ようやく水槽から出られそうです
「……綺麗……」
目を開くと同時に、この体に自発的な意思が存在することに気付いて欲しくて、片手を水槽の端に伸ばした。
相変わらず薄暗い部屋の中に、二人の人影を認めた。
女の子と思っていたのは栗毛の、身なりの整った子だった。長い髪も整って乱れるところはなく、着ているものも派手ではないが丁寧に仕立てられたものだと分かる。
その子が、動く私に気付き、開いた目を見て発したのが、先ほどの呟きだ。
なるほど。綺麗とは言ってもらっていたが、目を開くことでさらに新しい感動があるというのなら、この体はよほどの美少年なのだろう。
早く鏡を見てみたいものだが、そのためには、私の存在を知ってもらってここから出してもらわなければならない。
出して、と言うつもりで唇を動かす。
肺まで液体に浸かった身であるからか、声は出ないのだ。
「っ、な、何で動いてるんだ?」
男性と認識していた方は、予想通り、まだまだ若そうだった。青年、と呼んで差し支えないだろう。
その青年は、しばらく私を見て呆けていたが、どうにかして自分を取り戻したらしい。ぽうっとした顔で水槽を私を見つめていた女の子をどかして、水槽に触れる。
と、青年の触れた部分に、今までなかったはずのモニターらしきものが浮かんだ。
「身体および身体機能、完成、いやそれはいいんだ、測定、測定すると思わなかったものを測定するには、どうしたらいいんだ?」
あちらこちらを触れながら何やら騒いでいる。
モニターと思ったのは間違いではなかったらしいが、何がどうなって機能しているのかはよく分からない。
けれど、魂がないとか自我がないとか言っていたものが動いている理由が知りたいのだろうから、何が測りたいのかは何となく分かる。
脳波辺りが測れれば、いいのだろうけれど、生憎その測定は想定していなかったようだ。
「いや、待てよ。体重、体重だ」
青年は引き続きぶつぶつ言いながら何やら操作している。
その様子はタッチパネルを操作しているようだが、具体的な内容が分かるわけでものなければ、脳波を測ったらなんてこちらから伝えられるわけでもない。
どうにか、彼なりにこの事態を受け止めて、前向きな行動を取ってくれればいいんだけれど。
青年が答えにたどり着くまでに、ほんの少し暇があったので、私は再び女の子に目を向けた。
青年にどかされてもなお、私の姿をうっとりと見詰めている姿は、ほぼ、恋する者のそれだった。背丈から見るに、この少年体の設定年齢よりは年上だと思うのだけれど。
恋する女の子の姿というのは、見ていて可愛いものだなあと、つい手を振るなんて真似をしてしまう。
すると女の子は呼吸の心配をしたくなるほど大きく息を吐き出した。何かに耐えるように手を組んでいる。手を振っただけなのに、やりすぎかなと反省したくなってしまった。
そんな空気を全くひっくり返してしまうような、青年の叫び声が上がった。
「うあああああああああ、うそだああああああああああ」
青年はそのまま膝から崩れ落ちるが、目はモニターに向けられたままだ。
その角度で見上げられると、ちょっと困るな。と、私は上げていた片手を元の位置に戻す。まあつまり、股間だ。
「ど、どうしたの?」
私が気まずくなっている間に、女の子も青年の声で我に返ったようだ。
崩れ落ちた青年のそばに近寄ってしゃがみ込んでいる。ちなみにその頬はまだ赤い。
「信じられない、いや、でも」
声を掛けられたからというわけではないのだろう。青年の呟きはほぼ、ただの独り言だ。
「……どういうこと? 先生、しっかりしてよ」
女の子は青年の肩をつかんでぐらぐらとゆすっている。
脱力し切った青年の体の、揺れること、揺れること。
「ねえってば、先生」
ひとしきり揺すっても、まともなやりとりが出来る様子のない青年に、女の子の手も止まる。
「もう、どうしたらいいのよ」
女の子は肩にかかった髪をかき上げながら、心底途方にくれたといった風に肩を落とした。
それはそうだろう、青年は小刻みに震えながら、小さく笑っている。
私が意識のあることを示すことが、こんなに衝撃を与えるとは思わなかったのだけれど、何だか申し訳なくなってきてしまった。
とはいえ、なかったことに出来ることではない。
私はこれまで真っ直ぐに立った姿勢で浮いていた体を、狭い場所なりにかがめて見上げる青年を上から覗きこんだ。
ここから、出して。
お人形遊びなんていうからには、一生水槽住まいなんてことはないだろう。
言いたいことが伝わるように、何度もゆっくりと唇を動かした。
そのうち、ただ見上げているだけだった青年も、焦点を私に合わせてくれるようになってきた。
その横では、青年が見ているものに気が付いた女の子も、再びぽやーっと潤んで熱を帯び始めた目で私を見ている。
ここから、出たいの。
私が女の子にも訴えかけるように口を動かすと、女の子ははっとしたようだ。 青年の肩をぐっとつかむ。
「ねえ、先生。出してあげましょう? 今日だって、そのつもりだったんでしょう?」
「あ、そ、そうか。そうだね。難しいことは、後から考えてもいいか」
未だ自分では確認できていない私の容姿にうっとりしている女の子と、何に受けたものか分からないながらも未だ冷めやらない衝撃でぼんやりしている青年。
この二人を動かすのは、声が出せない状態でもそう難しいものではなかったらしい。
やった、と思ったが後から聞いた話で、警戒心が足りない二人をそそのかして悪かったとも思った。
青年が衝撃を受けていたのは、身体完成後変わらないはずの私の体重が、増えていたことが原因だったらしい。
その増えた重さは、21グラム。
いわゆる魂の重さというやつだ。
つまり、この時点で何者かが生きているも空であるはずの体に宿っていると、青年は理解していたはずなのだ。
かといってその何者かが、何なのか。
までは分かっていなかっただろう。
それを確認もせずに出そうとするなんて、全く警戒心が足りていない。
もし悪意のある存在だったらどうするんだ、と言ったらおまえが言うなと言われそうだったし、私自身は出られて万歳だから、指摘はしなかったのだけれど。