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銀桂悲歌

作者: 矢麻みつき


 しとしとと、細かな雨が降っていた。

 陽はとうに没している。

 闇夜だった。新月の上にこの天候では無理もない。

 男は、足早に家路を辿っていた。

 雨をしのぐために被っていた薄衣はしっとりと雨滴を含み、あまり役立っているとは言えない。

 このままではずぶ濡れになってしまう。その前に何としても家に着きたかった。

 不意に、彼は何かを感じて足を止めた。

 導かれるように後方に視線を動かす。

 暗闇に慣れた目に映ったのは、1本の木犀もくせいだった。

 なんの変哲もない普通の木だ。日頃からこの道を通っている彼にとっては、見慣れた街路樹の1本にすぎない。

 しかし、この時はなぜか、その木から目が離せなかった。

 男は雨に濡れるのもかまわず、その木を見上げる。

 このまま通り過ぎることもできたが、それではあまりに気持ちが悪い。

 何が自分の足を止めさせたのか、その理由を知りたいと思った。

 一歩近づいて、唐突に彼は気づいた。

「花芽がない・・・」

 木犀といえば、秋に花を付ける木である。今が盛りと咲き誇っていて良いはずだった。

 けれど、目の前の木犀にはそれがない。

 遅咲きかとも思ったが、それにしても蕾の一つも付けていないとは。

 男の背丈をはるかに越える高さにまで成長した木犀。青々とした葉を見れば、この木が枯れていないことは明らかだ。

 奇妙なこともあるものだ。

 雨が降っていることも忘れ、男はしばらくその木を見上げていた。

 

