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通わせごっこ

作者: CLEO

12月22日。

イギリスバーミンガムの都心部から3マイル離れたハーボーンにあるセント・メアリ教会でお別れ会は開かれた。カリフォルニアの人は見たことがあるだろうか?見たとしてもすっかり忘れているであろうその空は、真水を張ったバケツに墨を落としたかのようなこの地域特有のなんとも言えぬ濁った灰色の寒空であった。世界的に認知された『その人』の旅立ちに、個人的な付き合いのある仲間、家族、そしてバンドのメンバーが個々に到着し、みな足早に教会の中へと急いだ。ありとあらゆる社会ニュースやゴシップメディアでこの模様は放送された。死因や交友関係など様々な憶測が飛ぶ中、人々の関心はその様々な憶測に分散され、徐々に薄れていった。長年ともにしたバンドのメンバーの一人に手を取られ、教会へ足早に入っていく少女もその憶測のひとつを担った。


1992年 春のとある日。

午後1時、帰宅すると真っ先に玄関先のポストへ急ぐ。私は、いつも誰よりも先にポストを確認して仕分けをするので、我が家の小さな配達員の役割を果たしていた。どうせパーソナルマネージャーに頼んだのであろうが、いつもの白い封筒にはユニークなスタンプと、時にはアルファベット以外の文字列の消印が貼付してあり、私の心を刺激した。スタンプの大半はイギリス製のもので、残り3割ほどは、それ以外の国々のものであった。時々によって比率は違うけど、最近はイギリス製のものに落ち着いているかな…。

遥々遠くから旅してきたご立派な封筒から出てくるには、あまりにも貧相な薄っぺらな紙が中からヒラリと出てくる。記された内容は手紙と呼ぶにはほど遠く、基本的には短い文だけれども、その時々の心情がひとつひとつのワードで的確に表されていた。ここにメロディーが加わると、より表現性が増し、より確かなものになるのだろう。

『会いたい』とはなかったが、『愛している』とはいつも何処かしらにあった。私の近況を知りたがっているというよりも、ほとんど自分のことで、お互いに質問しなくても週2回の必ず届く手紙で互いの心情は本当によくわかった。だから、あえて問いに返すようなやり取りは一つも行われなかった。心の内を手紙に認めて、その多くは文通というより日記のような内容であったけれど、それが唯一の互いの心の寄り添うところであった。


——July 1st


Hello my girl,


恋はつらくていつだって悲しみをあたえるけど、君もいつか経験することができるといいね。僕はたくさん恋をしてきたけど、なにひとつ君にまねしてほしいことはなくて、教えられることもないかな。


今日、我が家に素敵な家族が増えたよ。優雅で気高く、もう僕のソファーとベッドを陣取っている。


Regards,


※彼にとっての家族とは、決まって気取った猫である。


——Hello,


今日、日本の食文化についてひも解く鍵を見つけました。日本では学校給食という、主食のパンかごはんかパスタと、スープ、メインのおかず・副菜に飲み物をランチサービスがあるそうです。飲み物はそのほとんどが牛乳という組み合わせで、これだけ食べておけば、死にはしない気がする完璧な栄養バランスの取れた食事が提供されているそう。また、赤ちゃん用の離乳食に至っては、おかゆに野菜などをすりつぶした組み合わせなど、素材そのものの優しい繊細な味で栄養もたっぷりに作ってあり、犬や猫用の食事ですら美味しそうなにおいがして、缶詰は人間でも食べられるそうです。『何事も一日にして成らず』というけれど、日本人の繊細な舌や嗅覚など、食文化を育む環境も生まれた頃からまるで違うのだと痛感しました。


私の両親は、アメリカ西海岸に住む日本人。

父、母ともに人生のほとんどをアメリカで暮らしていたけれども、海外に移住した人々によくみられるように、自国に住む人たちよりも古きよきそれぞれの文化を重んじて、またそれがいい意味でアップデートされないままの形で生活のさまざまな場面で残されていた。そのためか、とりわけ日本人らしさもが私には備わっているようだった。食事に関しても、日本仕込みの愛情、栄養たっぷりの繊細な味で育ったせいか、甘さと発色を限界にまで極めた食べ物を平然と提供している外での食事に嫌悪を感じることがある。こんなものを食べているから、どうりで味覚がバカになるのね——。そのようなものを食べているからか、手っ取り早く自分の存在をアピールすべく、毒々しい青だったり、赤だったり……。人もまた同じに思えることがあった。

分かり易く『あじ』を表現しようと、人々はみんな自分を大きく限界にまで表現しようとする傾向で、クラスメイト、先生、数少ない友人、みんな自由で、1のことでも7ぐらいに表現する。自分のことをいかに大きく見せるかに長けている。 ―私は、普段日本食を中心に食べているから控えめなのか——。そんな風に、時折自分の周りの人々に戸惑うことがあるけれど、私はつくづく日本風なのだと思ってしまう。でも、先に目標を高らかに掲げて『有言実行』というのも決して悪い選択ではないのかもしれない。言霊は後々ついてくるのならば。


