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決断決起のブレイクスルー。

        #


 動機と理由が見当たらない。


 流されるまま生きるほかに、社会に順応する術を持たなかった。ではその流れが止まってしまい、投げ出された今は? 鏑木に行き場は無い。なぜなら彼には強く「これをしよう」と思うために必要となる動機も理由もなかった。


 立てている先々の計画は細々としたその場しのぎの考えばかりで、無計画ではないと言えるギリギリのラインの上にのみ成り立つ。そんな泥舟での航海計画は世間の荒波にもまれた瞬間大破し、鏑木は漠然と目指していた「普通な生き方」からはみ出した。


 それでやることが見つからなくなるのも、当然である。


「なにすればいいのかな、僕は」


 ひとりごちて道を歩く。就職して、普通な生き方をして、という道を外れて以来、こうして平日の午前に往来を歩いていることへの違和感が、だんだん無くなってきていることが怖い。薄れゆくかつての常識と反比例して、彼の中で周りの見え方もどんどんとピントがずれていく。かといって想像の中に入り込んでいる、というわけではない。ただただ、現実から乖離している気がするだけだった。足元がおぼつかないのだ。


 気が付くと足が止まっていた。信号が青になっている横断歩道の手前で立ち止まり、光の点滅を見過ごし、空を仰いで視線を落とすと赤になっていた。理由が出来たと思うことにし、そのまま立ち止まり続ける。本当は座りたかったのだけれど。


「どこに行こうとしてたんだっけ……」


 どこにも行けないんだっけ、でも歩けるよなあ僕。誰か背中を押してくれよ、そしたら仕方なくだけど進むから――誰にともなくそう願う。


 進みたいと強く思ったことが無い故の願いだった。


「歩けよ」


 足は動かない。




 どのくらいそうしていたのか、信号の反対側を瀬古が歩いているのを見つけて、鏑木はやっと歩き出した。瀬古はこちらに気づいて、缶コーヒーの空き缶を持った手を振る。両手に持っていた。


「かぶらぎー」

「ようやく解放されたのか」

「うんー。かぶらぎがさきに帰っちゃったからさぁ、あとりも追いかけて帰ってった。団長たちはそれぞれ学校とかおしごとだってー。わたしも、仕事」


 空き缶拾いということだ。瀬古に調子を合わせて歩きつつ、鏑木は捨ててしまった空き缶も瀬古にあげればよかったな、と思う。一旦鏑木たちのアパートに戻ったのか、瀬古の服装は再び薄汚れたジャージとカーディガンに戻っていた。


「ああ、そういえばアトリから服借りてたのか」

「洗ってからかえそーとおもったんだけどねぇ。べつにいいって言うから」

「変な意味じゃないといいな」

「どういう意味?」

「不埒な」

「まさかぁ」


 自分でそんなことを言ったものの、鏑木にはアトリが瀬古の申し出を断る理由がわかっていた。洗うといっても瀬古の場合、それはいかにも洗濯物の生地が傷みそうな石鹸を使用しての行動であり、着道楽のアトリがそんなことを許せるはずがないからだ。そのくせ瀬古に貸し出すのはいいというあたり、基準が鏑木にはよくわからないが。


「そういえば、かぶらぎは帰らないの」

「今はいいや。疲れたから寝たいってのが本音だけど、体はそれに反して眠れそうにないんだ」

「ふうんー」


 二人して適当に歩く間、瀬古はゴミ捨て場に近寄っては空き缶と古本を漁っていた。手伝うでもなくそれを見続ける鏑木は、その横を過ぎて行く人間が「嫌なものを見た」という目をするのをなんの感慨もなく見ていた。瀬古も今さら気にしない。彼女はなぜホームレスの生活を続けるのかについて語らないし、鏑木も訊くつもりはない。


 お互いに自分たちの分はわきまえている。悪く言うと、引き際にも似た境界線をひいている。


「ねぇ、かぶらぎ」

「なんだ?」

「もう会うの、やめよう」


 だからこんな会話にいたるのも当然の帰結。鏑木は呆れたような笑い顔になった。言葉を切る瀬古。地面に落としたゴミ袋を見て、鏑木の靴を見て。彼女なりに悩んでいた。自分が原因で鏑木に迷惑をかけたことを。現実に起こりうる危険性を理解していなかったことが引き起こした今回の一件に、責任を感じていた。


 けれどその上でなお、彼女は音楽をやりたいと感じていた。だからこれは一日越しに語られた、瀬古の答え。鏑木の心配してくれる気持ちを理解した上で音楽活動を続けていくことを選択した、決断を意味する一言だった。


 と、瀬古の視界の中で鏑木のつま先が近づく。瀬古は顔を上げた。


「そんな、恋人同士の別れ話の切り出しみたいに言われてもね」

「まじめなおはなし」

「聴きたくないな」


 そのまま瀬古の横を素通りする鏑木。ポケットに手を入れて早足でその場を去ろうとする。ゴミ袋をつかんだ瀬古は、慌ててその後ろを追っていく。


 しばらくそうして縦に並んで歩いた。路地を一本裏手に入り、日が当たりにくい道を進む。行き当たりばったりに歩き続けて、ゴミ袋を持っている瀬古は細い道を横ばいで歩いたりした。突き当たり、丁字路に当たったところで鏑木は止まった。止まって、瀬古に背を向けたままでいる。そっと、瀬古は正面に回りこもうとした。そこでようやく鏑木が声をあげる。


「ようするに、音楽がそれだけ大事なんだろう」

「ち、ちがうよ」

「ああ。わかってる。お前が僕のことも気遣ってそう言ってくれてるのは、わかる。……けどさ、このまま会わなくなったら、僕は二度とお前に会えない気がするんだよ。だって、お前には連絡手段もないし住所不定だし。伝書鳩でも送れっていうのか」


 時間がほしいんだよ、と鏑木は言う。


「色々あって、まだ一日しか経ってないんだぞ? どうしたらいいのかわからないんだよ……お前との今後の友人関係についても、もう少し、考えさせてくれよ」

「……かぶらぎ」


 片手で押さえ込むように顔をつかむ鏑木は、背を丸めて立ち尽くしていた。空いた手はぐっと握り締めて、こらえるように息を吐く。瀬古もその小さくなった背を見つめて、しばしそこで立ち尽くしていた。


        #


 名古屋駅と伏見の間を流れる川にかかる、錦橋。その橋を渡ったすぐ先にある村田の喫茶店〝アーガイル〟の最奥に位置する、指定席。鏑木は紅茶の底に沈んでいくミルクの輪を眺めつつ、村田が客を送り出すのを待っていた。ややあって、村田の低い声が客の背に向けられた。


「ありがとうございましたー。……で、好晴、俺の車を借りたいってことは、お前どっか出かける予定なのか?」


 即座に公私の態度切り替えを済ませた村田は、カウンターに残されたカップを洗いながら訊く。鏑木は、うんあ? と訊き返したのか肯定したのか分かりにくい返事でその問いかけに答えた。依然として視線は紅茶の底を見ていて、ティースプーンで攪拌する手を止めない。


「あー……ちょっと遠くまで行こうかなと思ってさ。ドライブだよ、ドライブ」

「気分転換か」

「そんなとこ」

「仕事で失敗でもしたか?」


 村田の言葉にたじろぐ鏑木は、うつむき加減に首を横に振りティースプーンの動きを止めた。その反応を気にした風でもなく、村田はカウンターに肘をついて角砂糖をかじった。


「まだ仕事につけてねえのか。無職であることで切羽詰まるのはわかるが、頼むから危険な仕事だけは避けてくれ」

「なら自慢の人脈でなんとか探してよ」

「ンなこと言われてもな、俺が斡旋出来るのは3Kのどれかに該当する奴ばっかだよ」

「ロクな人脈ないね」

「ばーか。該当しねえ仕事の方が少ないってもんだろ。やれそうなことをとりあえずやっとけ」

「……やれそうなこと、ねえ。悪いこと、とか?」


 楽団のことをふと思い返しつつ、鏑木は冗談交じりに言った。けれど村田は言葉を真正直に受け止めたらしく、手にしていた角砂糖を鏑木の後頭部に投げつける。こつっとした軽い感触のあった方向に鏑木が振り返ると、村田は仏頂面でもうひとつの角砂糖を弄んでいた。


「度胸があるってんならやってみりゃいいさ。ただな、悪いことと自覚して悪いことをやれちまう奴ぁ、ロクでもない道を辿ることになるぞ」

「冗談だよ、本気にしないでほしいな。僕は人に『お前は悪い』とか言われるの嫌いだからね」

「あん? 悪いかどうかってのは、他人の価値基準で決まるもんなのか?」

「他人って名前のマジョリティの持つ価値基準で決まるものでしょ、悪の定義は」

「大多数の語る正論を武器にするっつーのはな、何されても文句言わないってことと同義だぜ」


〝大多数〟の中にも様々な形がある。思想の差は、一まとまりの考えの中にさえ溝や段差を生み、人をグループへと分裂させる。宗教などは一番わかりやすい例だろう。そしてその差は、近付いてみなければよくわからない。実際に「大多数の語る正論」を用いるためそれに近付いてみてはじめて、人はその定義の曖昧さや崩れやすさを知るのだ。


