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均衡破壊のターニングポイント。

        #


 星ヶ丘駅から東山線の地下鉄に乗り、三人とも特に会話することもない往路。鏑木は自身の行動が果たして正しいものなのかどうか、つまり『運び屋まがいのことをしたとはいえそれがそこまでの罪に問われるのか・むしろこのまま行ってしまえば加入意志があるようにしか思われないのではないか・そもそも瀬古はどこまで信用できるのか・着いた途端に拘束されるのでは』などの考えを展開させていた。


 後半に行くにつれてネガティブな被害妄想にも似た恐ろしい考えばかりで占められている。なのに、そこまで考えてもなお『直に見てからの判断』に固執してしまうのは、やはり知人の瀬古が関わっているということと、団長と呼ばれているらしい少女の堂々とした態度によるところが大きい。


 結局、考えをめぐらすだけの余裕がある時点でだいぶ危機感というものが薄いのだった。


「ここー、乗りかえて」


 瀬古が口を開いたのもその一度のみ。鏑木は考えることに没頭していたためその声に反応できずホームに降り損ねそうになったが、アトリはさして緊張もしていないのか悠々と瀬古のあとに続く。人ごみの向こうに消えそうになる二人を追って、鏑木は走ることを強いられた。


 駅から出てしばらく歩くと、徐々に人気が少なくなっていく。ビルは真新しいものから、煤けた外壁がひび割れたようなものが多くなっていく。幾度も角を曲がり、その都度鏑木は道を覚えた。振り返り、瀬古がつぶやく。


「むだだよー、覚えても」

「え?」

「道順。きょうは臨時なの。いつも集会やるのはいまから行くとこじゃないよー。なんで臨時かっていうと、きょうは平日の午前だからー」

「暇してるのは授業が午前に無い大学生と無職しかいねーってわけだ」

「そゆこと」


 防御策は仕組んである、ということらしい。笑う瀬古はそれでも辺りへの配慮は怠らないようにしていて、鏑木はいよいよ瀬古たち音楽組織の根城が近づいてきたことを悟った。道も狭くなってきて、軽自動車でようやく通れるくらいの道幅になる。いかにも怪しい雰囲気のように感じた。


「なんかわくわくしてくるな」


 笑いながら頭の後ろで手を組み歩くアトリ。気が重くなっていた鏑木はたしなめるようにぼそっと返す。


「気楽そうだね、アトリ」

「だーってこっから力入れてったってしょーがねぇじゃん。お前もあっちに引き込まれちまう可能性だってあんだしよ」

「そしたらどうする?」

「一蓮托生はヤだけどな……途中までは付き合ってやんよ。やばそうだと判断したら、逃げる」

「頼もしいな」


 その途中というのがどこまでなのかはわからなかったが、生きるも死ぬも一緒だ! などといわれるよりは重みが少ないので今の鏑木にはちょうど良い回答だった。が、横を見るとアトリは腿上げやスタートの練習、フットワークの確認などを行っており、本当にいざという時は逃げる気まんまんのようでわずかにがっかりさせられた。


「ついたー」


 瀬古の一言で二人とも前を向く。


 そこにあったのはビルとビルの隙間に押し込まれた細長い三階建ての建造物で、屋上で干している布団や衣服が風にはためいていた。やたらと生活感の漂う建物で、もっと後ろ暗そうなイメージを持っていた鏑木は拍子抜けする。安堵した面持ちの鏑木を尻目にすたすたと進んでいく瀬古は、入り口脇にある各階に入っている店の名前を指差す。三階、スナック『メルヘン』。二階、麻雀倶楽部。一階、讃岐うどん『しすせそ』。


「しすせそって面白い名前だね。ここ入る?」


 首を横に振った瀬古は二階のプレートを指差した。鏑木は少し後ずさりして、二階の窓を見上げる。中は窓ガラスが曇っているのかタバコの煙がひどいのか、さっぱり見えない。さっきの位置に戻る。上を指差し、ジェスチャーで「ここかよ?」と尋ねる。返答はうなずきのみ。


「絶対あぶないって……」

「だいじょーぶ。見た目はぼろいけど、防音はしっかりしてるのー」

「いやお前らの活動の心配したんじゃないよ。僕の身の安全だよ」


 入った瞬間に目つきのヤバイ人たちに取り囲まれて二度と日の目を見れなくなるような気がした。恐ろしくなって後ずさりする。もう一度上を見る。窓がガラッと勢いよく開けられた。鏑木がおや? と思う間もなく。


「やる気ないなら帰れぇっ! 二度とここに戻ってくるなモヤシ野郎ぉッ!!」


 モヤシっ子という形容の当てはまる青ざめた顔が窓から飛び出してきたかと思ったら、黒いスチール製の細長い譜面台がすさまじい速度で鏑木の頭頂部に着地した。ぐわんと視界が歪む。


 ……次に目を覚ました時はベッドの上か……と考えてみたものの、それだけの余裕がある時点で気絶は無いといういやな現実に突き当たった。鏑木は頭頂部に突き刺さった譜面台を押さえてうずくまり、アトリたちが駆けつけてくるまでぐるぐるとその場で転げまわっていた。そして鏑木のそばに屈みこんだアトリは、なんとも情けない顔で開口一番頼み込む。


「ごめん、さっきあんなこと言ったばっかだけどさ。やばそうだと判断した。俺逃げていい?」


 鏑木は無言でアトリの足首をつかんだ。我ながら死にかけの人間の行動のようだと思ったが、あまりの痛さに声もでないので仕方がない。


 地面に這ったまま自分の頭頂部に激突したそれを視認する鏑木は、しかしそれがなんなのかは理解できなかったので首をかしげる。頭がずきずきと痛んだ。


「ちくしょう、これなに、武器? すごく痛いんだけど。あ、ちょ、まっ、そーっと抜いて」

「それ武器じゃなくて音楽につかうものなの。それにあたまには刺さってなんかなーいよー。あはは、おおげさなんだからぁ」


 地面に落ちた譜面台を拾い上げた瀬古はうずくまる鏑木の頭をぱしんと叩く。蛙が車に轢かれた音のような悲鳴をあげた鏑木に、笑って瀬古は手を貸そうとした。そうして、自分の掌を見る。無言になった。