——Hello,


いつも太陽が主役のこの町も今週は灰色の雲に支配されています。


灰色の背景の中でも燦燦と輝くオレンジとレモン、天気とチグハグだけどこれがカリフォルニア。寒空の中でも、雲の合間をぬって肌を刺すような太陽光、照らされたこんがり焼けた肌の上にダウンジャケットとビーチサンダルを合わせるテイスト、全て私の愛すべきカリフォルニア。私の愛する人々の住む町だとほっとします。


——金曜日


やっぱり君にも人に恋した時のこの気分の高揚感を知ってほしいな。私のように。


僕は人をダメにすることもあるけど、人を精神的にも経済的にも、そして、肉体的にも満足させることができる。


愛されるすべての喜び相手に教えてあげることができるから。


毎日、傷ついたり傷つけたりの繰り返しで変わらず乱高下な気持ちだけど、


沢山のメロディーを僕に閃かしてくれる。


Yours sincerely,


きっと恋人とうまくいっているのだろう。

愛は神経をすり減らすとうのは確実に伝わってくるけれど、言い換えてみれば、研ぎ澄ます力も備えているようで、その時々で文章や筆圧に滲み出ていた。いろんな街に愛すべき人がいるって豊かなことだぁ。本当の“愛”ならばだけど。手紙はほぼ週2回も届くので、私がすっぽり入ってしまうほど大きな蓋つきのストレージバスケットにしまった。

そのどれもが、ポストカードか、はたまた、ポストイットにでも収まりそうなので、一枚の手紙にまとめて送ることだって出来たハズだけれども彼の思いはそんなものには納めることはなかったようだ。きっとこの中に手を突っ込んでぐちゃぐちゃにかき混ぜて一つ取り出すと、過去のとんでもない代物がでてくるかもしれない。時々気分がヘンテコになった時はそうしようかなと思うけど、読み返す方がよっぽど体力が必要でもっとへんてこな気分になりそうだからやめておいた。


——翌火曜日


君にクリスマスプレゼントをと思って街へ繰り出したけど、人だかりできて、店も品薄だったから何も買えなかった。でも、僕の欲しかった香水はみつかったので、このレターに少し馴染ませておくけど、君がこの手紙を読むころにも少し漂うといいな。


Yours sincerely,


微かに香る便せん。長い道のりを経ても漂い続けている。LOST&FOUNDでもいとも簡単に存在をアピールできるほど、旅はじめはすごいにおいを放っていただろうと想像できる。パートナーの好みで自分の香りを変えるような人ではないことは確かなので、少し尖った強めのにおいがこのみになったということなのか、そんな自分を演出したいという現れなのか。

便箋の端に鼻を近づけてそんなことを思った。


——金曜日


今日はスーパーsuper blood moonだ。


どんなに手の届かない人でも、同じ月を見ているのだなと思わせてくれるから月を見るのが習慣になってしまったけど。今日は一段と近く感じて、悲しくも嬉しくなったのですよ。


近所の猫も犬も時々山から人里へ降りてくるコヨーテもみんな月の魅力に心身奪われているようで、私の問いかけにもいずれも何の返答もない。


——翌火曜日


何もかもが腐ったバナナみたいな色をしている。においもひどい。


全てくだらない。一杯やりながらピアノを相棒にやり過ごすしかない。


僕はただ一人きりでいるべき人間なのかもしれない。


——金曜日——

とても書く気にはなれず、スキップ。 


——翌火曜日


ヒルのように吸いつくす悪には、しばらく吸われているふりをして


そのうちひどい仕返しをするしかない。


その方法は今模索中で、何倍もの力を込めてショックを与える。


私は神には願わない。


時々大人は、私が彼の生きている原動力というけれど、もしそうならば、きっとそれ自体が勝手になんとか彼を癒してくれるんじゃないだろうかと思っている。

時に冷淡な気持ちでそう思い、ペンも取らず嵐の過ぎ去りをただ待つだけ。

次また何か変化が芽生えたころに書く出来事をしっかりとストックしておこう。

誰にいつ言われて始まったのか……。

つながっている意味付けをするためなのか、この親と子の形が存在していたことを確かに示す為の唯一の方法だったのかもしれない。

物心ついたころからこの文通はつづいていたので、私は日頃から注意深く自分におこる出来事や環境の変化などを書き留めておいた。走り書きのようなものばかりで、そのピースを集めてどうにかなるわけでもなく、彼のようなエネルギッシュでエキセントリックな行動や、己の激情によってドラマチックな展開へと持っていくような人生とはほど遠い生活を過ごしている。何はともあれ、私の心はすでに平静を保つよう鍛え上げられており、感情を露わにすることは日常の中でも、手紙の中でもあまりなかった。

