ひよっこの賢ちゃん
振り向くと、荒れた息を必死で整える賢仁がいた。
「賢ちゃん・・・。」
「普段はとろいくせに、どうしてこういう時だけすばしっこいんだ。おかげで町内を走り回った。」
賢仁は額の汗を荒々しく拭うと、ため息を一つこぼした。
その姿に日菜子は胸が詰まって何も言えなくなる。
いつだってそうだった。
どんなに喧嘩をしても、最後にはこうやって迎えに来てくれる。それはずっと幼馴染だからだと思っていたけど。
(私は馬鹿だ・・・)
もう何度目になるかわからない言葉を心で呟く。
きっと幼馴染の枠にははまりきらない優しさを、賢仁はたくさん示してくれていたのだろう。それに気づかずに恩恵だけ受けておいて、どのツラ下げて「私もずっと好きだったみたい」などと言えるだろうか。都合が良すぎる。
言ったら今度こそ本当に呆れられそうだと、日菜子はブランコの柄を握り締めた。
「で?また上手く歌えなかったのか?」
降ってきた賢仁の発言に目を丸くする。何も言っていないのになぜわかったのだろう。
「もしかしてエスパー!?」
「バカ。いつも歌の調子が悪いとそういう感じになるだろう。」
言われてみればそうだったかもしれない。そしてその被害を一番被るのは賢仁だった。
「何があったか言え。話はそれからだ。」
賢仁の鋭い視線に押され、日菜子はおずおずと話し始めた。
「それで俺は勝手に八つ当たりされて往来で振られた訳だな。」
隣のブランコに腰掛けて心底呆れたように言われた。事実ではあるが、そう簡潔にまとめられるといたたまれない。
日菜子は何も言えずに項垂れていると、賢仁がポツリと言った。
「“なんでも持ってる”・・ね。」
その声にどこか傷ついた色が見えて、日菜子は数時間前の自分を殴り倒したくなった。
持っていると思われるものは、全て賢仁が努力して手に入れたものだ。もちろんスポンジの吸収率は違うかもしれないが、それでも水を与えていったのは賢仁の力だというのに。
(たしかに、勝手な八つ当たりだな・・・。)
再度落ち込んで、日菜子はますます項垂れた。
「ずっと、そばにいられると思っていたんだ。」
「え?」
続けられた言葉の意味を測りかねて賢仁を見ると、彼はブランコを揺らして、どこか諦めたように空を見上げていた。
「どんなにお前が歌手を夢見ていても、俺はずっとそばにいられると思ってた。だから俺は、皆と違って夢に突き進むお前が誇らしかったし、心から応援するつもりだった。」
”夢を持ちなさい”
学校の先生はよくそう言う。不景気、就職難、そんな話題を出したのと同じ口からその言葉が出るのだから、どうしようもない。実際子供の時から決まっている人間なんてほんの一握りだろう。それでも、日奈子は歌があった。皆が進路で悩んでいる時も、一人で音楽室を借りて練習していた。
そんな日菜子を賢仁は応援していた。たまには筆記の勉強もしろとため息をつきながら。
「でも、エスカレーターで行ける高校を蹴ってまで京都に行くって聞いたとき、俺は焦った。」
置いていかれるって。そう呟く賢仁は迷子になって泣き出す小さな子供のようだった。
「賢ちゃん・・・。」
進路を決めた夏の日。日菜子は生まれて初めて賢仁に相談しなかった。いや、正確には相談はしたが日菜子の中では決定事項だった。
それほど歌は、日菜子にとって大きなものになっていたのだ。
しかし、あの時「そうか。」と言った賢仁の顔は、一体どうだっただろうか。
どうしても思い出せない自分がいた。
「それから俺は、少しでもお前の目に映るように必死だった。ピアノ伴奏できるように練習も欠かさなかったし、お前に勉強を教えられるぐらい、どんどん先を勉強した。それでも、」
そこで賢仁は一度言葉を切って、自嘲するような笑みを浮かべた。
「俺が世間一般ではなんでも持っているように見えたって、お前は俺に見向きもしなかったんだ。」
日菜子は「はじめに歌ありき」だった。カラオケは喉に良くないから行かなかったし、大声で何かを応援するなんて以ての外。歌の調子で気分が一喜一憂して、歌がうまく歌えなくて眠れない夜が続き、寝ても覚めても歌のことを考えている時さえあった。
そう、まるで恋をしているかように。
賢仁に「そんなことない。」そう言いたかった。でも言えなかった。
これ以上、日菜子に付き合わせていいのだろうか。自分が歌を好きでいることには変わらない。
賢仁もやりたいことを見つけたというのに。
幼馴染で、家も隣で、今だってほんの数十センチ隣にいる賢仁が、急に遠く感じた。
沈黙が降りてくる。
それはどうしようもないぐらい寂しいものだった。
しかし、その空気を打ち消したのは賢仁だった。彼は「まあいい、とにかく行くぞ。」と言うと、勢い良く立ち上がった。
「行くってどこへ?」
しかし賢仁はそれに答えず、日菜子の腕を掴むとブランコから立ち上がらせた。
「賢ちゃん?」
「いいから来い。」
そしてそのまま引っ張られながら公園を出た。