この体は生体コンピューターみたいなものだと思ったらいいのかもしれませんが
着替えをすませた後で、先生に渡された三冊の本を持って、ベッドに座った。
この三冊で本当に私の体の設計を知ることが出来るんだろうなと、やや先生に疑いの気持ちを持ちながら、『ホムンクルス』の表紙をめくる。
内容はといえば、まずホムンクルス研究の歴史から始まっていた。
つまり、この体のようなホムンクルスの育成が始まる、ずいぶん前の話からだ。
自分の興味の範囲外だろうというところは、ざっと読み飛ばす。それでも、ホムンクルスの育成が、生物学、医学、魔道学を中心に研究がされてきたことが分かる。
そして錬金術という分野が呼称されるようになった頃、本格的になったようだ。
この辺りは、機材を上手く用いることが出来るようになったことも関係あるみたいだ。
そして、人は動物の形らしいものを作ることを成功させる。
それは当然のように、人の形を作ることに向かっていく。
ホムンクルス育成初期の失敗例を経て、継続的に生体活動を行うことの出来るホムンクルスになり、そして育成槽から出すことの出来るホムンクルスの成功に至る。
この時点で、教会がホムンクルス研究を禁止するべきではないかと声を上げている。
それは先生の話で出て来たように、人が神の領域に触れることをよしとしなかったためだ。
それで研究は終わると思われていた時期もあったようだが、何だかんだと今に至るまで続けられ、しかもその当時よりもさらに研究は進んでいる。
その理由は、錬金術師たちがホムンクルスに自我が芽生えないことを念入りに証明してみせたからだ。
教会はその報告を受けて、ホムンクルス研究が魂を作り出すことをするものではないこととして、許可を出した。
出すなよ、許可を。
と現在微妙な立場でホムンクルスとして存在している私としては思ってしいまうのだが、それは置いておく。
ともかく、錬金術師たちは、教会の許可が得られたために、おおっぴらに研究をするようになった。
その結果が、二冊目の本『ホムンクルス応用』に書かれている。
応用というのはつまり、外見の決め方であったり、能力の持たせ方であったりするわけだ。
外見年齢や、髪や目の色。声質、体力、知力、そういったものをいかに持たせればいいかが記述されている。
眉をしかめた。
ホムンクルスの知力をどのように設計するか書かれている。
知性の目覚めがないものに、知力を持たせるというのはどういう探求心だったのか。
もっとも、その研究があったから、今こうして読んだこともない文字を読み、触れたこともない言葉の意味を理解しながら、本を読み進めていくことが出来ているわけだけれど。
もっとも、高い知力と知識を持たせた個体であれば、辞書代わりや計算機代わりにに使うことが出来るのだそうだ。
耳と口があるのだから、音声入力式だ。
音感を持たせて音楽に関する情報を持たせておけば、好きな歌を歌わせることも出来るし、楽器演奏も出来る。
生体コンピューター、なんて思えればいいのかもしれないが、やはり自我を持ってホムンクルスとしてある身としては、やや腹立たしい。
ともかく、錬金術師たちは、この生体コンピューターとしての方向性でホムンクルス育成技術をきわめていくことにした時期があったようだ。
膨大な記憶とより速い演算を可能にし、その限界が見えた頃に、魔力を持たせる研究も始まった。
曰く、身体的にはほぼ人体と同じ構造をしているのだから、魔力を持たせることも可能だと思った。らしい。
なんだ、その試しにやってみたんだ感は、とツッコミを入れる。
こちらも人の身では最大級というものを持たせるところまで行ったようだ。
ただし、魔力をただ持たせるだけでは、それを使う意思がないため、こちらは持たせる意味があまりなかったようだ。
それを、育成が出来るこの機会にここぞとばかりに持たせた先生の、なんというか、やれることは全部やれという感じ、嫌いではないし私個人は助かるが、どうなのか。いいのか。
ここまで読んで分かったのは、つまり私のこの体の設計は、今現在の育成技術で可能な限り思い切りたくさんつぎ込めるものをつぎ込んだ、ということだった。
なるほど。
いや、なるほどじゃない。
結局、どのくらい体が動かせて、どの程度魔力が操れるのかは、試していかないといけないわけだ。
幸い、単なる知識としては様々なことが頭の中にある。
全てをいきなりというわけにはいかないが、少しずつ試していくことにしよう。
ちなみに三冊目は、ホムンクルスが人形として寵愛されるようになった歴史についてのものだった。
うん、読んでいてあまり気持ちのいい内容ではなかったね。
ホムンクルスに入れ込んだそこぞの身分の高い人が、奥さんと揉めてとか、反対に奥さんがとか、そんなことまで書いてあったので、適当に流し読んで終わりにした。
ところで、どの本も丁寧に、それはもう簡単には分からないくらい丁寧に、何ページか切り取られた跡があったのだけれど、それをどう考えるべきだろうか。
切った跡は古いものだから、いつ誰が何のためになんて分からないし、そこに書かれているだろうことを先生が知っているかどうかも分からないのだけれど。




