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フィナーレ 危謀忌策でショーダウン。

        #


 本山は携帯電話の電源を切っているようで繋がらない。楽団の人間からのコールを恐れての処置だろう、と鏑木は予想した。


 頭の中では団長と共に組み立てた計画が歯車のようにぐるぐると廻っている。浮足立った心中をそっと静めて、鏑木は決然と言い放った。


「よし。先回りする」

「先回りって。モヤシ野郎がどこに行くのかわかんのかよ?」

「ああ。でもわかるからこそ、そして奴が運転中で携帯の電源を切っている今だからこそ、先回りが可能なんだよ」

「よくわかんねーけど……わかってんなら先に行って待ち伏せようぜ」

「いや、先回りってのはそういう意味じゃない」


 アトリが怪訝な顔をするのをよそに、鏑木は来宮から受話器を受け取り何やら話し込む。端々を聞きとったアトリは、どうやら何か闇市場や取引、そして盗まれた物のことについて鏑木が尋ねているらしいことだけ理解する。来宮は鏑木の口元から聞きとれた言葉に驚愕の表情を見せ、次いで部屋を出ていき、少しの間を置いて戻ってきた。苦虫を噛み潰したような顔でうなずいた彼を見て、鏑木は受話器を肩と右頬で挟んだ。


「ねえ、なんなのー」

「時間が無いんだ、これ以上説明していられない」


 番号を打ち込み、電話をかける。コール音が数回続き、その間にも鏑木の心音は高鳴っていく。スピーカーボタンを押してアトリたちにも会話が聞こえるようにした鏑木は、深呼吸して目を見開いた。


 ほどなくして繋がる。息を呑む三人を視界から締めだし、鏑木は会話を始める。


『お電話ありがとうございます。こちら遠光(とおみつ)金融。融資のご相談ですか?』

「いえ。社長さんに繋いでもらいたいのですが」


 通話相手は金融会社だった。わけがわからないアトリと瀬古。来宮だけは何か理解出来るところがあったらしく、苦々しげに事の成り行きを横で見守っている。


『大変申し訳ございませんが、社長にはお取次出来ないことになっております』

「そんなことをしたらどうなるかわかりませんよ。フィルハーモニー楽団の者からだ、とお伝えくださればそれで結構ですので」

『……少々お待ちを』


 保留ボタンを押したのか、等間隔で低い音が鳴り続けた。


「どういうことだよ、なんで金融会社に」

「僕らと本山とこの会社が今現在、大変面倒な形でくっついてる状態だからさ」

「ぜんぜんわかんないよ」

「話を聞いてればわかるよ」


 わずかに歯の根がぶつかる音を立てて、震えた声のまま鏑木は言う。やがて、電話に社長が出た。ぶつりと音が途切れた不気味な瞬間に、鏑木の肌は粟立った。


『…………テメエ、楽団の人間だってな』


 最初から喧嘩口調。まっとうな職種でないことをアピールする声音に鏑木は力を抜かれそうになったが、気力を振り絞って耐える。受話器を握る汗ばんだ手に力を入れ、脇を締めて奥歯を噛みしめた。


「はい」

『手短に用件を言え。長ぇと感じたら切る』

「っで、では単刀直入にお聞きします。……おたくの金融で、本山正志という男が融資を受けて、いらっしゃいますよね?」

『……そんな奴もいたかもな』


 動揺するわけでもなく、どっしり構えた社長。反応がこの程度だろうことは予め想像していた鏑木は、乾いていく口の中でかき集めた唾液を飲み下し、唇を湿らせて会話を続けた。


「彼はうちの楽団に所属している人間でして、集会所にも出入り自由だったんですよ。そんな彼が今さっき、集会所からあるものを盗みだしました。……確認しますが。これは、あなたの指示ですよね」


 ますますわけがわからなくなった様子のアトリと瀬古。鏑木自身もほとんど憶測でものを語っている自分の口が空恐ろしくなっていたが、来宮が同意するようにうなずいたのを見て、白紙に戻りかけた脳内を再び鮮やかに現像し直す。天井を見上げて、今も二階にいるはずの、背中を押す一言をくれた人のことを思い返した。萎えかけた気力が少しだけ勢いを取り戻し、さらに言葉を紡ぐ。


『適当なこと言ってんじゃねえよ』

「いいえ、適当じゃありません。なぜなら、盗まれたものはあなた方以外では手に入れてもあまり意味の無いものだからです。そして、」

『おいおい。単刀直入っつった割にゃあいささか、回りくどすぎやしねえか、坊主? あんま舐めた口利いてっと二度としゃべれねえようにすんぞ』


 ドスの効いた声は受話器越しに殺気を振り撒き、なんとかしゃべろうとしていた鏑木の意志を砕いて萎縮させる。怖くて、手足が震えた。同時に、ここが自分の踏み込んだ地下世界(アンダーグラウンド)なのだ、と強く認識させられた。だがそのことが、少しだけ鏑木に良い方向の影響を与える。


 立ち位置が、定まった。


 ずっと続けてきた〝自分で自分を信じない〟ということをやめられる気がした。うすぼんやりとしてあやふやな中で何もせず立ち尽くしていた鏑木は、今ようやく、地下に足着けて居場所を定めたのだ。


 もう言葉は、惑わない。


「……そちらこそ、自分たちの密輸の証拠(、、、、、)が手元に戻るとなって安心したのか、ずいぶんと強気に饒舌ですね」


 言い切る。


 そう、それこそが、今回の盗難における真相だった。大量に、家探しまでして本山が盗んだ楽器類はミスリードさせる罠。電話により「犯人からの自己申告」という形で楽器の消失を強く印象付けられた鏑木たちは、他のものが消えていることに気付けなかった。


 本山が盗んだ、本命ともいうべき品は、団長が昼に遠光金融の人間と取引するためにキャリーバッグに納めていた、密輸の証拠品だ。先ほど鏑木が来宮に確認していたのは、証拠品が無くなっているかどうかだったのだ。


 ひとつ確認を終えた鏑木は一息ついた。そして策を成立させるために必要な次の言葉を思い返し、奇妙な一言を発する。


「……でもまあ、楽器には手を出されて(、、、、、、、、、、)なくてよかったですよ(、、、、、、、、、、)

『ンなもん盗んでも仕方ねえだろ』


 アトリたちはやっと会話の流れがつかめてきたところだったが、ここで鏑木が少し意味のわからない発言をしたことでまたも流れから置いてけぼりになった。一人、得心した様子で軽く二、三度うなずく鏑木は、この言葉を受けて策の一つが発動可能になったことを感じた。


 なぜならその策を使うには「楽器を盗んだのは社長の指示ではなく、本山自身の独断の意志によるもの」という前提が必要だったからだ。事がうまく運んでいることを確信する鏑木は、自分の中で組み立てていた推論を、さらに展開させた。