 どれほど経っただろうか。

 視界のすみに、白いものが映った。

 ぎょっとしてそちらを見遣る。

 見間違いでなければ領巾ひれだろう。領巾と言えば、女性の衣装だ。

 雨の中、しかもこんな夜更けに木の下で雨宿りもあるまいに。自分のことは棚に上げて男は思った。

 領巾を纏った人物は、どうやら木の陰にいるらしい。よくよく目を凝らして、さらに驚いた。

 その人影は、年若い少女だったのである。

「どうした、こんなところで?」

 彼女は木犀の幹に身を預けるようにしてたたずんでいる。

 男が駆け寄ると、少女はぼんやりと彼を見上げてきた。

 おびえた様子はない。

 その目が男の姿をしっかりと捉えるまで、わずかに間があった。

 少女の両目に、男の顔が映る。けれど、言葉は返ってこない。

 男は再び尋ねた。

「こんな夜更けに、何をしている? 具合でも悪いのか?」

「・・・・・・」

 やはり、返事はない。

 言葉が通じないのだろうか。男は思案に暮れた。

 年のころは15、6。まだ子供といって良い年齢だ。

 さすがに置き去りにするのは忍びない。しかしこのままではどうしてやることもできなかった。

 せめて身元くらい分かれば、送り届けることもできるのだが。そう思って男は尋ねた。

「名はわかるか? 自分の名だぞ?」

「名・・・」

 少女がつぶやいた。

 どうやら言葉が通じないわけではなさそうだ。そのことに少しほっとした。

 膝をついて少女に視線を合わせると、男はできるだけ優しく話しかけた。

「そうだ、名だ。俺は偲義しぎいう。君は?」

芳琳ほうりんと・・・皆は呼びます」 

 細かったが、ちゃんとした声だった。いささか妙な返答だという気はしたが、今は悠長に考えている暇はない。

「では芳琳、どうしてこんな所にいるのか、わかるか?」

 偲義が問う。だが芳琳は憂いを帯びた目で彼を見返すばかりだ。

 迷子になるという年齢でもないはず。頭でも打って記憶を失くしたのだろうか。

 仮にそうだとすれば、ここで少女に尋ねたところで答えが返ってくるはずもない。

 放り出すわけに行かないなら連れて帰るしかないのだろうが、いずれにせよ、今の偲義にはこの少女は手に余った。

 名前は分かった。夜が明けて近所の誰かに尋ねれば身元もはっきりするかもしれない。

 衣は濡れ、全身は冷え切っている。それは少女も同じのようだし、さすがにこれ以上雨に打たれ続けるのは偲義にとっても歓迎できることではない。

 偲義は、諦めたようにため息をつくと、芳琳に手を差し伸べた。

「俺の家で良ければ、来るか? 一晩くらいなら泊めてやっても良い」

「・・・・・・」

 分かっているのかいないのか、芳琳は大きな瞳をまっすぐに偲義に向けるばかり。

 とんだお荷物を拾ってしまったものだ。ここへ来てようやくそう思ったが、後の祭りだ。

「警戒は必要ないぞ。確かに男の独り身だがな、子供に興味はない」

「子供?」

 芳琳の表情がわずかに動いた。

 子供と呼ばれて機嫌でも損ねたか。そう思ったが、どうやらそうではないらしい。

 なぜ自分がそう呼ばれるのかが分かっていない。そんな風だった。

「俺から見れば、君はまだまだ子供だよ。手を出したりしないから安心しろ」

「手を出す?」

 芳琳が首を傾げた。

 偲義の想像以上に「子供」だったようだ。本当に、彼の言葉の意味がわからないのであれば、これ以上の説明は無意味だった。

 偲義は苛立ったように首を振ると立ち上がった。

 衣はしっかりと水気を吸って重い。冷たい衣が身体にまとわり付く不快感が、さらに苛立ちを助長する。

 偲義は今夜の運命を呪った。

「あのな、芳琳。俺は雨に濡れて寒い。だから早く帰りたいんだ。わかるな?」

「・・・・・・はい」

「よろしい。雨に当たりながら夜を明かしたいなら話は別だが、ついてくるなら、乾いた着替えと寝床くらいは用意できる。これもわかるな?」

「・・・はい」

 偲義は、可能な限り苛立ちを押さえつつ、少女の瞳を覗き込んだ。そうして、再び少女に手を差し伸べる。