「…………」

「なにさ? 手くらい貸してくれてもいいだろう」

「あ、ああー。うんー」


 瀬古は右手を後ろに隠して左手を差し出した。アトリがその血に気づいたものの、顔をしかめただけで流すことにしたらしい。その後も瀬古に肩を借りるようにして、尋常じゃない頭痛に泣きそうになりながら、鏑木はふらふらと二階の麻雀倶楽部のドアをくぐった。


 タバコの煙がしみついたように鼻につく臭いがひどく、鏑木はわずかに眉間にしわを寄せた。少しして後ろから入ってきたアトリは特に気にしない様子で物珍しそうに、全自動卓が七台ほど置かれた室内を見渡す。薄暗く照明を落とした室内は外からの物音も陽光もさっぱり入ってこず、陰気な闇を押し込めたようにじっとりと湿った温度を保っていた。


「外から音が入らず中から音が漏れない。音楽やるにはうってつけだね」

「きょうは演奏したりはしないけどねぇ」

「なんだよ、そんなら麻雀しながら会議してるってのか?」

「そんなわけないでしょー」


 扉を開いてくれた瀬古の後ろについて奥の個室に向かう鏑木とアトリ。ふと横を見ると、先ほどのモヤシっ子(仮)が窓の桟に引っかかるようにぐてっとのびていた。ずり落ちたら二階から垂直落下して顔面から着地しそうだったので、アトリは引っ張り上げて床に転がしておいた。


「で、なんだったんだよあのモヤシっ子は。真っ青な顔で泡噴いてたぜ」

「よほど怖い目にあったんだろうね。さっき聞こえた罵声から察するに、こいつが何かまずいことをしてめちゃくちゃに叱られる過程でそのフメンダイとやらが投擲されることになったんじゃないかな。まーあ、おかげで僕はとんだとばっちりを喰らったもんだ」

「あの人さいきんはあんまりやる気なかったから、怒られてもしょーがないのねー。二人もこれから会う人は怒らせないほうがいいよー」

「そんなに怖ぇのか」

「絶叫してにげだした人がこれまでにふたり居るー」

「どこの魔窟の話なのさそれ……」


 げんなりした顔の鏑木。アトリも少しばかり進む気力を削がれてしまったようで、歩む調子が一気に落ちる。


 三人は一列に並んで卓の間を縫うように歩いた。膝くらいの高さの小さな本棚もあったが、入っている本も麻雀に関するものばかり。たまにタバコの吸殻を踏んで嫌な思いをしながら、奥の個室にたどり着く。話し声はまったく聞こえないのに、曇りガラスの向こうではかなり忙しなく人影が動いているあたりが恐怖をかきたてた。何が起こってるかさっぱりわからないのに、なにかが起こっているということだけが感じ取れるからだ。


「何が起こってるんだろう」

「誰か怒ってんじゃねーの」

「うまいこと言えなんてだーれも言ってないよー。それじゃ、お邪魔しまぁす」

「待ってよまだ心と体の準備が」


 言いながらも体の準備(防御の体勢)を整える鏑木。顔を隠すように両腕をクロスさせ、飛来物が無いか隙間からうかがう。鏑木の前には扉を開けた瀬古がいたため前面は見えなかったのだが、彼女が横に移動すると室内が垣間見えた。と、横から慌てたような瀬古の声があがる。


「おしたりー、腕。下ろして下ろしてー」

「ああ? ああ。嗅ぎ付けられたとかじゃなかったみたいッスね」


 卓を囲む革張りのソファから腰をあげ、サスペンスドラマなどで殺害シーンに用いられそうなごっついガラスの灰皿を振り上げていた青年は、そろそろと机の上にそれを戻す。いかにも肉体労働をしていそうな筋骨隆々の体に白いタンクトップとパンタロンをあわせ、がさついた茶髪を隠すようにタオルを巻いている風体。と、そこまで観察したところで鏑木はふと瀬古のセリフを思い返す。


「……おしたり?」

「おしたり」


 瀬古のうなずきが終わるか否かのところで、反射的に鏑木はグーでパンチをかましていた。


「なっ、なにするッスかあ!」

「……はっ。そういえば見てから判断する予定だったっけ。ついつい手が出ちゃったよ」

「しかもグーってお前痛そうなことするよな……せめてパーにしとけよ、素人がグーで殴ると拳痛めるぞ」

「なんなんッスかこの人たちなんなんッスか! ちょっと瀬古さん勘弁してくださいよ誰なんスかこの人たち!!」

「ともだち」

「以下、」

「知人以上」


 鏑木とアトリがうまくセリフを繋げた。瀬古は不服そうに頬を膨らませたが、気を取り直して部屋の中を見回す。忍足のほかには二名が卓を囲んでおり、一人は眼鏡の優男、そしてもう一人、東側の席に座っていたのが、


「――こんばんわ。久しぶり、と言っておくのがいいかしらね」


 団長、と瀬古がつぶやく。


 あの日と同じく白い頭巾をかぶっている、この雀荘という場にまったく似つかわしくない外見の少女。色の薄い髪はさらさらと肩へ流れ、わずかに幼さ残る横顔は、しかし秘めた心の表れのように凛としている。服装は橙色のキャミソールの上に半袖のシャツを着て、裾を結び。下はホットパンツ、足にひっかけているのは革のサンダル。細くしなやかな足をぶらぶらさせながら、彼女は鏑木に片手を上げてみせた。鏑木もそれに応じて、片手をあげる。


「こんばんわ~、と言われても。今はもう朝だよ」

「おや、そうなの? おかしいわね、ついさっきまで午前二時くらいだったような気もするんだけど」

「徹夜してたんだね」

「たまにしかやらないわよ」


 つぶらな瞳を軽く閉じ、目じりを下げる。なんとも軽い様子に、鏑木は〝団長〟という仮にも〝長〟とつく称号で呼ぶことを躊躇った。


「でも徹夜はやめた方がいいよ。覚醒状態を続けた脳はおかしくなって、突然大声でモヤシ野郎と叫びだしたりするようになるらしいから」

「あー、それっておれのことッスか」

「しかもスチール製の危険物を投げたりするようにもなるみたいだし」

「それはわたし」


 鏑木は黙って自分の頭のタンコブになってるところを指差した。一応出血は止まっていたものの、鏑木的にはここ五年以内でもっともひどい怪我だった。口をへの字に曲げてばつが悪そうな顔をした団長は、そろそろと鏑木の視線から逃れる。そして団長が顔を背けた先にいた眼鏡の優男が、溜め息交じりに鏑木の視線を受け止めた。


