2.旦那が消えた!(中編)
何とビックリであるが、このタイミングでいきなりむーちゃんが現れた。
驚いた、と言うより嬉しさが先に立ち、その不思議さなど考える余裕もない。
娘の方が冷静であった。
「え~、むーちゃんや! 何で? 自分から山を降りて来ることなんて無いのに!」
娘は大喜びだが、こちらも同じだ。
慌てて招き入れる。
だが、どうもむーちゃんの様子がおかしいのだ。
項垂れながら、しずしずと家に入って来た。
日頃のトレードマークであるリボンは耳に戻っており、挙げ句は尻尾までも“うっすら”と見えている。
おい、危ないぞ。 むーちゃん!
ともかく、いつものように足を丁寧に拭いて貰った。
しかし、本当に可愛い足だ。 狸の足とは思えない。
普通、化かされている事に気付けば術は解けるのでは、と思いつつ招き入れると、むーちゃんはいきなり、謝り始めた。
「アマゴ?」
アマゴとは関西から九州に掛けて生息する渓流魚であり、味もアマゴ、イワナ、鮎の順に上げるほど美味な魚だそうだ。
サツキマスの川魚バージョンで赤い斑点が目印らしい。
うちは見たこと無いけどな。
「旦那、それを釣りに行ったんか?」
「はい、五月一日から解禁日です」
川魚の解禁日を知っている狸ってなんやねん!
「えっと、でも何でむーちゃんがそれを・・・・・」
そこまで言って自分で答えが出た。
「むーちゃん! そのアマゴのポイント、あいつに教えたんか!?」
少々、大声だったようだ。
怒られたと思ったのか、むーちゃんは首を竦めてしまった。
「普通、人が行ける所じゃないんです。 それでついつい・・・・・、叔父さんと魚の話してるうちに盛り上がっちゃって・・・・・・、それに、」
「それに?」
そこから先を聞いてうちは心底驚いた。
「なあ、むーちゃん、あんた本気か?」
「駄目ですか?」
「駄目って事は無いけど・・・・・・」
「なあ、なんの話しとるん?」
娘が話に入ってきたが、むーちゃんの言葉を聞いて大喜びである。
二人でキャー、キャーと騒ぎ始めた。
娘とむーちゃんの事はひとまず置いて、問題は獣道か・・・・・・、
そこを突っ切って帰れなくなってしもうた、と。
同じ道を通るのは無理だと、むーちゃんが止める。
人には出来るだけ通って欲しく無いのだとも。
では他のルートを探すしかない。
地図は何処かいな、と旦那の部屋を漁るがどうやら持って行ってしまったようだ。
人が行ける場所ではない、と云うことは別のルートを探さなくてはならない。
「山の地図なんて、本屋で買えるんかいな?」
ともかく本屋に、と考えるうちに娘がまたもや助け船を出してきた。
「村井のおじちゃんは山の持ち主なんやろ? 地図持ってはるんちゃうか?」
なるほど、盲点であった。
慌てて、村井さんのお宅まで走る。 むーちゃんも付いてきた。
町中を走っていても、この子が狸と気付く人は居ないようだ。
しかし、狸ってホントに人を莫迦すんやなぁ、等と考えつつ村井さんのお宅に飛び込んだ。
驚いたことに、村井さん、こちらに向かう処であった。
それもかなりの金額を用意して、だ。
あの阿呆の捜索費用に充てようと準備して下さって居たのだ。
もう、涙が出そうである。
早く帰ってこい、馬鹿!
