アイドルの犬塚くん
犬塚くんは、昔からとてもかっこよかった。
昔とはいっても、彼と初めて会ったのは高校生になってからだ。クラスの違った私は、友達から見せてもらった写メで彼の存在を知る。出会いは一方的だった。
友達が写メを保存するくらいかっこいい犬塚くんは、当然学年単位で人気者だった。そんな彼と、教室のはしっこの地味な私とは、当然接点もない。
聞くところによれば、男女からよくモテて、大人数で遊ぶことがほとんどらしかった。私にはとてもじゃないけれど、できない。人がたくさんいると、そのぶん影が薄くなるからだ。打ち上げなんかで、一度も話さず解散、なんてこともあった。
犬塚くんには、その頃から妙に感心し、少し尊敬もしていた。大勢に愛されるなんて、それは人間ができているからだと思ったから。
そんな犬塚くんと初めて話したのは、体育祭の日。
うちの学校では、最後にフォークダンスがあった。うちの学年の女子で、フォークダンスがダルいという生徒は一人もいない。犬塚くんと踊れるから。そしてそのチャンスは、全員にあるからだ。
勿論、私にも。体育祭の種目が終わって、みんな汗だくだった。クラスの女子は一生懸命汗の臭いを消していたけれど、私はしなかった。着替えたあとにするつもりでいた。
犬塚くんと見知らぬ女子は、音楽に乗って足を踏み出す。犬塚くんとなかなか手を離さなくて、次の男子が可哀想だ。
犬塚くんがくるくると女子たちを回って、ついに私の番になった。犬塚くんは、感じのいい黒髪に汗を滴らせている。
「お疲れ」
短い言葉が私にも届いた。犬塚くんはこうやって躍りながら、みんなと話をしていたようだった。私もしたかったけれど、男子とは恥ずかしくてできなかった。普通にねぎらいの言葉をかけられる犬塚くんはすごい。
「お疲れさま」
くるっと回って、手が離れる時に私も言った。後ろにいたから顔が見れなくて、だからきちんと見えるときに言いたかったのだ。
次の男子が可哀想だと思っていたので、さっさと犬塚くんの手を離した。
それから毎年、フォークダンスで犬塚くんと踊ったけれど、交わした会話はいつも「お疲れ」と「お疲れさま」だけだった。ほかに接点はなかったので、犬塚くんとの会話は三回だけ。
卒業して、大学を出て、私は会社勤めになった。
ヒールが窮屈だったけれど、高校のローファーも窮屈だった。そう思えば、着なれないスーツも気にならない。大学の制服がなかっただけで、思えばもう十数年間も制服を着ていたのだから。
仕事に慣れてきたころ、アイドルの犬塚くんをテレビで見るようになった。
どうやら高校を卒業してから、アイドルになったらしい。高校を出てからなんて、結構な遅咲きだと私は思うのだけど、犬塚くんはとても人気者になった。
バラエティー番組に出る犬塚くんを眺めながら、私は考えることがあった。
人気者の犬塚くんは、さぞかし気が利いて、ハキハキしていて、そしてにっこり笑うのだと思っていた。けれども実際テレビで見る犬塚くんは、私のイメージとは違っていた。
『犬塚さんは、先程のお話はいかがでしたか?』
『そうですね。面白かったです』
犬塚くんが答えると、観客席からキャーッと嬉しそうな声が聞こえた。月並みな言葉に沸くみんなを、犬塚くんはいかにもどうでも良さそうな笑顔で見ていた。
私は少なからずショックを受けた。
アイドルの犬塚くんが、あんまり褒められた人間ではなかったから。それと、人を先入観で決めつけていた、私に。
勝手に人気者の犬塚くんが素晴らしい人だと、想像していただけだったのだ。犬塚くんに失礼なことをしてしまったと思う。
そう気づいてから、私はできるだけ人のことを見るようになった。先入観で決めつけられるのは、悲しいことだと思う。それを気づけてよかった。
私のイメージとは違う犬塚くんを、テレビ越しによく眺めるようになった。
「先輩、犬塚さん好きなんですか?」
「うん。ファンってほどでもないけど、よく見ちゃうんだよね」
後輩の派手な女の子にも、私は臆することがなくなった。
