ひよっこの恋人
結局、連れてこられたのは我が家だった。
賢仁は出てきた母親に軽く挨拶をして、グランドピアノがある部屋に入っていく。そしてそのままピアノの椅子に座り、蓋を開けた。
「今から《すみれ》の伴奏するから歌え。」
「へ!?」
突然の命令に素っ頓狂な声が出る。
「で、でも、発声もしてないし・・・。」
「どんな声でもいい。俺だってピアノはしばらく触っていないんだ。自由に歌え。」
そして譜面台に載っていた楽譜を開くと、前奏を引き出した。
賢仁がこういうということは、何か考えがあるのだろう。あまり準備が出来ていない声を聞かれるのは嫌だが、日菜子は歌ってみることにした。
そしてすぐに驚いた。
(歌える・・・!)
発声練習をしていないため完全に鳴ってはいないが、それでも今までとは大違いだ。
羊飼いは軽やかに走り、すみれは切々と嘆く。思いは通じずとも、小さなすみれは喜びの中で死に絶える。
余裕が出てくると、情景までもが自然と浮かんできた。
そうだ。歌ってこういうものだった。
より多様で、いい声を出すことはたしかに大事だが、一番は音楽をすることなのだ。
声が出ないことにとらわれすぎて、大切なことを置き去りにしていたようだ。
日菜子は嬉しくなって賢仁に目を向けると、向こうもこちらをみているのに気がついた。
優しくて――熱い目だった。
(反則だ、あんなの)
歌っている興奮とはまた違うもので上がった体温は、しばらく静まりそうになかった。
「“歌い手殺すに刃物はいらぬ。”」
曲が終わると、賢仁が唐突に言った。
「え?」
「そういう言葉があるらしい。ちょっと伴奏を遅くしたり、合わせなければ歌い手はすぐに歌えなくなる。どんなベテランだとしてもだ。」
そういえば、そんな言葉を京都の先生から聞いたことがあるような気がする。先生は試験間近になると、日菜子が選んだ伴奏者はピアノが上手いかどうかより、伴奏が上手いかどうかを気にしていた。
それはこういう理由があるからだったのか。そう納得する日菜子を見て、賢仁は続けた。
「伴奏はただ弾けばいいってものじゃない。本気で歌手を支える気でいないと無理なんだ。プロのピアニストでも、伴奏経験が少ない人だとそうなるんだ。アマチュアの人だったら当然だ。」
そして賢仁は「お前ももっとそういうところを敏感に感じて、ピアニストに伝えなくちゃいけないんだぞ。」と付け足した。
今度の伴奏者は、ピアノのベテランではあるが、伴奏の経験はあまりないようだった。いつも試験前のレッスンでは先生がつきっきりで伴奏者に指導してくれていたので、日菜子は伝え方がよく分かっていなかった。
“先生にみてもらえばなんとかなる”
そんな甘えが、今回のことを引き起こしてしまったのか。
しかしそこで日菜子は疑問が浮かび上がった。
「じゃあなんで賢ちゃんは弾けるの?」
賢仁はたしかにピアノが上手だったが、プロになれるほどではない。今だって弾くのが久しぶりだったからか、抜け落ちている音もあれば弾けないところは声で補っていた。それなのに、断然歌いやすかったのはどうしてだろうか。
すると賢仁は事も無げに言った。
「俺はお前が歌っているのをずっと見てきたんだ。どこで速くするか、どこでためるか、だいたいわかる。」
賢仁の伴奏で歌いにくさを感じたことはなかった。それは、賢仁が本気で支えようと思って弾いてくれていたことに他ならない。
本当にいろんなところで助けられていたんだな、と日菜子は切なさを通り越して情けなくなってきた。
「それから、お前ももっとピアノを練習しろ。どうせ高校の試験用にしか練習してないんだろ?」
「うっ」
痛いところをつく。思わず胸を押さえた日菜子を見て、賢仁はため息をついた。
「ドイツ歌曲にとって伴奏が重要になってきたのはだいたいシューベルトあたりからだが、それはこのモーツァルトの《すみれ》の影響が大きいんだ。」
