交響機関のインディケーション。
高架下は車の行きかう音で満たされ、その中に時折、警察に抵抗する声が交じっている。周囲の人々は大多数が警察と住人の織りなす騒ぎに目を向け、目を逸らし、立ち去るという無視の構図。一瞬向けられる視線もどこか、迷惑そうに眉をひそめたものが多い。
そうして誰もが何らかの形で絶えず動き続けている中で、立ち止まっている男がいた。彼は遠巻きに高架下住人の抵抗を眺めつつ、薄い春物のコートの懐から取り出した手帳をめくる。目的のページに到達するとじっとそこに目を落とし、しわの刻まれた顔を歪ませる。齢も五十にさしかかろうかという男の立ち姿は背も丸まっており、いかにも老いを感じさせるが、表情だけはまだ壮年と言ってよい気概が見られた。男はしばらく手帳を読んで思索にふけっている様子だったが、ふいに後ろから声をかけられ、手帳を閉じて振り返る。
「田所警部」
やってきた若い男が上げていた手を下ろすのと対照的に、田所は呼びかけに答えるため軽く手を挙げた。
「よお。どうした、まだ見つからないのか」
「すみません、退去を拒む人間も多いため、手こずってるようでして」
「そうか。とっとと片づけて帰りたいのだがな」
田所は部下に向かって肩をすくめてみせた。反応に困ったらしい部下の男は軽く口を開いて弱弱しげな笑みを返し、対岸の火事のように他人事の騒ぎを眺めた。
自身に火の粉が及ばないなら、眼前の騒ぎもテレビの向こうの事件と変わりはない。立場が一般人と異なる彼らでも、それは同じことだった。
「探しているクスリ、ええと、なんと言うんでしたっけ」
「〝スイーパー〟昨今流行りの脱法ドラッグのひとつだよ。きちんと頭に入れとけ、馬鹿野郎」
「すみません……しかし、どうなんでしょうね。現物を持っていたとしても、売人はしらを切るなり逃げるなりすると思うんですが」
「ああ? しらぁ切るような真似を、俺が許すと思うか?」
「先日の麻雀倶楽部の騒動では結局厳重注意で終わったじゃないですか」
「ありゃぁ証拠不十分だったからだ、泳がしてる状態ってことにしとけ。それにもし、しら切りとおして脱法だなんだとほざいても、人体に使用することについてはきちんと薬事法で禁止されてるんだ。売人は逃がしゃしないさ」
またひとつ、住人のいなくなった家屋が潰される。
抵抗を続ける住人は依然として強い反抗心をむき出しにしているが、その数は徐々に少なくなってきていた。居るだけでプレッシャーをかけることが出来るこちらに対し、住人達はあまりに無力。マジョリティという圧力は背を向けることも立ち向かうことも許さない壁として住人達に迫り、上がる不満の声を端から駆逐していく。その光景は見慣れたとまでは言わないが、田所にとっては幾度も目にしたものの再現として映った。
「どんな隠れ家に潜んだところでいずれ威圧感に根負けして疲れ果てる。逃げられん」
「あとは自分から出てくるのを待つ、ですか」
「手っ取り早いのはそれだが、突入を要するような状況もあるから臨機応変にな。……あー、隠れ家と言えば、音楽組織が潜伏してるってな情報もあったか。そちらも注意するようにとの通達だ」
「また〝楽団〟が?」
「どの楽団かはわからん。千野上村一派か、須崎一派の残党か。ともかくも、匿名での情報提供があったそうだ」
田所は再び手帳をめくる。楽団については行きがかり上、出来れば調べてほしいという程度の要請であったが、仕事には変わりない。つい先日も匿名の情報に従い麻雀倶楽部に出張って、きな臭いどころか焦げ臭いボヤ騒ぎを起こした連中が証拠不十分で厳重注意に処されたところであるし、可能性があるならすべてしらみつぶしにするべきだと田所は思っていた。故に、鵜呑みにすることはないが、匿名の情報にも注意すべきと考えている。
「にしても、ああいう連中はどう思っているんだろうな」
「連中、と言いますと?」
部下の視線はじっと高架下住人に向けられている。田所は視線の行く末と目に籠った感情を見て、「聞き返すわりに決めつけかかっているんだな」と観察しつつ、自身の考えを語った。
「罪を犯す連中さ。天からの啓示にでも従ってるのか、単なる愉快犯なのか、怨恨なのか。こうやって種類は分かれるにせよ、全ての犯罪者には罪を犯さない人間とは違う思考があるんじゃないか、と思っただけだ」
部下はしばし考え込んで、その間田所はぼんやりとポケットのタバコを探っていた。
人に害為す危険なものを嗜好し、リスクを頭に入れた上でそれを楽しむ。田所には理解できない思考だ。だが理解出来るのなら理解してみたいと彼は思う。何事も頭ごなしに潰すのはいかがなものか、とは思っているからだ。しかし同時に、理解することは自分にとって異端となる考えをある程度まで受け入れることだと思っているため、職務上不可能だと感じていた。
「思考の偏りというのなら無いとは言い切れませんが、あったとしても、理解することはできないでしょうね。理解してみたいとは思わなくもないですが」
考え込んで、少し経ち。部下は適当な相槌でも問い返しでもなく、きちんとした意見を述べた。そのこと自体も珍しいのだが、内容に対しても田所は驚く。
「おや、こりゃ驚いたな。お前が俺と同じ意見とは」
「珍しいこともあるものですね。ですが、前提から間違ったような、微妙にずれた話題だからだと思いますよ。実際問題、我々が犯罪者を理解することは不可能でしょうから。味覚の無い人が味という概念を理解するのと同じくらい難しい」
「その例えじゃ俺たちの方が視野狭いように思えるが」
「狭いのは否定できませんよ。我々の仕事は他人の考えを受け入れることより、規律に沿って他人の考えを排斥することの方が多いですから」
「かもしれんな」
彼らは気持ちでは動かない。彼らを突き動かすのはあくまでも規範規律の類であり、彼らは正義を貫かない。ただただ条理と見比べて不条理を正し、事件を終結させるに過ぎない。解決へと導く能力は、また別の場所でこそ要求されるものだ。
だから彼らの前では、いつも終わりだけがはじまる。
#
「さってと。見た感じ時間はあんま無さそうね」
「だね」
「でも前回に引き続き、この短時間で立てられる最善最良の策ができたと思うわ」
「買いかぶりだと思うけど。めちゃくちゃ無茶な策だし」
「無茶を言える人材も必要なのよ。蛮勇を以て無茶を実行できる人材は既にいるからね」
住人達の抵抗を見ることのできる距離にある、歩道橋の上。走ってきたために乱れた息を整えた団長はキャリーバッグの中で三脚のついた拡声器をいじくり、なにやら準備を進めている。来宮も逃走のために準備があるらしくいずこかへと消えてしまい、策を出してしまうとやることもない鏑木は自身・来宮・団長で立てた脱出策にどこか落ち度は無いものかと思案しつつ遠くを眺めていた。