 それ故に自分が、ある日突然「大多数の語る正論」から迫害の対象とされかねないことも。


「もっと利己的に生きろってこと?」

「四角四面に受け止めんな。利己的にっつっても少しだけだよ、少しだけ。どうやったって人間、他人に迷惑かけずに生きるこた出来ねえんだ。そのことを頭に入れて少しだけ割り切って、やれそうなことやってみろ。やりたいことなんて万人に与えられてるもんじゃねえ、だから手の届くとこからとにかくはじめろ」


 村田は鏑木から視線を外す。話が終わったことの合図だった。反論すら許さずに一方的に終わらせるのはずるい、と鏑木は心中で舌打ちしたが、話が続いていたところでうまく言い返せたかどうかは怪しかった。


「はいはい、わかったよ」

「適当に返事するんじゃねえよ……あと、厄介事には巻き込まれねえようにうまく立ち回れ。最近、この辺りでも何やら危なげなクスリの売人が居たりするらしいんでな」

「……どこからそういう情報仕入れてくるのさ」

「色んなとこの人材に、ちょいと関わりがあるだけだ」

「色んなとこ、って。自分の方がよほど厄介事に巻き込まれそうじゃないか」


 呆れて声のトーンが下がる鏑木から視線を外したままの村田は豆を挽く作業に入り、鏑木の言葉を右から左へと聞き流す。やたらと態度の悪い村田に文句を言おうと口を開きかけた鏑木の視界に、黒い物体が飛来した。スプーンを持ったままだった手でそれをつかんだ鏑木は、手の中にある車のカギをじっと見やる。村田は自分が投げてよこしたカギに視線をやりながら、鼻を鳴らした。


「ドライブでもなんでも、さっさととっとと行ってこい。気分転換が終わったら、仕事を探せ」

「うわ、無理やり話題をそらしたな……」

「女でもひっかけてドライブ行ってこい」


 ただ2シーターだから狭いぞ、と続ける。気がないようで必死な態度が見え隠れしていたが、こういう時の村田が強情なことを知る鏑木は話題を元の位置に戻すことを諦めた。冷めた紅茶を立ち上がるまでに飲み干して、店を出る。そろそろ四月に入ろうかという時季、外気はようやくうららかな暖かみを帯び始めていた。


 カーニバルイエローのビートの運転席に飛び込んだ鏑木は上着を脱いで助手席に投げ、ロックをはずして屋根をオープンに。準備が出来、背を深くもたせかけるようにして車内で深呼吸すると、ひさびさの感覚に手をなじませる。そしてキーを差し込んでエンジンに火を入れ、マフラーから発せられる雄たけびと共に公道へと走り出した。


「……って屋根開けてると寒いなちくしょう」


 暖かくなったとは言ったものの、走っている間は強い向かい風のせいで一気に気温が下がったように感じる。脱いだばかりの上着をすぐさま着込んだ鏑木だが、しかし屋根を閉めるには一旦車を降りねばならない。走っている大通りは車が多く信号などですぐ流れが止まるとはいえ、人通りも多いので閉める所作をしているのを見られるのは気恥ずかしい。仕方なくやせがまんして、のろい車の流れに従っていくことにした。




 ハンドルに両腕を、その上にあごをのせつつ、鏑木は思う。思うばかりでまるで考えていないということについて。


 麻雀倶楽部での一件と、その後の団長と瀬古との話。全てに『時間が足りない』と言って逃げの一手を打った。逃亡の策を考案した際はほとんどノータイムだったにも関わらず、あれから一週間が経過しても何も変わらない。ただ起き、食べ、テレビと新聞を見て眠るだけ。あの日までは、「これからの生活では毎日仕事を探しに行こう」などと思っていたが、今はそれにすら『時間が足りない』と言い訳をしている。


 こうして車に乗り込んでいるのもこれから遠出をしようというのも、ここから逃げたいという願望で動いている結果だ。気分転換のドライブなどと言い換えることも出来たが、鏑木はすでにそれが楽団の人間からの逃避であると気づいてしまっていた。気づいた上で、それに気づいていないふりをしている。逃避に逃避の上塗りをして、自身の気持ちをどんどん見えにくくさせていく。


 そんなことを重ねていったせいか、最近では道を歩いていても自分の意思が置き去りにされているような、現実との隔たりを感じ始めていた。表皮の感覚がにぶくなり、感情が薄められて。客観的に見下ろした自分に感情移入ができないような、そんな気分だった。


「しにたいな」


 口に出してみると、死ぬのも面倒に思えた。まぶたが重くなり重心が足の裏より深いところへ落ちていく。これら全ての原因は団長と瀬古への、ひいては楽団の音楽に対しての態度を決めかねていることにあったのだが、鏑木には選択し決定するという考えが浮かばない。流れに身を任せて、全てが朽ちるまで待つ。何も望まず自ら動くことをしないというのは、そういうことだった。まさに、文句すら許されない身分だ。


 一週間前、瀬古から逃げて自宅のアパートへ戻った鏑木は、二階の柵に片肘をついて呆けているアトリを見て声もかけずに自分の部屋へ閉じこもった。閉める際、予想外に大きな音を立てたドアは少ししてノックの小さな音を響かせ、アトリの来訪を告げる。鏑木は無視した。ところが鍵をかけ忘れたため、アトリは無断で部屋に入ってきて『瀬古に絶交された』とわめいた。こっちだってそうだ、と鏑木は叫んだ。二人して奇妙な面持ちになり、居間の椅子にテーブルを挟んで座り込む。


 それからは長い時間をかけて議論をしたような気もしたし、ぽつぽつと二人で自分の意見を述べ合うだけだったようにも思えた。ともかくも、鏑木がソファで寝ている自分に気づいた時には日付が変わっていて、アトリは部屋にいなかった。もちろん二人とも結論は出ておらず、鏑木は考えるのをやめて再び眠りに逃げた。


 その日からアトリはアパートに帰ってきていない。鏑木はアトリのことも瀬古のことも『どちらかが帰ってきたら、どうするべきか話そう』とだけ決め込んで、思考を放棄した。だから考えはまとまることも突き当たることもなく、鏑木の頭の隅でぼんやりと光を放ちながらも形を変えることはない。


 現状に対し、焦りと苛立ちを覚えていた。怠惰に過ごしながら焦るという自分にばからしさを感じながらも、打破する方法を模索し続けた。けれど鏑木はなお怠惰であったため、部屋の中でしか模索しなかった。そして狭い部屋の中では、腕を伸ばして模索すればすぐに壁にぶち当たる。そんな生活に二日で飽きて、鏑木は外に答えを求めた。その結果が、今だった。


 答えもなにも、逃避に答えなど無いのに。


 パ――――――――ッ。


 けたたましいクラクションの音で意識を浮上させ顔を上げると、車間距離五メートルのところにあった前の車が、五〇メートルは離れたところを走っていた。どうやら軽く眠り込んでしまったらしい。慌ててアクセルを踏み込む。こわごわバックミラーで後ろを確認すると、ライトバンに乗った運転手は「遅いんだよ」と毒づいていそうな唇の動きをしていた。「すいません」鏑木もバックミラーに向かって口だけ動かした。


 そのまま同じ道を走り続けるのは気まずかったので、鏑木は久屋大通公園という名古屋市内を南北に緑化している細長い公園の西側にある道へ左折する。視界の右上にテレビ塔と木々の枝葉を眺めながら、鏑木は胸を落ち着かせた。


 道は二車線だが、左側は歩道に寄せて車を停めている輩が多いためにほぼ通れない。再びのろのろとした流れに甘んじて車を走らせる鏑木だったが、赤地に黄色のアルファベットを描くファーストフード店を見つける。そういえば村田の店では紅茶を飲んだだけで何も食べていなかったということを思い出した鏑木は、時間も昼時だったので路上駐車の仲間入りを果たす。このとき屋根は閉めようかどうか迷ったが、見た目を重視してそのままにした。どうせそう長く離れるわけでもない、と。


 カギを抜いて車から降りた鏑木が店内に入ると、忙しそうに店員が注文を聞いていた。鏑木も列に並んで、遠目にメニュー表を見る。特にセール中でも期間限定品があるわけでもなかったので、ダブルチーズハンバーガーのセットメニューに決めた。そうして決めてしまうと暇なもので、鏑木は視線をあっちへやったりこっちへやったりして客を観察する。どの顔もどこか楽しげで、あまり愉快な気持ちにはならなかった。と、そこで出口の脇の席を見て、驚いた。


「……きみは」


 つぶやきは騒がしい店内では囁きよりもささやかなものだったに違いない。声が向けられていたのは、楽団員のモヤシっ子だった。あの日とあまり変わらず、細く色白で気弱そうな彼は、地味な色調の服装も相まって人ごみの中では目立たず見つけづらい。にもかかわらず見つけられたのは彼の方が鏑木に気付いて、へらりと笑って手を振ったからだった。