 遠光金融から多額の借金をしていた本山は、おそらく借金をある程度減らしてもらうという契約でこの盗みを行ったのだろうと鏑木は推測していた。本山は、二度の通報が自分の仕業だ、と言った。つまり彼は昼、取引の場にも警察を呼び寄せ、団長が捕えられるよう仕向けていた。


 それで密輸の証拠が警察に回収されれば自分が危ない橋を渡るまでもなく遠光金融が潰れると思ったのだ。しかしてその目論見は鏑木の行動によって阻止され、彼は今こうして盗みから逃亡への道を歩んでいる……そんなところだろう、と踏んでいた。


 鏑木の奇妙な一言との受け答えの後、社長はしばし沈黙を保つ。そしてふいに、笑った。


『……しかしまあ、盗みとはね。くっくく。証拠もねえのに滅多なこと言うもんじゃねえよ、坊主。ひょっとしたらテメエらみてぇに、他の連中が俺たちを強請ろうと盗んだのかもしれねえだろ』

「ですね。確かに、どれも僕の推論です……ただ、それなら僕がこんなことを教えても、あなたは怯みもしませんよね。関係ないのだとすれば」

『は?』

「あの証拠品のフィルムは偽物です」


 社長だけでなくアトリたちにも沈黙が強いられる。


 もちろん、盗まれた証拠品は本物である。つまりこれは、ブラフ。虚仮脅しのハッタリ。


『ああ? 偽物だァ? ンなセリフが事実だと信じられるかよ』

「事実などこの世にはありません。ただ解釈があるだけです。……バレバレだったんですよ、本山が裏切り者だということは。そこで敢えて僕らは泳がせていた。裏切り者を消すことは容易いですが、消しても新たに送り込まれる可能性は高い。なら、最初から誰が裏切り者なのかわかっている方が対処しやすいですからね」


 虚言で包み込む。いかにももっともらしく、理由をつけて。しかし運転中であり携帯電話の電源を切っているらしい本山に社長が確認の電話を出来るはずもなく、社長は鏑木の言葉を信じるか信じないか、その二択のみに行動を縛られた。自由を奪われた社長は、怒りに歯ぎしりを響かせながら鏑木に低い声をぶつける。


『……巧いこと言っても無駄だぞ。本山が到着しちまえばすぐわかる。奴は今日が返済期限としても約束の期日なんでな、もうまもなく現れるはずだ……別段ここで通話ぶっちぎっても、いいんだぜ』


 事の真偽がつかめていないのにそれはしない。鏑木は確信していた。


 そして最大のブラフを、相手に叩きつける。虚勢を張って、声高に叫んだ。


「その本山ですが――彼は、二重スパイという奴です」


 二重。すなわち社長から送り込まれたスパイという立場を利用しつつ、その実態は楽団側に位置する協力者だったのだ、と。


「嘘だと思いますか。なら、あなた方の元へ到着した本山が〝なぜ楽器を持っているのか〟を説明してみせてくださいよ」

『楽器、だと……?』

「ええ。まさか、楽器はあなたが盗ませるわけないでしょう? ああ、どうして楽器を手放すのか、その理由が気になりますか。なぜなら僕らの楽団は(、、、、、、、、、、)本日をもって解散する(、、、、、、、、、、)! ――実を言うとね、社長さん。僕らはもう何もかもどうでもいいんですよ。僕らの目的は実のところ、楽団という体を為した地下組織を通して裏社会の情報を集め、金稼ぎをすることでした。そのためには別に、あなたの会社から巻きあげずとも、他の会社からでもよかったわけです。そして既に僕らは、他の会社から十分金を巻き上げた。だから持っていたら足がつくような楽器など、手元から放してしまうに限るわけでして」


 よくもまあつらつらとこんなウソが並べられる、とアトリたちは舌を巻いた。そして、もはや背後のアトリたちのことは忘れてしまったかのような鏑木は、加熱され加速していく自分の脳の中を限界まで煮詰めてかき回し、ぺらぺらと身の薄いウソを舌を使って並べたてる。


 虚言とハッタリで鍛えた剣で、相手の心中に疑心を刺し込む。


『奴のようなボンクラを、二重スパイにだと?』

「ボンクラだからこそノーマークでしょう? まあ二重スパイと言っても僕らにとっては使い捨ての駒にすぎませんので、彼を人質にとっても無意味ですよ。この取引のあと、彼とはすっぱり縁を切る予定ですので。……ああ、今日の昼にあった取引、あれでこの証拠品を渡してしまえば、(本山)を含めて手元に裏社会の物は一つも残らない。そういう予定でした。本当に、きれいさっぱり渡してしまうつもりでした……なのに、あなたがたは昼の取引ではなく夜の強奪を選んだ。それはルール違反です。だから機先を制して察した僕らは、証拠品を偽物にすり替えた。ご理解、いただけましたか?」

『貴様ァ……』


 怒りに震える社長は、威嚇するように声音を轟かす。攻守逆転したことが、相当気に食わないらしい。対する鏑木は恐怖に震え、もはや思い描いたことを口にするだけの人形じみた顔をしていた。


「ただまあ、ここでもう一度だけ。あなた方にチャンスをあげたいと思います」

『…………』

「本山が運んでいくであろう楽器類全て。これを、四億で買い取っていただきたい。そうすれば、証拠品を提供しますよ。本物をね」

『四……億、だとぉ?』


 この四億というのも、先ほど来宮と話していた内容により決めた値だ。つまり、闇市場での楽器の流通価格と見比べた結果の値。来宮によれば、目玉が飛び出すような値段を吹っかけられることもある闇市場でも、四億あれば楽器全てを買い直してもこの先一年分くらいの活動費用を残せる、とのことだった。


 とはいえ、この値段は別段相手を威圧するためのものでしかない。鏑木の真の目的は、この威圧で相手と自分の間に一方的な交渉関係を構築することだった。


「後ほど、かけ直します。色よい返事をお待ちしていますよ。それでは」

『まっ、』


 通話を切る鏑木。どう考えても自分とは格の違う相手とのやり取りで摩耗しきった神経が緊張状態を脱し、どっと疲れが噴出して、思わず座り込みそうになった。けれどもう一仕事、残っている。鏑木はふらふらと居間から出ると、靴を履いてドアを開けた。


「お、おい。どこ行くんだよ」

「ああ、あとひとつ、電話かけなきゃいけないからさ」

「ここでかければいーじゃん」

「それだと番号が割れてるだろうから。公衆電話からじゃないと」

「誰に電話するんだよ?」

「……すぐわかるよ」


 アトリと瀬古が後ろからついてくる。三人で連れだって表を歩き、日が沈みかけて灰色の闇に落ちる町の中を進む。来宮の家から二分も歩いたところにある酒屋の前に、電話ボックスがあった。テレフォンカードを差し込んだ鏑木はポケットから何やらメモを取り出すと、書かれている番号にコールする。横でことの成り行きを見守る二人は、結局繋がらずに留守番電話サービスの音声が流れ始めたのを耳にした。


