやく気がついた。彼女に寄り添う濃紺の羽織に。

 焦茶色の髪の毛は現実()と変わらず、伸びた横髪だけを後ろでまとめている。けれど現実()と違うのはその瞳。その目には、きちんと光が──それはあの子が生きているからなのだと、すぐに納得してしまう。


「しぐ、れ」


 思わずこぼれた声を疎ましく思ったのだろう。時雨(しぐれ)はこれでもかと眉間に皺を寄せる。吐き出されたのは大きなため息。どの世界でも、この子は変わらずわたくしを嫌っているようだった。


「聞こえなかったか、ばあさん。用事がないならもう下がっていいかって聞いてやったんだよ。……今から封印の様子を見にいくんだ、お前の相手なんかしてられるか」


 チカ、と。彼女の胸元が一瞬、輝きを放つ。暖かな陽光に照らされたせいだ。三日月にアメジストの嵌め込まれたネックレスは、この世界でもあの子にとって大切なものなのだろう。視線を孫娘の顔へと戻す。けれど時雨はもう、わたくしの方を見てはいなかった。その瞳は、ただ、あの子一人に。

 あの、と。弱々しい声が聞こえかけて、けれど時雨はそれを遮るように彼女の手を掴んだ。あの日と同じように。現実()ではもう、掴むことのできないその手を。


「ばあさんのことなんか放っておけ。ほら行くぞ、(うい)

「え、あ、うん」


 時雨は振り返ることもせず、初を連れて部屋を出ていく。追いかける資格など、わたくしにはなく。黙って目を逸らした視界の端、人形のような目がこちらを見ていたような気がした。

 足音が聞こえなくなって、嗚呼、と。ようやくこぼれた声は、しかしその先が続かない。続かなくとも、自分が何を思っているのかくらいはわかる。

 嗚呼──たとえこの世界が、この未来が、自分の届かぬ場所なのだとしても。この自分の居場所ではなくとも。それでも、よかった。ただ存在してくれるだけで、それだけでよかった。

 だけど幸福はすぐに消える。泡のように、呆気なく。夢とはそういうものだと、ずっと前から知っていたはずなのに。


「は……?」


 真冬のような寒さが身体を撫でた。いつの間にか、春の温もりも柔らかな陽光も消え失せている。

 ──黒。闇よりも深い黒が障子に染みていく。畳を染め上げていく。


「────!」


 誰かの悲鳴が聞こえた。誰かの叫びが聞こえた。それでもわたくしの身体はまだ動かない。何が起きているのか理解できずに、何が起きているのか理解したくなくて。

 でも、孫娘と姪孫の姿を思い出した。封印の様子を見にいくと、そう口にしていた彼女達のことを。


「っ──!」


 なんて、愚か。この夢がいつの出来事なのかなんてわからない。少なくとも自分の住む世界の出来事ではない。それでも、それでも──見捨てるなんて、できるわけがなかった。

 冷静に立ち上がったつもりが、着物の裾を踏んで転びかける。踏み締めた畳の感触はしっかりと足の裏に伝わってくるけれど、気を抜けば簡単に失われてしまいそうであった。

 飛び出した部屋の外は暗く。闇に呑まれ始めた屋敷を駆けていく。必死に、今わかることから導かれる結論を手繰り寄せようと。

 封印の様子を見にいく、と。つまりあの子たちが成長するまで封印は保たれていた。けれどそれは厄災が解決していない証拠でもある。そうして現れた黒──何が起きているのか、なんて。


「考えるまでも、ないではないですか、っ」


 下駄も履かずに踏み出した外、空気はどうしようとないほど澱んでいた。坂道を駆け降りて鳥居を潜る。肺が、身体が限界を訴えていた。老体を酷使するなと叫んでいる。それでも足を止めず、真っ赤に塗られた楼門の中へ。もう息が止まりそうだった。いっそ、止まって欲しかった。


「嗚呼」


 そうして望み通り、止まった。足が。


「嘘、でしょう」


 清らかだったはずの水が濁っている。泥水よりも酷い色へと。

 季節など無視して咲き誇っていたカキツバタたちが枯れている。根元からポッキリと折れて倒れ伏している。

 受け入れ難い現実が広がっていた。もう何も見たくなかった。醒めていいと、身勝手にも思ってしまう。

 だけどそう願った時に限って、悪夢は醒めてくれないもの。拝殿の上へと視線が吸い寄せられる。そこに、あってはならない黒点が存在した。何かの心臓のように蠢く、不気味な黒が。