夜中にラブレターは書くものではないというけれど、ラブレターだけじゃないなといつからか思っていた。


1990年代は後半に突入した。

京都の夏は暑い。息が咽かえるような暑さである。

空気はよほど汚いけれど、カラっと肌に突き刺さるような日差しが恋しい。ここでは息苦しく、存在する全てが同じ温度で解け混じり合ってしまいそうな感じだ。

思わず死の直前のように色々と回想させてしまうような。

5000マイル離れたカリフォルニアの空の元で能天気に暑さを心地よいと感じていたころとは全く違う。


1週間前、日本へ引っ越してきた。

この町に古くからある長屋建築を改装する仕事が待っているそうで、面白そうだから父について来たのだ。母は、学校を転入することや自分は仕事の関係で街に残ることもあり、あまり気乗りではなかったけれども、父の仕事や違った環境の中で楽しみたい気持ちに駆られ、母を単身にしてこの地へ付いて来た。ともに日本人の両親と暮らしているため、日本語にも、関西弁にも不自由はなかったけれども、初めは独特の会話のテンポについていけず、これをここの人たちは“間”というらしいが……ラジオの会話劇を聴視しているようだった。

カッピカピのスポンジのように恐るべきスピードで習慣を吸い込んでいき、いつの間にか海外生活が長いといえども生粋の日本人である父よりも振る舞いが自然になっている自分に驚くことがあった。父を見ていて、海外生活が長い日本人だなとか、喋り方が少し変だなとか、思うことすらあった。ここに来るまで、私の中の日本の世界のそのほとんどが父と母で、あとわずかは、アメリカにあるNikkeiのコミュニティだった。

私の育った町は、全米の中でも、しっかりとNikkeiの文化や引き継がれ、また新しいジェネレーションとも織り交じりながら進化している地だったが、それもまた独自のものであった。

湿度のせいか、草木のにおいも、人のにおいも、家屋のにおいも、食べ物のにおいも、

どんな些細なにおいでも鼻を刺激しれくる。気持ちがあっちやこっちに傾き、目まぐるしくも楽しく、毎朝新しい冒険が幕を開けていた。

彼からの手紙は、小さな私にとってたしかに刺激的ではあったけれども、実際に経験したことのない遠い世界でのお話にすぎず、自身で体験する大きな冒険とはまた別のものであった。

自分の不慣れさで戸惑いを感じることがありながらも、好きなものに囲まれて、穏やかな気持ちで満たされていた。

一方で、この世の怒りのエネルギーを一心に集めてしまったかのような存在がはるか遠い彼方にいたようで、単身生活を送る母の元に怒鳴り込みともいえる電話をかけてきたそうだ。


手紙は届いているのか、渡されているのか、


なにか深刻な問題でも抱えて返信が出来ない状態なのか。


一体何がどうなっているのか。


明日には予定が空くから、フライトチケットの予約が可能だとか。


母は少しも話す隙を与えられず、ただただ剣幕が収まるのを待ち、父とともに日本へ移ったことを完結に伝えたそうだ。その後は、さっきまでの様子とはうってかわり、怒りを通り越して頭がパニックになったようで沈黙のまま会話を終了したという。

日本は実に表情が豊かな国で飽きないけれども、冬の終わりに長雨が続いて久々に晴れた日なんかは、実に空が広く青くカリフォルニアのあの空を思い出す。その空のしたで、たった数行の手紙が私宛に届く胸の高鳴りをおさえきれず道草もせず、学校と家を最短ルートで駆け抜けていた私とは違う。日本にいる間一度も手紙を交わすことはなかった。けれども、日本の絵葉書、和紙の便箋など、目に留まった素敵なレターセットは何でも買い集めていただので、いつかこれらを使って手紙を出そうと無意識には思っていたのだろう。


『今日からこの子は君たちの子だ』


一切の感情を出さずそう言い放って私から離れていったその日から全てを託した父、そして母という存在があろうとも、自分こそが真の父親であり、すべての主導権があるとどこかで思っているから、自分に何の相談も伝言もせず、父について行ってしまった娘にも、父と母にも怒り心頭であった。もしかしてショックですらあったのかもしれない。別の機会には、こんなことで彼が意地悪になったことがあった。

私と父は、いろいろなことにおいて楽しく時間を共有できる同であったけれども、とりわけ「食」という共通の趣味があった。旅先では、必ず土着のものを試し、世間一般にある食べ物であっても、気候や風土文化や民族が違えばきっと一味も二味も変わるのだろうと取り敢えず口にしてみた。食い意地は張っているが、どちらかと言えば食は細くて、胃腸もすこぶる弱い。スプーン一杯分の美味しい食べ物で舌と脳と心を刺激していい気持ちで満たされたいね。と父とはそこら中へ食の冒険に行ったものだ。