「猜疑心っていうのはさ」


 録音の淡々とした音声が流れる間に、鏑木はつぶやく。


「二か所同時に打ち込めば、大体の群れを壊せるんだ」

「どーゆーこと?」


 ちんぷんかんぷんだ、と言いたげな瀬古が問うたところで、ピーっと留守番電話録音の合図。

 鏑木は咳払いひとつして、(かた)り始めた。


「『きみの借金の返済期限はとうに過ぎてる』との連絡がきたよ。このままだと冗談抜きに東南アジアのどこかしらに売り飛ばされるそうだ。今からきみの出迎えを盛大に行う準備をするらしい。……まだきみが遠光金融に着かないうちに、このメッセージを聴いてくれていることを祈る。もし聴いてくれたなら、折り返し来宮さんの家に連絡をくれ」


 それだけ告げて、がちゃんと受話器を落とした。今度こそやりきった、と感じた鏑木は、長く深いため息をついてその場にへたりこんだ。鏑木の表情を上から覗き込むようにする二人は、コードでぶら下がりゆらゆらと揺れる受話器をどちらともなく戻した。


「なんなんだよ、結局どういうことなんだよ。俺ぁまだ全然、お前の策の全貌がつかめねーよ」


 横に座り込んだアトリは、がくがくと鏑木の肩を揺さぶる。青い顔ですこぶる機嫌も気分も悪そうに見える鏑木は、吐きそうな顔でアトリの手を払った。代わりに、瀬古が差し出した手をとって立ち上がる。


「説明しながら戻ろう。少ししたら、策が成功したかどうかわかるはずさ」


        #


 そして本当に、あっけないほどすんなりと、策は成功した。


『どうしたらいいんですか……俺はっ、どうしたらいいんですかっ!』


 切羽詰まった表情が伝わってくるような声音で、必死にすがりついてくる本山。しらじらしい、とその場の誰もが思ったが、電話口に出る鏑木だけは、心から同情した口調で落ち着くよう訴える。


「落ち着いて。まだ大丈夫だ。近付きすぎてはいなんだろう? なら大丈夫。すぐに引き返してくれ、集会所で落ち合おう。うん……うん。大丈夫だ。楽器さえ返してくれるなら、みんなも受け入れてくれる。ん? 今ここにいるのは来宮さんと団長とアトリ、あと瀬古と僕の五人だけど……うん。きっとうまくいく。じゃあ」


 慌てふためく本山との通話を切った鏑木は、策の成功を確信して肩の力を抜く。同時にまたも腰が抜け、それでも親指を立てて周りの仲間に微笑みかけた。


「賭けには、勝ったよ」




『まず本山は自分のために楽器を盗もうと動いていた。このことを遠光金融側は知らない。そこに僕はつけこんだ』


 アトリたちに説明した鏑木の策は、ハッタリと虚言のみで構成された薄氷渡りの如き荒業だった。


『自分の感知していない行動をとっている本山。しかも僕から〝彼は二重スパイ〟などという情報を与えられ、本山の真意をつかめなくなった社長は、どんな行動に出ると思う?』

『んー、スパイと味方のどっちだった時でも、対応できるよーにする、かなぁ」

『少なくとも僕ならそうするね。会社の、荒事担当の人間を集めて配置する。味方だった場合は用心が取り越し苦労で終わるだけ。スパイだった場合はボコって捕まえて人質に……と言いたいところだろうけど、さっき僕はあいつを駒だと言い切ったからね。人質にしようが拷問しようが、あっちの立場が悪くなるだけだ。しかも――この用心は、本山が何も知らずにのこのこ現れた場合にしか機能しない』


 もともと仲間ではなく、金の貸し借りにより上下が設定された関係性しかない間柄だ。


 どちらも互いに信頼など欠片も抱いてはいない。だからこそ僅かな猜疑心で、互いが互いへの不満を決壊させる。


 疑心という剣が入れたひび割れから、関係性は脆くも崩れ去る。


『集会所である来宮さんの家とか、団長のケータイとか、知ってる番号からじゃ危険だと感じて確認もしないだろうけど。公衆電話からの留守電なら、誰か他の知り合いからかもしれないと思って一応は聴くだろ? そこで今度は部分的に真を織り交ぜた虚言を吐いておいた』


 本山は、おそらくこう考えた。「借金の返済期限は過ぎていないはず」と。けれど、落ち合う予定だった場所に到着して、荒事担当と思しき人間が潜んでいることを確認出来たなら。確認出来たそれだけは、間違えようもなく真実。危険の匂いは感じ取れる。


 しかも、互いに信頼など欠片も抱いていないのだ。外法(アウトロー)な金融会社のことだ、期限など無視している可能性もある、と考えてもおかしくはない。そして、むざむざ捕まりに行くような真似は出来ない、と感じるだろう。となれば、少しでも自分に協力的な人間のところへ向かいたいというのが心情だ。臆した本山が「仕切り直したい」と考えるであろう心理、そこまでを鏑木は予測した。




 わずかにすっきりした顔で、来宮は笑った。


「あとは戻ってきた本山から楽器と証拠品を取り返し、証拠品だけは取引に回してしまえば今回の一件落着、といったところだろうね」

「ですね。まあ、あれだけおちょくってしまいましたし、証拠品は少し額を下げて取引した方が互いに怨恨を残さず済むとは思いますけど」

「まったくだ。もう少し言い方というものは考慮出来なかったのかい、鏑木君」

「ああでもしないと怖くて舌が絡まりそうだったんですよ」


 来宮と話し合う鏑木はソファにぐったりともたれかかっており、その脚は未だ震えている。自分が為した所業がもたらした結果に、予想こそしていたものの現実味を感じられずにいた。口八丁の大嘘で場をひっかきまわすことに成功した自分が、未だ信じられない。脱力感が脳内麻薬と共に全身をしびれさせている。


「おつかれさま」


 天井を見るように首を後ろへ傾けていた鏑木は、自分の顔の正面に現れた団長にへらりと力無い笑みを返す。


「正直、まだ信じられないよ」

「二回電話をかけただけだものね。実感わかないのも無理ないわ」

「あーそうだ、僕電話かけただけだもんなあ。なんかすごいことやり遂げたような気になってたけど」

「本当にすごいことっていうのは、表面には出ない地味な努力でしょ。白鳥は水面下でもがいてるって言うじゃない」

「白鳥っていうか僕の場合スワンボートとかそんな感じじゃない?」


 軽口をたたき合いながら、団長も鏑木の横に腰掛ける。まだ疲れもダメージも残っている様子だが、ポケットに手を入れて体を伸ばす。がらんどうとまでは言わないものの、それなりに物の減った室内を見渡して、小さく溜め息をついた。