「……まさかきみは僕らにわざわざ、愚痴を言いに来たのかい?」

「いやいや、それこそまさかでしょう」


 真顔で言い返す鏑木に今度はまた意味合いの違う溜め息を漏らした男は、こげ茶色のスリーピースを纏った痩躯を伸ばすように、ソファに深くもたれる。そして鼈甲をあしらったループタイを軽く締めなおしながら、じっくりと鏑木を睥睨した。上から下まで細い目に眺め回されて、鏑木は居心地の悪さを感じる。服装や落ち着いた物腰などから察するに、鏑木よりも二つ三つ年上に見えたからだろう。反対に、忍足は二つ三つ年下に思われた。


「じゃあ、何をしに来たのよ」


 視界から微妙に外れていた団長が、鏑木を指差して言う。言われてみてから考えると、実のところ鏑木はここへ来るに辺り大した理由は持っていなかった。それこそせいぜい、目の前の彼女が言った『聴いてから判断してほしい』と同じ様に『見てから判断しよう』と、ただそれだけしか考えていない。しかし、それを口に出す気にはなれなかった。


「あーっと、社会見学ってところ。僕はこのところの不況のあおりを受けて就職出来なかったクチだからね、そんな折に瀬古から音楽組織の話を聞いたから」

「ここは就職難の人を受け付けているところではないよ」


 男はぴしゃりとはねつける。鏑木は驚いた顔をしたが、アトリは心外だという顔をした。


「いや俺は就職口探してここ来たわけじゃねーよ。そこの瀬古が暇を潰せてやりがいもあるっつーから見に来ただけだ」

「『俺は』ということはそちらさんは就職を探しに、ということかい。言っておくが楽団はスポンサーである企業の下動いている故に給金は零ではないとはいえ、安いぞ」


 安いという単語に肩を落として反応しかけたのは鏑木だけだった。そのため全員が鏑木の静かな落胆に気づいてしまった。


「……安いと言いますが、ちなみにおいくらで?」

「そこらのファーストフード店のアルバイトがもらえる時給とさして変わるまいよ」

「正社員になれる可能性もあるというのは?」

「そこは嘘ではないけれどね。確かに企業の正社員になれる可能性も無くはないが、このご時世に音楽活動へ肩入れ出来るという時点で、後ろめたく探られたくない腹がある会社ということは自明の理だろう。すねに傷持つ者や頬に傷持つ者が多数在籍している」

「おのれ、謀ったな野良猫」


 すごい形相の鏑木から放たれた突き刺さりそうな視線をかわすため、瀬古はアトリの後ろに隠れる。いきりたつ鏑木を抑えるようにアトリは両手を突き出してどうどう、と制した。なおも握った拳を一応は下ろした鏑木は、むすっとして下唇を突き出した。


「落ち着けや、本気でそんなこと訊きにきたんじゃねぇだろ」

「……そうだけどさ。少しだけ、ほんの少しだけど普通の仕事場じゃないかな、と期待してたところもあったんだよ」

「お前時々俺よりバカだな」

「うるさいよ」


 軽い言い合いを挟んだ後、鏑木はアトリに背を向けて再度眼鏡の男に向き直る。ちらりと団長を視界の端に確認したが、彼女は押し黙っていて特に何か言うつもりなどは無さそうだった。鏑木も特に交わす言葉の持ち合わせは無かったので、眼鏡の男だけに言葉を向ける。


「この音楽組織、」

「〝楽団〟だ。だがそれだけの呼称だと他にもいるのでね、識別する際にはフィルハーモニーという名を付けている」

「……フィルハーモニー楽団。その組織、僕の知人である瀬古が加入してるそうですが」

「ああ。色々と手伝ってくれている。先ほど就職難の人間は受け付けないと言ったが、彼女には僕らでは把握しきれていなかった裏路地や、その一帯の元締めなども教えてもらったりした。それ故に、例外的に加入させた」

「なるほど。そういう経緯でしたか」


 そして利子をつけて返済された四六〇〇円の出所も、恐らくはこの仕事を請け負うことで得た収入の中から吐き出されていたのだろうと推測する鏑木。そう考えると、空き缶拾いよりは安定した収入源となってくれるこの楽団は、瀬古には加入することで発生するメリットが大きかったのだとも思われた。それでいて彼女の言うように「やりがいがある」のだとしたら、やめさせる理由も何も無いのかもしれない。


 けれどそれは、真っ当な仕事であるなら、という前提付きの話だ。明らかに非合法な仕事を成している今の瀬古に対して、鏑木は思うところがあった。たとえ瀬古自身は楽しそうで、音楽というものが良いもののように見えていても。


「でもそうして仕事を続けていけば、どこかで捕まる可能性だってあるわけですよね。……まあ、本当は身内でもない僕が口を挟むようなことではないのかもしれませんけど。本人も楽しそうなので、出来れば僕もそれを尊重したいとは思ってるんですが。それでも、リスクが高すぎるように思えるんです」

「かぶらぎ、それは」

「それはひどく正しい意見だな」


 反論を述べようと口を開きかけた瀬古の言葉を押しつぶして、眼鏡の男は鏑木の意見に同意した。驚く鏑木にうなずきかけ、卓の方に身を乗り出した男は眼鏡の奥から見据えてくる。なぜだか、そんな男の目はこの場の誰より疲れているように見えた。男は言葉を繋ぐ。


