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君へ贈る歌  作者: こいも
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ひよっこの好きなもの

 サッカー観戦にはそぐわない、スーツに身をつつんだ小柄な人。ショートカットでどこか中性的な雰囲気を持っていたが、声からして女性で間違いないだろう。

「どうして君と出かけるのが前提なんですか。何回も家まで押しかけてきたりして。あれ絶対近所の人に誤解されました。」

 女性は憮然とした表情で軽くため息をつくと、夏目が楽しげに笑った。

「それはいいですね。そのままにしておきましょう。いずれ誤解ではなくなります。」

「君はっ・・・!」

 その軽やかな返しに彼女は夏目を睨みつけたが、やがて諦めたようにため息をついた。

「え、と・・・?」

 なんだか置いてけぼりにされた日菜子が戸惑っていると、賢仁が助け舟を出した。

「今年の四月からここに着任された三島雪春みしまゆきはる先生。音楽担当だ。」

「え!音楽の先生!」

 学生のような見た目で先生というのにも驚いたが、音楽をしているというのは意外だった。

 だってなんだか・・・ものすごく無表情なのだ。

 音楽高校の声楽科にいる子たちのような派手さも華やかさもない。どちらかと言うと透明な雰囲気だった。

 しかし音楽の先生なら聞いてみたいことがある。日菜子は彼女に近寄った。

「こんにちは、三島先生!」

「・・・こんにちは?」

 突然隣に座ってきた日菜子に驚いて、二回程、目を瞬かせた。

「私、賢ちゃんの幼馴染の佐倉日菜子です!京都の川端音楽高校に通って声楽を勉強してます!」

「川端音楽高校・・・すごいですね。」

 やはり知っているようだ。音楽科単独の高校は珍しいから当たり前かもしれないが。

「先生って、音楽好きなんですよね?」

 その唐突な質問に雪春は少し戸惑ったようだが、素直に答えた。

「はい、好きですね。」

「じゃあ他には?」

「はい?」

「他に好きなものはあるんですか?」

「え、と・・・。」

 雪春は質問の意味をわかりかねたのか、それとも答えにくいことだからか、少し目を泳がせた。

「それは僕もぜひ聞きたいですね、先生。」

 夏目がにこやかに追い討ちをかける。ここまで楽しそうな夏目を見るのも初めてかもしれない。

 雪春は迷うような様子を見せたが、二人からじっと見つめられて観念したようだ。軽く下唇を噛んでから、ゆっくりと口を開いた。

「本を読むのは好きです。それから・・・料理も、嫌いではないですね。」

 雪春は言葉を探すように一つずつ言う。

「ユリや薔薇を作ったり、刺繍をしたり、詩を読むのも好きです。」

 意外と多趣味だな、と思っていたが、次の言葉で雪春の意図がわかった。

「それから、雪解けの季節の最初の太陽が好きです。」

「・・・ミミですか?」

 言い当てると案の定、雪春は小さく笑った。

「バレましたか。」

 ミミとは「ラ・ボエーム」のオペラに出てくるお針子で、「私の名前はミミ」というアリアで今のようなものが好きだと自己紹介するのだ。

 しかし真面目そうに見えて、意外と茶目っ気がある人だ。日菜子は何だかこの先生が好きになった。

「・・・私、歌の先生に才能がないと言われたんです。」

 初対面の人間にどれだけディープな話をするつもりだと思ったが、気づけば話し出していた。なんだかこの先生は聞いてくれそうな気がしたのだ。

 乗り出していた体を元に戻して座り直してから、日菜子はゆっくりと続けた。

「歌の道に進むかどうか、もう一度考え直したらって。」

 雪春は黙って聞いている。日菜子も別に答えが欲しかったわけではない。この言葉については、先日賢仁に話して自分の中で折り合いをつけている。しかしそれでも、絶えず日菜子の中に潜んでいる不安を聞いてもらいたかったのだ。

 音楽大学を出たからと言って、職につながるわけではない。ずっと勉強していても成功する保証はないし、第一、歌だけで食べていける人間なんてほんのひと握りなのだ。声楽家を目指す人は誰しもそんな不安を抱えている。

 日菜子は膝の上に乗せた手を見つめた。

「・・・通っていた大学の声楽科に有名な教授がいたのですが、その人は学生時代、落ちこぼれだったそうです。」

 雪春がポツリと言ったので、日菜子は顔をあげた。

「でも今歌をやっているのは、その時の同級生の中で自分だけだと言っていました。結局、諦めないもの勝ちということですね。」

「諦めないもの勝ち・・・。」

 妙に心に響いて口の中で呟く。

「仮に佐倉さんが今後歌を続けても、一流の歌手になれなかったり、あるいは別の道を見つけるかもしれません。それでも、歌が好きだと言う気持ちを持ち続けて進んだその先には、きっと佐倉さんが納得できる答えがあると思いますよ。」

 もっと難しいことや、あるいはとにかく頑張れ、というような感情論で諭されるかと思っていた。

 しかし雪春の言葉はもっと単純なことだった。

 “歌が好き”。その気持ちを持っている限り、続けていればいいのだと。

 日菜子は少し肩の力が抜けた気がした。


 “どうして音楽の道を選んだのか”


 本当はそう聞いてみたかったのだ。でももう必要ない。

 “好き”という気持ちを持ち続けていたからこそ、今の彼女があるのだろう。

「なるほど、僕もその言葉は胸に刻みつけておきます。」

 それまで黙っていた夏目がにこやかに言うと、雪春は無表情の中に少しだけ疲労の色を浮かべてため息をついた。

「・・・君はもう少し、妥協するとか折り合いを付けるという言葉を知ったほうがいいと思います。」

 たしかに夏目の辞書にその言葉はなさそうだ、と日菜子も内心苦笑した。

 その時賢仁がこちらを見ているのに気づいた。しかしどこか困ったような、途方にくれたような顔をしていて、慌てて目をそらした。

 それは、幼馴染に向けるような目でも、もちろん浮気相手にするような目でもない。

 欲しくて欲しくてたまらないのに、高い木に引っかかってしまった風船を見上げるかのような。

 

 賢ちゃんは、私のことが好きなんだ。


 それは、キスされた時から薄々わかっていたことだった。しかし認めたくなかった。認めてしまえば、今までのような関係には戻れなくなる。どんなに遠くに離れても切れることのない姉弟のような関係には。

 

 日菜子は歌が大好きで、歌一筋で。

 前を見て走り続ける羊飼いの娘なのだから。


①「三島雪春」・・・「あしたへ贈る歌」シリーズの主人公です。

②「私の名はミミ」・・・既にシリーズでは何回か出てきているオペラ「ラ・ボエーム」の中で最も有名なアリアの一つです。この中のフレーズが「ライトモティーフ」として、ミミが登場する時にも流れます。

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