「あ、えーと、ハムラビ……さん?」

「鏑木だよ。きみ、ここで何してるのさ」

「遅めの朝食兼昼食ですよ。一緒にいかがですか?」


 空いている隣の席をぽんぽんと叩くモヤシっ子を見てから、鏑木は店内を見回す。あまり席がなかったので、その提案に乗ることにした。脱いだ上着を目印代わりに置いておく。そして列に戻ろうとした鏑木の袖を、彼が引っ張った。


「あと、申し訳ないんですがこれ。お金は渡しますから、コーラをMサイズで買ってきていただけませんかねえ」

「……いいけど」


 こいつ最初から使い走り目的だったんじゃ、と思いつつもおくびにも出さず、小銭を受け取って並びなおした鏑木はしばし待つ。途中で気が変わって照り焼きバーガーのセットを頼み、席に戻ると、モヤシっ子はぷかぷかとタバコをふかしていた。そこは禁煙席だったはずなのだが、隣の喫煙席から灰皿を拝借したらしい。


 細身の男がタバコの煙にうっとりとしている様はなかなか病的で、少なくとも世間でいうところの『間違ったカッコよさ』はみじんも感じられなかった。彼は鏑木が戻ってきたことに気付くと口からフィルターを離し、片手で拝んで手を伸ばしてくる。


「どうもありがとうございます。……や、これは失礼。すいません、タバコ」


 灰皿に押しつけて――と言ってもすでにフィルターぎりぎりまで吸ったタバコの――火を消すと、コーラをがぶ飲みする。鏑木は彼の対面に座ると、もくもくと照り焼きバーガーを食べ始めた。


「別に吸うのは構わないけど……ところで、きみは」

「本山と言います。本山(もとやま)正志(まさし)。御歳二四、敬語なのはちょっとした癖ですからお気になさらず」

「はあ、そうですか」

「あーあー、ひょっとして鏑木さんの方が年下ですか? でもいいですよタメ口で。俺の方がぎこちなくなってしまうんで」

「そう? それならそうさせてもらうけど」

「ありがたいですねえ。大体の人が、俺がこう言っても敬語のままで話しかけてきますから。鏑木さんはその点、順応性が高くていらっしゃる」

「はじめてそんなこと言われたよ」

「意外ですねえ」


 ぺらぺらとよく喋る本山のペースに合わせるため、鏑木は食べるために口を動かすことが出来ずにいた。内心相席になったことを後悔しはじめていたが、本山の会話のペースは留まるところを知らない。大体、一度しか面識がない上にその際も会話はしておらず、共に居た場所と状況は犯罪に関わるものなのだ。相槌をうって適当な世間話に位置を定めるようにしていたが、下手をすればまたも楽団に巻き込まれてしまう、と鏑木は厄介事の空気を感じ始める。


 そして実際に、話題はそちらへと向かった。


「……そういえば、鏑木さんはあれから楽団に関わったりしているのですか?」

「してないよ」

「おや。あなたのご友人でしょう、瀬古さん。てっきり彼女を助けるために、入ったのかと」

「助ける、なんてまさか。あいつは望んであそこにいるみたいだから」


 別れ際に交わした言葉が蘇り、荒んだ心持ちになる鏑木。だがきょとんとして鏑木を見つめた本山は自分の発言を思い返し、意図にそぐわない捉え方をされたことに気付いた。くすりと笑みを漏らしてタバコを取り出し、火を灯す。


「いや失礼、助けと言っても手助けのことですよ。彼女が、楽団で活動することについての、手助け。リスクが伴うものではありますけど、ご友人であるのならそういう選択も無きにしも非ず、かと思いましてね」


 笑みを浮かべるために広がった口許から、薄い紫煙が立ち上る。震わす指先で灰を落とし、また一服。鏑木はその間、本山の言う考えに対してどこか空々しい気持ちでいたことに気付き、舌の上にタールを落とされたような気分になる。胃の内容物を吐きだしたくなった。


 本山の言うような考えを、鏑木は一度もしなかったからだ。


「ん……何かまずいことを言ってしまいましたかね。体調がすぐれないように見えますが」

「いたって健康だよ、僕は。ただハンバーガーにまつわる都市伝説を思い出しただけで」

「ああ、あれですか。嫌な話ですよね。都市伝説と言えばこの辺りでもありましたっけ。ほら、平和公園とかいう霊園近辺に出るっていう〝ジャンピングババア〟」

「あったね、そんな話」


 本山の気遣いごと会話の流れを受け流し、くだらない都市伝説のネタを引きだす。だがもともとこの二人の間にある接点は楽団なのであって、少し話を続けるとまたも、そこへと焦点がにじりよっていく。


 火を消したタバコのフィルターをいつまでも指先で弄る本山から視線を外しながら、ふと鏑木は問いかけた。


「……ところでさ、団長ってどういう人なの?」

「どう、と言いますと?」

「なんていうのかな。都市伝説ほど浮ついた存在ではないにせよ、彼女は楽団という非合法な組織の頂点に君臨してるじゃないか。明らかにきみとか、あの眼鏡の人の方が歳は上なのに。そのことが少し引っかかっててさ。あの人は、どういう人なの?」


 軽い世間話のつもりで身を乗り出した鏑木は、外していた視線を本山の手元に移した。そして顔を上げ、ぎょっとして、ゆっくりと椅子の傾きを正すと本山から離れる。


 本山はライターへと伸ばしかけた手を止め、胸を反らして椅子に背をもたせかけ、首筋に冷や汗すら流して荒く呼吸を刻んでいた。一瞬とはいえ明らかな動揺を見せる彼を不審に思う鏑木だったが、敢えて追求する気にもなれず、話題を無かったことにするべきかと迷う。しかし本山はタバコに火を点け一服すると気を落ちつけたのか、ぼそぼそと語った。


「団長は……一言で表すなら〝恐ろしい人〟ですよ」

「え、恐ろしい?」

「はい。とても」


 問いかけにうなずいて煙を吸う。鏑木はこれまで見てきた彼女のイメージとそぐわない本山の言葉をどう解釈したらいいのかわからなかったが、今の本山の様子を見るにそれは本心からの言葉ではあるのだろう、と理解する。


「鏑木さん。あなたは、自分が心からすごい、と思える人に遭ったことはありますか」

「……基準がよくわからないからなんとも答えられないけど」

「自分と格が違う、と明確に思える人間です。大富豪であったり、芸術家であったり、なんでもいいんです。世間一般から抜きん出ている部分があり、それを認めざるをえない人間。そんなものと直に遭遇してしまえば、人間は誰しも変わってしまう。俺は現に、以前とは違う価値観を持ってしまいました」


 わなわなと震える指先は空をもがいてテーブルに落ち、本山はぐったりして動きを止めた。弱っていくようにも思える本山の動作を観察しながら、鏑木は過去を思い返した。そして、本山の言うところの格上、そういう人間に会ったことがあるのを思い出す。


「思い出した。ずいぶん前だけど、大学の講義ですごい数学者の人に会ったよ。授業の内容もさっぱりだったし、住んでる世界が違うと思ったっけな」


 自分の言葉にうなずいて、同意を求める鏑木。だが本山が返したのは否定の意、首を横に振り〝すごい人〟とは世界の認識からしてずれているのだ、と語る。


「……それはまだあちらが俺たちの世界に合わせてくれている例でしょう。本当にすごいことというのは、俺たちでも理解できる(、、、、、、、、、、)形で世界を変えちまう(、、、、、、、、、、)、つまりあちらの側が捉えてる(、、、、、、、、、、)世界の形にまるごと(、、、、、、、、、)この世界を作り変える(、、、、、、、、、、)、そういうものですよ」

「なんか、概念とか抽象とかそういうものが混じってるみたいで、わかりにくいんだけど」

「ではこう言い換えましょう。教科書に残る偉人、成功者。そういう人間は『自分に都合良く世界を作り変えた』という見方も出来るのではないか、と、そう言ってるんです。誰でも出来ることではない、しかし彼らは実現させている。そういうことが出来る人間とそうでない人間がいる、とは思いませんか? そして出来る人間に遭ってしまった時、己を保ってこれまでのように生きられますか? 自分と引き比べてしまうのは上を目指す以上、人の性でしょう」


 感化されて、変わってしまう。本山が言うのはそういうことだろうと鏑木は思った。思って、うろたえた。まさに鏑木は団長という存在によって様々に心を動かされ、変わりつつあるという自覚があったからだ。


「け、けどさ。影響だって、悪いことばかりじゃないだろう。人から受けた影響で、何かいい方へ変わることだってある」

「もちろんそうですとも。しかし、大きすぎる存在はそれだけで劣等感も生みます。俺はそのせいもあって、楽団をやめるに至りました。団長はすごい。ですがそれが理解出来る範囲の中で猛威をふるっているのでは、俺はついていけない。いっそ、雲の上で辣腕をふるっていてくれればよかったんですよ」


 肩から力が抜けていく本山は、息する音にさえ気を払うようにして、先ほどまでの饒舌な語りを一旦止めた。以前鏑木が居た麻雀倶楽部の一件の際に、本山は譜面台を投げつけられて部屋から追い出されていた。その時には既に、彼の腹は決まっていたのだろう。


