ひよっこの友達
「サロンコンサートですか?」
日菜子はピアノの先生に渡されたリーフレットを見る。それは近くの喫茶店のものだった。載っている店内写真には前まではなかったピアノが写っている。おそらく日菜子が京都に行ってから改装したのだろう。雰囲気もアンティークの家具が揃う、小洒落たものになっていた。
彼女は日菜子の疑問に頷くと、ピアノの椅子の上の足を組み直した。
「そう。毎月ゲストを何人か呼んで演奏会をするんだけどね?今月一緒に出るはずだったクラリネットの人が、急に来られなくなっちゃって。ひなちゃん代わりに歌ってみない?」
「歌います。」
日菜子の即答ぶりに、「相変わらずねぇ」と苦笑される。だって人前で歌う機会は多ければ多いほどいい。これを逃す手はないのだ。
「曲はどうする?」
「そうですね・・・。」
日菜子は自分のレパートリーを思い出す。やはり最近までレッスンでみてもらっていた“すみれ”は歌ってもいいだろうか。そこでふいに先生に言われた言葉を思い出した。
“ひなちゃんは才能もないし、ええ声持っているわけでもないから―――・・・”
やはり意気込んだと見せても、事あるごとにこの言葉は日菜子の心を突き刺した。頑張っても意味ないのかな、と弱い気持ちが首をもたげてくるのだ。日菜子は落ち込みそうな自分に叱咤して、顔を上げた。
「少し考えてもいいですか。」
彼女もすぐに決まるとは思っていなかったのだろう。あっさりと頷いた。
「じゃあ伴奏者は私の門下の子にお願いしておくから、曲目が決まったらすぐに楽譜をちょうだいね。」
「え?賢ちゃんじゃあダメなんですか?」
ここは小さな頃から日菜子と賢仁が通っていたピアノ教室で、先生の今野由加里は、それこそ二人が幼稚園児だった時からの付き合いなのだ。手先が不器用な日菜子はピアノがあまり得意ではなく、歌を始めてからは音楽高校の受験用にしか練習しなかったが、賢仁はかなりの腕前になり、歌を始めた日菜子の伴奏もしていた。
しかし由加里は不思議そうに小首を傾げた。
「だって賢仁くんは結構前にやめたでしょう?」
「えぇ!」
なんだそれは。聞いていない。あの賢ちゃんがピアノをやめた?
「な、なんでですか!」
思わずにじり寄ると、由加里は体を引きながら答えた。
「なんでもやりたいことがあるらしくて、勉強に集中するらしいわよ?本当に聞いてないの?」
やりたいこと。日菜子は呆然と口の中で呟く。
あの、いつも日菜子の後ろをついて歩いていた賢仁が、姉である私に黙ってやりたいことを見つけてピアノをやめた。
もちろん音楽の道に進むことはないだろうと思っていたが、ピアノは続けると信じていた。自分が京都の荒波に揉まれようと、ここに帰ってくればいつだって賢仁がピアノを弾いて、日菜子が歌って。そういう日がいつまでも続くと思っていたのに。
「ひなちゃん?大丈夫?」
由加里の心配そうな声は入ってこなかった。
結局どこをどう歩いてきたのか、まったく思い出せない。気がつけば近くの商店街をぼーっと歩いて、ファーストフード店のマスコットである白ひげのおじさまを眺めていた。
この笑顔を今ほど憎いと思ったことはない。なんだ、世界は幸せに満ちていますみたいな顔をして。あんただってそうやって悠長に構えていると、奥さんがよそに男つくってたりすんのよ。気がついたら自分の家に居場所がなくなってたりするのよ。ふふふふふ・・・。
「まま、あれ何やってるの?」「しっ見ちゃダメよ!」
そんな会話が聞こえたような気がするが、日菜子は取り合う余裕はなかった。
正直、どうして自分がここまで落ち込んでいるのかわからない。賢仁には賢仁の人生がある。どういう道を選ぼうと、日菜子が口出しをすることではない。しかし。
(あると信じていたものがなくなることが、こんなに辛いなんて・・・。)
日菜子は白ひげのおじさまを見つめた。
そうか。もしかしてこの笑顔はそうした悲しみを全て乗り越えた賢者の笑みなのか。愛妻に裏切られても決して後ろを振り返らず、おのが未来を信じて突き進む。そう考えると、なんだかいじらしいではないか。
愛と勇気だけが友達さ。あしたがあるさ、笑っちゃおう・・・。
「日菜子?あんた何してんの?白ひげと肩なんか組んで。」
懐かしい声に意識を引き戻され前を見ると、中学時代からの友人の中西美也子がいた。
「美也ーーー!!」
「うわっ何!?」
春休み以来の旧友の姿に悲しみが爆発して勢いよく抱きつく。
「才能のないモーツァルトが賢ちゃんにすみれをピアノで!」
「・・・あんたのそれを理解できる賢仁くんを心底尊敬するわ。」
美也子は引きつったような笑みを浮かべる。
しかし何かがあったことは汲み取ってくれたのだろう。彼女は呆れたようにため息を一つついてから、日菜子の肩をぽんぽんと軽く叩いた。
「まあ今は時間もあるし、話聞いてあげるわよ。ちょうどいいし、ここ入ろう。あ、もちろん奢りよね?」
そう言って彼女はおじさまの横の入口に入っていった。
うう。友情が痛い。