「初、結界の修復を──っ、ぐ」

「だめ、お姉ちゃん! 間に合わない、これ、もう、魔力全部叩き込んだって──」


 そう、間に合わない。初の言う通り。それでも結界を修復しようとしているらしい。二人は地面に膝を付き、魔力を神社に流し込み続けている。けれど、封印は、もう──。

 ごう、と。

 脈打つ黒点から、二つの影が飛び出した。ソレを視たのは初めてではない。だから、わかってしまう。コレこそが、星を滅ぼす力を持つ厄災たちであるのだと。これが、この世界の結末なのだと。


「嗚呼、どうして」


 漏れた声に答える者は居ない。影に染まった厄災たちは淡々と世界を壊していく。わたくしたちに目も向けず。無遠慮に。心も意思もないままで。

 どうにも、ならない。

 それでも諦めたくなくて、空を駆ける厄災に手をかざした。届かぬと、わかっている。わかっていても撃ち落としたかった。

 でも、動きが止まってしまう。


「──は」


 その光に、目を奪われて。

 闇へと染まりゆく空に現れた輝きは太陽に非ず、周囲を照らしながらも全てを焼き尽くす熱は持たない。強い光なのに、そこに在るのは柔らかさ。ならば、それはきっと──そう、満月。

 長い薄茶の髪の毛が揺れた。そっと瞼が開かれる。輝いたのは琥珀の瞳。満月を背負った少女が、そこに居た。


「──どう、して」


 その正体を、わたくしは知らない。けれど理解する。理解、してしまう。孫娘の持つネックレスと同じ飾りを、その胸元に見つけて。

 再会を喜ぶ気持ちなど湧き上がらず。だってその顔に、その姿に、あの子の面影はない。少しもあの子とは──ただ、人形じみた瞳だけはよく似ている気がした。

 世界が解けていく。崩れ落ちた建物も、街を覆う炎も、枯れ果てたカキツバタたちも、空さえも、全てが解かれて消えていく。

 空に浮かぶ少女はそれをただ、静かに見つめていた。


「……やめて、やめ、っ、やめなさい!」


 手を伸ばす。もう存在しない空を稲妻が駆け落ちる。けれど雷は彼女に届かず。わたくしは月を撃ち落とせず。

 琥珀の瞳はわたくしを見ない。その目は、あの子さえ見ない。見ないままで、少女は世界を消していく。無慈悲に、情の一つも見せることなく。


「まだ」


 手を伸ばす。光に。空に浮かぶ満月に。手が届くはずもないとわかっている。それでも。


「まだ、手があるはずです。あなたとてこんなこと、望んでいないでしょう。ですから」


 伸ばすその手をカミサマの彼女は掴まず。でも、人間の彼女が触れた。柔らかく体温の低い手が、わたくしの手に。


「大伯母さま、これはあなたの住む世界の出来事ではない。そうでしょう」


 この子がわたくしに触れたのは多分、これが最初で最後だ。わかっているのに、握り返すことさえできない。本当に最後だと、わかっているのに。


「だから気にしないでください。この世界のことを、この結末を」


 嘆きも怒りもなかった。人形じみた女性が浮かべるのは微笑み。そこに、強い色の感情は少しも見当たらない。


「──初、あなたは、どうして」


 笑っていた。今から自分の住む世界が消されるというのに、それでも笑っていた。涙一つ流さず、嫌悪も憎悪も何一つ見せず。

 それが、わからない。わかるはず、ない。


「何を、馬鹿なことを」


 ──この世界はあなたの現実ではないのだから気にする必要などない。

 その通りだ。彼女の言葉に間違いなんてない。けれど、でも、それでも。


「そんなこと、できるはずもないでしょう! だって」


 どうしてその笑みを受け入れられようか。どうしてその言葉に頷けようか。

 世界が消えていく。意識は闇へと溶けていく。誰の顔ももう見えない。答えは得られず。夢の終わりはもうすぐそこに。抗いたくとも抗えない。どうにもしようがない。わかっている。それでも納得ができなかった。


「だって、あなたは」


 本当に、笑っていられるのですか。真実を知ってもあなたは、それでも笑っていられるのですか。


「あなたは、わたくしの世界では」


 人を殺し、誰かに殺され、世界を滅ぼすような存在になってしまう。この世界は奇跡のようなものかもしれない。あなたたちが生きて幸福になれる、唯一の世界かもしれない。なのに消されてしまう。あなたたちの幸福が、未来が、無慈悲に。それでも──笑えるわけ、ない。笑えないはすだ。だから。だったら。それならば。


「わたくしはあなたを、カミサマになどしない。この世界だって、守ってみせる。ええ。必ず、人としての生を、再び、あなたに」


 それが、何も守れなかったわたくしにできる唯一の償い。それがきっと、あの子たちに贈ることのできるたった一つの幸福。

 そのために、殺しましょう。カミサマのあなたを──人間のあなたを取り戻すために。

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