「じゃあきみはようやく、やめられるんだね」


 言葉が届くと、す、と指先が動きを止めて、次いでタバコをくわえる動作を見せる。少し痛いところを突いて、流れを滞らせてしまった。ここまでは縁をなぞるように話題に触れていた鏑木が、一歩内側に踏み込んで返答を提供したためだ。ペースをつかまれた本山はたっぷり七秒、吸って、吐いて、火を消して、と緩慢な動きで時間を稼ぎ、心中で動揺の収まりをつけようとしていた。


「…………やめるかどうかは自由意志で決められるんですよ。あんな非合法組織ですが、その辺りは徹底してましてね……俺はまあ、今週中には抜けるつもりです」

「そっか」

「色々ありまして。クソッたれなことが多いもんですよ、この世の中は。個人個人じゃまともに世間を渡っていくことすら出来ない。ふざけた話です。そのくせ、一人でなんとかしなくちゃいけない事態も多いってんですから恐れ入りますよ」


 もう一本取り出して、口にはつけず火も灯さずに指先でもてあそぶ。よく見てみれば本山の目元には薄く隈が出来ており、あまり眠っていないことの証左となっていた。


「大変そうだね」

「まったく本当にその通りですよ。個人の無力さと言いますか……鏑木さんはどうです? あまりに自分が無力すぎて、何から手を出せばいいのかわからなくなったりしませんか? 自分に何も出来ないと、そう確信してしまう瞬間などは? 俺はそんな気分に支配されてる気がして、楽団にすがるわけにはいかなくなったんですよ。おかしい、ですかね」

「それは……理解、出来なくもないよ。僕だって自分に価値があるとは思えてないし、出来ることなんて本当に限られてると思ってる」


 限られているどころか、絶無なのではないかとさえ鏑木は思っている。むしろ、自分が加担することで物事はどれも悪い方向にしか進まないのではないか、と。そんな心からの肯定を、表情で態度で言葉で示した鏑木に、本山は心底からほっとした顔をして、タバコをくわえたままの顔を片手で覆った。窓の外を見た本山は、溜め息を吐き出してさらに続ける。


「わかっていただけて嬉しいですよ。でも俺はね、鏑木さん。それでもうまくやれてる奴だっていると思うんです。無力だと心から自分を認められていて尚、なんとかやれている奴もいると思うわけです。けど……俺と彼らの違いなんて、間の悪い時に間の悪いところに居合わせたか、そうでなかったか、たったそれだけの差異に過ぎない。自分の見てる世界を自分の思うように変えられるかどうかは、それだけの差なんじゃないですか。無論、巡りあわせの悪さを言い訳にするなという人もいますがね、そういう人は無差別殺人鬼に殺された人に対してどういう言い訳を考えてあげられるんでしょう」


 次第に早口になってゆく本山は、指先を震わした。火の点いていないタバコは灰を落とすこともなくただその白い先端を上下させて、鏑木にはそれがうなずきのように見えた。


「俺はこれでも真面目に生きてきたんですよ。たしかに楽団に入って様々な活動をしましたが、他人に迷惑をかけた覚えは無い。だのに、居場所はどんどんと減る一方でして。陳腐な言い方ですが俺はもう、あまり人から必要とされていないんですよ。しかも、誰よりも俺自身から(、、、、、)必要とされていない」

「………………」


 鏑木は言葉をかけられなかった。本山の気持ちが理解出来てしまうがために、どんな言葉も思い浮かばない。いらいらしているのか、タバコの振れ幅は大きくなっている。絶望からくる無表情に顔を支配された本山は、タバコをくわえたが、火を点けなかった。


「こんな状態から脱するためにも、楽団から離れることを余儀なくされて。疲れましたね。でもまだ、やらなきゃいけないことは色々あって。要するに、生きてくことだけを求める自分にせっつかれて、でもまだぶっ倒れてないだけです。前進とは言えない」

「ひとから見たら、前進してるかもしれないよ」

「他人の目線なんてとうの昔に気にしなくなりました。そして俺はもう、誰も必要としません」


 窓の外を見据えたまま、手だけ動かしてタバコに火を点ける。ライターはガスが切れかけているのか、ヂッヂッと音を立てるばかりで炎がしばらく出なかった。双方黙りこんで、今日この席が出来てはじめて、沈黙が場に広がる。鏑木は本山の主張に整合性があるかはともかくとして、共感出来る部分があることだけは認めてしまった。それはずっと鏑木が部屋の中で考えていたことと似ており、鏑木にとってその議論の結びは「逃避」だった。


 そのことを再確認してしまい、後味が悪い。また、胃腸の中身を吐きだしたい気分になった。やはり相席を拒否すればよかった、と二度目になる後悔だけを、溜め息で吐きだした。


 どれほど経ったのか。


 席を立つこともなく互いに無言で向き合って、コーラの中にあった氷もすっかり溶けてしまった。相変わらず窓の外を眺めている本山は、腕時計を気にし始める。


「……何か、予定でもあるのかな」


 突然切り出されたことに本山は少し面食らった様子だったが、笑みを取り繕って答える。


「今日は団長がすぐそこで取引をするとかで。俺はもう来週には抜ける身の上ですが、一応は手伝いのようなものをする予定でして……ね……」

「ふうん」


 すうっと消えた、本山の言葉の終わりと表情。薄まったコーラを少し口にした鏑木は、生返事で答え、外へ視線をやる。が、固まることになった。思わず本山を二度見するが、彼も取り繕ったばかりの笑みは凍りつき、不自然に歪んだ表情を見せていた。


 車道を挟んでさらに向こう。久屋大通公園内で、キャスケットをかぶっている団長が自転車警官二人に詰め寄られていた。その手にはジュラルミンケースでこそないものの、小旅行用のキャリーバッグがある。それの中身を見せることを、彼女は必死に拒んでいるようだった。もう警察に対する条件反射となっているのか、鏑木は息が詰まり足が震えだす。


「あ……ああ、こ、これは」


 本山がなんとか紡ぎ出せたのはそれだけの言葉で、鏑木もその光景をどこか遠い出来事のように見つつも、なぜか目を離せずその場を去ることも出来ない。二人の座る席の横を通り過ぎざま、奇妙な二人に対してOLが不審そうな目を向けた。


「二人相手じゃ……逃げても捕まりますよ、ね」

「多分。相手は自転車だし」


 間の悪い時に、間の悪い所に。団長も鏑木も本山も、嫌な星の下に生まれているらしい。団長に間合いを詰める警官は、堅い面持ちで疑わしきを罰する。


「……俺は、どうすれば」

「さあ……」


 鏑木も思いつかない。こうして手をこまねいて見ているしかないだけで、自分と本山は同じ様なものなのだと、鏑木は自嘲気味に笑うしかない。何も出来ず決めることもできない。流れを止めているのは自分だろうに、それを認めることも出来ない。嫌気がさして、自分で自分をやめたくなった。


 しかし心中での笑いは止まった。警官は乱暴な手つきで団長の肩をつかみ、揺さぶる。その間にもう一人がキャリーバッグを奪い取ろうとし、団長は必死でそれに抵抗していた。絡みつく腕に対する悪あがきはあまりにも貧弱で、いつ奪われてもおかしくない。あまりに弱弱しい様子を不甲斐ないと思い、鏑木は口を開いた。


「……なんだよ。僕の部屋に侵入してきたときみたく相手を突き飛ばせば、逃げられるかもしれないのに」


 少し非難するような、決めつけを含んだ語調だった。鏑木は団長の抵抗がキャリーバッグを取り返そうとすることのみに終始していることが不可解だった。もちろん何を考えているのかなどわかるはずもないが、その答えは意外にもすぐ隣から投げかけられた。


「それは、出来ないんですよ」

「なぜ」

「戦ったら、負けでしょうから。それじゃテロ、ですから。鏑木さんのところに侵入した時も、突き飛ばす気は、なかったらしいですよ。余裕なくて、こわくて、仕方なくって。そう言ってました」

「こわいのか」

「もちろん。誰だって、こわいでしょう」


 本山に向けていた視線を正面に戻す。団長の顔に、おびえは確かにあった。けれど同じくらい強く、意志の光もそこに瞬いていた。鏑木は顔をうつむかせる。


 こわいと思う気持ちは彼女にも残っている。こうして鏑木が足を震わし恐怖に心臓を縮ませるのと同じく。彼女は「勝率無き行動は全て愚行」と言った。それは本心としての言葉であり、その言葉の所在は「必ず勝たねばならない」という意志と、「勝てる勝負を勝っていこう」という弱気の間にある。すなわちこれが彼女の迷いだ。


 しかし状況によりその二つの気持ちの均衡が崩れる時、彼女の中でわずかに勝るのは必勝への意志である。だからこそ彼女はああして抵抗をみせ、諦めることを知らない。そう思い至ると、遠く見える彼女の背中に対して、鏑木は苛立ちが募るのを感じた。


(……はやく、状況が転がればいいのに)


 あれほどの状況でまだ諦めない。その心根の強さが鏑木には羨ましくも、疎ましくもあった。」だから動けず止まり続ける。食い入るようにじっと見つめ、内心の葛藤を隠そうとした。