知識も豊富で舌も肥えている。時には母に、そして立ち寄ったレストランの厨房でコックさんにも「もっとこうするのはどうだろう」と口を挟むぐらいであった。

父と私が今までの思いでも交えながら楽しそうにおしゃべりをする度に、彼はひどく嫉妬しているようであった。ある日、またいつものように彼の都合によって彼が訪ねてきている時のこと、私が父のことを「おとうさん」と呼んだ際には、表情が瞬く間に曇らせ、「おとうさんと呼ぶのは違う。何故なら君のお父さんではないからだ。」と一言吐き捨て周りの空気を一瞬にして凍りつかせ、予定ではいつまでいるつもりだったからは分からないが、さっさと家を後にしてしまったこともある。このとき、私は胸が引き裂かれるという思いに初めてかられた。彼の前でだけ、お父さんと呼ばなければいい話なのかもしれない。けれど、そうでない時もそう呼ぶことに罪悪感を抱くのは目に見えていて、この先ずっと呼ぶことが出来ないという悲しみを強く感じた。父もきっと自分がこの先お父さんと呼ばれないのだということを確認したに違いない。普段一緒に多くの時間を過ごすことが出来ない、多分今後もそうであろう。そして実の父親なのに父としての存在を求められることのない苦しい胸のうちが何故だか痛いほどに感じとれる事ができ、素直にただ「何故」と言い返すことも出来たのかもしれないが、もう彼の前でも、二度とそう呼ばないでおこうと決めた瞬間に胸の一番奥が壊死してしまった気がした。

後にではあるが、その場に居合わせたマネージャーが初めて彼と私の不思議な親子関係に意見したらしい。


そんな可哀想な事を言わなくても……。


彼は相変わらず自分勝手で、無言でタバコをふかしていたそうだ。きっと思うところは十二分にあるが、あーいうしか自分の心の治めどころがなかったのだろうと。彼についてハッキリと分かること。それは、彼はとても愛情深い、とても、とても。その愛は深ければ深いほどに、キズも深くなる。人をとても、とても深く傷つける。


日本へいる間、私は数回イギリスを訪れた。

彼が、生物学的な親だということは、誰から断言されたわけでもなく物心ついたころからわかってはいた。しかし、数えるぐらいしかあったことのない人で、遠い存在であるが故に、自分が会いにいくものだとは、この時まで発想すら浮かばなかった。

しかし、まわりの皆は”それ”が当たり前で、まるで手紙を送るかのように軽やかに素早く私をイギリスへ行かせる手配を整えていた。会っておきなさいと。

コシのない髪、折れそうな腕、削ぎ落とされたほほの膨らみ、さえずりのようなか細い声。でも、ユーモアはいつものごとくお手の物。

取り返しのつかないことが彼の中の隅々でおきていることは分かった。

その状況について深く考える事はできなかった。

それ以上は、何かが爆発しそうで……ロサンゼルスに戻ったら、あのストレージにしまい込もう。鍵付きで。必要なものはすべてベッドサイドに整えられていて、窓から見える庭の風景すら、彼の角度にあわせて彩られていた。ガーベラもダリアも、普段は太陽に向ける満面の愛想笑いをその館の主人のほうへ向けていた。

それが、とても不気味で悲しかった。無理に明るく演出しているようで……

一度交わりだすと歯止めが利かなくなるが、取っ掛かりは驚くほどシャイな彼と私は、いつも初めましてから始まるような態度で、残りわずかな時間を知る周りは、業を煮やしている様子だった。そういったとき、彼のパートナーやマネージャーは必死にいくつものタイトルを投げてくれた。普段はベッドサイドで優雅にくつろぐ愛猫までもが、眉間にしわを寄せ、喉を震わせながら考えこんでいるように見えた。

ふと思いだして、バックパックの中から日本で買い集めたコレクションを取り出し、ベッドに並べた。美しいシェイプの山々や、鶴が飛び立つ瞬間を捉えたphoto card、和紙の便箋など。

ついにその色とりどりの便箋と私の思いのたけが相重なることはなかったけれども、そのコレクションを彼に実際に見せることはできた。

本当はプレゼントするつもりでいたけれど、

私の文字が書き込まれていないものは受け取るつもりはないし、せっかく一つ一つ思いをはせながら購入したものであるのならば、その思い出とともに大切に持っていなさいと言われてしまった。


