ひよっこの癇癪
それから、やっぱり日菜子は賢仁に会いづらくなってしまった。
賢仁は言葉通り待ってくれるつもりなのだろう。あれ以来、何かを言ってくる様子はない。
“つきあってみればいいじゃない。”
美也子ならそう言うだろう。日菜子だって、もし相手が普通の知り合いだったらそうしただろう。
でも、相手は賢仁なのだ。そんな中途半端な気持ちで付き合って、結果だめになったら?
きっとそれこそ今までのようにはいかなくなってしまう。
いずれ日菜子は大学に入って、留学だってしたい。海外で生活するようになったら電話さえ滅多にできなくなる。
そんな状態になった恋人同士が続くわけがないじゃないか。
「佐倉さん?準備はいいの?」
突然声をかけられてはっとした。そういえば今は、今度のサロンコンサートのための伴奏合わせ中だった。
由加里が伴奏者として紹介してくれた相手は、日菜子より三歳年上の女の人だった。地元の大学の教育学部の人らしい。ピアノ歴も長いようで、ベテランの人だと言っていた。
「すみません、大丈夫です。」
慌てて謝ると、彼女は“すみれ”を引き始めた。
やはり一番先生に聞いてもらっているこの曲は外せなかった。
軽やかな前奏が終わって歌い始める。
(ん?)
かすかな違和感。しかしピアノは止まらない。
歌い初めだからか、と流したが、二番に入ってもそれは拭えなかった。
(あれ?)
すみれが嘆く。あの子に摘んで欲しい!
しかしその願いは届かない。
(届かないっていうより・・・)
声が上がりきっていない。息も続かない。かすれる。そりゃあこんな声がじゃ少女も気づかないだろう。
日菜子は焦った。
いつものように歌えない。確かに先生に最終通告された日のレッスンでも上手く歌えたとは言えなかったが、こんなに声が出ないようなことはなかった。
どうして?
いつもは出る範囲の高音でさえ上ずる。歌詞が上手く発音できなくてもごもごする。お腹にどれだけ力を入れても支えきれない。
どうしてどうしてどうして?
混乱しているうちに曲は終わった。ブレスの位置やテンポを伝えなくてはいけない。でも、日菜子は動けなかった。
「佐倉さん?」
伴奏者が首を傾げる。
言わなくては、何かを。でもこんな歌で、何を言えばいいのか。
「・・・すみません、少し調子が悪いみたいで。」
「そうなの?そんな感じはしなかったけど。」
それはいつもの日菜子の歌を聴いていないからだ。どうせ学生はこんなもの、そう思っているのかもしれない。
いや、それは被害妄想すぎるだろう。日菜子は首を振って気持ちを切り替えた。
「とりあえず、ブレスは――・・・」
その後一時間の間、日菜子の調子が戻ることはなかった。
「どうしよう・・・。」
声に出しても答えはなく、雑踏の中で虚しく響くだけだった。
あれから何日か合わせたけど、結果は変わらなかった。日菜子の声と心が空回りするばかりで、全然曲にならない。
(これって・・・。)
「スランプ?」
自分が出した言葉にひやりとする。本番まで数日もないのに、そんなのに陥っている場合ではない。
でも、スランプっていつ抜け出せるんだろう。何百回も歌ったら?それともしばらく歌わなかったら?でもしばらくっていつまで?というか本当に抜け出せるの?抜け出せなかったら――歌がうたえなくなる?
日菜子はずっと歌が大好きで、歌一筋で、でも。
その歌がなくなったら、私には何が残るんだろう――?
周りを何人もの人間が通り過ぎていく。日菜子は自分を知っている人が一人もいない、この人ごみの中で途端にしゃがみこみたくなった。
突然うずくまった人間に対して、皆どういう反応をするだろう。驚く?心配する?それとも見なかったことにしてそのまま通り過ぎる?それどころか間違えて踏みつけちゃったりして。
「“すみれ”みたい・・・。」
渇いた笑いが漏れる。
“ひなちゃんは才能もないし、ええ声を持っている訳でもないから―――”
まるで遅効性の毒のように、その言葉は自分を蝕んでいた。
その時、前方のコンビニから賢仁が出てくるのが見えた。登校日だったのか、制服を着ている。
「あ、賢ちゃ・・・」
反射的に声を上げかけて、止まった。その後から、また一花が出てきたのだ。
なんだ。結局そういうことか。
日菜子は悟った。
踏みつけられても、きっと賢仁は平気なんだ。
だからあんな風に簡単に変化を望める。
歌と幼馴染の関係にしがみつく日菜子の気持ちなんか、わからないのだろう。
「・・・ひな?」
賢仁が日菜子に気づく。しかし目線合う前に、日菜子は踵を返した。
「おい、」
声をかけられたが無視して進む。しかしすぐに手を掴まれた。
「どうしたんだ?お前。」
「別になんでもない。放して。」
「何でもないことないだろう。何かあったのか?」
いつもはあっさりしている賢仁だが、こういうときは妙にしつこかった。
「賢ちゃんには関係ない、いいからほっといて。」
「お前な・・・。」
深々とため息をつかれる。いつもなら聞きなれているそれが、今はとてもカチンときた。
賢仁は頭が良くて、学年二位で、運動もそこそこできて、かっこよくて。そして。
「・・・ぃよ。」
「ひな?」
そして、あんなに可愛い子も傍にいる。
「なんでも持ってる賢ちゃんには、わかんないよ・・・。」
自分には歌しかないのだ。他の手を振り払ってでもすがりつくことの何がいけない?
そうでもしないと、日菜子は声楽家になんてなれない。才能のない自分では。
握られた手を思い切り振り払った。賢仁は呆然としている。しかし、日菜子は止めることができなかった。
「私は、賢ちゃんと付き合うことなんかできない!弟としか思ったことない!」
「ひな、
「だからもう、ほっといて・・・!」
そのまま振り返らずに走り去った。
羊飼いの少女は本当に気づかなかったのだろうか。
踏みつける足だって、こんなに痛い。