(捕まればいい。あいつが捕まれば、それで普通の日常が帰ってくる)


 そう思う自分もあれば、


(逃げられたら逃げてほしい)


 と願う自分もある。鏑木の中ではどちらも本心であり、過ぎたる羨望は嫉妬に似るということの証明だった。


 自分に出来ないことをしている人がいるというのは、誰の心にもこうした思いを呼び起こす。だが鏑木は動けない。隣の本山も未だ唖然としているばかりで動けないことを理由に、言い訳を繕っていた。羨望が内心にある時点で彼の本心は決まっていたが、嫉妬に「警察への恐怖」を加味すると、秤は再び均衡を取り戻す。動くか、動かざるか。その判断は、もはや誰にも出来ない。鏑木以外には。


 胸の、心臓の上辺りの肌を強くつねりあげるようにつかむ。動悸がおかしくなり、緊張が足元から駆け上がってきた。それらを必死で落ち着かせるように、鏑木は深く息を吐く。そうして、そんな自分の状態を落ち着けるため、気持ちに蓋をする言い訳を考え出した。


(……だいたい為す術もないんだ。僕が動けないのは、当然だ)


 当然だ。当然として在ることには、立ち向かうまでもない。


 迷いを断ち切る言葉を己に言い聞かせる。わずかに、呼吸が整った。自分を律せたことに安堵し、鏑木は顔を上げる。その時、団長は二人の警官の腕を受け止めながら、こちらを見ていた。目線は本山から鏑木へと動き、そしてまた警官へと向けられる。流し目というにも足りない、目を向けただけの動作。


 助けを乞う表情は、一切見せなかった。


「……な」


 まだ逃げない。助けを待ってるからでもなんでもなく、自分のみでなんとかするために。


「なんで」


 思わず発した問いかけは答えを待つものではなく、団長を強く非難するような色合いを帯びている。強靭にすぎる団長の在り方は、「そんな人間がいていいのか。それなら自分はどれほど下種な人間なんだ」という思いを鏑木の中に刻み付ける。それは心の中にざっくりと、焼けたナイフで押し切ったような傷を残す。自分は正しく賢いはずだ、という自尊心に、深い傷をつけた。


 心音が一際高鳴った。今の彼女の姿が、人の上に立ち、他者を先導するものとしての矜持だとでもいうのか。頼らずに一人で事を為すことが、彼女をああも強くさせているのか。

ならば鏑木は。鏑木好晴という個人は、どうなのか。


 矜持など持ち合わせては、いない。


 秤が崩れ、価値観も崩壊した。


 本山が驚いた表情で、引きとめるように手を伸ばしたのを見た一瞬の後。店を飛び出した鏑木の心仲にはそれでも警告の声が鳴り止まない。お前はバカか、今なら引き返せるぞ、音楽が何になる、すべて見なかったことにしろ、こんなアホなことで、一生を棒に振る気か?


「うるさい」


 常識が説いてくる警告を無視してひた走る。ヤケクソになったと言うなら、あの麻雀倶楽部のときより今のほうがよほど当てはまる。全速力で歩道を横断し、ドアを飛び越えて屋根をオープンにしたままだったビートに乗り込み、一瞬だけ動きを止めて息を吸い込む。その間、鳴り止まない警告と心音。頭に血が昇っていて、喉と鼻の奥がきな臭かった。息を止める。対抗心のような悔しさだけで動く自分を止めようとする弱い精神を、握りつぶす。


「……お前、だってっ」


 組んだ両手を高く掲げた。

 

「カッコつけたって、そのままじゃおしまいだ!」


 叫んで、拳をクラクションに叩きつける。惨めさに対する鬱憤を晴らした甲高い音が一帯を飲み込み、次に一時の静寂が自分のために訪れる。誰もが呆けて鏑木を見ていた。さすがに衆人環視の状況に耐え切れず頭を下げ、振り上げた右手でドアの上部をばんと殴る。団長を呼んだのだ。鏑木がやろうと決めたのは、そこまでだった。彼の〝試し〟にはそれで十二分。


(来たら僕の勝ちだ、来なけりゃ僕はただのバカだ)


 勝ちも何もすべては鏑木の自己満足に過ぎないが、けれど今はそれだけが彼にとってのすべてだ。自尊心の回復こそが、彼の今もっとも必要とするものだった。そのために彼女へと救いの手を伸ばす。こわくて震える膝に拳を打ち下ろし、張れるだけの虚勢を余すところなく張る。


 右手の向こう、団長の方を見る。彼女は――――呆けた警官の間を躊躇いなくすり抜け、二歩で一車線をまたいだ。おそらくは鏑木が車に乗り込んだ時には、既にスタートダッシュの準備が出来ていたのだ。なんの段取りもなかったにも関わらず、十年来の相棒に合図されたかのように。躍動する脚はアスファルトを踏みしめ、軽やかな足取りで加速を続ける。今度は鏑木の呆ける番だった。


 警官二人と観衆の止まった時間が動き出すのと同時、鏑木は彼女が心底楽しそうに笑うのを見る。


(……なんだそりゃ。そんな顔されたら――僕の負けじゃないか)


 呆れる鏑木はそれでも笑い出したくなって、顔を見られないよう頭を下げる。その上を通過する二つの物体。投げられたキャリーバッグがまず助手席の下に納まり、続いて団長が席に着地。シートベルトなどする暇は無い、警官が車道へと躍り出ようとしていた。


「発進!」

「あいよ!」


 団長の合図で二人を乗せたビートが飛び出す。ウインカーもへったくれもない。先にある信号も赤に変わった瞬間だったが、構わず飛び込む。巨大な交差点の中に時速八〇キロではじき出された黄色い猛獣は、がくがくと車体を上下に揺らしながら無理やり右折していくつものクラクションで罵声を浴びた。けれどそれがファンファーレか何かのように思えた鏑木は、自分が相当おかしくなってると思えてまた笑えた。


「うわ、ものすごい速さね」

「ちょ……首つかむな」

「おっとと」


 手を離す団長。ハンドルを握る鏑木はともかくとして、シートベルトの無い団長はつかまるものも無い。死傷者を出しかねないほどの運転に転げ落ちそうになり、慌てて鏑木の首根っこにひっつかまっていた。それはもうしっかりぎゅっと抱きしめるように。


 離れて助手席に座り込んだ団長はあまりの運転の荒っぽさに吹き飛ばされてしまったキャスケットを名残惜しそうに後ろに見送っていたが、気を取り直して前を向いた。ひたすらにまっすぐ進むビートは、横に見えたものを次の瞬間には遥か後方に押しやっていく。その速度が少しずつ落とされていき周りの車に合わせられるようになってきたところで、団長は鏑木に問う。


「で、鏑木君。これはどういう風の吹き回しなの?」

「どういう、って……この車、オープンカーだろ」


 襟元を片手で正しながら、鏑木は間髪いれずに答えた。団長は言葉を聞き取れたものの、意味が分からず首を傾げる。


「?」

「屋根開けたらこれだけすごい向かい風が吹いてくるってことだよ」

「えー、だから?」

「たまには向かい風に逆らって走りたくなった。そういう風の吹き回し」

「なにそれ」

「ルールとかそういうのぶっとばしたい気分だったってこと」

「ああ」


 一応納得はしたものの不思議そうにしている団長に、鏑木はそれ以上語らない。ただ笑い出したくてしょうがなかった。自分が本当はこんなことも出来たということに、それなのに今まで何もしなかったということに、笑いがこみ上げてくる。団長もそんな鏑木に感化されるように、わずかに口の端に笑みを浮かべた。


「ねえ団長。理由をくれないか?」

「なによ、今度は」


 唐突な要求に団長は問い返す。今度は即答とはいかず、少し考えて整理してから鏑木は話しはじめた。


「動機は出来たんだ。あとは理由。何をやるにもこの二つって絶対に必要だろう」

「……始めるのに動機が、続けるのには理由が必要、ってこと?」

「そうそう」

「ひょっとして始めるっていうのは、楽団の活動を?」

「うん」


 目を丸くして二度見する団長。鏑木は笑ってこそいるものの、その顔にふざけた様子は微塵も無い。どこか満ち足りたような表情で、むしろそれが信じられなくて、団長は声音をきつくしぼる。


「本気なの」

「ああ。でも、乗りかかった船だから、とかじゃないよ。もちろん気まぐれで決めたわけでもない。ただ、さっき走り出せた時に思ったんだ。これ以上負けたくないって」

「誰に負けたのよ?」

「きみだよ」


 なにかを争ったり競ったりした覚えの無い団長は不思議そうな表情のまま。鏑木自身も自分がどうやって団長に勝とうというのか、はっきりした考えはない。それでも彼はやるべきこと、やりたいことの道が定まった、霧の晴れたような心地がしていた。そしてその道の延長上に、楽団は避けられない位置にあるとも感じる。