「では、もう一度問うぞ。ついてくるか?」

 一瞬の沈黙の後。

「はい」

 芳琳は頷いた。

 そしてゆっくりと、差し出された手に小さな手のひらを重ねた。



 なぜこんなことになったのだろうか。

 偲義は、芳琳の後姿を眺めながら思った。

 彼が少女を拾ってから、既に10日。

 身元は杳として知れず、芳琳も出て行こうとはしない。

 偲義との生活が案外心地よかったのか、そのまま居ついてしまった。こうなっては、偲義とて追い出すわけにもいかない。

 数え年で26。周囲の友人達が次々と妻帯してゆく中、偲義はいまだ独り身だった。

 自分で思っている以上に侘しかったのかもしれない。頼られているのだと思えば悪い気はしなかったし、無条件に懐いてくる芳琳は可愛かった。

 家出をした子供の噂が聞こえてきたら、その時にまた考えれば良い。そう思い始めていた。

 芳琳は、驚くほど何も覚えていなかった。否、知らなかったという方が正しいか。

 自分自身に関することもそうだが、日常生活のほぼすべてが、初めて経験することだと言う。

 確かに、身なりを整え明るいところで見た芳琳は、ずいぶんと綺麗な子供だった。

 雨と泥とで汚れた衣も、洗濯をしてみればかなり上質なものだった。物腰も言葉遣いも品があるし、どこぞの姫だと言われても納得したかもしれない。

 だが、何を尋ねても詳しく話そうとはしなかった。

「偲義、今日はとても良いお天気ね」

 視線を感じたか、芳琳が振り返った。

 芳琳の顔には笑みが浮かんでいる。落ち着いてくればちゃんと感情表現もあるし、普通の少女にしか見えない。

 偲義は笑顔で応じると、戸口を指差した。

「ああ、そうだな。少し外へ出てみるか?」

「外へ?」

「ああ。ずっと家にこもっていることもない。少しは日に当たってくると良い」

 偲義の言葉に、芳琳がわずかに首を傾げる。と思ったら、すぐに駆け寄ってきた。

「偲義も、一緒に行く?」 

 甘えるように偲義を見上げる。それは既に問いではなく、おねだりだった。

 芳琳を散歩に行かせて自分は昼寝でもしようと思っていたのだが、あてが外れたようだ。

 仕方ない。偲義は軽く笑って頷いた。

「ああ、行こう」

 今日は仕事も休みだし、二人で出かけるのも良いだろう。

 そう言って応じると、芳琳は華やかな笑みで満面を飾った。


 今日は市の立つ日だったらしい。町はずいぶんと人が多かった。

 はぐれないためにか、芳琳はしっかりと偲義の衣を握っている。

 人ごみに飲まれないように手を取ってやると、少女ははにかんだように笑った。

 この町には月に2回、大きな市が立つ。

 普段は閑散とした町も、この日ばかりはかなりの賑わいを見せた。

 ぐるりと見回せば、色鮮やかな品々が目に付く。衣服や飾り物を扱う店が多いのが、この市の特徴だった。

 そういえばと、偲義は隣を歩く少女を見遣った。

 多少汚れたとはいえ、衣服はあの晩身につけていたものである。だが、髪は無造作に紐で結わえただけだった。

 偲義が、女性の髪を結うことができないせいだが、不似合いなことこの上ない。

 この年頃にもなれば、結い上げて飾りの一つも付けたいだろう。

 偲義は、髪飾りを並べる店を指して言った。

「せっかく来たんだ、かんざしの一つも買うか」

「ほんとう?」

 芳琳が嬉しそうに頷く。芳琳の頭に手を乗せて撫でると、少女はくすぐったそうに笑った。

「ああ。薄給だからあまり高価なものは買ってやれないけどな」

 芳琳が笑みを崩さぬまま、首を振る。

「偲義が買ってくれるものなら、なんでも嬉しい。・・・ありがとう」

 ずいぶんと直接的な言葉だった。

 芳琳はいつもそうだった。思ったことを思ったとおり口にする。言われなれていない偲義としては赤面するしかない。

 両手を伸ばして芳琳がしがみついてきた。今もきっと、年甲斐もなく照れ笑いを浮かべている自分がいるのだろう。そんな顔を彼女に見られるのが気恥ずかしくて、偲義は少女の頭を両手で抱き返した。