「ありがとね」


 前にも聞いたようなセリフと間に、鏑木は照れくさそうな表情を返す。


「まだ完全に成功したわけじゃないよ」

「言える時に言っといた方がいいのよ、こういうのは」


 笑って、目線を横に流してきた。


「鏑木君は、やっぱり、」


 次の言葉を発しようとした瞬間、インターホンが鳴った。緩んでいたような空気が一変して、居間にいた全員の視線が受話器に向く。その近くにいたアトリが、のっそりした動きで取り上げ、ぼそぼそと来訪者に応対した。語調や間の取り方、受け答えの言葉から、やってきたのが本山であることは明白だった。


「ああ……はいはい。戻ってきたってんならそれでいい、らしいぜ。……おう、ん。はいよ」


 がちゃりと受話器を置く。アトリがあごでしゃくるようにして、居間から前庭に面した窓を示す。みんながそちらへ目を向け、ジャケットのポケットに手を入れた本山がびくびくした様子で飛び石の上を歩いてくるのを見た。そしてその奥、門扉の前にはハイエースが駐車されており、ブルーシートをかけられて楽器もそこに積まれたままであることを全員が確認した。


 ゆっくりと居間から出て、団長が玄関のドアノブに手をかける。ドアチェーンはかけたまま、少しだけドアを押した。ドアにはめ込まれた曇りガラス越しに、本山の影がうごめいている。


「だいじょうぶ? 尾行されたりしてない?」

「一応見つかる前に逃げてきたつもりです」


 団長が見上げた本山は泣きそうな顔で、うなだれている。それから、思い出したようにポケットから手を抜き、団長はそれに反応しかけた。だが本山の手にあったのは、車の鍵だった。


「これ、お渡ししておきます。もう、こんな事態になってしまって、申し開きのしようもないことはわかってます。しかし、俺はあいつらから一人で逃げ切れるとは思えません。お願いします、助けてください。虫のいいことを言ってることは承知しています、でも……」


 どうしようもなくて、と言いながら鍵を差し出す。手を上に向けて団長はその先端に触れた。わずかにではあるが、注意がそちらに向いた。指先と、鍵の先に視線も固定される。


 本山の口が、見る間にひん曲がっていった。


「……! わ」

「団長!?」

「うるさいですよ、黙ってくれませんか」


 思わず叫んだ鏑木を制する声。鍵を受け取ろうとした手をつかまれ引っ張られ、がたっ、と傾いた団長の体。ドアチェーンによりわずかしか開かなかった隙間に、左腕を肩口まで挟まれるように。そしてするりと、蛇のような動きで隙間からナイフの刃先と拳が差し込まれてきた。


 団長の、首筋にあてがうようにして。


「油断大敵、ですよ。状況がこうも追い詰められた以上、こっちも手段を選んでる余裕は無いんですからね。あ、来宮にアトリに瀬古、それと鏑木。動かないでくださいね。俺もさすがに、積極的に殺すつもりはないですから」

「……っ」


 本山は先の通話で、その場にいるメンバーが誰かを問いかけてきた。この状況になった時、伏兵としての人間の存在をなくすための質問だったのだと気づき、今になって鏑木は己の失敗を恥じる。策にかけられてしまった。


「さて。それじゃあ。取引をしましょう?」


 ドア越しでもわかるほどに愉悦を感じさせる声音。ただ、その感情は揺れ動く不安定なもので、いつ崩れ去ってもおかしくないほどの危うさをもって妖しく光るそれだった。……油断、というならそうなのだろう。ただ、これはこの状況を事前に予想出来なかったことが落ち度だ。本山が、返済期限のことにどれほど過敏になっていて、どれほど精神が崖っぷちへ追いやられているのか。それを予想出来なかったという、落ち度だった。


「こちらが差し出すのは団長の命です。安くは無いでしょう」

「ま、待てよおい。借金の返済期限が遅れたっつっても」

「アトリ」


 思わず口走りかけたアトリを鏑木が制する。この状況で鏑木が留守電に残した発言が嘘だったとバレれば、小心者のくせにプライドだけは高そうな本山は激昂してもおかしくない。団長の安全を考えると、下手な発言は何一つ出来ない。


 全員が動きを止めて、本山の出方をうかがう。完全に主導権を握られた状態となった。


「そうだ、楽団のバックについているアンジー人材派遣。あそこから俺の借金を帳消しに出来るくらいの額を、とってきてくださいよ。そしたら楽器も団長もお返ししましょう」

「ぐ……だが、あの人材派遣会社は僕らに協力的でこそあれ、それは友好や信頼に基づいた関係ではない。活動資金の援助の代わりに手足として仕事を請負い、さらには音楽を提供することで成り立つギブアンドテイクだ。団長という彼女個人に価値を見出しているわけではなく、楽団という組織が欲しいだけなのだよ。そんな彼らから大きな額を無償で引き出すことは」

「十五分あげますよ、来宮さん。十五分過ぎたら俺、団長の腕の腱を切っちゃいます」


 ドアに顔を押し付けいやらしく笑う。頬のひきつりに合わせてナイフの刃先も震え動き、危なっかしいことこの上ない。いつ逆上して団長を切りつけてもおかしくなさそうな雰囲気が、ドアの隙間からにじみ出てきていた。


「腱を切られたら……もう演奏は出来ないでしょう。時間ないですよ、さあ早く」


 本山の言葉により想像させられた未来を感じて、背筋に怖気が走る。観念したように、来宮は携帯電話を取り出した。電話帳から「アンジー人材派遣」と書かれた番号を引き出し、コールする。一応事態が進展したことで落ち着いたのか、本山を含めて全員が黙った。安堵とは言えないが、少しだけ時間が空いたことで各々考えることが出来たからだ。


 そして、考えが最初にまとまったのは、団長だったらしい。


「……本山君さ、あんまし演奏聴かせてくれなかったよね」

「同情でも引こうという魂胆ですかね?」

「べつに……ちょっと思っただけ。でも、音楽は好きだった?」

「それなりに好きですよ、今も」

「鏑木君よりは良い回答ね」


 どういう意味だよ、と反応しかけた鏑木だが、団長が自分へ向ける視線が「黙れ」と言っているように思えたので、間抜けに開きかけた口をゆっくりと閉じた。


 本山はドアの隙間からそんな鏑木の様子をながめつつ、あまり感情のこもっていない声で団長の話に付き合う。


「演奏といえば俺も今、ちょっと思ったことがありますよ」

「なにかな?」

「団長は――演奏や今までのような運動で、本当に奏音禁止法が変えられるとお思いですか?」


 少し、答えづらいものだったらしい。再び考えをまとめようとしているのか、押し黙った団長は口を曲げて難解な問題に突き当たったような表情を見せる。その間も、来宮が人材派遣会社に連絡をしている声が、小さく玄関口に響いていた。