 真顔になった鏑木に見つめられた団長は風にもてあそばれる前髪をくりくりといじりながら、けれど団長としての務めか、最低条件だけはきっちりと提示する。


「やりたいって人を拒むつもりはないけど、ひとつだけ聞かせてもらわなきゃいけない……鏑木君、音楽は好き?」

「好きかどうかはまだなんとも。正直、良し悪しとかはわからないしね。でも〝すごい〟って思ったんだ、あの日。あの時、興味はすでにあったんだと思う」

「興味だけで、やっていけるの?」

「だから興味は動機なんだよ。そんで、理由は…………僕はたぶん、もう一回、きみの演奏を聴いてみたいと思ってる」


 とりあえず今はそれだけかな、と鏑木はつぶやく。突き抜けたように単純明快な回答だった。それゆえに飾り気もなく、ストレートに伝わる。興味と感心だけしかないというのはともすれば薄っぺらな言葉と取ることも出来るが、団長はそのようには受け取らなかった。むしろ、受け取れなかった。


「そう。なら、」


 団長は伸ばした手を、鏑木の肩に置く。


「これからよろしく。わたしは、現在空席の団長代理。鏑木君は記念すべき四七人目ね」

「半端な数だなぁ」

「赤穂浪士は四七人よ?」

「そうだっけ」


 取りとめのない話をしながら。


 二人の乗るビートは、針路を東へとりながら、ゆるやかに進んでいった。


        #


 しばらくの間東へと走り続け、もういいだろうと感じたところで団長は鏑木に二度左折するよう要求し、そのまま進行方向を西に向けることを提案した。鏑木もそれにうなずき、二人を乗せたビートは市内の高層ビル群を抜けて東区のはずれまで移動した。建物の高さが徐々に低くなってゆくにつれ、交通量も少しだけ減っていくのがわかる。


「わっ!」

「うわあぁびっくりした! なにさ、団長」


 突然声をあげた団長のせいで、ブレーキを踏みそうになる鏑木。あたふたとあわてる団長は、ごめんごめんと謝りながらポケットに手を入れていた。


「あ、いや、ケータイがね」

「なんだケータイか」


 マナーモードにしていたらしい、まだ震えている橙色の携帯電話を、団長はジーンズのポケットから取り出す。ぱかりとふたを開くようにして使うそれを、鏑木の横でやけにたどたどしい手つきで操作した。鏑木は団長がケータイの扱いに慣れないかのように見えて首をかしげたが、それもそのはず、実は前に麻雀倶楽部のとき用いていた赤い携帯電話は、あの後機密保持のために破壊したのである。まだ新しいケータイには慣れていないらしい。


「はい、もしもし……って忍足君? ああ、はいはい。へえ、はあー……んん。ん。ん」


 なにやらしきりにうなずいている団長。前を見て運転しなくてはならないと思いつつも会話内容が気になる鏑木は、首は動かさずに目線だけ横にやって団長の横顔を見つめる。だが表情に翳りはなく、会話を続けながらも鏑木の視線に気づいて、ぐっと親指を立てた。


「そう。んー、じゃあ警官二人は道路に出たとたんすっ転んで、この車のナンバープレートは見られてなさそうなのね。それにこれ車高も低いから、歩道を歩いてた人からも路上駐車の大群が邪魔でプレートは見えてない、と。ふーん、うん、うん」


 忍足の連絡をそのまま口に出し、鏑木にも伝える。ナンバープレートを控えられていないということは、とりあえず差し迫った危険はないということだ。その事実に、張り詰めていた神経がほんの少しだけ緩み、鏑木は強めに踏み込んでいたアクセルからわずかに力を抜いた。


「ま、忍足君もごくろうさま……ごめんねー、五時間も待機してもらったのに。……うんうん、はーいはい、わかってるわよ。報酬はまた今度ね。はーい」

「五時間って」

「ああ、鏑木君と本山君からは見えない位置だったけどね、サポート頼んどいたのよ。でも彼が助けに来ても私が逃げ切れる感じじゃなかったから、出てくんな! って視線で命じてたの」


 団長は携帯電話を二つ折りに閉じてしまいながら、なんでもなさそうに肩をすくめた。


「今日は取引だったのよ。わたしが持ってたこのバッグの中身と、相手方のバッグの中身を交換するつもりだったの。でも相手が来る前にわたしが捕まっちゃったから、予定はぱー」

「なるほど。ってことはその中身、また音楽関連の何かなんだね」

「んーん、とある企業のミツユの証拠品」

「……え? Me to you?」


 わざとらしく聞き返す鏑木は、信号が赤になって車を止めざるを得なかったのをいいことに、半笑いで団長の方を向く。ところが団長は腕組みしたまま、どこまでも真剣な面持ちで道の向こうをにらんでいた。


「密輸だってば。この証拠品と現金を交換する予定だったの」

「それ強請りじゃないか」

「ええ。相手が企業という名を掲げてるだけの暴力団まがいとはいえ、わたしたちも悪事を働いてることには違いないわ」


 でも必要なの、と言って足を組み、目頭を押さえて溜め息をつく。そんな様子を見ていると一概には彼女が悪いと責め立てることができず、鏑木は目をそらして前に向き直った。歩行者信号が点滅し、赤に変わるところだった。


「うちのスポンサーも似たような企業なんだけどね。人材派遣なんて看板出してるけど、その裏側ではどこにどうやってどんな理由のために〝人材〟を流してるんだかわかったもんじゃないわ。一応、彼らにも最低限のルールはあるみたいだけど」

「どんなルール?」

「さあ、よくわかんない。そういう後ろ暗いことは来宮(きのみや)さん……麻雀倶楽部のときにいた眼鏡の人ね。あの人の方がよく把握してると思う。けどそうは言っても、完全に真っ黒な企業ならスポンサーにしないと思うわ。ただ、『知らない方がいいから訊くな』とわたしたちに釘を刺す程度には、黒い暗い部分があるんでしょうね」

「後ろ暗い企業の中でも、選べる範囲ではちゃんと選んでるんだね。なんだかその人の方が団長っぽいなぁ」

「それはそう感じて当然よ、基本的にわたしは名前だけで実権はほとんど持ってないんだから。団長になる前なんて『お嬢』と呼ばれてたもの」

「お嬢か、そりゃいい」


 笑う鏑木の肩をにらみつけ、眼光を突き立てる団長。目線をそらしていた鏑木はそれに気付かず、頭上の信号機を見上げている。やがて信号が青に変わり、ビートは再び加速をはじめた。


 動き出すと団長は時々道順を指示し、左折右折しばらく直進、などと明確に目標があるようなナビゲートを行っていく。その指示に従えば従うほど、周りから高い建物が減り、道幅も細くなった。


「で、その指示はどこへ向かわせてるのさ」

「昔わたしが住んでた家」

「一軒家?」

「うん。今の楽団の主要メンバーにとっては集会所みたいなとこよ。あ、そこ右ね」


 団長が示したのは表通りから一本それた、小学校の通学路沿いの道の先。ごくごく普通の家々が立ち並ぶそこは、とてもテロリストが潜伏しているようには思われない。車同士で行き違うのも難しい、狭くて見通しが悪い道になってきたので、鏑木は徐行した。


「次の角曲がって最初に見えた赤い屋根の家。シャッター下ろせる車庫があるから、そこに停めてシートかけてしばらく隠しておくことね」

「いやこれ借り物なんだけど」

「あちゃぁ。でもナンバープレートが見られてなくても、車種はバレてるでしょ。乗ってると危ないと思うわ」


 忠告を受けて少し悩むが、自分のせいで村田に迷惑をかけるのは忍びない。結局鏑木はビートをここへ放置していくことに決める。狭い道なので何度も前進と後退を繰り返して車庫に納め、灰色のシートをかぶせてシャッターを下ろした。玄関口へ向かうと、先に降りていた団長はインターホンを押して話し込んでいる。車のキーを指先でもてあそびながら何気なく鏑木が表札を見やると、そこには「来宮 悠」と彫ってあった。


 玄関のドアノブに視線を向けると、ちょうどその時に扉が開かれる。そこには、黒ぶちの眼鏡にセンター分けの髪型、細い目をした痩身の男が立っていた。鏑木よりいくぶん背の高い彼は団長の横にいる闖入者を見ると、怪訝な顔をして団長だけをドアの隙間に引きずり込む。


「……警戒されてるのか」


 こんこんとノックすると、また少しだけドアが開かれる。来宮は辺りを見回してからちょいちょいと手招きして、鏑木は応じた。


「というか、団長の家じゃなかったのか」

「昔の家って言ったでしょ。わたしが引っ越したあとにここへ住んだのが来宮さんだったの。それからしばらくしてわたしも彼も同じ楽団の仲間になるなんて、奇妙な縁だと思うけど」


 靴を脱いであがると、すぐ右のドアに団長と来宮は消えていく。鏑木が追って中に入ると、そこは居間だった。奥にキッチンがあり、その手前に置かれたダイニングテーブルの椅子に二人は腰掛けていた。鏑木もそこへ座る。来宮が、正面からにらみつけてきた。