 そのかんざしを、芳琳はずいぶんと気に入ったらしい。

 材質はといえば、銀でも鼈甲でもなく、木である。刻まれた模様も簡素なものだった。ただ、飾りとして付けられた蝶の細工だけは、丁寧で見事だった。

 もっと良い素材で作られたものはたくさんあったのに、芳琳はこれが良いと言う。

 店主が結ってくれた髪を水がめに映しては、そこに挿したかんざしを眺めていた。

 偲義が、呆れて寝ろと叱るまで、ずっとそうしていた。



 明かりを落とした室内に、虫の声が響く。

 芳琳は眠れなかった。

 偲義が買ってくれたあのかんざし。髪に飾っていると、とても心が温かくなる。

 嬉しくて嬉しくて、ずっと付けていたいと思った。

 けれど同時に、彼女の心に甘い痛みをよみがえらせた。

 忘れたくて忘れたくて、でもどうしても忘れられなかった、あの想い。

 長い時が経ったにもかかわらず、まだこうして時折痛む。

 切なかった。苦しかった。

 このまま抱えていることなどできそうに無かった。

「昔――」

 ぽつり、つぶやく。

 偲義が身動きするのが暗闇でも分かった。彼もまた、眠っていなかったのかもしれない。

 偲義は何も言わなかった。けれど、起きているのは間違いなかった。

 口が悪くて、ちょっとだけ意地悪で。でもとても優しい偲義。身元どころか、正体すらわからない自分を、傍に置いてくれた。

 そんな彼の優しさが嬉しかった。一緒に居ることが幸せだった。

 だから、黙っていてはいけないと思った。

 そうして芳琳は語り始める。あの夜、彼女が木犀の木の下に居た理由を。

「昔ね、とても好きな人が居たの」

「・・・・・・そうか」

「うん。私、その人のこと、ずっと見てた」

 今思い返しても鮮明に浮かんでくる、誰よりも恋しかった人の姿。

 締め付けるような痛みが心を覆う。枯れたと思っていた涙が瞳に満ちてゆく。

「彼はいつもあの木犀の木陰で、待ってた」

「・・・・・・」

 誰を待っていたのか、芳琳は言わない。偲義も問わなかった。

「とても綺麗な人だった。長い黒髪を結って、銀色のかんざしを挿して。私、羨ましかった。あの人の想いを受け取ることができる彼女が、羨ましかったの」

「想いを・・・打ち明けたことは?」

 偲義が尋ねた。静かでいたわりに満ちた声だった。

 その声の暖かさが芳琳の心に触れる。偲義の気持ちが暖かくて、芳琳は少しだけ切なかった。

「言えなかったの。見ていることしかできなかった。彼女のお嫁入りの輿が目の前を通った時は、哀しくて死んでしまうかと思ったわ」

 芳琳の声が涙にゆがむ。

 赤い輿、風に閃く花嫁衣裳。その髪には、あの銀色のかんざしがあった。

「諦めようと思ったわ。忘れようと努力もした。でも、心の中から想い、消えてくれないの。あの場所に行っても思い出すのは辛い記憶ばかりなのに、気づいたら立っていたの。あの人がいつもいた場所に、立っていたの・・・」