……正直な話、前回に引き続いてしまっているのはその策の『穴だらけさ・無謀さ』だけだと鏑木は自負していたので、落ち度を探しても探してもらちが明かないと思っていた。故に、
「実質、現在僕は何もしていないに等しい。……とか考えてる?」
「別にそんなこと」
「そんなきみにプレゼント。現状確認しといて頂戴」
無理やりに渡されたのは携帯電話。番号は既に打ち込まれており、あとは通話ボタンを押すだけの状態だった。番号に鏑木は見覚えあるような、無いような。来宮にでもつながるのだろうか、と少し嫌そうにボタンを押し、鏑木はケータイを耳に押し当てた。
「もしもし、団長の電話を使って失礼します。鏑木好晴です」
『はいこちら阿取透……ってその声さっきの。お前好晴だったのか』
繋がったのはアトリの方だった。遠く見える住居群のどこかに潜んでいるはずの彼は心底驚いたような声で鏑木の通話に応じたが、要するにその態度は本当に鏑木の声がわからなかったことを示している。いささかならず鏑木は嫌な気分になった。
「ようやく意思の疎通ができて嬉しいよ。さっきの一言には傷ついたけどね」
『わりぃけど声高いなと思ったのは本心だ。つーか、なんでお前も楽団に居るんだよ』
「色々あったのさ。ケータイをアパートに置いてったどっかのお間抜けさんには連絡つかなかったから、知らないだろうけど。で、今使ってるのは誰のケータイだ?」
『このケータイはー、ここの家主さんからおかりしてるの』
瀬古もやっと鏑木と通話していることに気付いたらしく、脇から会話に口を挟んでくる。歩道橋の上から眺める向こう、崩れた廃墟の戸数が多くなってきている中でまだ形を保っている家の、窓と思しき場所からにゅっと突き出した白い手が振られた。鏑木も手を挙げて合図する。
「よし、場所はこれでわかった。それにしても、そこの家主さんは家無いのにケータイは持てるのか……」
『いんや、こういう生活が好きでやってるだけらしいぜ』
「悪趣味だなあ」
『本当はどこぞの高級マンションに一部屋持ってるとかなんとかだそうだ』
「腹立つなぁ」
歯に衣着せぬ物言いの鏑木。他愛ない会話の合間にちらちらと団長の方を見るが、なにやら拡声器の音量を調節している。空を見上げて近くのビルの屋上を見れば、そこでも来宮が作業を進めている。目線が合ったが、ついっと顔を逸らした。忙しいらしい。
「それで、例の物の位置は?」
『わたしたちのいる家わかる? そこからかぶらぎのいる歩道橋に向かって数えて、三軒目の家のうら。今もそのへんにケーサツいるけど、さわぎが起きたら歩道橋にちかいひとから団長のほうに走り出して、いなくなるとおもうー。わたしたちの家の正面は五十才くらいのおじさん刑事につれられて十人いじょういるから逃げらんないしー、そこから見るとあれ(、、)は二軒の影になってばれにくいの』
瀬古の言葉に従って目線を手前へずらすと、目標の物があった。おあつらえ向きに近くに茂みもあるので、身を隠すには支障ない。ガードレールの切れ目もそう遠くない位置にあり、計画実行の下準備はほぼ整った。
「猫。お前も大丈夫だよな、逃走経路の確保は」
『しーんぱーいなーい。ケータイで近所のしりあいに声かけたよ、そしたらみんな協力してくれるって。むしろ、そっちこそ時間の把握できてる?』
「さっき確認してきたよ。外国ならともかく日本のは時間について信頼できるし、まず失敗しないだろ」
『おーけい、おーるらい』
確認が終わったところで隣を再び見やると、作業が終わったのか、顔をあげた団長がうなずく。上の方を見てビルの屋上を次々に見ていけば、来宮も準備ができたらしく腕を高々と掲げていた。それに応じて手を挙げ、鏑木は瀬古たちに連絡事項として作戦の開始を告げる。
「準備できたみたいだ。……それじゃ、はじめようか。団長が引き付ける間に全て終わらせる。合図を待て」
『れっつごー』
『はいはい。信じてっから確実に助けてくれよ』
通話が途切れる。次は顔を合わせて会話出来るといいな、と目を細めてアトリたちの方を向き、鏑木は携帯電話を団長に返す。が、団長はこれを受け取らず、鏑木の手を取って彼のポケットにしまわせた。
「今はきみが持っといて。たぶん、必要になるから。でも、楽団に入るなら連絡手段も必要だし、鏑木君もケータイは手に入れといてね」
「わかったわかった。でも、機械苦手なんだよなぁ」
「すぐ覚えられると思うけど。これが片付いたら瀬古ちゃんと一緒に買いに行く?」
「考えとく」
階段を降り、アトリたちの脱出ルート確保のため動き始める鏑木。だが緊張のまとわりつく体は重く、もったりとした足取りにしかならなかった。
これが無事に、片付いたら。先のことを前向きに考えられる団長と比べて、鏑木はいまだ恐怖の印象が支配する感覚から抜け出せない。けれど奇妙な高揚感もあり、それが足を動かす原動力となっていることも間違いない。『自分が変わった』というより『周りを受け入れた』ということ。動けるようになったのは、それが要因かもしれなかった。
(楽しんでる、ってことかな。いや違うな、それだけじゃなくて、こう、期待……してるんだ)
これから行われる脱出計画に含まれる一過程に、期待が膨らむ。
(自分がそんな、危険を顧みないような性格だったなんて。ついぞ思ってもみなかったよ)
顧みないとはいえ理解はしている。しかし今は、前に進みたかった。そうすることがとても良いことのように思えて、だからこそいけるところまで行ってみたかった。停滞のうちにあった自分が外側へと行けたことが、心地よく感じられて。
「あ、そーだ鏑木君。大事なこと言い忘れてたわ」
「?」
「曲名」
振り返り見上げると、来宮から借りたハットの下にまっさらな仮面を付け、黒い外套に身を包んだ団長がいた。わずかに嬉しそうな色を含んだ声音はくぐもっていて、そのことに気付いた彼女は仮面をずらして口元を出し、次いで鏑木の耳に聞き覚えのある単語が届いた。
「〝いつかの勝利のための遁走曲〟……これが、今から演奏する曲のタイトル。どうよ、ぴったりじゃない?」
#
――ぴん、と弦を張るように、空気に芯が通って震える。
まず異常事態に気付いたのは田所だった。年齢的にも五十近い彼は遥か昔にとはいえ音楽を耳にした経験があり、響いた音色は忘却していたはずの記憶を揺り起こしたらしい。耳に届くは、空気を細かく刻んで、快い成分をちりばめて、耳から腹まで染み透るような音階だった。