また静かなゆっくりとした時間が過ぎていた。

そのころ、YouTubeはまだなかった。

もしあれば、あーだ。こーだ。

世界中の作りこまれたミュージックビデオやくだらない映像をジャッジメンタルな口で、面白おかしく、何の意味を持たないカジュアルな会話を楽しめたかもしれない。

何故だか、ひとたび会話に火がつけば、その日は彼の命が続く限り終わりそうもない気がしていた。

日本で心身ともに豊かな暮らしをしていることを伝えたかったけど、

私の表現力で、彼をどこまで満足させられるかと思うと自信がなかった、

病気のことは決して聞かなかった。誰からも聞かされてもいない。

ただ、お別れが近そうだということをわかって欲しそうな大人たちに心を痛めた。

次はどこにいきたい、何をしたい? 君にパリの別荘を見せてあげよう。

彼の大袈裟なウソに飽きることなく、いくらでも付き合った。

一度目の訪問で、すぐに分かった。

彼を訪ねるのは、いつの間にか始まり続く手紙のやり取りのようにはならない。

これには終わりがある。きっと遠くはない。

ロンドン便の搭乗を待つ間、父はトイレに立った。

私は、ゲート近くの椅子に腰かけパスポートのページをペラペラと捲りながら、

スタンプを眺めながら2度目の訪問に向かおうとしていた。

二度目はパーソナルマネージャーが空港で出迎えたその足で、STUDIOへ直行した。

ちょうど彼は、歌の録音をしており、リテイクする度にいつしか父がプレゼントした日本のウィスキーロックを薬でも飲み干すかのようにごくりごくり喉の奥へ運んでいた。

もはやそれを誰も止めようとしない。

彼の周りは全員自由自在に操れるホスピス状態である。

彼をつつむ人々、空気すら優しく、惨く痛めつけるのは彼自身だけだった。

度々息があがり、苦しそうな表情をしている彼に周りはショートブレイクを申し出るも、

3回に1回は断られている様子だった。

以前よりも明らかに声は細く、震えているように感じたが、レコーディング風景を初めて目にした私と父は、なんだかあっけに取られて呆然とブースで歌入れをする彼を見つめていた。休憩中に一度だけ、言葉を交わした。


『見ていたかい』


『はい』


その後3時間程続いたが、か細くても響き渡る耳心地のよい歌声とメロディー。

そして時差も相まって、ソファーで眠り込んでしまった。


その日の眠りはとても深く、いつの間にかSTUDIOのソファーからホテルのベッドへ変わっていたが翌朝まで全く気付かなかった。翌日は、あらためて彼の元を訪ねる予定であったらしいが、

彼からの申し出でキャンセルとなった。パーソナルマネージャーから連絡を受け、軽くホテルで朝食を済ませた後は、グリーンパークを散歩した。いつもより父が握る手の強さが気になったが、何事もないかのように、散策を楽しんだ。

そのあとは、特に宛もなく、ウェストミンスター寺院に向かい、

貴方が誰でも、何を信じようと、お願いです。彼を楽にしてあげてほしいと願った自分に驚いた。

その日の夜、マネージャーが我々のホテルを訪れた。手にはいつもの封筒があった。


『初めて手渡ししたね』


少し小恥ずかしそうに、差し出した。


『いつもありがとう』


私と彼を途切れもなく繋いでくれていた、彼に深々とお辞儀した。

道中で読もうか、しばらく経ってから読もうか珍しく躊躇したが、大半が眠りにつく薄暗い機内で封筒を開けた。


よいクリスマスを迎えてください。


愛をこめて。


まだ少し早い気がするが、君には未来がある からといわれているようでセツナイ気持ちがこみ上げてきた。約12時間ものフライトの間、機内誌をパラパラとめくってみた。


いつ撮影したのだろう?

いつも通りクールなアンクルバンドエンバー、その真ん中で妖艶さとエネルギッシュさを装う彼が手を振りかがしながら写っていた。

私は、今日誰に会いに行ったのだろう。


私が思っていた以上に、彼は広い世界で、すごい彼を演じているのかもしれない。

思うことに、考えることに疲れ、残りのフライト時間は、またぐったりと眠った。

年があけ三回目の訪問時、もう姿を見ることはできなかった。


チャーチでみんなと会い、チャーチでお別れをした。  

翌早朝、ホテルの外、そしてフロント内にも数人、 空港へ向かう道中でいくつものカメラの目がこちらに焦点をあわせていることに気づいた。 父とマネージャーのホーンの脚が私を囲む筒状の縦格子のように その目から守ってくれた。 チャックインを終えると搭乗ギリギリまで 普段足を踏み入れたことのないような、周囲と遮断された フランキンセンスの香りが漂う薄暗いラウンジで過ごした。 その雰囲気が睡魔を助長し、 今日までの出来事がすべて夢だったんじゃないかと思うぐらいの 深い眠りについた私が鼓膜の痙攣で目を覚ましたのは機内の中だった。 アラジンの絨毯のように自由自在に飛び回る彼の背中に乗せられ 空を飛んでいるような夢を見ていた気がした。 一番彼を近く感じた。"ホントウの父”として。 普段顔を合わせる人々とヨコシマなレンズ超しに向けられる視線から 私を守るため、全量を注いでくれた父は私の手を握りしめたまま、 深い眠りについていた。 誰になんの遠慮もなく これからは父をもっともっと愛そう。 誰に向けたかわからないが、私はそう宣言した。

日本へ帰国すると、まず引っ越しをすることになったが、 住みたい家が見つからなかったのと、橋を見たくなった父は、 ただその為にホテルに荷物を預けておくのもどうかと考え、Nissanのバンで3日ほど過ごすことになった。 当然ベンチシートなんかではないし、後部座席からトランクまでびっしり家財道具が積まれていたので、 リクライニングも半分ほどしか倒せなかったし 寝心地はよくなかった。 けれども、父と目いっぱい四六時中話をして長距離の旅をして、まだ見ぬ興奮へ駆り立てられてハラハラドキドキ、そして父が実はとても悲しみ深く複雑な人間であると感じる発見もあり忘れられない旅であった。

