『天竺の速記修行者の行いを見ること』
昔、達磨大師(※1)が、天竺で最も大きく最も僧が多い速記研究会(※2)に入って、速記修行者たちの行いをうかがい見なさったとき、ある部屋では基本線(※3)をひたすら書き、別の部屋では皆で同じ問題文を朗読(※4)するなど、それぞれに修行していた。
ところが、ある部屋をごらんになったとき、八、九十歳くらいの老速記修行者がただ二人、空中速記(※5)をしていた。原文帳(※6)もなく、速記シャープ(※7)もなく、ただ空中速記をするほかには何もない。達磨大師が部屋を出て、ほかの僧に事情を尋ねると、あの老速記修行者たちは、若いころから、空中速記をする以外何もしません。速記文字を紙に書くところなど、一度も見たことがありません。ゆえに、ほかの速記修行者たちは、親しくつき合うことも口をきくこともしません。でも、あの老速記修行者たちは、一日中何もしていないのに、食事(※8)だけは一緒に食べるのです。外道(※9)だと思います。などと答えた。
達磨大師は、きっと何かわけがあるのだろうと思って、この老速記修行者の近くで、空中速記をする様子を見ていると、一人は立って、一人は座っていると思えば、突然いなくなってしまう。不思議に思っていると、いなくなった老速記修行者が戻ってくる、と思えば、もう一人の老速記修行者がいなくなり、しばらくするとまた戻っている。
達磨大師は、お二人は速記の道を究めたお方なのですね。空中速記のほか何もなさらないと伺いましたが、そのわけをお聞かせください、と尋ねると、老速記修行者は、もう何十年も、空中速記しかしていません。抜けたとき(※10)は煩悩が強いのだと悲しみ、全部書けたときは速記の心が勝ったのだと喜んでいます。空中速記を繰り返すことによって、煩悩に負けることが少なくなり、速記の心が勝つことが多くなるようにと思っています。こう思うようになったら、速記の道の境地(※11)にたどり着いたのです、と答えた。
達磨大師は、一礼して部屋を出て、ほかの僧にこのことをお伝えなさったので、これまで長年、老速記修行者を憎みさげすんでいた速記修行者たちも、後悔して、尊敬するようになった。
※1:千数百年前のインドの僧。中国禅の祖。九年間の間座禅を組んで悟りに至ったが、手足が壊死してしまったという。手足がないダルマは、達磨大師をかたどったものだという。僧名は、「宇宙の秩序」などを意味するダルマに由来し、この世の全てを理解した者というような尊称となっている。速記ぐらいお茶の子。
※2:学生・生徒の速記修行団体は、大学では速記研究会、高校では速記部を名乗ることが多い。中学では、成城速記部しか存在しない(成城速記部調べ)。
※3:速記文字に含まれるさまざまな要素を全て含んだ線。速記を書く前に手ならしのために書く。ベーシック・ラインズ・オブ・ステノグラフィーの略でBLSと呼ぶ人は、西洋かぶれ。
※4:速記は本来、人が話した言葉を書きとめるためのものであるが、競技速記においては、朗読者が朗読した問題文を、皆で速記する。
※5:普通、速記は、紙に書くが、速記修行者が、速記を紙に書いてしまうと、書けなかったことも明らかになってしまうため、空中に書くことで、完璧に書けた感を出すためのもの。速記修行者が自信を失っているときに、速記指導者が指示して行わせる。近年は、紙も筆記用具も用いないため、SDGs的に最も正しい速記のあり方なのではないかとする速記者と、空中に書いても速記の目的は達成できないのではないかとする速記者とが、飲み会の場で数分間論争しているところを見たことがある者もいるらしい。
※6:速記をするときに用いる帳面。速記は、音声を速記し、速記文字を文字に戻すことで完結するが、文字に戻すためには速記文字がなければならず、その速記文字を書きとめる帳面なので、原文を書く帳面の意味で、原文帳と呼ぶ。
※7:速記を書くためのシャープペンシル。鉛筆でもよいが、芯が丸くなると線が太くなり過ぎることと、長時間の筆記に耐えないため、芯が太目のシャープペンシルを使う者が多い。株式会社プラチナ万年筆のプレスマンは、速記用、を名乗っており、愛用者も多い。もちろん、速記者以外が用いても便利である。
※8:天竺では、速記修行者は、大変尊敬されており、速記修行者が速記に集中できるよう、人々からの布施で暮らしていたという。布施を受けた者に利があるように見えるが、布施を行った者は、功徳を積んだことになる。聖武天皇が全国に国分寺を建立したのは、超大規模な布施であったし、超大規模な功徳を積みたかったのだといういうことがわかる。
※9:人の道や天の道を外れた者、または行為。ここでは、速記の修行をしないことを指す。古今東西、速記の修行をしないことは、外道。
※10:速記が部分的に書き取れないこと。誤字でミスをとられることと区別するため、ミス数を冠して、○抜け、と表現する。一文字も書けなかった場合は、全抜け、という。
※11:速記というのは、ミスが出ないように書こうとするものではない。なぜなら、速記を正しく書こうとすることは、速記をすることそのものではなく、邪念にほかならないからである。つまり、速記が、抜けることなく書けたことを喜び、抜けてしまうことを悲しむことは、速記をした事後の心であり、速記を妨げるものではない。ゆえに、これを繰り返すことによってのみ、速記の道の境地に至れるという意味である。多分ね。