~ありがと~
バキッ!
『おい、帰ってきたら食事つくっとけっつったよな?』
『ゴホッ、ご、めなさい』
『ち、使えねえな』
いつもおなかをなぐられたあとに目に入る、決して広いとはいえない水槽。
だけど昔夏祭りで、気まぐれで買ってもらった金魚たちが、自由そうに泳いでいる。
私のことが見えているのか見えていないのかわからないきまぐれなその姿に、乾いた笑いがでた。
絶対的に安心な、自分だけの世界。
『君たちはいいね』
『何回も言わせんなよ!これだから女は使えねえな!!』
お父さんがふるった拳が、水槽の縁にあたった。
その瞬間、私に向かって水がなだれこんできた。
突然の冷たさに、何も考えないようにしていた頭がとたんにクリアになる。
服のそでを濡らしたことを不快に感じたのか、そこでお仕置きは終わった。
ゆっくりとおきあがると、すぐそばに水槽と、ぐったりとした金魚が目に入る。
『……ごめんね』
涙すらでてこないなんて、不思議だな。
自分が羨望しているものって、案外簡単に壊れてしまう、脆いものなのかもしれない。
それを悟ったのは、小学三年生のときだった。
「晶くん、みて!」
「なんだよ香美さん」
俺平塚晶は、休日ながら香美さんの手伝いをしていた。
香美さんは俺も世話になってる孤児院の職員さんだ。
小さいころに事故で両親が無くなってから、この人と院のガキどもには世話になっている。
「あの四宮奏楽のチケットが二枚あたったの!私と一緒にいかない!?」
「え、やだよ。俺音楽とか興味ねえもん」
それに、もし万が一学校のやつらにみられたら……。
柄でもねえとか、その女の人誰だとか、いろいろ言われそうでめんどくさいことが目に浮かぶ。
「そう…香美さん、がんばってとったのにな…院のこどもたちの中で、コンサートに行って楽しめる歳なの、晶くんぐらいなんだけどな…」
ちらちらとこちらをふりかえる香美さんの視線に、数秒耐え、負けた。
「ったくわーったよ!行きゃいいんだろ!?」
「やったー」
作戦成功とでも言うようにピースをしてみせる香美さんの、こういうところがなんだか憎めない、好かれる理由だ。
「うわすげえ人」
さすがというべきか、あのスターツホープ音楽団のコンサートというだけで人があふれかえりそうなほど、小さく見えるホールの中へと流れ込んでいた。
「迷子にならないようにね、晶くん!あ、手つなぐ?」
「やかましい」
周りの人からは、どんなふうに見られているんだろう。
母親にしては若すぎるこの人と、俺には血という強固なつながりはない。
そう実感する度に、俺はこの世にたった一人なのだと、痛感させられる気がする。
「ここの席だよ!」
なんとか中に入って席に座ろうとしたら、斜め前に見知った人物の後ろ姿を発見した。
「げ、駒田」
今絶賛会いたくない人物の一人だ。
前全校生徒の前で受けた屈辱は忘れられない。
知り合いに会いたくないと思ったときに限って出会うこの現象は一体なんなんだ。
【みなさん、こんにちは。開演まで今しばらくお待ちください】
始まる前から興奮している周りの人たちの空気に、少し居心地の悪さを感じる。
香美さんには悪いけど、こっそり寝るか。
まじでコンサートとか興味ねえし、どうでもいいし。
【それではお待たせいたしました!最初は、しばらく活動休止と表明されていた、四宮奏楽さんによる演奏です。四宮奏楽さん、よろしくお願いいたします!】
四宮奏楽の名前がでたとたん、思わず少しとびあがってしまうほどの大拍手がおこった。
そして、テレビの画像でしか見たことのない、四宮奏楽がでてきた。
その姿はまさに威風堂々、眉目秀麗、といったところか。
世間で壇上の天使と評されるほどのオーラを放っている。
一礼をしてから、演奏を始める構え。
その動作だけで、あつくなっていた会場の空気が、しんと静まった。
俺は、演奏の上手下手がわからない。
どんな音楽が良くて、どんな音楽が悪いのかとかも、わからない。
だけど、演奏が終わるころに、きづいたら前のめりで聞き惚れている自分がいた。
鼓膜があたたかく包み込まれるような、心の臓の奥をぐしゃっとつぶされたかのような、体と心がバラバラになるような、不思議で、気持ち悪いはずなのに、なぜだか心地がいい。
そして、それを求めてしまっているのだ。
四宮奏楽と、目があったきがした。
その瞬間、さらにやわらかい表情で、四宮奏楽が笑った。
予期せぬその笑顔に、思わず胸がドキリと音をたてる。
「…は?」
ぎゅうっと服をつかんで、その鼓動が勘違いでなかったことを確認する。
「男なのに、ありえねえっつの」
今日は奏楽くんのめでたき復帰の日だ。
俺、島川庄司も、観客の一人として観客席に座っていた。
一週間前に奏楽くんがコンサートにでてくれるとわかってから、ネットにもそれを公言した後に、チケットを購入すればよかったというネットの声が急増し、あわてて追加で販売することになった。
それほど、世界は君に魅了されているということなんだよ、奏楽くん。
演奏が始まった。彼はいつもどおり、完璧に弾ききっている。
ふと彼が、僕が座っている位置とはずれた席に視線を定めた。
そして、今までみたことのある顔とは違った顔で、そう、愛おしそうという言葉が似あうような顔をしたのだ。
視線を追うと、二つ離れた席に座っている女性に目がとまった。
奏楽くんの知り合いだろうか。
気になりはしたが、次の演奏者へと変わるタイミングだったから、そちらのほうへ意識がもってかれていた。
「あーつかれたー」
ヘアセットをなおしたり、衣装をきがえたりしていると、時計の針が18時をまわっていた。
少し遠いけれど、ホールから自宅へと、歩いて帰宅する。
美空さんはさすがに帰ってるよな。
今日俺が来ていることだって知らないんだし。
で歩くにはちょうどいい気温の中、ヴァイオリン片手に足を進めていると。
ドンッ!