「極端な話、こうして」


 本山はナイフの刃先を押し上げた。鏑木たち四人が身じろぎしかけ、心音が高鳴る。


 世間話に付き合うだけの余裕を見せているようにも思われたが、その実本山が追い詰められていることは何も変わりない。むしろ現状の彼の行動は嵐の前の静けさであり、流れ出ている危なげな雰囲気は徐々に刺々しさを増している。ひょっとしたら、鏑木たちよりも本山の方がよほど、心臓が縮みあがっているのかもしれなかった。本山はさらに、先の言葉に続ける。


「暴力に頼れば、人は簡単に従わせることが出来るじゃないですか。そりゃあもちろん、恐怖支配はいいことじゃないでしょうけど。でも、他の方法を考えたことはないんですか?」


 つばでも飛ばしそうな、激しい物言いだった。


「俺はあなたのように人をまとめる才があるわけでもなく、ただの一般市民です。涙が出るほどショボい、つまらない人間ですよ。けど、そんな俺でも追い詰められたらこんなことをしたりするわけです。やっぱりああいう金融会社とかの恐怖は、力がありますよ」

「何が言いたいの?」

「楽団にそこまでの力は無いでしょ、ってことです」


 両者ともに、吐き捨てるように言葉をぶつけあった。団長はまぶたを閉じて、その言葉を頭の中で反芻する。本山は、ナイフの刃先をかたかたと揺らした。その動作はぎこちなく、自然と出た震えではないことが団長にはなんとなくわかった。


「結局。俺にとって音楽は、その程度のものでしたよ。……好きだったんですけどねぇ」


 自分をなげうってまで続けられやしませんよ、と。


 その言葉だけはドア越しだというのに、やけに朗々と玄関に響いた。


「…………ふうん」


 次いで響いたのは、冷ややかな相槌。ドアの隙間から滑り込んでくる夜気と混ぜ合わされたそれは鏑木の肌にぴりっとした痛みを残して消えた。同時に、団長の顔からも表情や温度といった、色が消えていく。


「そんなこと言う人には、殺されたくないわね」

「んー、殺されたくなくても、殺される時は人間誰だって殺されますよ?」

「そうねぇ。ある日突然演奏家生命を絶たれる人だっているわよね」

「今のあなたのことですね」


 揺れるナイフを握る右拳。首筋に浅くなぞるような痕を残そうとドアの隙間でうごめいたそれを、団長は溜め息と共に見つめた。鏑木はなぜか、彼女が本山の手を、名残惜しそうに見つめているように思えた。


 だが本山はその視線を見て、ぞくりと嫌な印象を受ける。光が差さない真っ暗な目の、底知れない気味の悪さが自分の手を舐めまわすのを感じてしまった。ぞわぞわと毛虫に這われているかのような幻を覚えて、ナイフが手の内でぬるぬると滑る。と、団長がわずかに、唇を動かした。ゆっくりと耳に近付く声によって幻はかき消され、


「いや――」


 ずいぶん遅れて、団長の言葉が認識される。


「――あなたのことよ」


 幻を上書きして現実に引き戻すほどの痛みと共に、べぎゅ、と音がした。


「……っがあああ! っぁああああ?!」


 悲鳴をあげてのけぞり倒れる本山。団長は空いていた右手で思い切りドアノブを引き、本山の右手をドアで押し潰したのだった。


 小柄な団長の細腕よりも、ナイフを握った本山の右拳の方がわずかに大きい。結果、潰れたのは本山の右手だけであり、団長の二の腕は赤く痕がつくのみで済んだ。


 鏑木は慌てて団長に駆けより怪我が無いかを確かめ、そして来宮とアトリが本山を拘束した。瀬古は救急箱を取りに走り、先ほどまでとは打って変わって騒がしくなる。鏑木は大声で、団長に無事かを尋ねた。


「団長、大丈夫か? 怪我は」

「だいじょぶ。首もつながってるでしょ」


 確かに、首には浅い筋こそ残っていたものの血の一滴すら流れてはいない。


「でも、痛くないのか?」


 けれど、瞳からわずかに涙が流れていた。


 指摘されて涙に気づいた団長は両頬をぐしぐしと手の甲でぬぐい、下駄箱に背をもたせかけてずるずると床にずり落ちた。しばらくそうして周りのアトリや瀬古、来宮と本山の叫びを聞き流し、ぼんやりと鏑木を見上げて、うつむく。


「残念なのよ。わたしは本山君の演奏、好きだったんだけどね……もう多分、聴けないから」


 そのあと団長はうつむいたまま、何も言わず固まった。鏑木はどうしてやることも出来ず彼女の小さな頭を見下ろして、唇を噛む。二人とも動くことはなく、じっと耐えてその場に留まり続けた。


 そのため、歪な感情を縁取って口角の吊り上がった団長の顔を、鏑木はついに見ることがなかった。



        #



「僕、思うんだけどさ」

「なんだよ」

「僕もいつかは、本山みたいになるかもしれない」


 アパートの自室、窓際に腰掛けた鏑木は、室内に座るアトリにビールを差し出しながらつぶやいた。左腕はまだ、三角布で吊るしている。


 本山の暴走から数日が経ち、場所は鮮やかに暮れてゆく西日に照らされる庭の中。葉の茂りに覆われ始めた桜の木をぼんやりと眺めつつ、二人は枝豆を肴に酒を呑んでいた。とはいえこれはニートとフリーターに逆戻りしたわけではなく、楽団を通して様々な苦難に巻き込まれた、その事後処理に追われ、ようやく訪れた貴重な休息である。


 その休息を破るように、鏑木は遠い目をしてそんなことを言い放ったのだった。当然、アトリは訝しげな目をして小首をかしげる。


「はあ? 何言ってやがんだ」

「ああなりたくはないけど、理解はできるから」

「んなもん誰だってそうだろ。手前のことより優先して他事に手ぇ出してりゃ、そいつはただのバカだ。あいつは利口に立ち回って、自分の借金をどうにかしようとしたんだ」

「でもそんなお利口さんより、バカの方が気分いいかもしれないだろ」

「世間じゃそういうバカを偽善者っつーんだよ」


 ぐびりと音を立ててビールを飲み干すアトリは、窓ガラスに背をもたせかけてぷはあと酒臭い息を吐いた。鏑木は手でその息を払い嫌そうな顔をして、自分も缶に口をつける。一口呑んで、独り言のようにつぶやいた。


「バイトを休んでまで瀬古を探したりしてたんだから、お前もそれなりにバカっぽいけどね」

「そうかもしれねーな。けど行動するバカの方が何もしない利口よりもまだいいだろ」

「……でも、バカの動ける範囲は狡猾な奴の手の上なんだよ」


 今度こそ独り言として、アトリには聞こえないように囁く。下を向く鏑木は暗いと言うには不十分だが明るいとも言えない面持ちで、どこか諦めきったような雰囲気も漂う。独り言こそ聞こえなかったアトリでも、何か声をかけたくなる様子だった。話題をこのまま続けるかどうかは迷ったが、結局いつも通りの口調で話しかける。