「だがね、わかっていてもどうにもならないこともあるだろう?」

「そういう時は周りが正すべきだと思ったので、僕はここに来たんです」

「それも正しい。が、僕が言うのは正義と悪の論ではないよ。世間的なものの見方、一般常識。そうした考えを取り除き自分の思考と向き合うと、残るのは好き嫌いの感情論なのだ。その好き嫌いの感情が形作った優先順位、それこそが瀬古奈々子のフィルハーモニー楽団に加入する理由となる。こればかりは如何に周りが説得しようともそう易々とは崩せない。なにせ、感情というのは一種の外から襲い来る暴力だ。自分の中で芽生えるものではなく、外部からの刺激に反応して自らの意思とは関係なく確立されるのだからね。しかしそれでは人は己の優先順位に従い好き勝手に動いてしまうだろうから、身勝手を律するために法が生まれた」


 一旦言葉を切る。自分がこの場に落とした言葉が波紋となって、鏑木たちに届くのを見届けているかのように。


 皆が他人から視線を外し、床や天井を見ている。その中で、ただ一人団長だけが鏑木をじっと見ていた。そこには感情の色は見られず、淡々と視線を向けているにすぎないように思われる。ただ、何かを試しているような顔つきだった。そして沈黙の中で鏑木たちが考えをまとめあげた頃合を見計らって、男はさらに続ける。


「つまり人を縛り、身勝手を許さないために法は出来ている。けれどそれは時として人のためでなく社会のために在るようになり、そうなると法は締め上げるばかりの万力のようになる。人が望んで、それが人に害悪をもたらさないのであれば、奨励こそされても禁止する意味などないはずなのに」


 嘆くような男の言葉が途切れたところに、鏑木は自分の言葉を差し込む。反論のための感情が口を衝いて出た言葉には、ひどい否定の意味が込められていた。


「あなたがおかしい、という見方もありますよ。元々価値観が壊れている、とか」

「……そうかい。まあ、ごく少数、この世にいくらか居る快楽殺人犯などと同程度の人数の内の一人がこの僕だというのならその見方も有りだろう。しかして、僕と同じ考えの人間はそれなりの数で存在する。そして、人数が集えば一つの考えとして認められるものなのだよ」

「人数が多ければ考えがまかり通るというものでもないでしょう」


 男はまたもうなずき、鏑木は内心で怯む。強く反抗されたりするならば反論の糸口も見つかろうものだが、一旦は自分の出した意見を飲み込まれてしまうと、開き直られたように感じてしばらく二の句が継げない。そうしているうちにペースを相手につかまれて、自分に向けて流れを引き戻せないのだった。


「そう、その通りだ。だがそれはマイノリティが駆逐されてもよいということには繋がらない。ある程度人数は増えていると言っても所詮僕らは少数派、多数決をされれば吹き飛ばされかねん脆弱な集団なのだしな」

「けどよぉ。あんたらの正当性にも繋がらねぇよ」

「正義と悪の論ではないと先ほど述べただろう? これは感覚の問題であり、感情論でしかないと。何を憂い何を優先するかという共通項によってのみ僕らは繋がり組織を成し、行動を起こすのだ。正義と悪で語るならば最初から僕らは言葉を持たず、一方的にきみが語るところの正当性、即ち法と警察に排除されるだけ」


 かといってアトリが口を挟んでも、論点がズレていて話にすらならない。鏑木も大した考えを持たずここへ来たが、アトリはさらに何も考えずここまでついてきてしまったのだから無理もないことだった。結局のところ、語るべき人間は鏑木だけ。なぜなら鏑木は男の言うとおり、正義と悪で語っても意味が無いことを悟っていた。


 そしてそれは一つ、鏑木が行き着いた思考を示していた。


「僕らは弱い人間だ。自分の考えこそが絶対だと信じ込んでしまい、他の考えは排斥するものだ。他の考えを受け入れるのは、自らが自らの考えによって傷ついた時と、あとは一つしか残されていない」

「それでも僕は……」

「友達が捕まるリスクを負っているのはいやだ、というわけかい」


 それは正しい。


 と、男は断ずる。どこにも肯定をかぶせられ、鏑木はとうとう何も言えなくなってしまう。


「ねえ瀬古――」


 団長が男の言葉にうながされるように瀬古の方を向いた。


「――あとはあなたの決めることよ。友達だから、ということもあるんでしょうけど、鏑木君は善悪を外した中であなたが優先するものがあることを理解して、それでもなおこの世界が善悪の二元論に支配されていることを知り、それ故にこの世界では〝悪〟と見なされるであろう楽団に関わることの危険を説いている。ここから先は、あなたが友達の思いやりを優先するか、あなたのやりたいことを優先するかで決めることよ」

「だ、団長」


 つぶやくように彼女を呼んで、決然とした団長の顔を見て、瀬古は目を伏せた。ここから先、次の発言は自分の決断する言葉以外には許されていないということを理解して。


 けれどそれはそう簡単には決められないことだった。たしかに楽団での活動は自分のやりたいことではあったが、鏑木たちが捕まる危険性を考慮して参加も賛同もしてくれないことも、仕方ないとは思っていた。自分のように、失くすものが何もないわけではない鏑木たちに強制は出来ないからだ。


 だが、楽団での活動を続けることで鏑木たちの思いを踏みにじるというのも、いやだった。そう、瀬古自身深く考えてはいなかったため気づいていなかったのだ。捕まっても失くすものは何もない自分でも、その事実に悲しんでくれる人はいるということに。


 悩む瀬古。重たい空気が詰まったような喉は言葉を発してはくれず、何度も生唾だけが胃へと滑り落ちていく。数瞬がいやに長く感じられて、心は逃げ出したくなっても足はぴくりとも動かない。誰もが、見えない手に掴まれているように身じろぎひとつしなかった。視線すら動かない。


 静止した沈黙の中で、一切の動きは存在しないように思われた。


「――たっ、大変だ! そとにっ、外に警察が!」


 だからその時の発言がどこから出たのか、誰もがしばし気づけずに居た。


「……え?」


 誰が聞き返したのか、全員が聞き返したのか。


 声の出所を探ろうと首と視線を動かし始めた全員に、続けて叫びが届けられる。


「家に帰ろうとしたら、外を占拠してうじゃうじゃいます! もう、今にも入ってきそうだ!」


 叫び声の出所は入り口、鏑木たちの後ろだった。倒れていたモヤシっ子が目覚めて叫んでいるようだが、血相変えてという表現が似合わないほどに血色が悪い。ぜえぜえと肩で息するそいつは、大きく息を一飲みしてまたも叫ぼうとする。が、