 こらえきれなくなった涙が、芳琳の頬を滑り落ちる。

 暖かな腕が、芳琳を包み込んだ。

「辛かったな」

「偲義・・・」

 偲義の手が芳琳の背をゆっくりと撫でる。芳琳はすがりつくようにして、彼の胸に頬を寄せた。

 涙が偲義の衣を濡らす。押し殺した嗚咽が、唇から漏れた。

「もう良いよ、芳琳。それ以上は言わなくて良い」

 それだけを言って、偲義は口をつぐんだ。

 偲義は、芳琳が泣き止むまで抱きしめてくれていた。まるで何かから彼女を守ろうとするかのように、ずっと。


 月明かりが窓から差し込んでいる。

 泣き止んでもまだ、芳琳は偲義の腕の中にいた。

 彼が離さなかったせいもあるが、芳琳もまた、出ようとはしなかった。

「おかしいわね、私。こんな風に泣いたりして」

 そう言って笑った芳琳は、ひどく大人びて見えた。話し方ばかりでなく姿からも、子供っぽさが消えている。

 意外な思いで、偲義は芳琳を見つめた。

 目に見える変化があったわけではない。けれど、今腕の中にいる彼女は、偲義の知る少女と明らかに雰囲気が違っていた。

 胸に溜め込んでいたものを吐き出したせいだろうか。偲義にはよくわからなかったが、芳琳の表情が穏やかになったことは良いことだと思えた。

「あの日からずっと時が止まったように感じていたけれど、もうずいぶんと経つのね」

 芳琳が再び語り始める。先刻のように取り乱すわけではなく、懐かしむような響きさえあった。

「ずいぶんって、どれくらい経つんだ?」

 偲義が尋ねた。

 話さなくても良いと彼は言ったが、芳琳は話すことを選んだようだ。ならば、最後まで聞いてやりたかった。

「そうね、10年くらいは過ぎたと思うわ」

「10年・・・?」

 思っても見なかった数字に、偲義は一瞬思考が止まった。

 姿はどう見ても15、6歳だ。10年も遡ればたったの5歳になってしまう。

 その年で、身を焦がすほどの恋をしていたというのだろうか。

「あなたの目には幼く見えるでしょうね。でも、これでも結構長い間生きているのよ?」

 偲義が何を思ったのかわかったのだろう。芳琳は困ったように笑った。

 馬鹿なことを言うなと、くだらない出任せでごまかすなと言うべきだったのだろうか。だが、偲義はそれを口にすることができなかった。

 芳琳はこんな時に冗談を言うような娘ではない。たった数日とはいえ、その程度の人となりは分かるつもりだ。ということは、彼女の言葉は真実なのだろう。

 あの涙と悲痛な叫びは本物だった。ならばこの言葉とて、本物のはず。

 深く考えるまでもなく、気づいた時にはそれを言葉にしていた。

「お前がそういうなら、きっとそうなんだろう」

 驚いたのは芳琳の方だった。

「・・・・・・信じるの?」

「信じるというのとは少し違うな。ただ、芳琳が嘘をつくとは思えない。だからお前の言葉は嘘ではない。そういう理屈なのだが、おかしいか?」

「偲義・・・」

「言っておくが、納得したわけじゃないぞ。いつか、本当のことを話してくれればそれで良い」

 偲義の言葉に、芳琳が息を飲んだ。

 その気配を察したか、偲義が苦笑する。

「あのな、芳琳。俺はお前のことを何も知らないんだぞ? 話してくれないんじゃ、知りようがないからな」

「そう・・・そうね・・・」

「だろう? だから教えてくれ。今すぐでなくて良いから。そうして初めて、今夜の話は納得できるのだろうよ」

「・・・・・・偲義、あなたって本当に・・・」

 言いかけて、飲み込む。不審に思った偲義が覗き込んできたが、芳琳は小さな笑みを浮かべただけだった。

「なんだ?」

「なんでもないわ」

 芳琳の言葉を受けて、偲義が身体を離した。そのまま寝台に倒れこむ。

「なんでもないなら、今日はもう寝ろ」

 芳琳が言葉を濁したのが気に入らないのか、声にはわずかに不機嫌そうな色がある。

 だが、本気で怒っているわけではないのだろう。芳琳が偲義の隣に身体を倒すと、そっと抱き寄せてくれた。

 偲義のぬくもりに包まれて、柔らかな眠気が彼女に訪れる。

「うん、おやすみなさい」

 囁くように呟いて、芳琳は目を閉じた。


 空は白み始めていたが、夜明けまではまだ時間があった。

 偲義はよく眠っていた。目を覚ますのはもうしばらく先だろう。