「いかん」
耳をふさぐ田所。それでも大音量の演奏は肌に骨に血に肉に、直接震えを巻き起こす。あまりの暴挙に混乱し、しばし正常な思考を阻害される。周囲を見ても似たようなもので、突然の事態に頭がついていかない人間が多い。中にはぼんやりと中空を見つめて、まるで聞き入っているかのような人も見受けられた。
「演奏など……もはや罰金では済まされないだろう。何を考えている」
つぶやく田所にはやはり、法を侵すものたちの思考は理解できない。
だからこそ犯罪者を逃さず捕えて排斥する。思考や思想が自分の常識の範疇で理解できないのは怖い、という本能的な人間の直感に従い、実に人間らしく田所は生きていた。ところが彼はやれることを突き詰めていった結果、そうした「理解できないモノ」の近くへ行かなくてはならないはずの「警察」に属してしまっている。面倒なものだった。
「くそ、早く演奏者を止めなくては。おいぼさっとするな、ここを離れて、音の出所を探して止めろ! 何人か演奏者がいるかもしれん、手分けして探せ!」
聞こえてくる音はいくつかの音が重なったもので、生の音ではなく機械を通した演奏に聞こえた。ということはスピーカーを設置して、どこかから数人で演奏を流しているに違いない。だがまさか演奏者本人が目立つところにはいまい、と田所は考える。状況に即応し、それなりに的を射た判断を下した。
予想は数秒後に裏切られたが。
「田所警部、歩道橋の上に演奏を行っている人物が!」
「なに!?」
部下の指さす方向、通り沿いにある歩道橋の上。三脚で拡声器を固定し、黒い外套を羽織った怪人――――すなわち団長。周りに人を寄せ付けず、かつ足を止めずにはいられなくさせる印象深い演奏。拡声器越しに街中へと編みあげられていく律動は、団長の手にする鍵盤ハーモニカから紡ぎだされていた。
息を吹き込むことで音を発するその楽器は、呼気の強弱で音に様々な表情を与える。音の流れは密度を徐々に増し、最初に演奏されていた旋律が今はほかの楽器により奏でられ、団長の演奏に重なり合ってゆく。
「……止めろっ! 捕えてほかの演奏者の位置を聞き出せ!」
田所の命令で我に返った警官数名が、歩道橋に向かって走り出す。団長は仮面の中からすっと目線をそちらに移動させたが、危険が迫ることもなんのその。どこ吹く風といった顔で演奏を続ける。若干音程は乱れかけたが、鉄の意志で揺らぎを律した。
(もうすこし。まだ引き付けが足りないし、車道に警官が近い)
間に歩道橋を渡されている二つの道、双方に分かれた警察は階段に近付いていく。数秒前までは階段を下りればまだ逃げられないでもなかったが、今やだいぶ距離を詰められており、もう逃げることは許されない。退路を塞がれた事実を冷静に観測しつつも、団長は呼吸を乱さぬように演奏を続けた。頭の中に描いた五線譜がするするとページを進めて、集中すれば集中するほど頭の中はクリアに、雑音の無い静かな世界を作り出す。追っ手である警察の動きさえ、止まって見えた。
(……だいじょうぶ。これでひとまず、あの場所からは引き離した)
安心すると共に、自身に危機が迫ることでさらなる緊張を強いられる。だが確かに瀬古の読み通り、警察の人間は歩道橋に近い者から走り出しており、つまりは鏑木の潜む茂みと例の物から警察は離れていた。また、来宮が三つのビルの屋上にあるスピーカーをいじくって録音した演奏を流しているため、そちらにも人数が割かれている。瀬古たちの潜む家の周囲から、警察の包囲が薄くなっていた。
(もうすこし、もうすこし)
クレッシェンド。強まっていく音の調べ。
それは、高まりゆく大捕者の気運に呼応するように? 違う。これは逮捕劇などではなく、盛り上がりを見せつけるためのエキシビションマッチだ。そのように団長は理解し、懸命に吹き続ける。
脳内のみならず、現実の視界へと幻視すら出来そうなほど克明に鮮明に思い浮かべる楽譜。ページはめくられていき、合図の音が近付いていく。緊張で滴る汗をぬぐう暇すらなく、階段に一歩一歩近付いていく警察を無視し、音だけが焦りに合わせて速足になった。
世界が音で埋められる数秒、数十秒。人々は足を止めてぽかんとした顔のまま団長の演奏に聞き入り、中には音から逃れようと走る人もいるが。そんなことは些事だと言い切れるほどに、団長は演奏に没頭していた。
やがて、息を切らして楽譜の上を走り続け、到達する一区切りの一秒。つまり、仲間への合図。
(あとすこし、五小節、四、三、二、一……)
指が触れるCの打鍵。撃ち込まれた弾丸のような音が拡声器越しに響き渡り、音が切れる。
「……あーあ。フーガ全体で言ったら、掲示部もまだ終わってないのにね」
つぶやきは一瞬で、団長は鍵盤ハーモニカを下ろした。
拡声器を引き寄せ、三脚を外して口元を寄せる。あ、あー、と声が出ているか確認した。
「我らはっ、奏音禁止法に反抗する音楽組織〝フィルハーモニー〟! 自由な音楽と旋律を手にするため、日夜活動中! 活動理念は音楽を認めてもらう、ただこの一点のみ!」
朗々とした演説がはじまり、合図に反応して最初に動くのは鏑木。たった数メートル先の車道までが果てなく遠く見えて、遠く見えるはずの警察の背中はやけに近く見えた。恐怖に縛られそうな心臓を叱咤しながら歩き、警察に不審に思われていないか、声をかけられたりしないかが異常なほど気にかかる。犯罪者の心情はこんなものだろうか、と思い、ああそういえばもう犯罪者か、と思い直す。開き直ってもあまり気は楽にならなかった。
左の方向、歩道橋には警察がどんどん近付いていく。右の方向、三軒向こうの家からはアトリたちが脱出の機を窺っており、さらに正面を見ると、バスが信号待ちで停車している。
待っていたのは、これだった。
(よし、まずはよし)
内心で第一段階の成功に喜び、近付いていく鏑木の後ろには、リヤカー。瀬古たちが収入源として集めている空き缶類を乗せるためにつかわれるものだ。今はそこに何も乗っておらず、空席。しかもこのリヤカーは自転車の荷台に取り付けることもできるよう、持ち手にフックのついている箇所のある改造品だ。
(あとは、タイミング……)
蒼白な顔色は別の意味で人から声をかけられそうだが、気にする余裕は鏑木に無い。ただ任務遂行だけを考えて、車道へと歩み寄る。ちらりと右を盗み見れば、家の小窓からアトリたちが今にも飛び出そうとしている。
(タイミングだ。左向け左。信号が変わった。黄から、赤へ。赤から、青へ。……いやまだだ。まだ早い。もう少し動き出してから。スピードに乗るまでに。……まだか? まだか? まだか、まだか、まだ……今だ!)
