参
「あの、刑事さん」
僧侶の衣装を着た、若い男性が大宮に近付き声をかけた。
「姉さんが殺されたってのは本当なのかい?」
「海斗、それじゃぁやっぱり……」
祥子は、立ち眩みを起こした。「あ、母さん」
それを海斗が支える。
「海斗さん、いま来未さんは殺されたって」
「ああ、刑事さんたちの捜査を見てて思ったんだ。中将姫の霊は最初から舞台に出ている。つまりカプセル錠の中に毒が入れられていたんだ。舞台の時間は大体二時間くらい。錠剤が溶けるのも大体それくらいだと思うよ」
信乃の質問に、海斗は答える。
「……あの、大宮さん」
信乃は、大宮を一瞥する。その無言の問い掛けに、大宮は少しばかり唸った。
「あの海斗さん、そう思われるのも無理はありません。ですが毒は面の内側にあったんです」
「な、なんだって?」
海斗は素っ頓狂な声をあげた。
「おそらくですが、でもたぶん本当だと思います」
「また曖昧な返事ですね?」
海斗の質問に、大宮は申し訳ない表情で項垂れた。「まだ、確信があるわけではありませんので」
「でも、海斗さんのいってることも……」
「ええ、一応視野に入れておいたほうがいいかもね」
皐月と信乃は、互いに確認するように交わす。
「信乃、たしか殺虫剤の臭いもしたんだよね?」
「それがただの臭いだけだった、それとも毒を紛らわせるためなのか……、いずれにしろ劇薬に変わりはないわ」
信乃は、ゆっくりと舞台上を見渡した。
「――あれ?」
「どうかしたのかい?」
「海斗さん、さっき来未さんはカプセル錠剤で殺されたって」
「えっ? ああ、そう云ったよ」
「大宮さん、警察以外でわたしと皐月、それと祥子さん以外に、来未さんの死因が毒だってことは云ったんですか?」
そう訊かれ、大宮は首を横に振った。
「あの子は舞台に上がる前、安定剤を飲むんです。カプセル錠の」
祥子が答えると、「それを知ってるのは……」
「多分、舞台役者全員でしょうね」
「それじゃぁ、犯人が錠剤に毒を入れるのも」
「可能といえば可能。でもだから可笑しいのよ」
信乃の言葉に、皐月は首を傾げた。「可笑しいって?」
「――口臭」
「口臭?」
「もし、青酸カリをカプセルの中に入れて殺したとすれば、臭いが一番強くなる場所ってどこになると思う?」
「……くちもと?」
「そっ。そしてたとえば毒を口の中に入れるとすれば?」
「やっぱり、くちもとにあたる場所?」
皐月の言葉に、信乃は頷いて見せた。
「でも、それだけでカプセル錠で殺してはいないって断言は出来ないんじゃ?」
「皐月、たとえば歯磨きした時、口の中はどんなにおいがしてる?」
「そりゃぁ、歯磨き粉の……、あっ!」
「なかったのよ。口臭っていうか、唾液の臭いが。いくら顔が見えないからといって、死んだのは女性よ? エチケットくらいはしてると思う」
「そうか、だから信乃はわからないっていったんだね?」
「わからなかったのは殺虫剤と青酸カリの臭いが区別つかなかったからじゃない。本来なら毒を盛られていなくても付着している口臭がなかったのよ」
信乃はそう言いながら、ゆっくりと祥子と海斗を見た。
「あの中に、犯人がいるってこと?」
「死体を先に扱ったのは、旅僧の人。それから祥子さんがお面を外した」
その言葉に、皐月は首を傾げた。それを信乃は不思議に思い、「どうかしたの?」
と、問いかける。
皐月は舞台から少し離れた場所へと移動していた祥子と海斗を指差していてた。
「なんか、口論してる?」
「みたいね。」
それには大宮も気付き、「ちょっと、尋ねてくるよ」
言うや、祥子たちの方へと駆けていった。
――数分して、大宮が戻ってきた。「なにかあったんですか?」
「ああ、どうやら昨日海斗さんは来未さんと口論をしたそうなんだ」
「口論?」
「うん、君たちにいっていいものなのかどうか……」
「隠されると嫌なほうなので、話してくれませんか?」
「……わかった。ただこれが殺害理由というには証拠が不十分だからね」
大宮は、皐月と信乃を、観客席のほうへと連れて行った。
「それで、海斗さんと祥子さんが言い争っていたことって?」
信乃が大宮に尋ねる。
「海斗さんは、来未さんから借金をしていたんだよ。本人から聞く限りじゃ五百万は借りているって」
「五百万?」
皐月が驚いた声をあげた。それに対して信乃は至って冷静である。
「大宮さん、それは総額でですか? それともまとめて?」