最初はきらびやかな彼女と話が合う気がしなくて、故意に避けていた。けれど犬塚くんのことに気づいてから、彼女のことも理解してみようという気持ちになったのだ。
そうして話しかけてみれば、彼女は美羽という名前で、地味な私にも気さくに接してくれるいい人だと分かった。意外にもアイドルより漫画が好きらしく、今度おすすめを貸してもらう約束をしている。
「犬塚さんって、あたしも見ますけど、ちょっと怖くないですか?」
「そうかな?」
「ドラマじゃ爽やか爽やかしてますけど、何て言うか、素が出ませんよね。わざとらしい感じで。驚いたりしないっていうか、アレ絶対性格作ってますよ!」
力説する美羽ちゃんに相づちをうちながら、お弁当を口へ運ぶ。
そのあと美羽ちゃんの手によって、黒髪をなびかせる犬塚くんから眼鏡の男の子へ。
私のスマホの待受は変えられた。
ヒールを地面に打ち付けてうちへ帰ると、電気がついていた。
鍵をあけて中へ入れば、美味しそうな匂いが漂ってくる。未だにちょっと窮屈なヒールを脱いで、脇に揃える。
「ただいま」
「おかえり。ご飯はもうすぐできる」
「うん、ありがとう」
黒いエプロンをつけた犬塚くんは、私を見てからキッチンへ引っ込んだ。漂う夕飯の匂いに、私のお腹が小さく鳴いた。
今日の夕飯は多分、カレーだと思う。お腹の減った私は、すぐさまスーツを着替えて手を洗った。夕飯の配膳を手伝うことにする。
今日の夕飯はカツカレーだった。
「いただきます」
手を合わせて犬塚くんが言ったので、続けて私も言った。サラダを先に食べながら、ふと犬塚くんの茶髪ごしに時計を見た。短い針が九を差そうとしている。
もうすぐアイドルの犬塚くんの、ドラマが始まるのだ。
うちには録画できるレコーダーがないので、時間前にテレビをつける。テーブルのリモコンを取ろうと手を伸ばすと、犬塚くんに阻止された。
睨むと、睨み返される。
「見ちゃだめ」
「いいじゃない。一緒に見よう」
「やだ」
犬塚くんはそう言うと、私の届かないタンスの上へとリモコンを置いた。あんまりだ。イスを引きずってタンスへ持っていこうとすると、カレーに乗ったカツが掠め取られようとしていた。
「あっ、だめ!」
「じゃあ、座って。冷める前に食べて」
なにも言えず、進んでいく時計の針を見ながらサクサクのトンカツを食べた。犬塚くんは料理がうまい。油が嫌だから、うちで揚げ物はしたことがなかった。それなのに、こんな出来立ての揚げ物が美味しいと知ってしまったら、自分でも作ってしまいそうだ。
お腹一杯になるとシャワーを浴びて、ソファへ横になった。
犬塚くんがお風呂に入ったので、その隙にリモコンを取って、テレビをつける。犬塚くんのドラマは終わってしまったけれど、そのあとに犬塚くんの出るトーク番組があるのだ。
相変わらずアイドルの犬塚くんはどこかやる気がなく、トーク番組なのに、あんまり話すことがなかった。
「なに見てるの」
男のシャワーは短い。一時間もある番組を、最後まで見れるわけはなかった。
しっとりした茶髪の犬塚くんは、テレビを見ると私の手からリモコンを取ろうとしてくる。力で勝てはしないので、さっとソファから飛び退いた。
「犬塚くんの番組」
「消してくれ。どうせいつもみたいに喋らないんだから」
そう言いながら髪を拭く犬塚くんを無視して、画面に目を向ける。楽しそうに話す芸人の斜め上で、全身黒の犬塚くんは足を組んでいた。
「ほんと、犬塚くんと真人くんは似てるよね」
「やめてくれ。弟と一緒にするな」
「高校のときの真人くんを見てるみたい」
「三回きりなくせに」
同級生の犬塚真人くんは、フォークダンスの時みたいに、髪の毛に雫を滴らせている。
犬塚くんの名前が真人だと知ったのは、彼と再会した時だった。
偶然町で――なんてことはなく、同窓会で。影の薄い私が忘れられていなかったことに感動して、わざわざ休みを取って同窓会に参加した。あんなに苦手だと思っていた大人数でも、私が変わったせいか、意外と楽しかった。
その中でも一際人気だったのは、やっぱり犬塚くんだ。三年の時クラスが同じだったのだけれど、話したのはやっぱり三回きり。