歯を食いしばって走り出す。バスの六台前にある車が動き出していた。バスの斜め後ろから、バックミラーになるだけ映らないよう近付く。バスと後続車両の間にあるスペースに入り込んだ鏑木は、今なら緊張だけで胃の中を全部吐きだせる、と馬鹿なことを思った。
顔を隠すためにそこでお面をかぶり、馬鹿で無茶なことをしていると感じながら、握っていた持ち手のフックを、後部バンパーに食い込ませるように振りおろして打ち込んだ。ガギョっと音がして車体とバンパーの隙間にめり込み、ほとんど完全に持ち手は固定される。急に車間距離の間に入り込んで暴挙に出た鏑木に、後ろの車の運転手は唖然としていた。運転手に軽く頭を下げた鏑木は、駆けてきたアトリたちと共に四人でリヤカーに乗り込む。
「待たせちまったな!」
「遅いんだよ、アトリ」
「れっつごー」
紙袋をかぶって顔を隠すアトリたちを追ってきた警察の恐ろしげな顔は、バスの動きと共に後方へ置き去りにされていき、頭上へと歩道橋が近付く。歩道橋の上では、団長に警察の手が近付く。一秒の狂いも無い正確さで、スケジュールは消化されている。だがここまででも十分無謀だったというのに、この次に待ち受けるのは最大の無謀だった。
「さあ、いくぞアトリ」
「わぁってるっつの。つーかお前位置たけぇよ、もっと腰落とせ」
「身長差あるから仕方ない、我慢しろ」
「俺が低いってか。おい俺泣くぞ、ほら泣くぞ。絶対泣くぞ」
アトリと鏑木が腰を低くして、バレーのレシーブでもするかのような構えを取る。そう、この二人の腕の中へと団長がダイブすることが、計画の最終局面である。危険度を鑑みて歩道から飛び込む手も考えたのだが、右折車両の車線は『左折』『直進』のための二車線を越えた先にあるため、飛び込むのは投身自殺に等しい。
また、中央分離帯で演奏し、落下などという縦移動ではなく横移動で乗り込むという手も考えたが……実際現地に到着してみると片側の車線を工事中だったため中央分離帯周りは工事関係者が多く、実行できそうになかった。
結果、飛び降りてキャッチしてもらう他に手はなく。ぶっつけ本番でやるには、ここまでの難題の中でもさらにひどい、あまりの難題にぶつかることとなった。しかしこの難題を少しでもやりやすくするためにこそ、鏑木はバスを待つことを進言したのだ。
(この先、歩道橋を過ぎてすぐの交差点でバスは右折する。そうやって進路を曲げる時、バスは大回りに動く距離を要するから、普通乗用車とかと比べてかなり遅いスピードで交差点に入るよう減速する。その瞬間を捉えれば、十分に成功の可能性はある)
無論、危険には変わりない。失敗のリスクは大きい。
「でもやる」
団長に迷いはなかった。
演説を止めた団長は息を吸い込み、意を決して目を見開く。仮面を脱ぎ捨て、警察への目隠し代わりに外套を投げ捨てる。手が届くまで五十センチ。手をかけ、柵を足が踏みしめる。真下を通るのはまだ、バスのルーフ。だが最悪でも早めに飛び降りてルーフに着地しなければ、アスファルトか後続車両のボンネットに落ちることになる。
(――今だ)
柵に乗せた足がひと際強くかけられた体重を支える。そして上体を引き上げ、跳躍を、
「っつぅ!?」
体重を支えていた足に激痛が走る。すねの辺りに、出血が見えていた。瞬間的に力が血と共に抜け出て、バランスを崩す。跳躍ではない、ただの自由落下。少し前に鏑木の部屋でもこんなことがあったなあ、と短めの走馬灯のようなものの中に記憶を思い返す。ぐらりと上半身が傾き、踏ん張りの利かない足に激痛が走って歯を食いしばる。
それでも団長は腕の力だけで重心を前に傾け、前転するように宙に転がり出た。みしみしと悲鳴をあげる腕をだらんと空に向け、背中を下に落ちていく刹那。団長は、青空の中に自分の血液が丸くなって浮いているのを見た。
そして、衝撃。一秒に満たない落下の軌跡の終わりに見えたのは、歩道橋の上からこちらを見下ろす警察の姿だった。
#
「……ばーいばーい」
ハットを顔に向かってずり下ろしながら、軽く手を振る団長。どうやら、生きてる。そんなことを思って、膝から最後の力が抜け落ちた。
「ばーいばーい、じゃない! この世とバイバイするところだったじゃないか! なんであんた、上下逆さで落ちてくるんだよ!」
「あー、うん……ごめんね」
ハットをあごの方に下ろすと、鏑木とアトリが両側に見えた。目線を動かすと下の方、団長に覆いかぶさるように瀬古がいて、一番端にこの住居の家主がいた。部屋は薄暗いバーのようなところで、端っこにある古ぼけた埃臭いソファに、団長は寝ていた。生き残るだけでなく逃げることにも成功したらしい。安堵で倒れそうになり、鏑木が団長を支える。
よくよく見ると怒鳴る鏑木は右腕だけで団長の上体を支えており、左腕を体の横にぶら下げている。奇妙な、力の抜け具合をしていた。
「その、左腕って」
「かぶらぎの左肩、ひっこぬけたらしいのー」
「脱臼だ! まさかあんな格好で落ちてくると思わなかったから!」
「……ご、ごめん。鏑木君」
「まあいいだろ好晴。どうせ何からなにまでびっくり仰天、驚天動地のオンパレードだったんだからよ。全員捕まらずに逃げおおせたってのは十分すぎる成功じゃね? 腕一本くらいくれてやれよ」
「そりゃ、そうだけどさあ。……痛いんだよ、これ、かなり」
腕を押さえてうめく鏑木は、弱弱しげな顔で自分の左手を見た。手のひらに乾いた血がこびりついている。それを見た団長は自分が足に怪我をしたことを思い出し、タオルケットがかけられていた左足のすねをそろそろと覗きこんだ。包帯が巻かれていて傷口は見えなかったが、血が滲んでいることと痛みの深度から傷の具合を予想する。少なくとも、飛んだり跳ねたりはしばらく出来ないようだった。
「撃たれたのだよ、団長」
鏑木とアトリの背後にゆらりと現れた来宮は、長身痩躯をかがませて団長の顔色を覗き込む。額に手を当てて、己の体温と比べてみたりした。
「少々熱があるようだね。解熱剤を処方してもらってこよう」
「そういえば、ここは?」
「わたしのしりあい」
瀬古が自身を指さしながら言う。ああそうなの、と団長が納得しかけたところで、にやりと笑った瀬古は説明を加えた。
「……に、ゴミを漁られてめーわくしてた人のお店ー。問題解決のおてつだいしたときに、友達になったの」
「へえ」
今さら瀬古の変な人脈に驚く人物はここにはいなかった。やけに周囲の反応が薄いことに表情を曇らせた瀬古に代わり、鏑木が口を開く。
「来宮さんの言うとおり、足の怪我は撃たれたものだったんだ」
「ああ……まあ、あれだけおおっぴらに動いてれば撃たれたりもするかもね」
「それが、撃ったのは警察と違うんだとよ」
疑問符が頭の中に浮かぶ団長の前で、アトリが横のテーブルに置かれていたものを拳に握りこむ。人差し指と親指でつまんでライトの下にかざしたそれは、鉛の弾丸だ。傷口から摘出されたのであろうそれを眼前にさらされて、わずかに傷口の痛みが増したように団長は感じた。