 芳琳は、彼を起こさないようにそっと寝台を抜け出した。

「偲義・・・あなたは本当に、優しすぎるわ」

 あの時飲み込んだ言葉の続きを、彼の寝顔に囁く。

 涙が頬を伝って床に小さな染みを作った。

 一緒に過ごした時を思い返せば笑みが浮かぶ。

 本当に幸せだった。包まれて守られて、ここにいればつらいことなんてないとさえ思った。

「でも、もうだめ」

 これ以上傍にいたら、離れられなくなる。彼のぬくもりを忘れられなくなる。

 どれだけ望んでも、偲義と自分の「時」が重なることはない。

 あんな思いはもう二度としたくなかった。偲義に恋をして、それを失うことが怖かった。

 今ならばまだ、間に合う。

 浮かべた笑みの上から、新しい涙が零れ落ちてゆく。

「さようなら、偲義・・・」

 呟いて顔を伏せる。

 芳琳は、偲義の頬に小さく口付けを落とした。



 芳琳が姿を消した。

 偲義がそのことに気づいたのは、夜がすっかり明けきった頃だった。

 あの日から、今日で3日目。

 偲義は彼女の姿をずっと探している。


 目が覚めた時はぞっとした。隣で眠っているはずの少女がいなかったからだ。

 家中のどこにもいない。褥に触れても、彼女のぬくもりはかけらも残されていなかった。

 元に戻っただけだと、最初は思った。あの子を拾う前の生活に戻っただけだと。

 けれど、どうしたことか切ないのだ。痛いのだ。

 目が耳が、そして心が、彼女の存在を探していた。

 信じられなかった。何よりも、少女が姿を消したことをこれほど哀しく思う自分自身が信じられなかった。

 たったの10日。ともに過ごしたのはそれだけの時間だ。にも関わらず、彼女は偲義の心の深いところまで入り込んでいた。

 無邪気に慕ってくる姿も、感情のままに涙を流す姿も、可愛いと思った。失ったことで痛みを感じるほど、彼女を愛おしく思っていた。

 彼女が何者でも構わない。他の男に想いを寄せているのなら、その気持ちも含めて、守ってやりたかった。

 あの子に、傍にいて欲しかった。

「思えばここが全ての始まりだったな」

 気づいたらそこに立っていた。あの木犀の下だった。

 ここは最初に芳琳に会った場所だ。雨の夜、幹の陰で雨を凌ぐようにしてたたずんでいた。

 芳琳が姿を消して以来、何度もこの場所には足を運んでいた。彼女が再びここに現れるのではないかと淡い期待を抱いていた。

 今日も彼女の姿はない。

 わかっていても、落胆を抑えられなかった。

 やるせない思いで偲義は木を見上げた。

「ほう、これはどうしたことか・・・・・・」

 背後から声がかけられた。物思いを妨げられて憮然としつつ、偲義は振り返る。

 見たことのない老人が、偲義と同様に木犀を見上げていた。

「この木犀が、何か?」

「花芽を付けておる」

「え?」

「ほのかに甘い香りがするじゃろ? ほれ、あの上の辺り」

 老人が指差す。偲義は言われるままに視線を動かした。

 ちょうど陽が一番良く当たる一枝に、白い小さな花が咲いていた。数が少ないので見落としてしまいそうだが、間違いない。

「本当だ・・・」

「実に10年ぶりじゃの」

「10年?」

 偲義が問うと、老人は嬉しそうに語ってくれた。10年前のある秋の日を境に、蕾も含め全ての花芽を落としてしまったこと。それから一度として花をつけなかったこと。

「樹木に詳しいものが調べたこともあったが、原因はわからんかったようじゃな。それがこうして再び花を付けるとは・・・あの時伐られんで良かったなあ、お前さん」

 老人は嬉しそうに木犀に語りかけると、穏やかに笑った。

「10年前・・・」

 偲義の脳裏に、あの夜の泣き顔が浮かぶ。彼女が恋に破れたのも10年前だと言っていたが・・・。

 考えて、頭を振る。この木と芳琳と一体どんなつながりがあるというんだ。

 さすがに思いつめすぎかもしれない。そう思って自嘲気味に笑った時、老人が声を上げた。

「おや?」

 木の下に歩み寄ると、枝に手を伸ばそうとする。何かを取ろうとしているらしい。

「じいさん、どうした?」

「かんざしが絡まっておる。どこぞの女人が通ったときに引っ掛けたのかのう?」

「かんざし?」

 弾かれたように、偲義は枝を見遣った。

 老人の言うとおり、緑の葉に紛れてかんざしが見える。