しかし、村井さんに山の地図を見せて貰ってそんな考えも吹き飛んでしまった。
地図の読み方など忘れてしまっていたが、等高線の読み方ぐらいは分かる。
旦那がポイントに選んだ場所。 そこは断崖絶壁の真下だったのだ。
「いや確かに、ここは降りることは出来ても、まず登れんだろうなぁ・・・・・・」
村井さんもあきれ顔である。
「ホントに、ここに居るの?」
「はあ、可能性として一番高いんじゃないかと・・・・・」
「確かにね。 ここなら帰ってこれないのも分かる」
そう言って村井さんは、うんうんと頷く。
それから、
「ねえ、どうやってこの川筋、見つけたの? だってここ、今の地図は作られてないんだよ」
一瞬、うちら三人はどう答えて良いのか分からなくなるが、村井さんはどうやら自分が話を続けたくて、自分の質問を自分で流していく。
助かった。
一瞬は、ホッとするものの、その後の村井さんの話はあまり楽観的な話では無い。
地図は日本中全て完成しているものだと思ったら、大間違いなのだそうだ。
もちろん測量そのものは衛星写真を元にして国の機関が一通り終わらせたことになっている。
しかし、山岳地の地上からの測量が行われたのは、殆どが明治の頃の話で、当時と現在とでは地形が変わっていることも珍しくないのだとか。
特に山中に限って言えば、未だ道が途中で途切れていたり、全く関係ない方向に進む道であったりして明確ではない、と聞きゾッとする。
「しかしですな。 この山なら少しは分かります」
落ち込む私の耳に村井さんの声が聞こえてきた。
「は、どうしてですか?」
「いや、だって此処、私の山ですから」
何という幸運! ホンマにありがたいこっちゃ!
「なら、この沢にヘリを向かわせれば良いんですね」
それなら五十万円か百万で済む、と計算する。
だが、村井さんは首を横に振った。
「ここには、ヘリが降りられるほどの河川敷は全くありません。
両脇は切り立った断崖ですし、それに獣道しか無い筈・・・・・、
ここでは携帯も電波は届かないだろうなぁ。
本当に旦那さんがいらっしゃるにしても、良く降りられたものだ」
村井さんが首をひねるのも当然だが、まさか、
『仰る通り、むーちゃんの獣道を使いました』などとも言えない。
実際、むーちゃんも『人間は降りる事は出来ても、登れないだろう』と村井さんと同じ事を言っていたのだ。
そうして地図を睨んでいた村井さん、いきなり“あれっ!”っと妙な声を出す。
ビックリさせんで下さいな。
だが村井さん、こちらの驚きに気付かず、言葉を続ける。
「ここ、間道があるわ」
さりげないが重要な一言だ。 更に驚かされる。
「ええ、ホントですか!」
失礼ながら、ひったくるようにして地図を覗くが、どこだか分からない。
見かねて村井さんが指してくれた当たりを見たが、やはり道らしいものは一切記されていない。
だが村井さんは自信たっぷりだ。
「うん。 自分もすっかり忘れてた。 確か子供の頃、爺さんに連れて行ってもらったんだよ。
地形が大きく変わっているとも思えないから大丈夫だろうね」
「じゃあ、お父ちゃん、その道使うて帰ってくるんとちゃうんか?」
だが、娘の言葉に村井さんはまたもや首を横に振る。
「釣りのポイントはかなり川上なんだ。
それに、この道に向かうなら一見すると更に崖下に降りるような錯覚を起こす。
普通は見つけても、まず降りようとは思わないだろうね。
何よりも道を見つけること自体が難しいんだよ」
「でも、お父ちゃん、普通ちゃうで!」
娘よ、それは同意するが、何より奴はものぐさなのだ。
必死で帰り道を探すぐらいなら、その場で一生を終えるだろう。
あかん! 奴があそこで生活基盤を確立する前に連れ戻さなくてはならない。
いろんな意味で一刻の猶予もなくなってきた。
と、そのとき、むーちゃんがいきなり立ち上がると、廊下に出てうちに手招きする。
「なんや! むーちゃん!」
娘が近付こうとすると、慌てて両手を突き出して押しとどめた。
どうやら“うち”にだけ聞かせたい話らしい。
な~んか、嫌な予感がする。
廊下で、しばらくモジモジしていたむーちゃんが意を決した様に話し始めた。
各話とも下手なイラストが入って申し訳ありませんが、童話と言うことで挿絵も欲しくなって描いています。