大吉
目に映っているのはいつもと同じ天井。百合が十四年間の人生で一番多く見たもの。
今日も体調は悪かった。
冬の間は一度崩れた病弱な体を立て直すのが難しく、冬眠する動物の如く布団で過ごすほかない。そうなると屋敷の奥にある一番小さなこの部屋が百合の部屋になった。他の者にうつさないため、というのが本音で、部屋が小さく暖まりやすい、というのが建前であることぐらいは百合もわかっていた。
自分の吐く息が熱い。
額に左手を乗せると木の天井は見なくなった。甲に感じる熱が自分のものとは思えないほど熱い。これが下がるにはまだまだ時間がかかりそうだった。
なんとなく動かした右手が布団を外れて畳に触れる。冷たくて心地が良かった。
熱が体中の神経を麻痺させているかのようで体が重い。だるい。
喉が痛くて喋りたくないのに、時折勝手に咳が出て無理やり音を出させる。
……つらい。
頭に浮かべただけの言葉は、無意識の内に小さく口から零れていた。
とん。
何が畳の上に落ちたような音を、百合は確かに聞いた。熱でぼやける意識を引きずって、のろのろと自分の額から手を離す。それから音がした方向に視界だけを動かす。
そこには何もなかった。
しばらく見ていていたがやはり何も無かった。はは、と百合が力なく笑う。最後は声が擦れてまるで泣いている様だったことに気がつく者はだれもいない。もともと部屋には百合一人。百合は再び力なく天井を見た。
天井ではなく、顔がそこにあった。
「おまえ、死にそうだな」
男の子の顔がそう言った。
百合が言葉にならない何かを叫んで後ろに飛んだ。小さな部屋のため、壁に背中をつけても謎の男の子と距離は五歩ほど。
「おお、元気じゃん」
男の子が今度は楽しそうに言った。
離れて見て、百合はそれが顔だけではなく体を持っていることを知った。身長は百合より少し小さい。袴姿で、黒と黄色の縞々模様で袖のない外衣を羽織っている。ただの子供に見える。
「……ど、どこから入ってきたの?」
まだ混乱する頭で百合が聞いた。それでも相手の姿を確認して、いきなり食べられてしまうようなことはないだろうと思った。
「俺、鬼だからどこからでも入れるし」
何かを自慢するように、男の子が言った。口を開く度に八重歯が覗く。
え?鬼?
もう言葉も出なかった。頭の中で男の子の言葉を反芻する。理解できない。なにもかもがわからなくて、百合は怖くなる。病弱な体で、今までにも何度か死にそうになったことがあるのに、とても怖くなった。
「俺、鬼だから」
もう一度男の子が言った。
百合は今になって、男の子の頭から角らしきものが二本見えることに気がついた。
白く透き通った肌、細すぎる四股、腰に届くほど長く伸びた髪、寝巻き姿に布団とくれば大抵の人が病気持ちだと察してくれる。しかも、地主の一人娘。
物語ならば間違いなく悲劇の女主人公。だが、結局特別なことなど何も起こらず、布団の中で日々を過ごしてきた。
今日もいつもと変らない、百合は気だるい体を布団に預けていた。
さっきほどまでは。
今、いつもと違って傍らに男の子が座っている。頭に小さな角二本生えた男の子。
あの後、熱のせいもあるのだろう百合は腰を抜かしてその場に座り込んでしまった。立てそうにない姿を見た鬼が
「あれ?もしかして具合悪いの?」
そう言って駆け寄ってきた。
冗談ではないとわかると、百合を引っ張って布団に寝かせた。意識がモウロウとしていた百合は抵抗できずにされるがままだった。
「なんだよ……。なんか俺が悪いことしたみたいじゃないか……」
鬼はそう呟いて布団の傍らに座ったのだった。
自分の部屋で横になっているのに、百合はなんだか落ち着かなかった。まるで自分が悪い事をしたように思える。
ちらりと鬼を見た。
片膝を立てて座り、膝の上に片肘を乗せて、さらに手で顎を支えている。壁の一点を見つめているようだがそこにはなにもない。なんだが子供らしくない雰囲気だった。