 ざわざわと心が波立った。

 手を伸ばしてみるが、わずかに高さが足りない。

 もどかしい思いで必死で枝に手をかける。すると、ほろりと偲義の手の内に落ちてきた。

「ほう、なかなか良い細工じゃの」

 老人が覗き込んでくる。

 そのかんざしには、見事な蝶の細工が施されていた。


 陽はすでに没している。

 良く晴れた夜だった。

 大きな満月が周囲に柔らかな光を振りまいている。

「芳琳」

 偲義は木犀を見上げて声をかけた。

 返事はない。

 けれど、偲義は語り掛ける。

「芳琳、聞こえているんだろう」

 我ながら馬鹿なことを考えたものだと思う。この木犀が芳琳かもしれないなど。

 誰かが聞けば笑い飛ばしただろう。

 だが、そう仮定するとつじつまが合うのだ。

 もしかしたら違うのかもしれない。それでも、偲義は語りかけずにはいられなかった。

「芳琳」

 3度目に彼女を呼んだ時――

「偲義」

 声が返った。

 幹の後ろに領巾が見えた。月明かりに照らされて白く輝くそれは、間違いなく彼女の物だった。

「芳琳」

 名を呼んで歩み寄る。彼女は動かない。

 気が急いた。このまま消えてしまったらどうしようかという不安が偲義の背中を押す。

 たった数歩の距離なのに、ひどく長く感じられた。

 あと少しという所で、偲義が手を伸ばす。

 少女が振り向いた。

「迎えに来たぞ」

 掬うように両腕に抱きしめて、少女を覗き込む。ようやく戻ったぬくもりに、偲義は深い安堵の息をついた。

「偲義・・・どうして?」

 偲義の腕の中、芳琳が身動きする。顔を上げて偲義を見つめてきたが、その頬は少しだけ涙に濡れていた。

「野暮なことを聞くなよ。男が女を迎えに来るんだ、理由は一つしかないだろう」

「でも、私は・・・」

「人ではないんだろう?」

 言って、偲義は木犀を見上げた。白い小さな花は誇らしげに開き、甘い芳香を漂わせている。

 この木犀は芳琳自身だ。花の精というものが存在するのならば、それがきっと彼女の正体なのだろう。

 恋に破れたことで力を失ってしまった花の精。その力を取り戻したものもまた恋だということに、果たして本人は気づいているのだろうか。

「あの花は、俺のために咲かせてくれたのだと思っているんだが、違うか?」

 まっすぐに覗きこんでくる偲義の瞳。

 芳琳は勢い良く首を左右に振った。

「違わない!」

「良かった。正直、違うと言われたらどうしようかと思っていたんだ、安心したよ」

 偲義は軽く笑って、芳琳を抱きしめる腕に力をこめた。

「ずっと、偲義のことを思ってた。ここに戻ってから、ずっと。そうしたら花が・・・」

「ああ、良かったな」

「でも偲義、私たちの時間は、人のそれとは違うの。絶対に合わないの。私はまた残されてしまう!」

 芳琳がしがみ付いてくる。両手がかすかに震えている。

 やはりと思いつつ、偲義はにやりと笑った。

「そうだろうな。俺も、お前と同じだけ生きられるとは思っていないよ」

「偲義!」

「良いか、芳琳。確かに俺は、いつかお前を一人残すことになるんだろう。だが、俺の命がある限り一人にはしない。絶対にしない。それではだめか?」

「・・・絶対に?」

 弱々しい瞳。不安でいっぱいのその表情に、偲義はしっかりと頷いて見せた。

「ああ、絶対だ」

 力強い彼の返事にようやく、芳琳の表情からも陰りが消えてゆく。

 安心したように笑って、偲義は芳琳を地面に下ろした。

 膝を着いて、芳琳を少しだけ見上げる格好になる。

 涙に濡れた頬を両手で拭ってやってから、偲義は口を開いた。

「さて、芳琳。ここで質問だ。俺は裕福ではないが、家族を養う程度の甲斐性はあるつもりだ。豊かな生活は約束できないが、それを補って余りあるほどの愛情を注ぐと約束しよう」

「・・・はい」

「では、改めて問うぞ。芳琳、ついてくるか?」

 偲義が自信に満ちた表情で、手を差し伸べる。

 芳琳はためらうことなく、その上に手のひらを重ねた。

「はい!」

 涙をきらめかせて頷く。

 幸福な未来を映しているのだろうか、濡れた両の瞳は、華やかな笑みに彩られていた。



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