「好晴、お前はバカにはなんねえの?」

「……はあ」


 からかい半分でかけた言葉に対しては、まず重々しい溜め息が返ってきた。


「もうとっくの昔になってるよ。見返りがあるかわからないのに、他人の手助けなんてしちゃったんだから」

「そりゃ団長を助けたこと言ってんのか?」


 ぴくりと鏑木が反応を見せる。団長、という単語が何かに触れたらしい。だが新しく開けたビールの缶に目線を移していたアトリは、鏑木の動揺にまったく気づくことなく会話を続ける。


「団長こそ、偽善者タイプのバカに思えるけどな」

「そう見せてるんだよ」

「人をバカ呼ばわりしないでくれる?」


 のけぞって室内に倒れこんだ鏑木の視界に、ひょこりと顔だけのぞかせる団長。話題の主が現れたことで驚いた鏑木はセーラー服姿の彼女を見て、そういえばこの人は一応高校生やってたんだっけなあ、と思いだす。楽団の活動ばかりしている彼女がちゃんと学校に行っているという確たる証拠を目にするのは、これが初めてのことだった。


「バカとは、言ってないよ」

「似たようなこと言ってたじゃない」


 非難の色を帯びた団長のセリフに耳をふさぐべく、鏑木はごろりと横に転がって西日の陰に潜り込んだ。アトリが代わりに、会話を引き継いだ。


「なんだ団長、学校帰りに寄りに来たのか」

「まあね。といってもわたしの高校は岐阜にあるから、寄りに来たって感じじゃないわね」

「隣の県からわざわざここまで来てんのかよ」

「二日と置かず来るようにしてるけど」


 交通費を指折り数えるアトリはうへえ、と肩をすくめた。団長は苦笑いを浮かべながら女の子座りして、スカートの裾を整える。そこでごろりと再び向き直った鏑木は彼女の脚を見て、撃たれたのにもうすっかり元気そうだ、と自分の左腕と見比べた。


「遠いし交通費高くない? この辺に住めないの?」

「前に色々あってここの辺りにはいづらくなったのよ。で、家族で引っ越したの。理由の説明はめんどくさいから割愛」

「伏線っぽく繋げられてもね」

「あははは。ところでビールもらっていい? 今日は世界史二時限続きでさ、疲れちゃったのよね」

「酒に手を伸ばすのは間繋ぎには最適だろうけど、お酒が呑める年齢になってからね」

「へ? わたし選挙権持ってるわよ?」


 ごくりと喉を上下させてビールを飲み下す団長を見て、アトリがのけぞった。頬をひきつらせながらもなんとか言葉を呑みこんで理解した鏑木は、喉の奥から絞り出すように小さく悲鳴をあげる。団長は呆れ顔で二人を見やり、肩をすくめた。


「……えええええええ」

「別にこのナリで三十路です、とか発言したわけじゃないんだから、そんなに驚かなくてもいいでしょ。色々あって人生休んでた時があったから、留年してんのよ」

「『色々あって』って言いすぎじゃね。なんだよいろいろって」

「楽団・須崎一派の首領だった須崎陽一が捕まったせいで親しかったわたしも白い目で見られてここに居づらくなりましたとさ、めでたしめでたし」

「…………、」

「今となってはただの昔話よ。気にしなきゃいいのよ」


 ビールの缶を傾けた団長は溜め息をついて力を抜いた。かぶっていた帽子を脱いで、鏑木がさっきそうしたように後ろへ倒れこむ。天井の木目をまっすぐ見つめる瞳は疲れているのか、しばしばとまばたきした後に手の甲でぐしぐしと拭われる。


「それとね、鏑木君。わたしはバカに見えるかもしれないけど、そんなことないから」

「まだ引きずってるんだその話題」

「当たり前よ。私は自分が強いと思ったこともないし、かといってバカだとも思ってないもの。わたしだって、自分をなげうってまで続けてるつもりはないの。本当にそんなことが出来てたのは、須崎の兄さんだけ。わたしは、これをやらなきゃわたしがわたしでなくなるから、続けてるの」

「それが強いってことだよ」

「ちがう。これが折れたらって思うと……もうどうにもならないと思う。そんな支柱にすがってるだけ。わたしは、本山君も同じようにわたしにすがってきたのに、その手を押し潰して引き剥がした。本当に強いなら、彼も救えた」


 弱さを認めてあげられたらよかった、と。後悔した語調の団長は手の甲で目元を隠したままで、ひょっとしたら泣いてるんじゃないのか、と思わされる。けれど涙を見せようとはしないだろう彼女にそれ以上近付くこともできず、鏑木は頬杖をやめ、アトリは足を組みなおした。


 本山とはあの後完全に袂を分かち、遠光金融との遺恨を残さないために彼の身柄も引き渡した。その際に発覚したのだが、どうやら本山は最近出回っている脱法ドラッグ〝スイーパー〟をタバコによって常用していたらしく、借金まみれとなったのもスイーパーの購入が元だったらしい。はじめた契機が自己責任によるものか強制されてのものかはわからないままだったが、それも恐らくは「間が悪かった」ということなのだろうと鏑木は思った。


 彼がどのような処遇になったのかはわからないが、絶望に浸りきった本山の表情だけはいつまでも鏑木のまぶたの裏に焼きついている。しかし警察の介入など、遠光金融も楽団も望まない事態であり。


「結局は、良心とか倫理とか人道とか。全部無視したのよね、弱いわたしは」


 必死で、それこそ実際に血を吐く思いで楽団の存続を望む団長には他に手がなかった。先に裏切ったのがあちらであるとはいえ、楽団の長として彼女が選んだのは、彼を見捨てるという後味の最悪な終わり方だった。


「……ちっとばかし高望みしすぎだろ、団長」


 無念そうな団長の理想を制するアトリはビールをあおって目を逸らす。厳しい現実に打ちのめされそうで、溜め息をついた団長は、悲しそうに笑ってこたえる。


「そうよね。ここって、そういう場所だものね」


 誰にも頼れず縋れない。終わるときはいつも一人、結果だけを享受しなくてはならない。


 それがアンダーグラウンド。


 いずれ来る楽団の終焉の時も、きっとそこだけは変わらない。だから、どのような形で終わりそうになっても、絶対に勝ちぬく。未来を勝ち取る。そうしなければ、どんな顔で終わることになるかわからないからだ。改めて腹をくくる団長は、空にした缶に力を込めようとする。


「でもさ」


 思いついたように鏑木が声をあげた。


「ん?」

「弱くは、ないんじゃないか」


 皮肉るように言う。乾いた表情で、言葉にせず目線を合わせることで、鏑木は伝えようとする。「きみは、弱いのか?」という疑問を。泣きそうな顔を歪めた団長は、視線を外してふっと笑うと、ゆっくり缶から手を離した。――弱さは、自分がそうだ(、、、、、、)と自覚した時点で二度と逃れられない鎖なんだ、と心中では思いつつ。