3日ほどするとなんだか様子が変わってきた。 父はこのままどこかへ行こうとしているのではないか。 母も、今の仕事も、私の出生の事実やバイオロジカルな父との縁、何もかもすべて捨てて何処かしらで父と私の人生をリセットしようとしているのではないか。 人はよく、無人島に何か一つを持っていくとしたら なんて尋ねるけど、 この度に私を選んでくれたことはとてもうれしいけど、なんだかとてつもない重圧と不安に襲われ悲しみがこみあげてきた。 そんな私の様子を察し、目的地までは行かずに帰途へついた。 といっても、父は私と私のすべての荷物を親戚にあずけ、 また自分のすべての荷物と供にすぐに出て行ってしまった。

私の父は、この父の心の半分もこの世からもって行ってしまったような気がした。 なんだかあれから様子がおかしい。正気を保つネジを飛ばしてしまったのかもしれない。 この経験は、母にも誰にも言わず、私と父、そして、父の不在期間しばし私の面倒を見てくれた父の兄夫婦だけが知っている。

この時から私は父の兄夫婦のことも、父や母、バイオロジカルな父と同じように近しい存在で、自分の心臓の一部に感じた。 私の心臓は沢山の父母で構成されていて、どの部分でも彼らと同じように悲しみ痛みを感じるのであった。

私を生み出した父とは物理的にも精神的にも距離があったのは確かである。 その為、痛みは少し感じ方が違うというか、客観的な立場で見守っている部分もあったが、手紙といえどもいつも感情をストレートにぶつけるタイプなので、彼亡き後、思春期を迎える頃に至っては、その内容やその時代に彼の身を取り巻く環境や心情を理解できたし、それを思うととても胸が苦しくなり、すでに遠い過去のことなのに、そのことで眠れなくなる日もあるほどだった。

私を愛してくれた父からは毎日を大切に生きることを肌で体験させられた。 今でもそれは私の日々の教訓でもあり、その教えに沿って生きている事で生かされているといっても過言ではない。ごく稀にハメを外したくなる気分の時もあるけど、基本に忠実に生きることが自分の中の充実感に直結していることを感じる。 明日なんて無いように、その日暮らしではないけど、華麗に咲いてあっけに散るのとは とても違う生き方である。 晴れた日は朝から洗濯を、身体を洗ったボディタオルは毎回に髪一本も残さずに洗い、 固く絞って天日に干す(特に浴室で乾きにくい日本では必須) においや菌が出来るだけ繁殖しないように、毎日洗うものだからね。 傘も同じ、そのまま折り畳みかさもふつうの傘もしまうのは目をつぶり固い。 水滴一滴残らずベランダで乾燥させてからしまうのが私の習慣である。 3回以上履いた靴にはアロマオイルを一滴ほど…など。

父は建築家であったから、ご近所でもどこか遠くへ散歩した時でも頻りに土地々々の建造物を隈なく観察しながら心奪われていた。そんな趣味がとてもそっくりで、育ての父との会話はいつでも途切れることはなかった。博識でユーモアもある父と話していると、寝ることも食べることも、トイレに行くこともすっかり忘れてしまいそうだった。とにかく忙しい人だったので、時間はあまりなかった。だから、トイレの扉は開きっぱなしで、私はその前に三角座りをして今日あったこと、昨日あったこと、出会った人、聞きたいことー。家中ついてまわってなんでも話をした。 そんな父との時間も決して長くなかったのだが、その時はその一瞬一瞬がどんなに大切な時間か分かってもいなかった。けれど、「決して一瞬たりとも無駄にするまい」とくっつき虫をしていたから、それもまた不思議な運命だなと、今となっては思う。

母とは、いい意味で少し距離を保っていた。とても穏やかだが、スローというわけでもなくテキパキと働き、何事に臨機応変に対応し、いつも何かしらの仕事をしていた。特別無口な人ではないが、考えてみるとあまり自分から何か話しだすタイプではなかった。話始めた場合でも、一から十まで多くを語りたがらなかったので、踏み入った話というのはあえてお互い避けていたような感じもある。おしゃべりで、色々と娘を知りたがる父との関係とは、また違ったものだが、そばにいるだけで穏やかさと安らぎを感じられる存在であった。

私は、少しばかりトリッキーを好む気質がある。周りのことは人一倍気になるが、自分がどう思われても構わないと思うことは多かった。何かにつけて、あえて無難は選ばないそんな性格であるようだ。自分でもなぜかはわからないけど、その平坦道に魅力を感じず、人の話であろうと、テレビであろうと、なんでも心底興味がもてない場合は すぐに真剣に向ける眼差しとは別に脳は分離されてひとり空を飛んでいるようだった。 殻を残し、魂だけどこかへ浮遊している状態であるのが自分でも怖いほどわかってしまうことがあった。 母はそんな私をよくわかっていた。それを悩んだり注意することは決してない。いつものように多くは語らないが、悲しい時、私と父の子供の戯言のような話を聞いてあきれて憐れんでいるとき、微笑ましいと思っている感情など、大げさすぎず頬の表情と目があらわしていた。そんな母の表情を読み解くのは得意だったし、そんな母をとても大人だと思った。とても深い感謝と愛でいっぱいだった。母がいるからこの家は冷静さと平穏さを保っていたと思う。私と父だけなら、赴くままにヘンテコな生活をしていたかもしれない。

