壱
福祠町から少し離れた市街地にある大きな公園に、小さな能楽堂がある。
その入り口に皐月の姿があった。
「遅いよっ! 信乃」
「ごめんごめん、ちょっとプリントアウトに手間取っちゃってさ」
遅れてきた信乃が、息を切らしながら言った。「プリントアウト?」
「ほら、今日誘ったのって能舞台じゃない? だから事前に作品内容を知っておいたほうがいいと思って。ほら、皐月あんまりこういうちゃんとしたところで見ることってないでしょ?」
「う、うん……」
本当は、能自体見たことないとは、口が裂けても云えなかった皐月なのであった。
「でも、ごめんね。急に誘っちゃって、本当はお父さんとお母さんが行くはずだったんだけど、なんか急な仕事でいけなくなったらしいのよ」
「それで、二日前に私に連絡してきたってわけだ」
「わたしの友達って、能とか狂言、歌舞伎なんて古臭いって言ってるんだけどさ、んなぁこたぁないっ!」
突然信乃が声を張り上げ、拳を振るわせる。
「そもそも、狂言なくしてコントなし。能はセリフはあれど見る角度によって登場人物の心情が変わる。歌舞伎は言うなればミュージカル」
「そ、そうなんだ」
「そうよ。それに今日の舞台は『当麻』っ!」
皐月は、信乃からもらったプリントに目をやった。「えっと……、『とうま』?」
そう云うや、信乃は「はぁ?」と云わんばかりの表情で、皐月を見やる。
「とうま……、たしかに普通ならそう読みかねないわね。でもこの作品のタイトルは『当麻』」
『なんだろ、なんかすごいデジャヴを感じる』
皐月はそう思いながらも、作品のあらすじを読んだ。
そして、ふと、ある違和感を覚える。
「ねぇ、ひとつ聞いてもいい? 先にあらすじというか、結末を知るのって、実際どうなの?」
「――なにが?」
「いやだって、作品の結末知ってたら、面白さも半減するんじゃ?」
皐月がそう云うや、信乃は首を小さく横に振った。
「それは違うわよ。むしろ知っているから何回も見たくなるわけ」
「云ってる意味が……」
「皐月、あんただって昔やってた時代劇の再放送見るでしょ?」
「うん、さすがに朝と昼の再放送はビデオに撮ってみてるけど」
「それってさ、すでに結末がわかってるってことじゃない」
リアルタイムで見た事ないから自分は知らないんだけど……と云おうとしたが、皐月はそれをぐっと堪える。
というより、今のテレビで時代劇を見られるのは本当に少なくなってしまっている。
せいぜい再放送くらいだ。
「だから、こういう事前に作品内容を知っておくと、座る場所によって聞こえ方も違ってくるわけ。皐月あんた耳悪いでしょ?」
皐月は答えるように頷く。
「スピーカーって設置されてないのよ。それに遠くに行くほど話が聞こえなくなる。これが聾座敷に置かれるっていう語源になってるわけ」
「あ、だから作品内容を知ってると、どこを演じているのかってわかるわけだ」
「そっ。それに前よりうしろのほうが料金安いけど、作品を知ってるってことは何度も見てるってこと」
信乃はそう言いながら、持ってきたペアチケットを見た。
その一瞬、信乃が焦りの表情を浮かべたのを、皐月は見逃さなかった。
いや、見逃したほうが良かったのかもしれない。
「ど、どうしたの?」
「……そうか、小母さん、お母さんとお父さんに送ったから、座席の場所もそうなるよねぇ」
信乃は、がっくりと肩を落とす。
「いったいどこなの?」
「中正面。まぁ舞台を立体的に見えるって事に関してはいい場所なんだけど」
「ならいいじゃない」
「うん場所としてはいいのよ。ただ座る場所によっては柱が邪魔なのよ」
皐月は、信乃がなにを言っているのかさっぱりであった。
能舞台の観客席は大きく分けて三つある。
ひとつは舞台を正面から見る『正面』。これはその名の通り、目の前で舞台全体が見えるが料金が高い。
二つ目に舞台を横から見る『脇正面』。こちらは橋弁慶など、橋掛かりの演目に適している。
最後に舞台を斜めから見る『中正面』。こちらは舞台の空間を立体的に見ることができるが、場所によっては『正面』から見て左手にある『目付柱』が邪魔になって舞台自体が見えなくなってしまう。
同じ作品であっても、座る場所や角度のよって作品の雰囲気が違ってくるため、何回も足を運ぶ人がいるのである。
「とりあえず行ってみましょ」
「そうだね、座る場所がいいところだといいんだけど」
皐月は、できるだけ信乃を傷付けないように気を使いながら、公園の中へと入っていった。
舞台のほうへと行くと、何人かの観客が座っていた。
そのほとんどが老人や、見るからにお金持ち。それからちょっと興味を持って見に来たと若いOLあたりといったところ。
だが、皐月や信乃といった若い十代の姿が一人も見当たらない。
一応恥ずかしくないようにと、二人ともお洒落をしてはいるものの、場違いなのは空気でわかった。
しかも座る場所が見えなくなる可能性のある中正面である。
こちらは初心者というより、作品内容を熟知している人が多い。
「それで、私たちの席は?」
「……っと、あ、あそこ」
信乃はチケットに書かれた座席番号に当てはまる場所を指差した。
「よかった、柱がない。しかも結構いい場所だよここ」
皐月は信乃の隣に座り、舞台のほうへと目をやった。
正面には柱がなく、舞台をしっかりと見れる絶好の場所であった。
舞台も終盤に差し掛かり、後ジテの中将姫の霊が、綺麗な舞を踊っている。
その舞がピタリと止まり、少しばかり舞台上がざわついた。
「えっと……、信乃?」
皐月は隣に座っている信乃を一瞥した。「なんかの演出?」
「違う……、ていうより……血の臭いがする」
その言葉を聞くや、皐月はギョッとした。
信乃の鼻がヒクヒクと、痙攣するように動いている。
「――血……っ?」
皐月がその言葉を発したのと同時に、舞台上の中将姫が倒れた。
「お、おい」
旅の僧役の男がそう尋ねたが、中将姫はピクリとも動かない。
男は、中将姫の能面を外した。そして、その変わり果てた姿を見るや――。
周りを混乱させるには十分なほどに、悲痛な叫びをあげていた。