さて、水槽が開きました
戸惑いながらも、膝を震わせながら立ち上がった青年は、水槽の脇で何やらごそごそと操作を始めた。
といっても、複雑な機械があるわけではないようだ。
先ほど突然水槽にモニターらしきものが現れたように、青年が指を触れさせ、滑らせていくことで幾つかの文字らしきものや、図式のようなものが浮かんだり、消えたりしていく。表示されるものがかすかに光っているのでよく分かる。
液体で満たされているこの水槽は、かといって機械管理というわけでもないらしい。
それともその構造が高度過ぎて機械らしくないだけなのだろうか。
「……どうなるの?」
「羊水が抜ければ水槽から出せれる。もうちょと待ってくれ」
作業に集中している青年が黙っていることに気まずさを感じた女の子が、私と青年を交互に見ながら聞いた。
この、私が単に水だと思っていたものは羊水だったらしい。
羊水、胎児が母体の中で浮かんでいる場所に満たされている液体。
少年体だと自分ではっきり認識できる程度に育った体が、透明な水槽の中に浮かんでいて、そこにあるのが羊水だとは思わなかった。
けれど、この体がホムンクルス、人工的に育成された体だと考えるなら、羊水が満たされているのは正しいのもしれない。
そんなことを考えながらぼんやりと青年の作業を見ているうちに、水槽の中の水、羊水はだんだんと減っていった。
足が水槽の底に触れ、頭の上から少しずつ空気に触れていくのが分かる。
ぺたりと前髪が額に張り付いた時、ふと、このまま羊水が抜かれていったら呼吸はどうなるのかと気になった。
鼻の中にも、肺の中にも羊水は入り込んでいるはずなのだけど。
水の位置が口の下まで下がった時、私は一つ小さな咳をした。
それが、呼吸の切り替わりの合図だったのかもしれない。
それまで水中での呼吸に困っていなかった体が、苦も無く空気中で息を始める。
どんな仕組みなのやら。
「大丈夫なの?」
私の咳に心配そうに尋ねる女の子に、青年は軽く肩を竦めただけだった。
大丈夫、ということなのだろう。
水位が下がるにつれ、浮かんでいる間感じなかった自分の体の重みを感じるようになっていった。
そして体の輪郭もしっかり感じる。
自分の体に、自分があるというはっきりとした感覚。
これはもう、この体にあることが自分の現実なんだと思わざるを得ないくらいのものだ。
女の子の視線を気にしながら、水位に合わせて足元に座り込んで、試しに片手だけ目の前で何度か握ってみた。
やっぱり自分の手以外の何ものでもない動かし具合だ。
とはいえ、記憶にある私の手より小さいし、肌の張りが違うことは、水の弾け具合でいっそうはっきりとしてしまった。保湿量マックス、触れた水は染みこまず水滴となって落ちていくぷりぷりの肌である。
その上長く、といっても実際どのくらいか私には分からないが、水の中にいたのにふやけてもいない。ひたすらにつやつやな肌だ。こんな肌が目の前にあったら、きっと撫でてしまう。
今は自分の肌だという感じがあるから、撫でまわしたりはしないけれど。
そ髪から落ちる滴がうっとうしくて前髪を払いのけると、視線を向けた先で女の子がついに蕩けた表情でへたり込んでいた。
そんなにいい景色がこの子には見えているのだろうか。
だとしたら羨ましい限りだ。
青年は相変わらず信じられないという表情をしていたが、作業を続けるにはなんとか意識が保てているようだった。
すっかり羊水が排出されると同時に、水槽は上へと持ち上げられて、私が潜り抜けるには十分な隙間が出来ていた。
それまで気付かなかったが、足元から気泡を上がらせていた穴に、羊水は流れて行ったようだ。
「出て来て、もらってもいいかい?」
言ったことは出来る生きた人形だと、この体のことを説明していた青年が、命令ではなく疑問形で私に話しかける。
恐る恐るながら、私の自我を認めてくれているというのなら、ありがたいことだ。
けれど私はすぐにうなずくことは、出来なかった。
もちろん、嫌なわけではない。
ここは一つ、敵意も害意もない相手だと理解してもらうために、と微笑んでお願いすることにした。
「ええ。でも出来れば、体を拭くものと、服を用意していただけませんか? 先生」
呼びかけは親しみを示すもの。とはいえ名前は知らないので、女の子が言っていたように先生と呼んでみた。甲高いわけでもなく、低すぎもせず、けれど甘い声が聞こえる。それが多分私の声なのだろう。
微笑みは、見てもいないのに完璧である自信があった。
理由は簡単。
最初は女の子よりもこの体の容姿に反応が薄いと思っていた青年が、彼もまた首筋まで赤くして慌ててうなずきながら部屋を出て行ったかからだ。
何やらうひいいいとか叫んでいた気もする。
それはもう、微笑み一つでそんなに反応がいいのなら、誘惑の一つもしてみたくなるくらいだ。
あれ。
第三者でいたかったけれど、もしかして少しこの状況に馴染んできているのだろうか、私。