「落ち着け」


 めいっぱいに息を吸い込もうとしたところで、立ち上がってきた男がそれを制した。そして周りを見回して部屋を出ていき、素早く確認を済ませていく。男が窓の下をこっそりのぞき見ると、下には警官が十数人、陣形を組み隊で動いていた。舌打ちして、男は部屋へと戻る。


「団長、今日は楽器など持ってきてはいないな?」

「楽器はない。けど、楽譜とそれがあるのよね……」


 指差した先には瀬古が持っていた譜面台があった。歯噛みしてそれをもぎ取り、どこへ隠したものかと思案をめぐらす男。急に雰囲気が変わったことを察して、鏑木とアトリも不安そうにそわそわし始める。どこにでもありそうなごく普通の一室が、一瞬にして恐怖と緊張の渦巻く舞台へと変貌を遂げた。


 その感覚は鏑木にはまだ記憶に新しい、警察に追われた時の感覚を呼び覚ます。


「警察が来てるなら、逃げた方がいいんじゃねーのか」

「それはそうだが表を囲むということは既に裏や屋上を塞いだということだろう。もう逃げ場はあるまい」

「ならここで一網打尽にされて終わりですか」

「んー、いちおうは絶体絶命、ってわけでもないわ。奏音禁止法の内容、覚えてる?」


 鏑木は微妙に、斜めに首を振った。詳しくは知らないという意思表示である。


「楽器の所持や演奏とかは禁止にされてるけど、集会行為までは許されてるのよ。だから、音楽に関する企てをしてたっていう証拠になるようなもの、例えば計画書とかそういうものを持っていなければ、しらを切りとおすことでどうにかなる」


 だが今は楽譜と譜面台がある。これが見つかってしまってはどうしようもない。考え込む七人の中で、タバコの灰皿を見ていた鏑木がぼやいた。


「そうだ、楽譜は燃やしちゃえばわからないんじゃないの」

「だめよ。ぜったいだめ!」

「きちょーひんだから! それに、燃やしたら火災報知機が鳴るー」


 団長と瀬古の猛抗議にあい、鏑木はすごすごと引き下がった。男が上を見つつ言う。


「放火未遂でしょっぴかれることになるな。その後尋問に遭えば何かしら漏らしてしまうかもしれん。しかもその後は前科がついたせいでますます活動をしにくくなることだろう」


 破棄することも出来ず、隠しても見つけられる可能性は高い。逃げても捕まる、開き直っても無駄。八方塞がりの状況で、七人の心の隙間に焦りと緊張のみが深くしみこんでいく。水を吸った真綿のように体に纏わり付く沈黙に、七人は心を縛られロクな考えも浮かばない。


「このまま捕まるとどうなっちまうんだ」

「僕もお前も犯罪者予備軍として扱われるだろうね」

「……ごめん。あとり、かぶらぎ」

「謝らなくてもいいさ。僕もアトリも自分からここに来たんだから」


 とはいえ窮地には違いない。脱することが出来るのならそれに越した事は無い。アトリも鏑木も辺りを見回し、必死になって打開策を考える。けれどすぐにそんなものが思いつくはずもなく、時間だけが過ぎて行く。『いつ強行突入がやってくるのか』『捕まったらどうなるのか』考えても詮無いことであるそちらにばかり考えが寄ってしまい、何も出来ずにいる。


 男が靴紐を確認してから、閉じている入り口の向こうに見えるだろう窓を思い、つぶやいた。


「駄目で元々、二階から飛び降りて逃げてみるかい」

「らしくないこと言わないで。勝率無き行動は全て愚行よ」

「ならばどうするのだ?」

「……とりあえず時間を稼いでみるとか」


 団長の述べた意見以上のものは現在、思いつきそうになかった。となると、今度は時間を稼げるような策を考えなくてはならない。ところが互いに顔を見合い、何も反応が返ってこないことに落胆して目をそらす。その繰り返しばかりで、なにも進展しない。


 時間もなければ有効な手も思いつかない。窮地に追い詰められた時ほど、人は悪い方へ悪い方へと思考が偏り、身体は震え、動きを止めてしまう。その場の全員が、袋小路に行き詰った己らの不覚を責める、悔恨に満ちた沈黙が落ちる。


 だが、鏑木がふと部屋の奥に視線をやったことで、沈黙は意味のあるものへと変わる。そこには簡易キッチンを備えた給湯室があり、そして振り向いた鏑木は部屋の外へ出る。壁伝いに移動しながら、こんこんと何度か叩いて感触を確かめていた。団長を含め全員がそんな鏑木の行動の意図を読もうとして、しかしまったく読めない。


 少しして、部屋の隅をぐるっと回ってきた鏑木は立ち止まった。あー、とマイクテストのような声を上げ、ぽりぽりと頭を掻いた。注目されていることに気付き、何やら居たたまれない様子で立ち尽くしていた。鏑木はふいに、ゆっくりと挙手する。


「あー…………えっと。そのですね。映画とかで使われてそうな、何番煎じかわかんないような安い策なんだけど」


 アトリは驚いた顔をして、瀬古は半目をわずかに見開く。忍足とモヤシがぽかんと口を開けて、眼鏡の男はいぶかしげな表情で腕組みした。そして鏑木自身が一番情けない、気まずそうで自信無さげな顔で、今にも手を下げそうな雰囲気を漂わせていた。


 その中で団長だけが、呆気に取られたあとすぐに勝気な笑みへと変わる。


 鏑木へと、掌を差し出す。


「――聞かせてよ。陳腐でも安っぽくても、わたしが高値で買い取ってあげるわ」


 今度は鏑木が呆気に取られる番だった。


 けれど伏目がちながらもそろそろと手を伸ばし、小さくも力強く伸ばされた手に、軽く己の手を載せる。ぐっと、団長はその手を握り締めた。


「お願いします」

「任せてよ」


 どちらがどちらに言ってもおかしくない言葉。けれど含まれている自信の差が、どちらのセリフであるかを顕していた。




 外。警官隊は一階と三階の住人を速やかに退避させた後、二階からの楽団一派の逃走を封じ込める為に階段、屋上、二階の窓の下といった穴の全てを塞いでいた。つまりあとは捕えるのみなのだが、それが一番難しい。なにせ相手はテロリスト、おまけに何人いるかもわからないときている。状況を正確に把握するまでは、ヘタに動かないのが吉と言えた。