「いくら警察でも、警告なしの発砲はねえらしい。んで、俺のダチにこういうもんとか詳しい、ミリタリーとかガンとかのマニアがいてよ。そいつにこれを見せたら『これは銃弾じゃない、たぶん釣りの時使う錘を削った奴だ』って話で、正規の銃弾じゃないそうだ。じゃあなんなのかって訊いたら、肉にめり込むだけで弾丸が止まる程度の威力とかからして、違法改造したエアガンか何かに詰めた自作の弾だろう、って言われた」
「だから一般人からこーげきされたってことだねぇ。けどー、団長はそんなふうに撃たれるような恨み、そんなに買ってなさそうだから」
瀬古が言葉を切ったところで、鏑木はポケットから団長に借りていた携帯電話を取り出す。着信履歴を開いて、団長の前に差し出した。
「誰だろうって話をしてたら、電話がかかってきたんだ」
画面に表示されている名前は、『本山正志』。
「……これ、あの麻雀倶楽部の時にいた、モヤシ野郎のフルネームなんだろ?」
#
団長の起きる一時間ほど前。突然電話が、ブザーのような音で鳴り始めた。
『うまく逃げおおせてるみたいで、俺も驚きを隠せませんよ、団長』
「……団長じゃないよ、僕は」
停留所でバスからリヤカーを切り離し、路上に放置して逃げ込んだ裏通りの店の一軒。服を着替えて一応の変装を済ませた鏑木たちは、まだ開店には早いため客のいない室内の隅に固まって一息ついていた。そこにかかってきた電話がこれだったのだから、疲れが取れていない鏑木の応対はかなりつっけんどんなものだった。
『おや? では団長はどうなさっているのでしょうか』
「今は寝てるけど」
どこかで聞き覚えのある声だ、と思いつつも、電話越しというのはよく見知った者の声でも印象がかなり変わる。鏑木は確証が持てないまま頭の中に湧きあがる既視感ならぬ既聴感をうっとうしく思いながら、相手の返答を待った。
『ああそういえば。申し遅れましたね、俺は本山正志といいます』
「本山? あー、さっき会ったばかりじゃないか。僕は鏑木だよ」
『鏑木さん? なぜ、団長の携帯電話を持っていらっしゃるんですか』
「ちょっと借りてて。何か用事?」
「んん、用事、ですか……無きにしも非ずといったところではありますが、七割方終わっているとも言えますしね。どちらかと言うとこの通話は経過報告であって、特別に電話する必要などはなかったのですが。しかし俺は気分として望んでいたことですので、その点においては必要とも言えましたか……」
長ったらしい物言いが癪に障るので、鏑木は足組みして体を伸ばし、精一杯嫌味に聞こえるように咳払いをした。しかし本山はまったく意にしない様子でくすくすと笑い、さらに鏑木の神経を逆撫でする。疲れていることもあって、長く話したくはないな、と思った。
「で、なに。団長に用ならあとでかけ直させるよ」
『ああ、直接彼女に連絡する必要は無いので、ご心配なく。あなたに短い言伝さえ頼めればよいのです』
「それだけ聞いたら切ってもいい?」
『もちろん。大した用件ではないですし』
大した用件でないのなら切ってもいいだろうと鏑木は思ったが、指摘すれば余計に長引きそうな気がしたのでおとなしく従っておくことにした。
一拍の溜めのあとに、本山は囁いた。
『では、このようにお伝えください。「撃ったのは俺です。あなたの武器は全て盗みました」とね』
確信をもった言葉は、けれど理解しがたい内容で、鏑木に疑心と呆れを呼び込む。呆れの度合いが大きすぎてさっぱり信じる気にはなれず、当然くだらないいたずらに付き合う気にもなれないので、やんわりといなした。
「……からかってる?」
『いいえぇ、とんでもございません』
またも耳障りなくすくす笑いが聞こえて、鏑木は溜め息をつく。電話を耳から離し、脅すように声色を低めにした。
「こっちも疲れてるんだからふざけた態度も大概にしなよ」
『ふふ。本日二度も警察に追われたのが俺のおかげだと知っても、果たしてそんなことが言えますでしょうか』
本気で通話を切ろうとした瞬間耳にした言葉で、指先の動きが凍りつく。電話の向こうでは鏑木の反応を楽しむかのようになおも気味の悪い声が反響していて、そのことから鏑木は相手が音の響く室内にいることを悟った。
『一般市民としての通報であなたたちを追い詰めたのです。なかなか興味深かったですよ、滑稽に逃げ惑う姿は。ずっと眺めていたくなるほど、それこそ愛くるしささえ覚えました。けれどいつまでも眺めているわけにはいきません。とても悲しかったのですが、やるべきことがありましたので……もうおわかりですよね? 俺が通報によってみなさんの動きを縛り、その間に何をしていたのか』
辺りを見回す。まだ来宮は到着しておらず、本山の発言の真偽を確かめることはできない。
さまざまな状況が想定されては頭から消えゆき、鏑木は震えた吐息を漏らす。その音にかぶせるようにして、本山は滑舌よく自らしゃべりだす。
『団長たちが来宮さんのお宅に保管していた、活動においては武器とも呼べる品々。道具に楽器に録音した演奏に、なにより一番大事な楽譜! 先代である須崎の残した傑作! それらを全て運び出すのは大変苦労しましたが、いやあ、仕事が終わったあとの気分は晴れやかで仕方がありませんね。歌でも歌いたい心地です』
「お前、なんなんだ」
鏑木が静かに響く声を出したことで周りが気づき、鏑木に視線が集まる。携帯電話からは一拍置いて高笑いが聞こえ、いつでも薄闇に包まれているバーの中にこだました。なんだか色々な方向から嘲笑う声に包まれたようで、全員の背筋に寒気が走る。
『ふふふふ、笑ってしまい大変失礼しました。まさかそんなに必死になるとは思ってもみませんでしたので……少々驚きまして。しかしあなたは団長と関わってさほど経っていないはず、なにも激昂することはないじゃありませんか。それとも、既に深い仲なのですか?』
「ぜんぜん。でも僕的には、お前みたいな卑しいやり方をする奴よりはずっと好ましい。それだけだよ」
『随分な嫌われ方をしたものですね』
「嫌われたくなきゃ努力しろ。大体、お前も楽団の人間じゃなかったのか」
『一枚岩の組織などありはしませんよ。俺の他にも、なにか別の目的があって入ってきている人間はいらっしゃるようですし。詳しくは、存じ上げておりませんが』
「…………!」
『あなたも間の悪い時に関わってしまったようです。ご愁傷さまでした。もうその組織は瓦壊寸前です、早めに逃げることをお勧めしておきますよ……。では、用件は済みましたので。さようなら』
通話は切れた。
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来宮邸に戻った五人。団長と彼女に肩を貸すアトリ(身長が近く、かつ力があるのは彼だけだった)を先頭にした鏑木・来宮・瀬古のメンツは、荒らされたわけでもなくただあるべきものがあるべき場所から無くなっている家の中を見て愕然とした。アトリの肩から下ろされて床にへたりこんだ団長は、蚊の鳴くような声で確認のための問いかけをつぶやく。
「……楽器は」
「ご丁寧に天井裏まで探っていったようでね、全て盗まれている。目的は未だ不明だが、大方予想の範疇だろう。闇市場に流すか、他の楽団に売りつけるか。そのどちらかだろうね」
「他の楽団に?」