次第に盛り上がる中、私は壁の近くでお酒を飲んでいた。賑わいの中で一人になってしまったけれど、あんまり騒ぐのは得意じゃなかったから良かった。
そう思っていた時、隣に誰かの足があるのに気づいた。
「隣いい?」
そう言って、座ってきたのはなんと犬塚くんで。
答える前に座られたのでなんとも言えず、黙って頷いた。なんせまともな会話なんかしたことのない人だから、私はどうしたらいいのかと戸惑った。
「俺、犬塚真人って言うんだけど」
「うん、知ってるよ」
嘘だった。本当は、この時に初めて真人という名前を聞いた。
昔の私だったら、なにか気の聞いた話をしなくちゃと考えてから回ったと思う。けれどテレビで人気者の犬塚くんが、決してにっこり笑うわけではないと気づいたあの日から、私は少しだけ変わった。隣へ座った犬塚くんの方を見ると、ビールに口をつけてから彼も私を見た。そのうち、犬塚くんが口を開く。
「あのさ、フォークダンス覚えてる?」
覚えてるもなにも、彼と会話したのはその時が初めてだ。忘れたことはなかった。頷いてお酒を一口飲むと、犬塚くんが少し近づいてきたのが分かった。
「話したことないのに、こんなこと言うのは変だと思うけど、結構憧れてたんだ」
私を見ながらそう言う犬塚くんに、思わず目を見開いた。あの人気者の犬塚くんが、私のことを覚えていて、あまつさえ憧れていた? 当時の私のどこにそんな要素があるんだろう。
「いつも静かだったけど、お礼とかちゃんと言うし、お前への悪口がなかった。きつめの女子とか、不思議とお前だけは褒めてたよ」
私は気恥ずかしくなって、お酒を煽った。多分それは、私が地味で無害な生徒だったからだ。彼女たちは自分の敵への風当たりは強いけれど、どちらかというと大人しい生徒たちには友好的だった。
そんなことであの犬塚くんに憧れられるなんて、おかしい話だと思う。人気者の犬塚くんこそ、悪口とは無縁なのに。
そう言った私に、犬塚くんはお酒を口に流すと首を振った。
「俺は、影では色々と言われてた。嫌な噂とか。表面上は仲良くしてても、分からないものだな」
呟くように言った犬塚くんの顔は、赤かった。
私はあんまり酔わないけれど、犬塚くんはアルコールに弱いようだった。この点については、私も憧れられてもいいかもしれない。
酔ってしまった犬塚くんに水を持ってくると、彼はにっこり笑った。
それからどうなったのかと言えば、普通に話をして、メアドを交換して、たびたび一緒に飲む仲になって、恋人になった。
一緒に住むようになって、私がアイドルの犬塚悠人くんが好きだと言うと、なぜか彼はやけに犬塚くんを嫌いになってしまった。
のちに、アイドルの犬塚くんが弟だと聞いたのだけど、それにしたって邪険にしては可哀想だと思う。そう言って、改めてくれたことは一度もないけれど。
犬塚くんと付き合うまでは眺められていた番組が、だんだんと犬塚くんとの時間に塗り替えられていく。
それも悪くはないけれど、私が犬塚くんと付き合えたのも、私を少し変えてくれた、アイドルの犬塚くんのお陰なのだ。
お酒の席でお付き合いを申し込んだのは、実は私だった。
「私と付き合ってください」
「うん。いいよ」
あの時の犬塚くんはべろんべろんに酔っ払っていて、私の告白ににこにこしながら頷いた。
ちょっと卑怯だったかな? と思っていたけれど、酔いの覚めた犬塚くんに、もう一度きちんと返事をもらえた。
あんまり嬉しくて、その日はテレビの犬塚くんに拝んだくらいだ。当然、犬塚くんにはじとりと睨まれた。
アイドルの犬塚くんは、私の犬塚くんと違って、にっこり笑わないし、ハキハキしてないし、気が利かないけれど。それでも彼は私のアイドルだ。
リモコンを死守しながら、澄ました顔でテレビに映っている犬塚くんを見つめる。片手で、スマホの待受を眼鏡の男の子から黒髪の犬塚くんへ戻した。
美羽ちゃんにはファンではないと言ったけれど、やっぱり私は犬塚くんのファンかもしれない。
「犬塚くんは気のないところがいいのよね。人気者っぽくなくて」
「……」
犬塚くんは、テレビのコンセントを引っこ抜いた。