 とはいえ、篭城されたまま長時間が経過すればいきりたった犯人が何をするかわからないのも事実。戦闘により犯人、警官隊のどちらに死傷者が出ても最悪の事態だが、膠着状態は長く続けられない。頃合を見計らって一人が、メガホンを手に犯人――つまり、団長率いるフィルハーモニー楽団五人と鏑木・アトリ――に、声をかけようとし、


「そこの奴らァそこで止まれっ! 止まらねぇと殺すぞッ、こいつ殺すぞ!」


 荒々しい罵声に動きを止めた。当然、警官隊の方からあがった声ではない。小さくざわめきと動揺が走る隊に、指揮官と思われる男が落ち着くよう促す。どう考えても人質をとっていると思しき発言は、二階の窓の隙間から漏れ出ていた。次いで、きゃー、と人質のものと思しき悲鳴も聞こえた。か弱い女性の窮地のようだった。この状況の急変にメガホンごしに隊の一人が再度声をかけようとし、


「おっとぉ、お前らに勝手な発言は認めてねぇぞぉ? 次にこっちに命令でもしようとしてみやがれっ、速攻でこのガキの脳みそぶちまける!」


 怒鳴り声のあとにまたもきゃー、と悲鳴があがった。その時の室内の状況を正確に把握していたのは、向かいのビルの一室から二階の内部を見ていた警官隊の一人。彼が正面を見やると、曇りガラスのわずかに空いた隙間に背を向けるように少女を後ろから羽交い絞めにしている金髪の男がそこにいた。


 一瞬、後ろを振り向いたその男の目は、既に一人か二人殺していそうな犯罪者の目。血走って凶暴性のみが高まっている、獣の目だった。


 状況は既に最悪だった。どうしてそうなったかは知らないが、グループ内で仲間割れでもしたのか、女性の人質が一名。その他にも室内には二人の人間が伏せていて、おびえた表情がよく見えた。と、金髪の男の視線はいまだこちらを見据えている。


「あとそこでこそこそしてる奴ら! 今すぐそっから出てこねぇと殺す! お前らも殺す!」


 言って、金髪の男は窓に近づくとカーテンを閉めた。内部の様子はこれで完全にわからなくなり、おまけに自分たちがここにいることは状況の悪化に繋がるようになってしまった。内部が見えないためここからの狙撃という手も使えなくなり、警官隊はその部屋から撤退する。下の通りの、武装した警官隊と合流して二階の窓を見上げた。と、そこからまたも過激な発言が飛び出してくる。


「とりあえず今後は0*0‐****‐****、この番号に電話をかけて来い! それ以外での対話には一切応じねぇ! それと、これからも俺の言う要求をよーく聞け……そうしねぇとこのガキ以外にも血ぃ流すことになんぞ!」


 ぎゃー、と女性の悲鳴に濁点がついた。発言から察するに既に男は人質に傷をつけている。悪夢のような状況に、警官隊のほとんど全員が戦慄した。長く最悪な一日になるかもしれない、と一人がつぶやく。そうさせないために自分たちが居るのだという意識はあったものの、犯人の要求からして強く発言のできる状況でもない。


 ただただ、阿鼻叫喚の地獄絵図となっているのであろう二階の室内を思って、彼らは己に出来ることをやろうと決意するのみだった。


        #


「はいおつかれさまでした。いやー、アトリは見た目からしてこういう悪役が似合うよホント」

「うるせえよ」


 警官隊が覚悟を決めている頃、外から見られることのない室内では鏑木がカリカリとすごい速度で台本を書きつつ、それをアトリが読み上げることで時間稼ぎを行っていた。悪役で、しかも顔をさらす羽目になったアトリはかなり不機嫌そうだったが、それでも他に手が無い以上仕方のないことと諦めているふしもある。携帯電話は手に持っているものの、電源を切っていた。警官隊が先ほどアトリが述べた番号にかけても、繋がらないという寸法だ。


「にしても、狂言の人質で時間かせぎなんて、かぶらぎらしいねぇ」


 口元を手で隠して笑いつつ、瀬古は麻雀卓に腰掛けていた。ちなみに原案を出しているのは先ほど人質役も担っていた彼女自身である。彼女が思いつきであげた台詞回しや動作を、大学時代にレポートの代筆などで速記術を身につけた鏑木が台本として書き上げることでこの作戦は成り立っていた。


「あのさぁ猫、僕らしさってなんだよ」

「やすっぽくてありがちなとこ?」

「わざわざ疑問系で言うなよ。自覚してるよ、そこんとこは」

「でもそんな安い作戦でも、この場で簡単には思いつけないわよ」


 瀬古の腰掛けている麻雀卓を机代わりにしてがりがりとセリフを書きなぐる鏑木に、なだめるような語調で団長は肩を叩いた。


「字がぶれる」

「ごめんなさい」

「別にいいけど。あ、ほらアトリ、そろそろ次のセリフ言って。『どいつもこいつも俺をバカにしやがって。お前もフリーターにしてやろうか』」

「そんな特殊能力があったら真っ先にお前をフリーターにしてやるぜ」

「あれ、知らなかったの? お前すでにそういう超能力持ってるんだよ、きっと。たぶん僕が無職になったのもお前の能力の一端に触れちゃったからだ」

「有りえねぇだろ」

「あ、やめて近づかないで。アトリに触られると駄目人間化が進行する」

「いじめか、俺へのいじめだろこれ」

「いじりだよ」

「もじりだろそれ」

「……ずいぶんな余裕があるものだね、きみたちは」


 漫才のようなことをしていた鏑木とアトリに、眼鏡の男が厳しい声音で言う。その一声で二人は一応掛け合いはやめたが、それでも張り詰めたような感じはあまり取り戻さなかった。まるで、アパートの自室にでもいるかのようにリラックスして、アトリは次のセリフを叫んでから男に向き直る。