母は昔、私を迎える前に小さな命を授かったらしい。けれど、もう世に出てこようと準備している段階でやむを得ず、お別れを決めたらしい。そのころは、まだ余裕もなく、色々を思ってそう決めたのだとー。少しばかり聞いたことがある。 もしかすると、その子への謝罪の念や、その子の成長と私を重ねている部分は少しあったのかもしれない。どうであれ、私を深く大切に愛し育ててくれた。 私は、この二人に縁あって引き合わせてくれた彼にとても感謝しているし、この二人に育てられた期間がかけがえのない大切な時間だと思っている。 彼は、そんな両親になる!と、先見の目があったのか、そんな二人だと深く理解して託したのかどうかなんてわからない。スキャンダルとマスコミに追われる生活だけど、富も名声も十二分にあるのだから、いざとなれば自分の目に届く場所におくことも出来ると考えていたからのことなのか。愛以外、いつどんな時でも全て自分の意のままにできると考えていた人なので、そこまで深くは思っていなかったのかもしれない。 考えるって心底すり減らすだけの時もあるから……。

いつでもあたかかく私を見守ってくれた母は中学校に上がる頃、癌の闘病の末この世を去った。しばらくアメリカを離れ、週末の長めのテレビ電話と毎日のメールや電話でのやり取りで過ごしていただが、次第にその頻度は減っていった。 父は私を日本へ残し、一足早くアメリカへ帰国していた。私は父の兄夫婦の元で1年半ほど過ごしていた。私が中学への進級の為アメリカに帰国すると、母は去っていた。 最後の母の日にお花を贈った。しかし返信がないことにヤキモキしていた。それは、母が亡くなって2週間経った頃だったそうだ。

そして父は、私が大学に進学し、実家を離れ大学の近くでルームシェアをし出したころ、いとも簡単にこの世を去ってしまった。役目を終えたウサギみたいに。

皆の死後、私を引き取ろうと考えていたことを、イギリスに住む私の"ホントウのお祖母様"に聞かされた。私を常に大切に思っていたし、学校の候補や住居についてもすでに準備に取り掛かろうという話があったのだとか。 "ホントウのお祖母様"のお話は十二分に勝手なことで、物心ついたときから、顔も知らない人達が家族である日突然一緒に暮らせというのか。馬鹿な。勝手がすぎるいいわけ。 彼の死をもって、現実にそれは叶わなかったけど、私にとっての痛みはどっちもどっち。 投げやりな気分で話を聞き流していた。おかまいなく、お祖母様の話はつづいた。 ホントウの父が病に伏せていた頃、父も末期のがんであることを宣告されていたそうだ。 残りの時間を何ごともないように、私と暮らし、父が去り、また何事もない日々が始まった頃には、きっと肉親の支えが必要だと思うと、お祖母様に話をしたらしい。 そして、父の命日は私の誕生日であったことも知った。 ベッドルームで静かに息を引き取っていたため、推定でしかないが、 その日は春の29日だったらしい。 しかし、公表には30日と、そして墓地にもはっきり刻まれていた。 わけのわからないところにまで、皆の配慮を感じた。 お祖母様は、私を取り囲む中で一番の最年長であるけれども、 パワフルで健康で、生きるエネルギーが漲っている人だ。

お祖母様は私が思っているよりずっと父のことを知っていたことは気にかかった。 私の知らないところで、父との意外なやり取りがあったことに驚いた。 むしろ、まったくないと思っていた私は、ただ大人に運命を託す未だ子供だったのだ。 私には親がたくさんいるから、みな口々に"ホントウの”をつけて示す。でも、”ホントウ”の対義語は存在しなかった。”ホントウ”がつくものは、私にとって一番遠いところだと思った。

毎週手紙が届いた家は、 私一人でキープすることはできず、手放す時を迎えた。 もう誰もいない、手紙を届かないその家は とっくの昔に役目を終えていたことはわかった。 しかし、どうすることもできず 2、3ヶ月に一度大学が休みの日に訪れては、ジャンクメールを処理し、 風を通し、室内の誇りを軽く掃い、蛇口を捻って新鮮な水を通した。 誰も住まない、訪れた翌日には30分程離れたルームメイトの住む部屋に戻るくせに。 去る前に必ず一つは部屋の中のものを処分する決まりを作った。 リビング、キッチン、ランドリールーム、物置、ゲストルーム 私の部屋、父母のベッドルーム、母のドレッシングルーム、父の書斎。 死に支度が出来ていなかったのは私だけのようだった。