「で? 何か用があっての御来訪かい、きみは」

「ええ」

「団長が言ったのだが、用件は入団について、ということでいいのかな」

「はい」

「ふむ。それではそのことはひとまず置いておこう」

「……ええ?」

「こちらの用件の方が重要なのでね。なあ、団長」


 鏑木の隣に座る団長は、沈痛な面持ちで机の木目を見つめていた。そちらへと言葉を投げかける来宮は、しかし目を向けるわけではない。鏑木の横に置かれた、キャリーバッグの方に視線を注いでいる。決していかつい男ではなく、むしろひ弱そうな印象さえ漂わせている来宮だが、このときばかりは思わず鏑木も後ずさりしたくなるほどに迫力があった。


「しくじったのか」

「ごめんなさい。返す言葉もないわ」

「言葉は金にはならんので別に返さずともよいのだが。しかし、結果は還元されなくては少々困るよ」


 あきれたような、困ったような物言いの来宮に気おされて、二人は口をつぐんだ。それなのに来宮はというと、滔々と言い聞かせるように説教の言葉を並べるのだった。


「あれと引き換えに得られるはずだった資金が無くては、僕らの計画は頓挫しかねないのだよ。四六の仲間と活動を続けていくにはそれなりに元手が要るのだから、気持ちだけではどうにもならん。わかっているかい、僕らは結局のところ世間という、相手のステージで戦わなくてはならないということ。そうある以上、経済的な事情というのは解決しがたい難題だ。解決するには、今現在後ろ盾になっているアンジー人材派遣からのバックアップだけでは足りないんだ」

「わかってるわ。十分な活動資金が無いと、次の一手が打てないってことくらいは」

「ならこの後、自分がどうすべきなのかもわかっているね?」

「無論」

「ならいい。きみは、今は名だけであっても、人の上に立って下の者を先導する人間なのだから。ちゃんとした自覚を持って事に臨んでもらわなくては困るのだよ」

「次こそは確実に」

「よろしい。……で、きみのことだったか」


 唐突に話の矛先を向けられて、鏑木はきょとんとした。横ではいまだ沈んだ団長がいて、眼前には厳しい顔つきの来宮がいることに、今ようやく気付いたかのよう。数瞬遅れたが、鏑木は小さな声で「はい」と返事をした。


「きみが、団長を助けてくれたのだね?」

「……いちおう状況的には」

「そうかい。礼を言うよ、ありがとう。取引に失敗するどころか警察に捕まってしまうというのは、想像し得る中で最悪のケースだったからね。へたをすれば楽団を存続することすらできなかっただろう」


 しみじみと語る来宮はその点については本当に感謝している様子で、鏑木に深々と頭を下げた。つられたように思い出したように、団長もあわてて頭を下げる。そういうことに慣れていない鏑木は、団長以上にあわてふためいて両手をぶんぶん振った。


「車で拾っていっただけですから。それに僕が楽団に関わりたいと思ったから、助けたわけでして」

「まずそこが疑問だよ。先日麻雀倶楽部で相対した時、きみはそこまで僕らに協力的な印象は無かった。だのに、今日には自身すら危険に陥るはずの行動を起こすほど楽団に肩入れするようになるなんて。なぜだい?」

「あー、まあ。考えなんて、わりと簡単に変わるものですよ」


 鏑木の答えを聞いた来宮は納得できないのか、嫌味と取られない程度に鼻を鳴らす。もちろん鏑木の本心は団長に負けたくないという意固地な思いであったが、それはあまり吹聴する気にはなれなかったので適当にはぐらかしておくことに決めていたのだ。


 しばらくもごもごと口を動かしながら来宮は鏑木を見ていたが、何か思い出したらしく腕組みをして斜め上を見た。


「ああ、そういえば少し前、きみみたいに突然楽団に入りたいと言って現れた奴がいたな。ほら、きみが麻雀倶楽部に来た時に、瀬古君と一緒にいた金髪の男だよ」

「アトリが?」

「どうやったのか知らないが、この場所を調べ上げたらしい。突然訪問してきて楽団に正式に加入する、と宣言していった」

「はあぁ?」


 ここのところアパートにも戻ってきておらず行方不明だったアトリは、独力でそんなことをしていた。確かに、縦方向の上下関係はともかく横方向の交友関係が広いアトリならばここを探し出すのも不可能なことではないのかもしれないが、自分が部屋の中でうだうだしている間に悪友が暗躍していたのを知って、鏑木は少なからず衝撃を受けた。


「憂さ晴らしに知り合いと飲み歩いてるんだと思ってた」

「鏑木君、アトリくんのことかなりちゃらんぽらんだと思ってるよね……」

「ちゃらんぽらんなんてとんでもない。あいつはフリーター生活の末路を進み続けて遂に到達した究極完全体なんだから、ちゃらんぽらん程度の言葉にあてはまらない。……あれ、でも入団が目的だったなら、なんで帰ってこないんだろ?」

「入団が目的ではなかったからだ」


 来宮が言う。


 ならばなぜわざわざ楽団探しを、と言いたげな顔をした鏑木だが、少しだけ考えて自分で答えを導き出した。つまり楽団の人間に接触しなくてはならない何かを得たかったということで、そしてアトリが楽団に接触して得ることのできる、得ることに意味のある情報など限られている。瀬古の居場所だ。


「猫の奴と連絡不通になって取り乱してたからな、あいつ」

「きみも大分うるさくわめいていたと聞いたが?」

「あはははは……あいつ最近耳鳴りがひどいらしいのでたぶんそれが原因でうるさく感じたんですよ断じてそのわめきは僕じゃないです」

「すげー淀みなくしゃべってるせいで逆に動揺が露わになってるわよ」


 同情気味の顔に頬杖をついて、団長が乾いた声でつぶやいた。鏑木は無表情に口だけで「ドウヨウッテ、ナニガ?」とゼラチンで喉を固められたような声を出す。どうやら友人の心配をしていたなどと思われたくない心理があるらしい。


 ここで話を切り替えて、来宮がアトリのその後について語った。


「で、彼には居場所を教えた。僕らも常に居場所を把握しているわけではないのでね、彼は幸運な時に訪れたものだよ。そして今日はここで集まるから瀬古君も来るようにと言伝を頼んだのだが、今になっても、この通りさっぱり現れないのでね。きみ、きみなら連絡が取れるんじゃないのかい?」

「あいつケータイはアパートに置き去りでしたよ。電話かけたら部屋の中から着信音が」

「そうかい。ふむ。急な来訪に対応しきれずアドレスを教えてもらうことも出来なかったからな……アトリ君にも連絡できないわけか。失策だ」

「瀬古ちゃんもケータイとか持ってないもんね」

「定住地すら持ってないんじゃないの、あいつは」

「弱ったものだね。今日の会議は団長の取引の結果とそれによる今後の動き、そして瀬古君からもたらされる今の裏通りの事情などで第八回のゲリラ活動の日程などを決める予定だったというのに」


 根なし草の野良猫の気分は鏑木たちには全く読めない。だからどこへ行ったのかと推測を立てることすらできなかった。それはそれだけ彼女には行動範囲と顔の広さがあるということを示唆しているが、会うことを要する時にはただ面倒な状況を生むにすぎない。かち、こち、と時計の秒針が細かく時間を削る音だけが耳を満たすこと、しばし。会議にならないことを思ってか、来宮がきしきしと爪を噛む音もした。


「こういう待ち時間は嫌いだね」


 ぼそりと薄く広がった来宮のつぶやきに鏑木が何かを返そうとした時、ぴーぴーと電話の着信音が聞こえて三人がびくりとすくむ。立ち上がる来宮は鏑木の背後にある固定電話に近づいていき、受話器に手を伸ばした。


「こういう無機質な電子音だとふいに鳴ったとき、実に驚かされる」

「こんなものの代わりに、荘厳な音楽を着信音として設定出来るようになればいいのにね」


 団長ともども、実に楽団員らしいことを言いながら通話相手に意識を移す。


 重かった雰囲気が少しは変わったので、鏑木は団長に「ゲリラ活動ってなにやるのさ」と小さめの声で問いかけ、団長はそれに「ビラまいたり突然音楽活動したり今の法のおかしさを演説したり」とやはり小さめの声で答え、鏑木はさらに「なんていうかよくありそうなやつだね」と感想を漏らし、団長は「でも楽しいわよ」と弾んだ声で誘い、そんな会話をこそこそと来宮の背後で続けていると、


「なにっ?!」


 急に来宮が大声を出したので鏑木は椅子から転げ落ち、鏑木によりかかろうとした団長はその上に重なって落ちた。


「……急にどうしたんですか」

「冷静キャラ気取ってんなら貫いてなさいよ!」


 団長から罵声を浴びせられ、けれど来宮は振り向きさえしない。奇妙に思った二人は立ち上がりつつ、来宮の横へ近づいて受話器に耳を近付ける。鏑木の鼓膜に、聞きなれた声が届いた。


『やっばいことになってやがるぞ、来宮さんよぉ』

「え、お前アトリ?」


 通話相手はアトリだった。話したがっている空気をにじませた鏑木の気配を察して、来宮はスピーカーホンのボタンを押した。三人の前にある本体から、落ち着きのないアトリの声が発せられてきた。さらになにやら声の背後からも、がやがやと慌ただしい物音、声、が聞こえてきている。