「緊張したって答えが出るもんじゃねーだろ」


 賛同を求めるように鏑木の方を向くアトリに、ちらりと視線をやった鏑木も即座にうなずく。


「そうそう。それに次の手だってなくは無いですから」

「え?」


 アトリと眼鏡の男はそんなこと思いもしていなかったのか、がりがりと執筆を続ける鏑木を見る。団長は感心したようにほうと息を吐いて、その横では変わらない調子で、瀬古が朗読するように思いついたセリフを述べ続けている。そのセリフから量を軽く削ったりして書き易くしながら、鏑木は驕るでも誇るでもなく適当な調子で、思い描いているという策を挙げた。


「まず今の狂言はこの通り、『台本を読んで寸劇の練習をしていた』『麻雀倶楽部なら防音もしっかりしていると思ってやった』という二点で押し通す。だいぶ無理があるけど、『たまたま』窓が空いていて『たまたま』聞こえてしまったんだから、過失と思ってもらおう。で、次に譜面台と楽譜だけど――譜面台はバラバラにしてゴミにしよう」

「ごみ?!」


 信じられないという顔で団長と瀬古が叫ぶ。耳元でもろに大声を聞いた鏑木はくらりと頭を揺らしたが、かぶりを振って執筆に戻り、説明も続ける。今にも怒り出しそうな団長とセリフを続けてくれない瀬古をいさめつつ、あくまで冷静な判断のもとに。


「本当にゴミにするわけじゃなくてね。あくまで再製可能な範囲で、だよ。で、それをいくつかの不燃ゴミの袋に分けて入れて、他のゴミと一緒に放り込んで持ち出す。これも無理やりなこじつけだけど、完成してないならそれはただの鉄きれだからさ。ひょっとしたら無事に通してもらえるかも……ま、取り上げられたらそれまでだとは思うけど、譜面台なら失ってもまだそこまでの痛手じゃないだろう?」


 惜しそうに手元の譜面台を見下ろしながらも、しぶしぶながら納得する団長と瀬古。その様子を見てうなずきを返し、アトリに次に読む台本のページを破って手渡しながら、鏑木はさらに楽譜の行く末を語った。


「で、楽譜だけど。これはやっぱりどうにもならないから、燃やそう」

「燃やすの!?」


 今度はつかみかかる団長と瀬古。しかも二人の手は首をしっかり絞めていたため、鏑木は次の説明をすることさえ出来ないようにされていた。


「おっ、おちつっ、おちつい、っちついて」

「話が進まん。団長、瀬古、ここは抑えて」


 男にも制されて、なんとか自制する団長と瀬古。数秒遅れていれば『ついカッとなってやってしまった』現場になりそうなほど危ういところを切り抜けた鏑木は、しばらくむせてものも言えない。忍足が背中をさすってやって、モヤシが持ってきた水を一口飲んで、ようやく説明が再開された。


「……あー。でぇ、続げるとぉ……この部屋からの持ち出しは出来ないだろうから、処分するしかないってこと。それなら、処分する前に写してしまえばいいって、こと」

「写すと言っても何にッスか? 暗号化でもしようってんスか」

「それでも怪しいと思われたら取り上げられるだろうと思う。だから、写したら送信しちゃえばいい」


 送信という単語で団長が手を打ち、自分のポケットから赤い携帯電話を取り出す。


「あ、電子メールね」

「だが電波妨害をされていたら……ああ、それを防ぐ為に携帯電話での対話にしか応じないと言ったのだね」


 眼鏡の男が問いかける途中で納得する。鏑木は団長の携帯電話を、空いている左手で指した。


「そういうことです。それに、送った履歴は消せる。それでもデータを復元されるかも、と思うなら携帯自体を壊して、さっきの譜面台をバラした奴を入れる不燃ゴミの袋に入れてけばいい。怪しいといえばこっちの台本の方が怪しく見えるだろうしね」


 ミスリード。その意味合いは薄いが、零でなければ効果は十分。むしろ可能性が薄いからこそ引っかかることもある、と鏑木は思っていた。裏の裏を読んでもそこが表でしかないなどとは、平静でない時はなかなか気づけるものではない、と。だがそこでアトリがセリフを読む合間に、思い当たった問題点を指摘する。


「でも燃やしたらマズイんじゃねーの? 火災報知機鳴ったら俺たち放火犯じゃん。破って水に流す方が」

「形が残る方がよっぽどまずいって。それにボヤが出ても唯一過失で済みそうな場所って、ここにもあるだろう」


 鏑木は指差す。先ほどまでいた狭い一室のさらに奥、麻雀倶楽部のような場所でも一応は設置されていた、簡易キッチンの方向を。鏑木を除いた六人はああ、と嘆息した。


「あそこでおつまみ作ろうとしてて火をつけたの忘れてた、とでも言えばいいさ。灰になったものが元々はなんだったかなんて、きっとわからない。念のために冷蔵庫にあった他の食材も一緒に焦がせば、それでまず疑われないだろ」


 鏑木は言って、書き続ける。穴は多そうな、浅知恵か猿知恵としか呼べないような代物の策をつらつらと挙げ連ねつつ。


 けれどそれは、状況に即応して考えたとは思えないものでもあり。少なくともこの場の誰一人として、それ以上の案を思いつくことはできないのが現状だった。圧倒される六人を横目で見つつ、鏑木は黙々と作業を続けている。


「さ、とっととメールで外のパソコンに楽譜の内容を送って、ここから出よう。今日は朝っぱらから疲れたよ」


        #


 ――そんな激闘から一夜明けて。


 翌朝。


「はー……二連徹か」


 警察署からは、取り締まりの対象である現物が見つからなかったことで一応は解放された。だが長い取調べと説教にやりこめられた鏑木は、寝ていないことへの文句を言って心底だるそうなあくびをかました。前日も前々日もアトリとの格ゲー対決のため寝ていなかった鏑木は、そろそろ白いワニとか視えるんじゃないかと思えるほど頭がぼやけ、頭痛がひどかった。もっとも、これは前日の譜面台直撃による怪我が主な原因かもしれなかったが。