それぞれの部屋を片付け、行き場に困ったいくつかはリビングに集結させた。ここまで来るのに4回目の夏を迎え、 暦の上ではその4回目もとっくに過ぎるころだった。 あのストレージ。 鍵は掛けられるが、私以外に開ける人はいないので 蓋を閉めただけの状態。 ルームメイトはボーイフレンドと遠出して最近は帰ってきていない。 突然、家に泣きながら戻っても 出くわすことはなさそうだ。 蓋を開けると、 手紙の山の上に 光沢がなくてザラッとした表面の写真が乗っていた。

表現者として卓説した才能を認めざるおえない彼は、 頭の先から脚の先まで愛に満ち溢れていた。 その横でそっと優しく控えめにほほえむ若かりし日の父がいた。 まさにあの表情だ。

父が帰宅するころ、私と母は大抵バスタブの中で大きな声でうたを歌うか 今日あった一番偏屈な人、一番面白おかしな人、犬、雲をおしゃべりしていた。 リビングに私たちの姿がない場合は、迷いもなくバスルームにやってきて、 優しく私と母を見守った。愛おしさであふれたその表情が今でも目をぎゅっと瞑ると幾秒もせずに現れる。

キッチンの引き出しから、 最初に削ったきり、一度も使っていないであろう鉛筆を取り出した。 父の書斎から移動させた建築模型を作成するセットの中から 画用紙を取り出した。 丁寧にその写真を模写した。 ひとつだけ違うのは、彼と父の間に幼い私を付け加えてみた。 なんだ、そういうことなのか。 私の存在や、彼や父、母とのこれまでが しっくり腑に落ちた。

それから先、私はこれまで一番近くにいた人以上に誰かを愛せるのかと心配した。 がしかし、時間をおかずして愛する人に出会った。父は嫉妬するかもしれない。 結婚も、子供も何も計画していない。でもいつでも心が近くにいることが重要だった。 それがとてもぴったりだった。

最後に訪れたロンドンのホテルや空港で向けられた蛇のような視線を時々感じることがあった。 数回引っ越しを繰り返す以外は、自分の人生をまぁ何とか生きていた。 旅行が好きで、今もこの先もずっと愛する人であろう彼とは 国内を中心に時間を見つけてはショートトリップを繰り返していた。 特にカリフォルニアは南北に長く、日本本土がすっぽり納まる広大なエリアはほぼ行ったことがない街はない。

山奥のロッジでブランチを食べた。 ややべとついた雪と照りつく太陽によって 湿度がみるみるうちに空へ吸い込まれていく感じがわかった。 コーヒーが先に届いた。 彼はiPhoneのグーグルマップがあるのに、 道順の全容を頭に入れたいらしく、マガジンラックにあるロードマップを広げ、 まだドライブの続きを楽しんでいた。 私は、コーヒーをすすりながら、 マガジンラックに並べられた雑誌の表紙に書かれた品のないTOPICSをひたすら流し読みしていた。 彼は父親だった!の見出しと、彼の写真が目に入った。 そんなことは承知だが…。

“Queer”が差別的とされていたころ、 人権なんてものを主張できるのはほんのわずかな人々であった。 子供を持ちたい。それではどうすればいいか?という選択ではなく 人権がないものに、子供をもつことも、その子供の存在もタブーとされていた。 けれど、欲しいものは絶対に手に入れる彼らの思いを受け 十月十日安らげる寝床を提供してくれた女性より 彼の生を継ぎ生まれた。 そんな彼は私に人権を与えるため、生活をともにすることはあきらめ手放した。 何度か登場する”近しい人”が誰かは分からないが、 主要な登場人物は、私の頭の中で割り振ることができた。 世間は私のことをもっと知っていたらしい。ご丁寧なまでに脚色を交えながら 具現化してくれた。 長い人生、 日本に住むチャンスも、イギリスに住むチャンスも、 もっと東の街で住むこともできたけど、 私はこの町でずっと生活するような気がしていた。 父と日本で住んだとき、 イギリスで彼にあったとき、 彼がこちらへやってきたとき、 全てしっくりこなかった。 彼から遠く離れて、ここでいるのが一番しっくりした、私だったからだ。 直接目をあわせられる距離でも 糸電話はコップと糸を通し会話しないと成り立たない。 近くにいてはだめ。その関係を成り立たせるためには必要な距離だ。 この町では貴重な雨季を迎えた1月、 数か月ぶりに自宅へ戻った。

こうして数か月に一度訪れ断捨離はしているものの、 結局多くのモノも、家も、気持ちも、ここから手放さずにいる。 ストレージを勢いよく開けた。 目を瞑って、2つほど取り出した。


——明日がないかのように今誰かを愛しているかい。 明日がないかのように今愛をかみしみているかい。 明日がないかのように生きてみたいと思ったことは。生きたことは。 僕はもうこんな経験を何度もしていると思うよ……。


——私は自分の天寿全うしたい。愛する人と。

何故僕は、君と離れているのか。 最善な道は一番の幸せにつながるとは限らない……。


私の一番を優先してくれたことに感謝します。  


私の幸せはここにありました。  


そのピースは貴方から与えられた手紙と愛が大いに含まれます。

このストレージにある手紙すべてに返信を宛ててみよう。

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