「……強くもないわよ」


 かろうじて、そう答えた。


 鏑木は訝しげに団長を見ていた。




 その後やってきた瀬古と四人で卓を囲んで鍋をつつき、だらだらと時間を消化して。


 時計の針が九時半を指す頃、団長は玄関で靴べらを手にスニーカーを履いていた。


「今から帰れるの?」

「泊ってくわけにもいかないでしょ」

「なら、駅まで送るよ」

「うん。駅まではお願い」


 団長に続いて靴を履いた鏑木は、扉の外へ出る。いくぶん乾いた夜風の吹く外、上を見上げても空は曇り、アパートのすぐ近くにある大通りには車が行き交う音が満ち満ちていた。時間も時間なので(少なくとも格好は)高校生である団長と歩くのは補導と同時に自分も捕まるのでは、という危惧がわずかながらあったが、団長の方は何も考えていない様子でとことこ前を歩いていく。


「あ、そーだ忘れてたわ」


 ふいに立ち止まって振り返る団長。ふわりとスカートの裾を翻し、肩にかけていた学生鞄の中から茶封筒を三つ、取り出す。よく状況がつかめない鏑木に無理やりそれを押しつけて受け取らせると、また同じペースで歩きはじめた。事情が飲み込めず戸惑う鏑木は、先へ行こうとする団長の肩に手をかけてひきとめた。


「なにさこれ」

「ちょっと早いけどお給料よ。なんだかんだでお世話になったからね、多少はイロつけてあるから」

「……ああ、そう。どうも、ありがとうございます」


 中身も検めずそそくさと封筒を内ポケットにしまう鏑木。横目で彼を見ていた団長は、きちんと封筒がしまわれたのを確認してから、口の端を軽く緩める。ゆるんだ隙間から、ぽそりと言葉が漏れ落ちた。


「いえいえ。一昨日、遠光金融に証拠品を受け渡してお金が入ったから」


 聞こえる程度に加減された囁きは、行き来する車の音の間を縫って鏑木の耳に入り込んだ。そして、続けて語られる彼女の言葉を聞くにつれ、鏑木の表情は色彩を欠いた彫像のように固まってゆく。


「それを受け取れば、正式に楽団に関わることになる、ってことよ」


 こちらを決して向こうとはしない団長から受け取ってしまった封筒の重みが、少しずつ増していくような気がした。それでも表情を変えない鏑木は、冷静に言葉の続きをうながす。


「だから、なに?」

「受け取れば、もう今度こそ後戻り出来ないわね」


 脅すような口調。けれどこちらを威圧するだけで嫌な感じはなく、つまるところこの一言は彼女からの最後の確認ということだった。反社会組織としての醜さ、汚さを知った上でなお関わり続けるのか、最後の判断を問うている。自らの目で、耳で、見聞きして知った地下世界。そこに留まり続ける意志の有無を。


 けれど考え込むこともなく、鏑木は口の端を歪めて、暗く沈んで光の無い目を細めた。


「……ま、受け取るさ」


 意思表示を明確にした鏑木は、内ポケットに納めた封筒を、服の上からぽんぽんと叩く。


「今の楽団には僕みたいなのでも必要なんだろうし」


 団長は振り向く。鏑木はてっきり笑顔で迎えられるものと思っていたのだが、表情は曇り気味で、なんだか肩すかしを喰らわされたように感じた。心配そうにこちらを見る表情に、不気味さすら感じる。無性におかしくなって、鏑木は小さく笑った。


「いいの? 本当に。今のが、わたしの最後の優しさだったのに」

「最後の優しさだった、ねぇ」


 団長のセリフを反復し、封筒のある位置に手を当てて。


 鏑木は鏡が軋んだように表情を変えた。


「もういいんじゃないかな、そういうの」

「そういう、ってなんのことよ」

「常識人を装うこと」


 今度は団長の顔色が変わる。鏑木が表情を変えたことに呼応するかのように、曇りの一切ない、冴え冴えとした容貌に研ぎ澄まされていく。それを受けてさらに鏑木の表情は変わり、彼は三角布で吊るしていない右手をポケットに入れて近くにあった街灯に背をもたせかけた。


「団長は僕のことを巻き込むつもりだったんだろう?」

「巻き込むなんてまさか。入ってもらうかどうかは自由意思で決めてるわよ」

「本当に……? 本当にそうしていたなら、なぜ偽物の証拠品(、、、、、、、、)を本山に掴ませたのに(、、、、、、、、、、)、わざわざ弱ったフリなんかして、僕に共犯になるよう仕向けたのさ」


 片眉を吊り上げた団長は、しかしそれ以上の反応を一切見せなかった。腕組みすると自分も鏑木の向かいにある街路樹に背をつけ、帽子のふちをずり下げて眉を隠す。そうして団長の表情が読めなくなると鏑木の中で緊張が増し、ポケットの中で握る拳に汗がじわりと沁み出た。わざわざ言わずともよいことを口にしてしまったのではないか、と心中で後悔の念が広がってゆく。


 次に団長の口から出たのは、いやに冷たい詰問だった。


「偽物ねえ。そんな妄言、誰から聴いたのかしら」

「妄言じゃあないよ。僕がふと思いついた、ただの世迷言さ」


 思えば色々とおかしかったのだ。あの時から――久屋大通で警官に詰め寄られていた、あの時から。団長は警官にキャリーバッグを奪われそうになって、そうはさせまいと抵抗していた。遠光金融の密輸の証拠品がそこに入っていたから、というのが抵抗の理由だったらしいが、


「そもそも証拠品はまだフィルムの状態であって、現像した写真じゃない。だから警官にちょっと検査されるくらいならバレないはずなんだ。それなのに団長は必死に抵抗した。なぜなら、あのキャリーバッグには楽器が入っていたから」


 推論を語る鏑木への目線は揺るぎもせず、一呼吸おいて反応を見ようとした鏑木を射抜き続ける。その表情に普段の明るさはほとんど見受けられないが、むしろこれが団長という人間の本性なのかもしれなかった。鏑木は息を呑む。


「あの後、僕と共に警官から逃げおおせて、来宮さんの家に着いて、アトリからの連絡が入って。急いで現場に行くって時に団長が持っていたバッグは、久屋大通から逃げる時に持っていたのと同じバッグだった。つまり証拠品は、来宮さんの家に置いていったりしてなかった」


 大事なものだから肌身離さず持ち歩く。冷静になってみれば、ごくごく普通の考えである。今日一日、鏑木はさっさとこの事実に思考を至らせるに及ばなかった己の不甲斐なさに、気分を悪くしていたのだった。


「というわけで『なぜ』という問いに至るんだよ。盗まれたのが偽物だったんなら、楽器が盗まれたとはいえ遠光金融に証拠品と引き換えにしてもらえばそれで済む。ああも慌てなくて済んだのに、わざわざ僕を使おうとした理由。『なぜ』途中から僕を巻き込むことにしたのか」