「――総額だそうだ。海斗さんはお金を貸してほしいとお願いし、よく来未さんに借りていたそうだよ」
大宮の説明を聞きながら、「あれ、でも可笑しくないですか? いくら兄弟とはいえ、そんなにそっちゅう借りていたら、好い加減やめてほしいって思うんじゃ」
「そうなんだよ。ただ海斗さんはこうも云っていたよ。気前が良かったって、返済も気が向いたときにでもいいって云われていたそうだよ」
「ますますわからないわね。来未さんさんはその借金を帳消しにできるくらいの何かを持っていたのか……あるいは」
信乃は背筋を伸ばした。
「なにをしている?」
それは、まさに緊張を走らせるのには十分なほどの威圧感があった。
「そこで、なにをしていると聞いておるのだ」
声は、祥子と海斗がいるほうから聞こえてくる。皐月たち三人がそちらに振り返ってみると、白髪をした男性が、険しい表情を浮かべながら、祥子と海斗を睨んでいた。
「舞台はもう終わったのだ。お前たちは早く戻って次の稽古に行け」
白髪の男性の息吹ひとつとっても、存在感を物語っている。
「わ、わかりました」
祥子と海斗は渋々と肩を落としながら、切戸の方へと去っていく。
「な、なんかすごいね。ちょっと注意しただけなのに、二人の震えは異常だよ」
祥子たちと擦れ違った皐月が、小声で信乃に尋ねる。
「あんたの声、平八さんに聞こえてるから」
「え、知ってる人?」
「知ってるもなにも、あのおじいさんが、鬼塚流の責任者。鬼塚の名の通り、五番目物を主にやってるのよ」
「とりあえず、あのおじいさんがすごい人ってのはわかったんだけど、その……、五番目物ってなに?」
皐月がそう云うや、信乃はキッと、睨むように見つめ返す。
「あ、いや……、その詳しくない人もいるでしょ? 私も含めて」
信乃は、小さく溜め息を吐く。
「五番目物ってのは、一言に纏めると『鬼』を題材にした作品をまとめたものなの」
「五番ってことは、一とか二もあるってことだよね?」
「一番目物……、正式には初番目物っていうんだけど、これは神を題材にしてる。二番目物は男性物、三番目は女性物、四番目は狂物と大きく分けられる」
「大きくって、なんか八大地獄みたいだね?」
「たしかにそうね。五番目物の鬼でも、女菩薩物、貴人物、猛将物、天狗物、鬼物、竜神物、畜類物、打合物、鬼退治物、本祝言物……」
「とにかく、能楽の作品は大きく分けて五つのジャンルに分かれていて、もっと分けると細かくなるってことだね」
「皐月、能の作品数ってどれくらいあると思う?」
突然そう聞かれ、皐月は目を点にする。
「えっ? えっと百くらい?」
「おおよそ二四〇作品って言われてる」
「そ、そんなにあるんだ……」
皐月は、肩を落とした。
『なんか、今日はどっと疲れが出てきたなぁ。信乃には悪いけど、そんなに面白くはなかったんだよね』
皐月はそう考えながら、ゆっくりと顔をあげた。
「そこでなにをしている。関係者以外は立ち入り禁止のはずだ」
白髪の男性。つまり鬼塚平八が皐月と信乃を見下ろしていたのである。
「ひゃうっ?」
皐月は思わず悲鳴をあげてしまった。
「ど、どうした? なにかあったのか?」
観客席のほう……ではなく、舞台のほうから大宮が皐月たちのところへとかけてきた。
「なんだお前は? ここは神聖な舞台だ」
「っ! うぐぅっ!」
大宮は、平八の威圧感に圧倒され、唸り声をあげる。
「ごめんなさい、ヘイハッちゃん。ちょっと色々と事情があって」
信乃の言葉を聞くや、皐月と大宮は自分の体内にある血が、一瞬のうちになくなるような感じがした。
「ちょ、ちょちょちょちょっとっ! なに友達感覚で話しかけてるのっ?」
悲鳴にも似た声で、皐月は信乃に問いかけた。
「ヒョヒョオオオオオオッイッ! ショニーちゃんやぁいっ! もしかしてぇ、わしらの舞台を見に来てくれたのかぁい?」
これまた、ひょうきんと言うべきか、今でいうチャライ声が、舞台に響き渡った。
「ショニーちゃん、今日もまたカンワァイイねぇっ?」
平八はピシッと、七十年代に流行った警察ギャグマンガの主人公みたいなポーズで、信乃を指差した。
「ヘイハッちゃんも元気だねぇ」
信乃は笑いながら言った。
「えっ? えっと……っ、忠治さん、私この状況についていけないんだけど」
「き、奇遇だね。僕もそうだよ」
信乃と平八の異常な雰囲気に、皐月と大宮はただただドン引くだけなのであった。