百合は幼い頃から体が弱かった。そのためあまり外に出たことがなく、友達もごく僅か。人付き合いの少ない百合は初対面の人に何を言い、何を聞いたらいいのかを知らない。おしゃべりは好きだが口数が少なく人見知り。
だから百合はどうやって人と仲良くなればいいのか知らなかった。
突然鬼が百合の方を向いた。
先に見ていた百合は本当に悪い事がばれた子供みたいに怯んでしまう。が、鬼の方はそんなことまるで気がつかずに
「おまえいくつ?」
そう聞いてきた。
勝手の分からない百合もそれはないんじゃないかと思う。が、やはり自で分は分からないので答える。
「……十四」
「は?十四?そんなに小さいのに?」
真正面から言われたくないことをはっきり言われ、流石の百合もムッとする。それにどう見ても鬼の方が背が低くて子供っぽい。
「私は女の子だから大きくなる必要はないの。だいたいお前の方が小さいでしょう」
鬼は別に怒りもせずにつまらなさそうに
「俺のが小さいって言っても一寸、二寸だろ?そのくらいの差なんてないようなものじゃん。一尺も違えば話は別だけどよ」
そう言った。一尺違ったら人間じゃないわよ、もう言葉に出すのも面倒になるほど呆れる百合。そこへもう一押し。
「ちなみに俺の親父は二尺以上あるぞ」
楽しそうに笑う鬼。百合はどうしようもなく苦笑い。こんな調子で会話は続いていった。鬼が何かを聞いて、百合が答えて、鬼がチャカす。少し鬼ごっこに似ているかもしれない、そう百合は思った。
気がつくと赤い太陽の光が部屋を染めていた。どうやらずい分と話し込んでしまったようだ。いつもは空に固定されているように感じるほど動かない太陽が、今日は底が抜けたように早く落ちてしまったらしい。百合が一日を短く感じたのは久しくなかったことだった。
少し、百合が咳き込んだ。体調が悪かったとを思い出す。話しすぎてしまったのか喉が痛む。
「ああ。そう言えば風邪引きだったな。寝巻きだし」
百合は自分が寝巻き姿であることを強調されて、今更ながら少し恥ずかしくなった。それで何も言えなくなってしまう。
鬼が立ち上がった。どうやら帰るらしい。
「風邪は寝てんのが一番。次来る時には治しておけよ」
それじゃ!そう言って来た時と同じように、音も無く鬼は消えた。一方的に現れた鬼は、やはり一方的に帰っていった。
百合は最後に「さよなら」を言えなかったことを少しだけ後悔した。それでも、次来る、と言っていたのできっと来るのだろうと百合は思った。
熱で少し火照った体を思い出し、布団に預けるように横になる。どうやら体はそれなりに疲れているらしく、睡魔がすぐにやってきた。
夢と現実の狭間。いつも枷となる、重い体の感覚はそこにはなかった。
そう言えば、あいつなんだったのだろう?と、とてつもなく根本の、どうでもいい疑問が浮かんできた。それは考えようにも考えて分かる問題ではないと気がつく頃には、百合は眠りに落ちていた。
・
障子戸が敲きつけられるように突然開いた。
「おーい、来たぞー」
鬼がそこに立っていた。
あれ以来鬼は何度も百合の前に現れた。いきなり目の前に現れる鬼は一度百合が着替えている最中に現れてしまい、さんざん怒られた挙句最後には泣かれてしまいそれ以来障子戸から入ってくるようになった。
また、来た……。
鬼の顔を見た百合が最初に言う言葉。最近では呆れたような顔がどこかうれしそうだった。それに気がついているのかどうかはわからないが、鬼は笑顔だった。
百合は今日も布団の上。寝巻き姿で、時折咳をする。
「相変わらず病弱だなー」
座りながら鬼が言った。いつも見たままのことを、見たままに言う。一昔前の百合がそんなことを言われたら落ち込んで、泣き出していたかもしれない。それは病弱であることが悪いことであると、そんな風に百合が受け止めてしまっていたから。鬼のなにも考えていないような顔を見ていると、そんなに難しく考える必要はないと思えるようになった。