同じ目的で動いている集団同士で争うという事実に、鏑木は驚く。来宮は眼鏡のブリッジを押し上げながら団長の横に座り込み、彼女の肩を抱くようにしながら鏑木に答えた。
「楽団同士も一枚岩ではないよ。音楽の解放という目的地が同じであっても、辿る道筋という思想を違えた輩は多い。たとえば、自分たちで言うのもなんだが、僕らは穏健派。少なくとも武力行使には出ない。その一方で恫喝などの犯罪に手を染め、無理な反社会活動を続ける輩もいるのだ」
「それに、資金をあるていど持ってる音楽愛好家はそれなりにいるからぁ。そーいうひとたちに売りつけることだって、いくらでもできる」
なんにせよどこかへと流された、というのが一番可能性として高い。特に闇市場という広く暗く深い海は、潮流も風向きもころころ変わる。一度流れた品を全て取り戻せる可能性は零に限りなく近い。楽器と楽譜、活動を支えていた二つの柱を奪われた団長の失意は、鏑木には計り知れなかった。ただ、憤怒と悲哀と自嘲をかき混ぜたような激情に身を駆られているのであろう団長の姿は、痛々しくて見ていられないと感じる。
別段鏑木自身にはアトリと瀬古たちを助けた今さっきのように蛮勇を奮えるほど、楽器に対して強い思い入れがあるわけではない。楽団への参入は自らの意思でこそあれ、音楽への強い渇望などがあるわけではない。
それでも、これは惨い仕打ちだと、鏑木は心中でだれかを呪った。こんな状況を作る要因となった、どこかのだれかを。無神論者の彼には珍しく、ひょっとしたらこの時彼は神を呪ったのかもしれなかった。先ほどまで盗人に繋がっていた携帯電話を、ポケットの中で痛いほど握りしめる。
「……また一からやり直しか。賽の河原じゃあるまいに、僕らはいつまで積み直しを続けなければならないのだろうね」
団長の肩を抱いたまま、来宮は悲痛な叫びを漏らす。すると突然、来宮の腕を振り払って団長は立ち上がる。ずかずかと歩き、瀬古とアトリの横をくぐりぬけて、一人で玄関への扉を開ける。蝶つがいが軋む音がしても誰一人動かず、動けない。現状に頭がついていけないからだ。
つまりすぐさま動くことが出来た人間は、現状を把握出来ていた。団長はこの苦境を正確に理解してしまっていた。だからこそ、動かずにはいられない。
「団長」
つぶやいて追いかけに行った鏑木もまた然り。二人は驚愕や激情により思考を硬直させるような愚は犯さない。そう、いつだって何をするにつけても「欲しい時にこそ時間は残り少ない」と自覚しているからだ。
「団長!」
玄関から外に出る。右を見て、左を見て、見つけた。電柱にもたれかかるようにして、なおも足を進めようとしている小さな後ろ姿。けれどもう進めない。頭では理解していても、心が折れかけている。これ以上動いてもさらに己を抉るだけだと、傷ついた心が体の動きを押し留めている。無理をおしてまで動こうとした代償か、五十メートルも移動していないはずの団長は過呼吸に陥っていた。
「団長、息を。息を吐き切れば自然と吸えるから。えっと、たしかこういう時はビニール袋とかを口にあてて、」
「いい……」
「けどさ」
「要らない」
短く言い返して、なおもひゅうひゅうと呼気の出入りを辺りに向けて鳴らしつつ、青い顔をした団長は歩こうとした。
「楽団員に……呼びかけて。今なら、まだ…………探せる」
「無茶だよ。あいつ、臆病そうだったから。そういう奴は慎重に計画を立てる、だから姿が簡単に見つかるような逃げ方はしない」
「でも……だからこそ、たくさんの楽器、荷物を積んだ車から、離れようとしないかも」
「落ち着きなって。指揮系統である自分が混乱の中にいるくせに、下手な指示出したら余計にこんがらがるよ。まずは情報を集めないと」
ひざまずいて自分の肩に手を置く鏑木を、団長は不思議な表情で見つめた。怒っているというよりも、理解してくれないことへの悲しみのような。鏑木の言葉に対して返したのはその反応だけで、あとはぎり、と奥歯を軋ませる音をさせて立ち上がる。膝から、崩れ落ちる。
「ほら、やっぱり無理だ」
「う…………ごほっ、がっ、げほっ!」
「! ちょっ、」
胸を押さえた団長は激しくせき込み、同時に口からは赤い血が飛び出した。あごを伝いぽたぽたと地面に落ちるそれを見て驚いたのは鏑木だけで、団長は一瞥するとすぐに前を向いた。空を掻いた手は地面へ行き場を見つけて爪を立て、前進への気概をまざまざと見せつける。あくまでも、見せつけるだけに留まったが。
「おい、大丈夫……」
「あ……」
ぐったりと力尽きた団長は顔面から地面に突っ伏し、アスファルトの上で乾いてゆく自分の血に接吻する。団長はぴくりともせず、口からは唾液と混じった血液が流れ落ちて、地面に新たな赤いまだら模様を形作った。慌てた鏑木はなんとか彼女の体を起こして背負おうとしたが、左腕を三角布で吊るしている状態ではなんともならない。結局一人で来宮邸に戻り、アトリと来宮の二人に運んでもらうこととなった。
「やはり限界だったようだ。また血を吐くとはね」
「また?」
二階の一室に寝かされた団長の傍らには薬局で処方された薬の収まった紙袋がある。横目に紙袋を見つつ問う鏑木だが、おおよその見当はついた。来宮は腕組みして背を壁にもたせかけ、廊下からわずかに差し込む光の下で眼鏡を押し上げる。やはりその奥の目は、以前感じたまま、疲れていると鏑木には思われた。
「ストレス性の消化性潰瘍だ。もはや慢性になってきてはいたものの、それでも最近は血を吐くことは少なくなっていたのだが。よほど、今回のことが堪えたようだね」
「ストレス、ですか」
「ああ。ちなみに前吐いたのはちょうどきみたちが麻雀倶楽部に来た時だ。あの日は――そう。本山の奴が、一刻も早く膨らんだ借金を返すために担保として楽器を借りたい、などと世迷言を吐いた日でね。僕も団長も忍足君も、『なら貴様の内臓でも担保にしろ』と吐き捨ててやった。結果、団長が切れて譜面台を投げ飛ばした」
「セリフもやることも年頃の女の子とは思えないですね」
「だな。まあ、わかっているとは思うが、彼女はきみよりも年下だ。本来なら高校生活を送るべき人間だよ。だのに、こうして彼女は常に楽団のトップとして、様々な案件をこなし全てに責任を持ち世界と戦っている。これでストレスを感じていないとしたらきみ、それは人間とは呼べんだろう」
奏音禁止法は米・英・中・仏・露を筆頭に日本を含め三十二カ国で制定されている法律である。元々は戦時下、言論統制が敷かれている中で市民が反戦を謳って起こした抗議運動、それらを鎮圧するための法律であったが、二十年前に改定された時からは国内で抗議の反乱を起こさせないための鎖と化している。すなわち、国の横暴を具象化したような法律なのだ。それと戦うことは確かに、世界を敵に回すと言っても過言ではない。
あの小さな体で、彼女は重圧に耐えてきたのだ。理解されることもなく、時には石を投げつけられても、なお前を向いて。彼女の活動を根底で支えていた恐ろしいまでの意志に強く感じ入った鏑木は、すぐそばにいるはずの団長の姿が急に遠のいて見えた。来宮がそこで嘆息したので、また鏑木は正面に視線を戻す。
