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君へ贈る歌  作者: こいも
3/15

ひよっこの歌曲

「でも恋かぁー。いいなぁー。私も彼氏つくろうかなー。」

 遠い目をしてぼやく日菜子に、賢仁がピクリと眉を上げる。

「は・・・?」

「だって先生からも言われてるんだよね。恋をしなさいって。」

 日菜子は高校三年の今まで、彼氏ができたこともなければ恋らしい恋もしたことがない。でもうたう歌は愛のものばかり。身を焦がすような想いや、その人を想って眠れない夜など、どんなに想像しても説得力に欠けるような気がするのだ。

「でも、彼氏ができたらそういうこともわかるようになるのかもしれないでしょ?」

 わかったような口調で優しく諭してみる。

 しかし賢仁からの同意は聞こえなかった。今まで否定されることはあっても、無視されることはなかったので、沈黙が妙に浮き上がる。

「賢ちゃん?聞いて・・・。」

 訝しがって顔を上げると、賢仁が思った以上に近くにいて驚いた。難しそうに寄せられた眉も眼鏡越しの鋭い双眸もいつもとは違う雰囲気があって、まるで内側から溢れれる何かを押しとどめているようなそれに、日菜子は口をつぐんだ。

「日菜子。」

 あ、やばい。日菜子は内心冷や汗をかいた。

 賢仁が自分をこうやって呼ぶときは、本気で怒っている時なのだ。何かまずいことを言っただろうかと先程までの会話を思い返す。

 そうこうしているうちに賢仁が日菜子の片腕を掴んだ。いつの間にか日菜子より大きくなっていた彼の手は、細い少女の腕など軽々と握れる。その事実に、なぜか衝撃を受けた。

 少し触れたらすぐに決壊してしまいそうな薄皮に守られた緊張感にじりじりと焦る。

 ぎゅっと腕を握り締められ、痛みで顔をしかめた。しかし声は出ない。襲いかかるような沈黙がいつまで続くかと思われた時。

 賢仁は何かに耐えるように力を緩めると、深いため息をついた。

「・・・その理論でいくと、死にゆく歌は不治の病の人しか歌えないし、母親の歌は結婚して子供を産むまで歌えないことになるな。」

「うっ」

 痛いところをつく。しかし確かにそうだった。そもそも作曲者だってそれを経験しないと曲を作れなかったら、今頃音楽は禁忌の芸術になっていることだろう。

「結局は、自分の想像力と演技力ってことだろう。」

 賢仁は疲れたように再び椅子に座ると、回転させて向こうを向いてしまった。

 しかし日菜子は諦められなくて賢仁の椅子の背にすがりつく。

「でもでも!今うたってる歌が本当によくわからないんだよ!」

「・・・どんな歌だ?」

「モーツァルトの《すみれ》なんだけど・・・。」

 最も有名な作曲家の一人であるモーツァルトの、これまた最も有名な歌曲の一つだ。モーツァルトがゲーテという詩人の詩に作曲した唯一のものでもある。同じ旋律を繰り返す有節形式ではなく、次々と変化していく通作形式となっていた。


1.Ein Veilchen auf der Wiese stand,

 一本のすみれが野原に咲いていた。

 Gebuckt in sich und unbekant;      

 ひっそりと誰に気づかれることなく。

 Es war ein herzig’s Veilchen.      

 それは可愛いすみれだった。

 Da kam ein’ junge Schaferin       

 そこへ現れたのは羊飼いの娘。

 Mit leichtemSchritt und munterm Sinn   

 軽やかな足取りで、生き生きと

 Daher, daher,              

 こちらへ、こちらへ

 Die Wiese her und sang.         

 この野原へ歌を歌いながら。


2.Ach! denkt das Veilchen,

 あぁ!とすみれは考えた

 War' ich nur die schonste Blumen der Natur,

 もし僕が一番美しい花だったらなぁ

 Ach nur ein kleines Weilchen,

 あぁ、少しの間だけでも

 Bis mich das Liebchen abgepfluckt

 あの娘がぼくを摘み取って

 Und an dem Busen mattgedruckt,

 胸に押し当ててくれたら

 Ach nur, ach nur

 あぁ、ほんの、

 Ein Viertelstundchen lang!

 ほんの15分だけでもあったら!

 

3.Ach! Aber ach! das Madchen kam

 あぁ!でも!娘はやって来たが

 Und nicht in acht das Veilchen nahm,

 すみれには全く気が付かないで

 Ertrat das arme Veilchen.

 哀れなすみれを踏み潰してしまった

 Und sank und starb und freut' sich noch:

 すみれは折れて死んでしまった。でも嬉しかった。

 Und sterb' ich denn, so sterb' ich doch

 ぼくはこれから死ぬけれども、

 Durch sie, durch sie,

 あの娘に、あの娘に

 Zu ihren Fussen doch!

 踏まれて死んでいけるのだから!


 Das areme Veilchen!

 可哀想なすみれ!

 Es war ein herzig's Veilchen.

 ほんとうに可愛らしいすみれだった。




「ただのマゾじゃない!」

「お前がなんで芸術をしているのかたまにわからなくなる・・・。」

 賢仁は額を抑えて項垂れた。

 その馬鹿にするような態度にムッとして日菜子は言い寄る。

「じゃあ賢ちゃんはいいの?」

「は?」

「賢ちゃんは好きな人に殺されるんだったら本望だ、とか思うの?」

「あのな・・・。」

 わかっている。これは極論だ。歌だから、芸術の世界だからあるのであって、現実の世界では有り得ない。そりゃあ世界中を探したら、ずっと国を裏切っていたスパイが最後に愛する人の手によって撃たれて「お前に殺されるなら・・・本望だぜ・・・」とかいう一幕が繰り広げられている可能性も無きにしも非ずだが、やっぱりここは平和な日本で、日菜子もどうしようもなく日本人で、しかも恋を知らない18歳の少女なのだ。普通に考えて、好きな人に殺されたら悲しいじゃないか。

 賢仁はしばし考えるように空中を見てから、口を開いた。

「俺は・・・

「賢仁ー?もしかしてひなちゃん帰ってきてるのー?」

 下から賢仁の母親の声。思わず場の空気が止まる。遮られた賢仁は出しかけた声を戻し、肩の力を抜いた。

「行ってこい。」

「え?でも。」

「いいから。」

 再び向こうを向いてしまう。日菜子は賢仁の意見を聞きたかったのだが、こうなってしまった賢仁は何を聞いても答えてくれない。仕方なく階下に降りることにした。

「おばさーん!お久しぶりですー!」

 軽快に階段を駆け下りる音が響く。一人取り残された賢仁の小さなつぶやきを、日菜子が聞くことはなかった。


「鈍感女・・・。」



①「モーツァルトの《すみれ》」・・・「Abendempfindung an Laura《ラウラに寄せる夕べの想い》」と同じぐらい有名な歌曲です。どちらも素敵な曲です。ぜひ一度お聴きください。

ちなみに載せているドイツ語にはウムラウト“¨”がつく単語がありますが、表示できませんでした。すみません。

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