 ともするとうつむきそうになる視線を上げて、団長と真っ向から睨みあう。腕組みして口を真一文字に結んだ団長は微動だにせず視線を受け止め、やがて引き結んだ口を腕と共にほどいた。片手で顔をつかむようにして目元を覆い隠し、緩んだ口元を吊り上げる。くっくっと歯の隙間から笑い声が零れ落ち、それは次第に音量を上げて哄笑へと変わった。思わずひるんだ鏑木が足を下げようとしたのを見てとると、一瞬で間合いを詰める団長は、鏑木の上着の襟元をつかんで顔と顔を突き合わせた。


 犬歯を剥きだして眉間にしわを寄せ、輝く瞳孔もはっきりと見える距離だ。眼前にある、笑顔というにはあまりに凶暴な相貌に、鏑木は怖れを抱く。怯える鏑木に、団長は笑みを深めて答えた。


「よく出来ました。そのわずかばかりの反抗心を、褒めてあげる」

「は、反抗心?」

「そうでしょ? あなたがそうやってわたしに言うのは、非難のため。言わなくてもいいことをわざわざ言ったのは、わたしに刃向かって認めてもらうため。両方を合わせれば、それは反抗心と言っていいはずよね。うん、いいわ。思ったよりもあなたはとても出来がいい。正直、(バカ)にはもうウンザリだったからね。言われるままに動くだけじゃない、ちゃんとした人間(プレイヤー)が欲しかったところなの」


 そこそこクレバーで薄くダーティな、参謀役が欲しかった。彼女はそう言った。


「……まさか、あの時、僕に策を立てさせたのは」

「試験運用ってところ。麻雀倶楽部でうまく逃げおおせた時に、あなたのことをちょっと面白く感じててね。もう一度巻き込んでみて、使えそうなら引き入れようと思ったの。結果は上々で一安心したわ、あなたもわたしに協力したことで連帯感を感じてくれたみたいだったし」


 追い詰めたネズミを嬲る猫のような、むごたらしい笑みを一層強める。鏑木は周りの闇が自分を取り巻いて呑みこんでいく錯覚を覚えた。沈みそうになる鏑木の輪郭をなぞるように、団長は左手を差し出してついっと動かした。


「逃がさないわよ。せっかくいい出会いだったんだもの、大事にしなくちゃあね。そうそう、わたしが団長をやってる理由、やれてる理由。教えてあげよっか? それはね、必要な時に必要な人材をそろえられるから。相手の人柄の善し悪しはともかく、能力の有無を見極めることに長けているからよ。……ねえ、こっちに来てよ、鏑木好晴君。あなたの有能さはわたしが認めてあげる」


 彼女が手招きしている方向は、地獄の入口に違いなかった。


「――つかえる人間である限り、わたしがあなたを必要としてあげる」


 なのに、吐息と共にかけられた言葉は、脳髄深くまで浸透した。口をつぐんだ鏑木は目を閉じて、すぐそこにある団長の顔を意識から外す。自分の思考の中に埋もれてみると、とんでもない人間に捕まってしまった、と思ったが、もうあの焦燥に駆られることがないとなると悪くない提案だとも思えた。


 もっとも、最初から従えられることを覚悟しての反抗だったのだから、これは予定調和の事実確認にすぎない。相変わらず弱く頼りない自分のことを不快に思いながら笑った鏑木は、再度目を開けて団長を見ると、最後の反抗を言葉にする。


「団長」

「なに」

「僕に必要なのは楽団じゃなくて、団長だから」

「……私に必要なのは参謀役であって、鏑木君じゃないわ」


 見事に切り返されて舌を巻いた鏑木に「っていうのは嘘よ」と囁いて団長は舌を出す。むかっとした鏑木はアッパーで顎を叩こうとするが、寸前でかわされて数歩分距離を離された。けらけらと笑う団長はもういつもの通りで、つい今まで場に立ちこめていた不穏な空気も洗い流されている。街灯から背を離して家の方向を向いた鏑木は、舌うちと一緒に精一杯の嫌味を吐いた。


「猫かぶりの巻き込み魔」

「もともとわたしは冷笑主義なの。テンションで落差がある、ってだけ」


 嫌味っぽく笑う団長は駅の方を向いて、互いに背を向けあう形になる。鏑木は肩をすくめようとして、左肩が脱臼しているので、口元を歪めるだけにとどめた。もう、二人とも何も言わないまま、それぞれの帰り道につく。


 けれどその一歩目を踏み出すタイミングだけは、同じだった。


        #


「……にしても、惜しい読みね、鏑木君。〝途中から〟じゃなくて〝最初から〟が正解よ」


 つぶやいた団長はポケットに手を入れる。


 地下鉄、星ヶ丘駅のホームで電車を待つ団長の携帯電話が鳴ったのは、アナウンスが響き渡ったあとだった。間もなく来る列車の光が線路の奥できらめくのを見やり、うめき声のような低い走行音が大きくなっていく中、団長は電話を耳元に押し当てる。通話の相手は、彼女にとって数少ない、目上の人物だった。


「……ああ、はいはい。お疲れ様です。ええ、ええ。鏑木君はすごく使えそうですよ」


 少しだけこっちの考えを読み切れない辺りが御愛嬌ですが、と付け足しながら、団長は話す。けれどその感想を無視した相手はくぐもった声で、何か鏑木を案じるようなことを訊いた。無視されたことに多少思うところのある団長だったが、どうせ列車に乗ってしまえば圏外になるのだから、手短に済ませる方がいいかと思い直す。


「はい? あー、だいじょうぶですって多分。危険な修羅場なんてそうそうないですから。ええ、もちろん。あなたに派遣していただいた人材です、下手に使いつぶしたりする気は無いですよ。……あれ? 聞こえてますか? すいません今、駅のホームに居まして」


 列車が速度をゆるめながら団長の前を通過していく。動きにともなって巻き起った風に帽子を飛ばされそうになり、団長は空いた手で頭を押さえた。音も辺りを満たしつくし、相手に声が届きにくくなる。うやむやになったまま会話が終わるのもどうかと思ったが、この列車に乗れないと今日中に家に着けるかわからない。適当な受け答えをして、団長は電話を切ることにした。


「実働部隊にはしませんから大丈夫ですって……じゃ、列車が来ましたのでこれにて失礼します。ああ、はい。彼にも報酬は払いましたよ――――村田さん」


 相手の名を呼び、団長は通話を切る。そして列車に乗り込み、背後で閉まった扉にもたれかかった。


 振り返ったホームには誰もいない。列車は加速をはじめるとすぐに暗闇の中に入り、団長に見えるのは窓ガラスに映る自分の顔だけになった。


 車内の人々は団長には無関心で、そのことがなんだかおかしくなった団長は、帽子のふちを下ろして瞳を閉じた。



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