「超人ではあるかもしれない。しかし超人もまた、人間という枠の内にしかいない。故に無理を続ければこうなってしまう。か弱い少女には変わりないのだから」
「ならあなたが代わりに団長をやればよかったんじゃないですか?」
「本当はそう出来ればよかったんだろうね。だが彼女には僕よりもよほど、団長という立場が必要だったのだ。心の拠り所だった。奪ってしまえば、今日ここまでに至るよりなお早く、彼女は今と同じ状態になっていたことだろう」
「…………」
「彼女が目覚めたら教えてくれ。僕は忍足君や他のメンバーに連絡を取り、奴の足取りをつかむ。きみにも後ほど手伝ってもらうことになるだろうが――」
言葉を切った来宮は、ドアを開いて廊下に出る。闇に包まれた部屋の中に廊下からの光が注ぎこまれ、鏑木は目を細めた。
「――本当に、手伝ってしまっていいのか。きみは、楽団に入るのか? リスクを負ってまで戦う意味が、きみにはあるのかい? 今これから行うことは、さっきのように友達を助けるという名目でもないというのに」
「そういう性分なんですよ」
「例え犯罪者相手でも、困ってる人は見過ごせない、と?」
「そういうわけじゃありませんが」
納得できない風な来宮はそれでも結局、あとを鏑木に任せて団長の眠る部屋から去る。階段を下りていく足音が居間に入り込んだのを聞いて、鏑木はドアを背に腰を下ろした。疲れで体が重く、まどろみに沈み込みそうになったが、まぶたが降りるのを自制する何かがあったのも事実。じっと薄闇の向こうの団長を見据えて、そうしているうちになんだか自分が薄気味悪いストーカーのように思えて、目線を逸らした。けれど寝顔が気になって、ちらちらと視線は傾く。彼女の頬には、涙が一筋流れていた。
涙は痛みのためだろうか。喪失のためだろうか。ともかくも、彼女は心根の強さと弱さを併せ持っている。
鏑木は彼女の近くにいると、己の中の強さと弱さも明確に感じ取れる気がした。自分をしっかりと把握して、無意味に生まれる焦燥感を消し飛ばせるような気がしていたのだ。就職難に取り巻かれて自分の信じていた常識に置いてけぼりを食らった彼には、まず安定した心根が必要だった。
「僕は弱いからなあ」
打てる算段は逃亡策ばかり。こうして今、反撃策が必要な時にも、薄暗闇に甘んじて何も出来ずにいる。愚図な自分を呪えば、その分募るのは無力感と焦り……もっとも彼が恐ろしく感じている、焦りだ。
何かしなくちゃいけないが何をどうすればいいのか皆目見当もつかない。動くべきだが方向はどちらだ。時間はないんだ早く動け。
――頭は回らない。
僕は弱いままだ、と打ちひしがれる。
(すごく、みじめだ)
もちろん鏑木は「僕は変わってやる!」などと考えていたわけではない。目標も目的も少しばかり漠然としていて、あやふやなためによくわからない。すべきことがあるはずなのにそれが見えないもどかしさに、常に焦りを覚えさせられる。
『覇気がない』『しゃきっとしてない』『やる気が感じられない』『必死さがない』『真剣味に欠ける』『どれも中途半端』『目標が見えない』『その場しのぎ』。
世間に貼りつけられ、親に言い聞かされ、全身を塗り込めた言葉たち。嫌になって、似たような友人知人とぐじぐじ生きてきた。部活もせず、とかく駄弁り、つるみ、遊びに精を出す。勉強やその他が先の目的にならなくて、自分の立ち位置がいつも不明瞭だった。教室の中で「目立つ人」の背景として壁のシミを自任し続け、まあまあ楽しいものの、うやむやにしている何かがあって。
「周りも同じだ」ある日教室から出て扉を閉めた時に、唐突に思った。本当は思いこもうとしただけなのかもしれないが、振り返ってまで確認する気は起きなかった。その時には既に、何かに急き立てられているのを感じていたから。足早にそこから立ち去らなければ、己を急き立てる何かに追いつかれると思った。――これも、思い込もうとしただけなのだろうか?
「でも……」
またも視線をずらす。スライドした視界の中央には、団長がいる。彼女は少なくとも、急き立てる何かがなんなのかを知っている。鏑木は今までその『何か』は常識だと思ってきたが、少なくとも彼女は常識には囚われていない。けれど追い立てられている。
彼女が目を覚ましたら最初に、それがなんなのかを問いたいと鏑木は思っていた。自分たちを追い立てる何かはなんなのか。焦りはいつになれば静まってくれるのか。なぜそんなにも堂々と、自分のペースで歩いて行けるのか。問いかけは形を変えて頭の中を渦巻くが、結局はひとつのことだけを問いたいということを示していた。
立場。責任。楽団。活動。ゲリラ。音楽。演奏。楽団員。――楽器。
彼女を作る諸要素。そこへ投げ込まれた一石による裏切りの波紋。奪われた、楽器。
「ここまでされてまだ続けるなんて、ある意味この人は、音楽に追われてるのか……」
逆に鏑木には、何一つとして自分を作る要素が思いつかなかった。この差が、『追い立てる何か』を自覚するか否かの分水嶺かもしれない。自分自身を正確に把握出来ていないからこそ、意味不明な焦りが生まれるのかもしれない。
それとも、鏑木はどこかで自分を作る要素を奪われてしまったのだろうか。
もし、奪われた全てを取り返せたら。
少しは自分を理解出来るだろうか。そして、自分を追い立てる何かを把握出来るだろうか。
「無理だろ」
考えてすぐ諦める。無力感が鏑木の中でひしめきあい、プライドが削れた気がした。
「…………でも、楽器のひとつくらいなら、闇市場でなんとか探せる、か?」
削れた分を取り戻そうと、出来もしないことの中でも、まだなんとかなりそうなことを口に出してみる。
「そうとう沢山、盗まれたみたいだし。ひとつ、くらいなら……」
独り言で、削れた部分に虚しさが満たされた。うつむいて膝に顔を埋めると、そうしている間にも他にやるべきことがあったのかな、と最初の考えに立ち戻ることになる。つくづく自分が嫌になる。
「沢山、盗まれた、か」
口に出すと、現実味が増した。入団したばかりで活動休止となると、たしかに自分が間の悪い人間だったように思えてならない。もしくは疫病神だろうか。
(……でも、金品とかは盗んでなかったな。だからどうということもないけど……ん? でもさっきの来宮さんの話じゃ)
本山は借金のためにいち早く金が欲しかった、そのはずである。それなのになぜ、換金に手間取りそうな楽器を? 芽生えた疑問を解決するため、鏑木は頭を働かせる。
奴は『運ぶのは大変だった』というようなことを口にしていた。重さにして合計百キロ以上、数にして三十、中には来宮の身長を越えるほどのものもあったという楽器の山は、確かに運ぶには難儀するだろう。だが、ならばなぜ時間をかけて一人でいくつも運んだのか?
換金手段も気にかかった。別の楽団との繋がりから、即金で売り払ったのだろうか? 楽器の保存状態もよくわからないのにそれはないだろう、足下を見られる。いずれにせよ、どこかへと運んで誰かと密会し、それら楽器を金銭に変える手段を講じるはず……ならば、誰が。後ろ暗い闇を持つ誰が。だれ……誰?
『誰が』?