「ごめんなさっ…!」
「あ、すみません。って、あれ?柴咲さん」
前から走ってぶつかってきたのは、俺が最初に高校に行ったときに俺の席を教えてくれた女子だ。
切迫した、何かから逃げているかのような彼女の顔に、不信感を抱く。
「あ、逢沢くん…」
もう六月になるのに、長そで長ズボンの部屋着。あつくないのかな。
「大丈夫?なにか急いでたんじゃ…」
「ううん。別に行くとこなんてないの」
きまり悪そうに下を向くその姿に、どうしたものかと斜め上を向く。
まあ、彼女には嫌なこともされていないし。
ちょっとぐらい、元気づけるか。
「柴咲さん、これから時間ある?」
「え、うん…」
「すぐそこの公園きてよ」
もっと動揺するとか、不思議がると思ったけど、案外すんなりついてきた。
やっぱり、家に帰りたくない何かしらの理由があるのかもしれない。
「こっち来て」
街頭だけが光る中、俺たちは真っ暗なドーム型の遊具に入った。
階段をのぼると、大きくひらけたドームになっていて、小さいころは美空さんとここで遊んだのを思い出す。
「なんでここ?」
「俺ヴァイオリンならってて、来週発表会があるんだ。その練習したいから、誰かに聞いてほしくて」
「えっ、すごい!楽器ひけるのいいね!でも私、よく知らないからアドバイスとかできないよ?」
「大丈夫。聞くだけでいいから」
「うん。わかった」
そう言って、柴咲さんがドームの端っこに座る。
ケースからヴァイオリンをとりだして、できるだけ小さい音量で曲を弾く。
落ち着く低音の、バラード。
ふと彼女の顔を見ると、キラキラした瞳で俺をみつめていた。
おもえば、こんな近くで人のために弾いたの初めてかもしれない。
その相手が、つい最近まで会ったことのなかったクラスメイトとか。
演奏し終わると、ヴァイオリンよりも大きな音で拍手をしてくれた。
「わあ~!すごい!ねえほんとにごめんなんだけど、スマホで動画とることってむりかな?」
断ろうと思ったけど、なんとなく、この人ならいいかと思った。
「…誰にもみせないなら」
「いいの!?ありがとう…!嬉しい!」
撮り終わったあとも、撮れた動画を見返して心の底から嬉しそうに笑うから、俺も悪い気分ではない。
「ねえ、ほんとは練習とかうそでしょ」
ギク。
「なんでここまでしてくれるの?だって私」
君を見捨てたのに、と小さい言葉が耳に入った。
たぶん、平塚たちからのいじめを見過ごしていたことに罪悪感があるんだろう。
「別に。とくに理由なんてない、ただのきまぐれだよ」
不思議そうな顔をするから、もう一言つけたしておく。
「柴咲さんならいいかなって」
彼女は、スマホに顔をうずめてしまった。
え、どういう反応…?
「…ありがと」
彼女の涙をみたのは、スマホの液晶画面だけだった。
家に帰ると、お父さんは寝ていた。
ぜったい起こさないように、細心の注意を払ってドアをしめる。
電気もついていないリビングを通り過ぎ、自分の部屋のベッドへとダイブする。
そしてイヤホンをつけて、ついさっき撮ったばかりの動画を見返す。
そこに映っているのは、ほとんど会話したことのない、クラスでも話題の"教室の幽霊”。
もともと不登校だったのと、男子たちから忌み嫌われているから、誰かがそう呼び始めたらしい。
意味わかんないよね、ほんと。
落ち着くメロディー。このまま何もかも忘れて、彼の音楽に溺れて死んでしまいたい。
それはどれほど、気持ちのよいものなんだろう。