「アトリか?」

『あん? その声は……高校ん時同じクラスだった神代か白藤か二階堂か?』

「ボケるならどれかに限定しろ。というかそれ全員女子だぞ」

『ん、ならお前男子か? 電話越しだと声たけーな』


 わりと長い付き合いの友人に自分の新たな一面を発見されて打ちひしがれた。


『つーかまあ、んな無駄口で時間浪費してる場合じゃねーんだよ。かなりやべぇ。こんなこと抜き打ちでやるかよ、有り得ねえ』

「なにがあったの」

『あーその声、団長さんか。今瀬古と居るんだけどな、警察の連中なにをとちくるったのか公園とか高速道路の下で、ホームレスが作った家々の撤去作業はじめやがった』

「う、うそ」


 絶句してよろめく団長。一人わけがわからないままの鏑木は団長に手を貸しながら、向こうのアトリに説明を求める。すると答えたのは、瀬古だった。


『あう、たいへんなことになっちゃったなぁ』

「何がどうなってるのか説明してくれよ」

『んー、かんたんかんけつに言うとー、わたしのほかにも楽団のなかまが、撤去される家にすんでる。そんで、こんどの決起のときの用意がねぇ……その家のなかにもあるの』

「……」


 無言の重みが電話越しに伝わったらしい。くしゃん、と瀬古がしおれる音さえ聞こえてきそうな、声のトーンの落差。瀬古の声に、震えと焦りがまじった。


『……わたしがこの前つかまったから、かも。ホームレスのなかにまだなかまがいるって、気づかせたのかも』

「ばか、関係ないだろ。誰だって疑うのが警察の仕事だ。今日はたまたま、標的がそこになっただけさ」


 鏑木がひねり出した慰めの言葉もロクに聞こえていないのか、瀬古は弱弱しくうなずいたような雰囲気だけを残して再びアトリに交代した。けれど、彼もなんと次の言葉を出せばいいのかわからないらしく、刻一刻と時間だけが過ぎていく。焦りが不安に変わり皆の考えが暗い方へと歩み始めようとした頃、新たな話題の方向性を示してその口火を切ったのは、来宮だった。


「状況は、変わらない。動かなければね。今は起こってしまったことに対策を練ることが重要だ。ひとまず、移動から開始してはどうだい。ここから指示を出すだけでどうにかなるとは思えん。アトリ君、僕らはそちらに向かう。良い案が浮かんだら後ほど連絡するから、詳しい場所と今使っているケータイの電話番号を教えてほしい」


 焦るアトリからなんとか聞きだしてメモをとると、来宮は通話を切って、椅子にかけていた上着を羽織る。鏑木は自分の着ている緑のジャケットのボタンを二、三個だけ留めた。団長はきょろきょろと周りを見て、壁にかかっていたフェルト地のハットを指さし「これ貸して」と来宮に頼んだ。


「でも闇雲に動いたら一網打尽にされる可能性もあるわけですよね」

「否定はできないが、まだそれは彼らを見捨てる理由にはならないな。僕はもう少し粘ってみるつもりだ」

「僕も、見捨てるつもりはないですけど」

「わかっているとも。そういう人間だから、きみは団長を助けたのだろう」


 微妙に心情のニュアンスは間違って伝わっているようだったが、特に問題はないので鏑木は訂正もしない。団長を助けたのは対抗心、アトリたちを助けるのは道徳心という皮をかぶった腐れ縁である。と、鏑木は定義する。三人は居間をあとにし、表へ出た。


 最寄駅へと走り出す足が六本。車に乗ることは街中での小回りの利かなさにより却下。もとより、2シーターなので三人は乗れない。歩幅の合わない三人は、てんでバラバラなペースで、同じ方向へと走り続ける。


 駅が近付くにつれて来宮は速度を上げていき、三人分の切符を先に買っておく、と言い残して地下鉄への階段を駆け下りていった。


「大曽根駅からしばらくかかるわよね。間に合うといいんだけど」

「時間との戦いか」

「こういうとき、時間も万人に平等じゃあない、って感じるわ」

「わかるよその気持ち。……ところでさっきから気になってたんだけどさ、そのキャリーバッグ、どうするのさ」


 先ほど久屋大通にいた時から持っているバッグを指さして鏑木は尋ねた。階段を駆け下りているため団長の動きにつられてバッグも上下に激しく揺さぶられ、ごとごと重そうな音が聞こえている。団長は抱きしめるようにバッグを引き寄せ、にやりと笑った。


「今日は忙しい日ね。けど、こういう日にこそ臨機応変な対応を求められるのよ。マイナス同士も掛け合わせるならプラスになる」


 危ない響きを持った発言だったが、ここまで踏み込んでおいていまさら何か言う気にはなれない。ビートでの暴走運転といい、今日はハイになってるだけだ、と叫ぶ自分が頭の隅にいたとしても、それを上回ってなお留まるところを知らず成長をつづけるこの気持ちに、鏑木は予感するところがあった。これを自分は求めている、と。


        #


「こ、このままでは、まずいのでは」


 車が通る音が頭上を通り過ぎていく高架下。取り囲まれたアトリと瀬古は脱出することも出来ず、楽団員の一人が住む家の中に身をひそめていた。家の主である三十半ばと思しき男は、薄汚れたどてらの袖をすり合わせるようにしている。その中に、楽団決起のためのビラや楽器を隠していた。狭く天井も低い空間に、集うのは三人。


「こいつぁしくじったな……もともと、市民の要望だかでここの撤去は求められてたらしいけどよ。いくらなんでも今日じゃなくてもいいだろが」

「春になったらホームレスのひとたちを一時的にうけいれる施設ができる、ってゆう話は前からあったからねー。善意のおしうりと、かえる場所の除去。なーんにも解決できてないのに、やりきったつもりになるー」

「結局は先送りにしただけのくせして何が政策だ、クソが」


 毒づいて段ボールの床を殴ったアトリ。今のところは荷造りをしていると言って時間稼ぎをしているが、いつまでものろのろしてはいられない。この場を引き払う際の荷物検査はまだ甘いものなので回避しようもあるかもしれないが、検査が終わった人間はすぐに保護施設へと送られることになっている。部屋割りと、現在市内に居るホームレスの数を記録するためらしい。


 そしてそこでは〝危険物の持ち込み厳禁〟という規則のもと、厳しい荷物検査が行われている、と、先に連れて行かれた楽団員(彼のもっていた楽器は今アトリの懐にある)は連絡してきた。いわく、『X線検査の一歩手前くらいのレベル』とのことだ。溜め息が室内に充満する。


「ああああ、どうして、こんなことにいいい」


 家の主が一番ショックを受けているようだった。肝心の荷造りもほとんど進んでおらず、じきに警官隊から「手伝いましょうか」などと要らない言葉をかけられるかもしれない。しかも、アトリと瀬古は二人して、たった一週間前に厳重注意を受けた人間である。おまけに外をうかがったところ警察署でお世話になった方がうろうろしていた。最悪の再会。逃げられない。


 そんなこんなで物理的に逃げることは不可能、ということで、二人は現状の原因を推察していた。


「フツーこんな大所帯で来ねえだろ。この辺のどっかにルパンから犯行予告でもあったかよ?」

「……あ、そーいえばねえ。さいきん裏通りでクスリがはやってるらしいのー」


 段ボールの隙間から外の様子をうかがいつつ、瀬古はアトリに話しかけた。アトリは頭の後ろで手を組んで首をかしげ、理解が追い付いていない彼に向けて瀬古はさらに続ける。


「で、どーもその売り子が、こういうホームレスのところにひそんでるとかぁ。それを検挙するためにこれだけ大人数なのかもねぇー」

「善良な市民を巻き込みやがってクソ売人め」


 言いながらも窓から外をにらみ、逃げる隙を探しているアトリ。ついでに売人などをやっていそうな人間も探してみたが、怪しんでみると誰もかれもがあやしげに見えてきたのでやめた。疑心暗鬼になりそうだった。


 じっと身を縮めて、緊張の糸の上を綱渡り。こんなこと長くはつづけられない、と思うアトリに、ふっと柔らかな声がかけられる。


「これも、へんけんだよね」


 振り返ると、瀬古も窓の外をにらんでいた。膝を抱え込んで座った彼女は暗がりの方にいるため、目に光が無いように見える。


「なんの偏見だよ?」

「ホームレスは、わるい。一般市民は、わるくない。よって一般市民は、よい。……音楽家は、わるい。『それ以外』は、わるくない。よって『それ以外』は、よい」

「三段論法……なのか? 間違ってるような気もすんだけど」

「うんー、成立してないようにおもえるねぇ。でも、わるいって決めつけるところからしか、じぶんたちの基準もきめられないんだよ。そんなひとが、たーくさん。――わたしたちは、違うけど。『わたしはわたしの好きなものに誠実でいる』」


 好きなものがあるというのは、究極の自己肯定である。利己的な、自分の感情と力と自信への肯定。だからこそ、好きなものを持てた人間というのは強い。


「ねえ、団長」


 瀬古は膝に顔をうずめ、うっすらほほ笑んだ。



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