「お前が元気すぎるの。女の子はこのくらいの方が見栄えするのよ」
せっかくうまく返せた言葉も鬼は聞いていないようだった。これもいつものことだった。
鬼はなにやら着物の裾を探っている。
「そんなんだから初詣にもいってないだろ?これ、貰ってきてやった」
そう言って取り出したのは掌代の四角い紙。中央に書かれた文字は大吉。
おみくじだった
突き出すように渡されたそれを思わず受けとる百合。
もう年が明けてから一月が経とうとしている。百合にとっての正月は挨拶が変わるくらいのもので、寒い冬の一日でしかなかった。もちろん初詣にも行ったことはない。
おみくじをもらったのは初めてだった。
そしてよく考えれば鬼に会うのも今年これが初めてだった。
が、まさかこんな物をもらえると思ってもいなかった百合は、挨拶も忘れしどろもどろでお礼を言う。その隠し切れないうれしそうな表情を見て鬼も満足そうだった。
「せっかくの大吉なんだから、早く治せよ。そうすれば神社でも寺でも一緒に行けるのに」
え?と百合が顔を上げる。
「ほんと?」
誰かと一緒にどこかへ行こうなどと誘われたことのない百合は動揺して思わず声が大きくなった。もちろん鬼にはそんな繊細な思いは伝わらず、おおよ、おおよと笑っている。
百合はなんだか恥ずかしくなってもう一度おみくじに視線を落とした。大吉。
果たして他人が、しかも鬼が代わりにもらってきたおみくじに信憑性があるかどうかはわからない。加えて年明けから一月も経った日にもらったもの。
病気が治るまでいかなくても、近くの神社にいけるくらいの運があればと百合は思った。
「おまえ初詣だとか、季節の行事をあまり大切にしないだろ?だめだよちゃんとやらないと、ああいうのは伊達に長々と続いてきたわけじゃないんだから。もうすぐ節分だけど、おまえわかってたか?」
鬼の呆れたような口調に百合は頭を上げて考える。そう言われればそうだったかもしれないと思い出したが、一緒に節分がなにをする日かを思い出して苦笑する。
まさか追い出されるべき鬼にその日を確認させられるとは思いもしなかった。
百合が、どちらにしても今年は豆を撒かないよと言った。鬼が不満そうに理由を求める。
「なんでー。今年は本物の鬼もいるんだぞ。しっかり追い払って福を呼び込めよ」
まるで己が何であるかを忘れたかのような一言。思わず声に出して笑う百合だったが、鬼が自分のために言ってくれているのはわかっていた。
「私にはお前が持ってきてくれたおみくじがあるからいいのよ。それに、例えおまえが悪さをしても、わたしはお前に豆をぶつけることは」
そう言った百合を、鬼は少し驚いた顔で見つめた。百合は俯いたまま黙ってしまう。
ほんの少しの沈黙。それから鬼が微笑んで言った。
「別に豆なんか撒かなくても、お前が来るなと言ったら俺は二度と来ないよ」
百合が少しおびえたようなに顔を上げた。
「……来ないのか?」
「おまえが来るなと言えばな」
百合の不安に鬼がすぐに答えた。
そして、いつものお調子者にもどる。
「言わなければ明日でも明後日でも来てやるぞ。それこそ節分の次の日にも」
両手を広げて喋る鬼の勢いに押されて、何も言えない百合。正直どうしたらいいのかわからなかった。
とにかくだ、鬼はそう言って百合の両手を自分の両手で痛いくらいに握ってきた。
「今年もよろしく」
それを言って手を激しく上下に振った。
ははは、と百合は苦笑する。握られているというより掴まれている手が痛かったが我慢できないほどではない。
それよりも、なんだか長い付き合いになりそうだと、少しそうなればいいなと百合は思っていた。
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