(あーあ……またか)
思考回路に電流が閃く。麻雀倶楽部の時にように、迷案が浮かび上がった。
「なんでこう、安い手しか思いつかないんだろ……」
選択肢はいくつか用意しておきたいのが心情だというのに、一つの解法らしきものが思い浮かんだとたんに他の思考は出来なくなる。最善策とはとても言えない、突発的な思考一つで回路は停止。不安が満ち満ちて、自分で自分を信じられない。今の思考は焦りに追い立てられて迷走しているわけではない、などと、誰が言える? 少なくとも鏑木は言えない。
思いついた手は頭の中でその他の要素と結びつき、塊として形を為す。楽器。盗難。本山。借金。取引。通報。脱出。遁走。把握した状況と起こっている事象を線で繋ぎ、対応するための策へと形成していく。もうほとんどのピースが埋まっていた。
それでもなお、足は震える。今日一日で二度も体験した追われる側の心地が、絡みついてほどけない。失敗した時のことだけを考えてしまい、最悪の場合が脳裏を幾度となく過ぎっていく。楽観的な思考など何一つ生まれなかった。
鏑木は、今までの人生で、うまくいったことなど一つもない。
「……ねえ」
冷や汗が頬を伝うのを感じて顔をあげた鏑木は、ベッドの上で寝返りをうつ団長に呼ばれた。内心の動揺を悟られまいと深く息を吐いた鏑木は、浅くわずかな空気を吸って言葉を返す。吸った空気は、湿ったパンみたいな匂いがした。
「なに、団長」
「…………怖くならない?」
「怖いってなにが」
「これからのこと」
自分が策を立てていたことを読まれたのかと、驚いた顔で団長の後頭部に視線をやる鏑木。けれど彼女が言っているのは策のことなどではなく、もっと先のことらしい。
「楽器もなくなって、楽譜もなくなって……ああ、この楽譜って、先代の団長だった私の師匠が作った曲だったんだけどね」
言われて、鏑木は本山が『傑作』と述べていたことを思い出す。愉快そうな声で笑いながら、そんなものまで奪っていったのか、と鏑木は胸糞悪くなった。そして同時に、倒れるほどのショックを団長が受けたことにも納得した。
「ホント、武器を全部とられちゃった。ここからやり直しっていうのは……きついよね」
「……でもやるんだろ」
「まあね。少なくとも高校生やめるまでは、続けられるから」
「それ以降は?」
「今ほど盛んには出来ないかもしんない。定職つけー、とか言われそうでしょ」
背を向けたままころころと笑う団長に、鏑木はむすっとした表情で答えた。気配でそれに気づいたのか、団長は話題を鏑木が思ったことに向ける。
「鏑木君、仕事につけなかったんだっけ?」
「でなきゃこんなことしてないさ」
「こんなこと、とは悪しざまに言ってくれるわね。定職がないのがそんなにいや?」
「当たり前だ。それだけで、たったそれだけでも〝ダメな奴〟ってレッテル貼られるんだぞ」
一生懸命になれないんだ。どこかで空虚な気持ちになっていつしか全てが冷めきって、誰にも何にも興味が持てなくなる。それまでに築いた輪の中に収まっていたくなる。自分を輪の中に押し込め続ける強固な壁。それを、どうにかしたくて。しかし鏑木は一歩を踏み出せない。
「ダメなのはわかってるからこれ以上言わないでほしいよ。僕だって、もう少し、」
「才能? 幸運?」
先回りされて、言いそうになった言葉を突き返されて、鏑木は口ごもった。
「もう少しそれに、恵まれたかった?」
わずかに体を起こして、横目で鏑木を見やる団長。眼光に射すくめられて、鏑木の顔は徐々にうつむいていく。
「……うつむくな!」
強制する命令。はっとした鏑木は襟元を引っ張られたかのように顔をあげ、団長と再び視線を合わす。けれど目に力は無く、正面から団長と見合うことが出来る状態ではない。やがて団長も鏑木から目をそらし、またも寝返りをうった。
「先代の団長はね、音楽にも戦術にも才能なかったわよ。でも仲の良かった人間がいた。来宮さんと、あともう一人神恵内さんって人と。たった三人で、この楽団の前身を作り上げたのよ。失敗ばかりで成功なんてひとつもなくて何一つ実を結ばなくて、去年、二〇〇〇年になった瞬間に決起集会を行って、投獄された」
ニュースで見て、そして歴史の教科書に載ったと話題になったその事件のことは鏑木も憶えていた。
二〇〇〇年問題によりコンピュータ等の通信網が全て落ち、五時間後に復旧が完了するまで全てが停止した大みそか。総勢一万人強という大行列で暗闇の中を夜明けまでデモ行進し、音楽の解放を歌った一斉蜂起があった。その一件は世界中に伝わり、音楽関連の事件ではどの国でも必ず日本を例として引き合いに出すようになったほどの、大事件。
そのさらに二十年前、奏音禁止法が制定された際に起こった一斉蜂起が〝楽派蜂起〟と呼ばれていたことから比較して〝楽団蜂起〟として教科書に並ぶこととなった、前代未聞の大騒動。
「けど、失敗続きでも負けっぱなしでも、意味がなかったわけないじゃない」
なんでかわかる、と団長は問うた。
「ダメな奴、なんて称号に甘えなかったからよ。背後で大きくなっていく影から逃れるために、ずっと前に進むことだけ考えてたからよ」
「あ……」
瞬間、鏑木の中に刺さったまま何年も経過し、すっかり心の底と癒着していた破片が、ゆるゆると溶けた。
影から、逃れる。
それはつまり――――
「自分のやるべきことをやめさせるのは自分だけ。『能が無い』なんて程度のちっぽけな理由じゃ、本来人間は止まれない。いつだって敵は――自分でしょ」
「敵は、自分……」
「そうよ? だいたい鏑木君は一度ならず二度までも、わたしたちの窮地を救ってるんだからさあ。ダメな奴なんて自負、自虐ネタを通り越して嫌味にしか聞こえないわよ。わたしはね、鏑木君。出来る奴しか仲間に引き入れない。本当に能無しだったら、邪魔になるから要らないっての」
話は済んだとばかりに、ぴたりと一言も発しなくなる団長。かけられた言葉のひとつひとつを頭の中で反芻する鏑木は、言葉の意味を理解すると泣き笑いの表情になった。そう、自分を急き立て、追いかけ続けてきたのは――なによりも恐れていた焦りは。
それらを理解した時、鏑木は組み立てた策を再度熟考して、おずおずと話しかける。
「……欠陥があったら、埋めてほしい」
「了解」
先は怖い。もしここで鏑木の提示した案が失敗し楽団の運営が立ちいかなくなれば、その責任に自分は耐えられないだろう。
けれど不安の霧を吹き払い、鏑木は前を向く。どうせ時間は無い、うだうだしていれば何もせぬまま終わってしまう、と己を鼓舞して。
団長に説明することで脳の中で策を咀嚼し直した鏑木は、自身で見つけた穴と団長により発見された穴を出来得る限り塞ぎ、二、三度の確認を経てから立ち上がってドアを開けると、階段に向かって走る。時間が無い、必要な時にこそ時間は無い、とぼやきながら。途中、脱臼した左肩を壁にぶつけて激痛が走ったものの、気合いで踏ん張って居間へ辿りつく。開け放ったドアの向こう、電話機の前に立って呆けていた来宮に、鏑木は詰め寄った。
「今すぐ電話してください来宮さん」
「どうしたんだい、鏑木君」
「楽器を取り戻します。全て、片っぱしから一から三十まで耳をそろえて、返してもらう」