すみれが楚々のした様子と曇りのない感情を現す前奏。羊飼いの少女が駆け寄ってくる軽やかな間奏の後にはすみれの心の陰りが表現される。そしてすみれの望みを打ち破る悲劇的な和音と少女によって与えられた死にたいする喜び。
当時のドイツ歌曲の作曲家たちはこの詩に民謡的な有節形式で曲を書いたのに対し、モーツァルトはドラマの展開に即して音楽描写を変えていく通作形式を用いた。
これが後のロマン派の歌曲への発展を促すことになったのだ。
「詳しいね、賢ちゃん。」
「三島先生に聞いてきた。さっきはその帰りだ。」
あんなことがあった後だというのに、賢仁はちゃんと気にかけてくれていたのか。
日菜子は賢仁の大きな優しさに、言葉が出なかった。
「お前の歌一筋なところはすごいと思うし尊敬してる。でも、それだけやってればいいってもんじゃないだろう。ドイツ語だって、ピアノだってそうだが、それよりももっと色々経験してみるのも大事だ。きっと先生はそういうところを考え直して欲しかったんじゃないか?」
「そうなのかな・・・。」
普段は暖かくて人の良い先生だが、歌に関してのお世辞だけは絶対に言わなかった。
だからこそ注意されたときは身が引き締まるし、褒められたときは本当に嬉しくなる。
その先生が“自分には才能がない”と言ったのだから、それは本当にそうなのだろう。
でもそれは、努力をしなくてもできる才能だ。
先生はきっと、日菜子の“甘さ”を見抜いていたのだろう。
“ひなちゃん、歌には、塗り重ねたものしか出てこないんよ”
いつか先生が言っていた。
それは歌だけではなく、生きてきた中での経験。
日菜子の気持ちを引き継ぐように、賢仁が続けた。
「だから、歌に関係ないと思わず、色々やってみろ。恋だって・・・彼氏を作るのだって悪いことじゃない。」
「それ、は・・・」
―賢ちゃん以外の人と?
その言葉が引っかかって続きが言えなかった。
自分がここまで臆病だとは思わなかった。
たった一言伝えるだけだというのに。
もう呆れられてるかもしれない。言っても今更かもしれない。
今は付き合えても、うまくいかないかもしれない。うまくいかなかったら、この距離が遠くなってしまうかもしれない。
生まれたばかりのひよっこな心は、中々殻から出てこようとしない。
しかし日菜子はまだ理解していなかった。
“賢仁をあまり、見くびらない方がいいですよ”
夏目のあの言葉の本当の意味を。
日菜子が心の中で葛藤していると、賢仁が突然身を乗り出した。
「歌って、成功するのに時間かかるんだろ。」
「え?う、うん。」
「それだけで食べていくのも難しいんだろ?」
「そうだけど・・・賢ちゃん?」
突然の話題転換についていけず戸惑う。しかし17年間の幼馴染の勘が、こういうときの賢仁は結構とんでもないことを言うと告げていた。
そしてそれは当たっていた。
賢仁は日菜子の目をまっすぐ見つめると、ピアノの上にあった日菜子の手を握り締めた。
「俺がお前を養ってやる。」
「はぁ!?」
開いた口が塞がらない。一体彼は何を言っているんだ。
しかし賢仁はこちらの驚きなど気にもかけずそのまま続けた。
「お前は歌を好きなだけ勉強していればいい。留学だってしたらいい。今はインターネットだってあるし、なんだったら俺が留学先まで会いに行く。」
「え、ちょっと、」
「たとえ芽が出なくても気が済むまでやってみたいらいいだろ。」
賢仁はなんでもないことのように言うが、一体どれだけの時間がかかると思っているのだ。しかし冗談や勢いではなく本気で言っているのがわかるだけに、ますます困惑した。
「それから俺は大学から京都に行く。K大を受ける。」
「え!?うそすごい!・・・じゃなくて!」
「お前も寮を出たらアパート探すんだろ?だったら俺と一緒に住めばいい。」
「ちょっと待、」
「電話よりも近くにいた方が話も聞きやすいだろ。」
