弐
警察が来たのは、事件が発覚してから五分後のことであった。
舞台の周りにはバリゲートが張られ、中に入れないようになっている。
「そちらはどうですか?」
大宮が鑑識の湖西主任にそう尋ねた。「こりゃぁ毒殺じゃな」
「どうしてそう言い切れるんです?」
「面の中に血が付着してるんじゃよ。つまり、舞台に上がる前、この面を被った事で、毒を舐めてしまっていたというわけじゃな」
湖西主任がそう云うや、「それは違うと思いますよ」
うしろの、後見座のほうから聞き慣れた声が聞こえ、大宮と湖西主任はそちらへと振り返った。
「皐月ちゃん、それに信乃さんも」
大宮がそう言うと、皐月と信乃は軽く会釈する。
「ふたりとも、どうしてここに?」
「信乃と一緒に今日の舞台を見に来てたんです」
「本当はお父さんとお母さんが行く予定だったんですけどね」
「そうか。それじゃぁ少し事件が起きる前のことを説明してくれないか?」
そう訊かれ、皐月と信乃は舞台上でのことを説明した。
「つまり、中将姫の霊が舞を踊っている時、ピタリと動かなくなったということかい?」
「ええ。でもどうも妙なんですよ」
「――妙って?」
「血の臭い以外にもなんか臭いがしてて、なんていうか殺虫剤みたいな、そんな臭いでした」
大宮は、信乃の言葉に耳を傾けながら、ゆっくりと湖西主任を見やった。
「これのことじゃろうな」
湖西は、能面を信乃に渡した。「一応証拠品じゃからな、あまり鼻を付けるとお前さんの肌の角質が付着してしまうぞ」
信乃はわかりましたといい、能面に鼻を近付けた。
「ど、どう?」
「やっぱり殺虫剤みたいな臭いがします」
「それじゃぁ、犯人は殺虫剤を能面に付着させて……、いやそれだとすぐに気付くよね?」
皐月の言葉に、信乃は頷く。「ええ、それにたぶんだけどこの臭いは殺虫剤っていうより、青酸カリに近いんじゃないかな」
「はっきりとはわからないんだね?」
「さすがに犬と同じ嗅覚でも、同じやつだと区別がつきにくいんだよね」
信乃の言葉に、皐月は首を傾げた。「同じやつって?」
「殺虫剤と青酸カリは同じシアン化水素じゃからな。似てても可笑しくないじゃろ」
「てか、そんな分子レベルまでにおいがわかるの?」
皐月は目を点にして言う。
「いや、さすがにそこまではね」
「しかしこれで毒が青酸カリの可能性が出てきたというわけだ。湖西主任、それを鑑識に回してください」
「ほいほい。まぁ老いぼれはここらで退散するとして、後は若い者どうし、仲良くやっててくれ」
そう云うや、湖西主任は信乃から能面を返してもらい、それを袋に入れると、退散するように去っていった。
「若い者どうしって、どういう意味だろ?」
皐月が首を傾げる。「……さぁね」
と、大宮も首を傾げた。
『この二人、鈍感なの? 湖西主任のやってること見え見えじゃないっ!』
信乃は心の中で、皐月と大宮にツッコんだ。
「あら信乃ちゃん」
声が聞こえ、信乃がそちらに振り返ると、綺麗な着物を着た年老いた女性が、規律正しい足取りで近付いてきた。
「祥子小母さん」
「今日はごめんなさいね、せっかく舞台を観に来てくれたのに、お友達も」
祥子は皐月を見やった。
「それにしても、亡くなったのって来未さんですよね?」
信乃がそう言うと、祥子は頷いた。
「ちょ、ちょっと待ってくれ? 僕はまだ誰が死んだなんて君たちに言ってないぞ?」
「そうだよ。それに能ってお面被ってるんだから、誰がやってるかまではわからないんじゃない?」
皐月と大宮が、信乃にそう尋ねる。「声でわかったの。たまにお父さんに連れられて、舞台を何度も観てるし、皐月、わたしが渡したプリントにも書いてあるはずよ?」
そう云われ、皐月はポケットに畳み折って入れていたプリントを広げた。
「えっと……、前ジテ・老尼――鬼塚祥子。後ジテ・中将姫の霊――鬼塚来未……、このジテってなに?」
「シテ方っていうのは、言ってしまえばその物語の中心人物。つまりは主役ってこと。前ジテは前半部分での主役のことを言って、後ジテは後半重要になる人物のことを指すの」
「しかし、この鬼塚来未という女性、死体を拝見させてもらいましたが、能舞台に立っているとは思えないほどお若い方でしたね」
「信乃、その来未さんっていくつなの?」
「たしか、今年で二九になってるはずでしたよね?」
信乃の問い掛けに、祥子は頷いた。
「ですが刑事さん? 若いからといって舞台に上がれないとは限りません。能の曲目によっては、年端もいかない子供が演じることもあるんです」
祥子の言葉を聞きながら、少しだけ感じる違和感に、皐月は首を傾げる。
「どうかした?」
「いや、とりあえず舞台に立つと言う意味では、年齢は関係ないんだなと思って」
信乃は、皐月の表情の微妙な変化に、「本当はどうなの?」
と尋ねた。
「うん、なんか祥子さんの声が寂しそうだなって」
「耳聞こえないのに、よくそんなことわかるわね」
「耳が聞こえないのは余計。私、聴かなきゃって思う話ほど集中しちゃうクセがあるのよ。だからかもしれない」
皐月はジッと、祥子を見つめた。
「あの人……、事件とは関係ないとは言い切れないけど、まるでそうだったって言ってる気がする」