「待っててば賢ちゃん!」
「俺にしとけ。」
その言葉に、日菜子の声がぴたりと止まる。
賢仁はいつもの難しい顔に確信とほんの少しの懇願の色を浮かべて言った。
「俺以上に、歌バカなお前を好きな男が現れるわけないだろ。」
日菜子は思わず息を飲み込んだ。
途端に湧き上がった想いは何という名をつければいいのだろうか。それはどんどん日菜子の中に溢れてきて、声を出さなければそのまま溺れてしまいそうだった。
ああ、一体何をうだうだ考えていたんだろう。
もう、躊躇する理由なんてどこにもない。
気がつけば、体が動いていた。
握られた手を握り返し、反対の手を賢仁へ伸ばす。
彼が瞬きをするあいだに、
日菜子が知る、最大限の愛情表現を送った。
柔らかな感触と、わずかな熱。
それを唇に感じた。
「私も、賢ちゃんが好きだよ。」
顔を近づけたまま、囁くように言う。
鼻先にメガネが当たり、軽い音を立てた。
賢仁は今起こったことを処理しきれないようで、目を見開いたまま固まっていた。
きっと数日前の自分もこんな状態だったのだろうと思うと、少し胸がすく思いがする。
よく考えてみたら了承も得ずに乙女の唇を奪うなんて、文句のひとつやふたつ言ってもいいところなのだ。
日菜子は早鐘のような心臓を落ち着けるように、心の中で軽口をついた。
数分後――いや、実際には数秒しか経っていないかもしれない。
息をつめて反応を待つ。
すると賢仁が思い出したかのように瞬きをして、ゆっくりと口を開いた。
「うそだ。」
「第一声がそれ!?」
思わず力が抜けてうなだれる。
確かに日菜子自身、この気持ちに気がついたのは先ほどなのだ。
ずっと片思いだと思っていた上に一度振られた賢仁が疑心暗鬼になってしまうのも無理からぬことだろう。
今度は数日前の賢仁の状態を思い、申し訳ない気持ちになった。
(でも、それにしたって・・・。)
恋愛初心者の日菜子にとって、清水の舞台から飛び降りるぐらいの行為だったのに。
行き場のなくなった手を力なく落とす。
「・・・でも、」
日菜子がいじけていると、賢仁から声が上がった。
覗き込むと、深く刻まれた眉間のしわは溶けていくようになくなって、幼い笑顔が浮かんでいた。
「もう数回すれば、信じられるかも。」
今度は優しく手を引き寄せられる。
何を?
その言葉は、賢仁の口に飲み込まれてしまった。
歌が大好きで、歌一筋な羊飼いの娘も、きっと色鮮やかな世界に気づく時がくるだろう。
青い草原、抜けるような空、輝く水面、そして―――可愛いすみれ。
そうして生まれた歌は、きっと今まで以上に輝いているに違いない。
これで「君へ贈る歌」は終了です。
ここまで読んでいただいてありがとうございました。
R-15は?みたいなことになってすみません。
たくさんの名曲を生み出したモーツァルトですが、詩に拘りを持っていなかったために、ほとんどが無名の作詞家の作品に曲をつけています。その中で「すみれ」が唯一有名なゲーテの詩に作曲したものなので、余計に有名な曲となりました。もしモーツァルトがもっと早くから格の高い詩に曲をつけていたら、リートの時代はもっと早く到来していたかもしれません。
こういう辺りも話に織り込みたかったのですが、うまくいきませんでした。やはり恋愛小説は難しいですね。
さて、次は「あしたへ贈る歌3」です・・・が、まだ半分しかできていません。
でもあまり間をあけたくないので、1月1日からちょっとずつでも更新しようと思います。・・・・・多分。
夏休みが終わって、場面は新学期です。学生には欠かせない行事に、また性懲りもなく起こる事件。秋といえば恋愛かなということで、今回は恋愛がテーマです。
少し変化が出てきた雪春に、同じく変化はあるけどやっぱり相変わらずな幸太郎。そして本気をだし始めた夏目に、ハラハラ見守る一花でお送りします。
それでは皆様、よいお年を!