 そうしてあくびを続けること数秒、長々と大口を開けていたため、そこに向かって白い粒が投げ込まれる。投手は一足先に外に居た団長、投げたのは、


「強烈なペパーミント味の飴よ。おひとつどうぞ」

「っぐ、うげえ。辛いっていうかこれ痛い」

「わたし今から学校行くから。これくらいの刺激でないと居眠りしちゃうのよね」


 軽く胸を張る団長。彼女も相当眠たそうだったが、気力は充実しているのか、ハツラツとしていた。時間帯のせいか朝日はまぶしく、鏑木はこそこそと署の入り口にある柱の陰に隠れる。


「ちょっと、そんなとこに隠れないで」

「無理だ……今の僕に朝日はきつい」

「最近の吸血鬼はそんな設定持ってない奴が多いわよ」

「ドン・ドラキュラとかは日光で灰になってたけどなぁ。そっちは、お元気そうで」

「ええおかげさまで。徹夜明けで最高にハイってやつよ」


 よくわからないことを言い合いながら、二人は署の前からふらふらと離れた。残りの五人はまだ取り調べを受けている最中なのだろうが、二人ともとりあえずは警察署が放つ重苦しい空気から、一歩でも遠く離れたかった。


 車が過ぎて行く通り沿いの道まで来たところでなんとか一息ついて、近くの自販機で鏑木は缶コーヒーを買う。たまたまルーレットが当たって出た一本を団長に渡して、もう一本のプルタブを片手で開けると大きく一口飲み込む。酔い醒めの水は甘露の味というが、眠気覚ましのコーヒーは味がよくわからないだけだった。団長はガードレールに腰掛け、鏑木はその正面に立ち尽くす。と、団長が鏑木を見上げた。


「……ありがとね」


 無言でコーヒーをすすっていた団長から唐突に感謝の言葉が出たため、鏑木は反応するのに遅れた。「なにが?」と言い掛けた時には、辺りをうかがって人がいないことを確認した団長が、感謝の意味合いが何に対してなのかを告げている。


「わたしたちが助かったの、鏑木君のおかげだから」

「ああ」


 なんだそんなことか、と続けそうになったが、さすがにそれはやめておいた。鏑木はガードレールに腰掛けて、団長に並ぶとまた一口すする。


「自分が助かりたかったから思いついただけだよ。他の意味なんて無い」

「そっか。でも結果的には助けてもらったんだから、やっぱりありがと」

「どういたしまして」


 飲み干した缶を手持ち無沙汰に見つめる鏑木は、力を込めてそれを握ってみたが、スチール缶だったのでほんの数ミリへこむだけだった。まだ飲みきっていない団長は缶を手にしたままぼんやりと空を見つめていたが、またも唐突にぼやくように言う。


「ごめんね」


 今度は鏑木も理由を問わなかった。感謝されるいわれは微妙にわからなかったが、謝られる意味はわかったから。


「こんな風に、巻き込んで」


 続く言葉は予想の出来ていたもの。対する鏑木の答えも、団長にはなんとなく読めていた。


「べつに。無事に終わったから気にしてないよ」

「そう」

「ただ、もう……巻き込まないでほしい」


 囁くように懇願したとき、団長が空を見ていたのは好都合だった。鏑木もどこかへと視線をやることが、不自然にならない。


 だから、哀しそうに目を伏せる団長を見なくて済む。鏑木は嘆息して両手で缶を握り締めた。


「そっちだって、こんな目にあってまで続けるのは大変だろう。瀬古にしたって、あいつ自身は認めるか知らないけど、僕ら以外にも心配する人がいる。それなのに活動を続けて、こんな懲役刑食らうか食らわないかってところまで追い込まれて」


 あのように冷静に計画を立ててみせた鏑木だったが、内心では直接警官の姿を見たあとそれに追いかけられたあの日よりもすくみ上がっていた。それこそ走って逃げることさえ視野に入れていた眼鏡の男と同じく、いやそれ以上に〝駄目で元々〟と思っていたからこそあれほど大胆に立ち回れたのだ。ヤケクソになって動いたのが運良く転がっただけである。


 窮地を脱して日常に帰って来た今となっては、あのような蛮勇は思い返すのも恐ろしい。再度無謀に身を投げ出してあのように行動できる自信は、鏑木にはなかった。今この時でさえ、気を抜くと膝が笑う。警察の取調べによる圧迫感は、あの部屋での篭城の際の圧迫感と非常によく似ており、そのために感じられた二重のプレッシャーが鏑木の心を押しつぶした。


 その経験がとてつもなく怖かった。


「僕が小心なだけかもしれないし、お前は小心で臆病なんだと指摘されたら、やっぱりそうなんだろうなとは思うよ。けどそれで……本当に。そこまでして活動を続けて、何があるっていうのさ? こんな怖い目にあって、なお前に進む。それは立派だと思うしすごいと思う。でもとてもじゃないけど、勧められないよ」


 本心から導き出された思いは、危険に対する恐怖を語る。そう鏑木が言い終えた瞬間、ぎき、と音がした。


 地面に視線を落としていた鏑木がふと見やると、団長の手にしていたスチール缶が、べこりと大きくへこんでいる。ぎょっとする鏑木を尻目に、団長は腕時計をはめている右手をぶらぶらと振っていた。左手ひとつで、缶を握りつぶしたのだ。


「……わかってほしいとは、言わないわよ」


 か細い声で言う。じっと前を見る団長の横顔は疲労と苦しみの中に怒気や悲しみを溜め込んだ面持ちで、つまるところ多くを抱えすぎ、今にも壊れてしまいそうだった。


 くるりと鏑木の方を向くと、気を落ち着けるように細長く息を吐いて、体を震わす。その強い表情に畏れをなして、鏑木は後ずさる。その距離を団長は詰める。手から離れた二人の缶が、軽い音を立てて路上に転がった。


「でも、本が好きな人がいて花が好きな人がいて車が好きな人がいて食べることが好きな人がいて人が好きな人だっている。その中でわたしたちは、音楽が好きになっちゃったのよ。しょうがないじゃない、イヤなものはイヤって言えない時もあるけど、その分好きなものは好きって叫びたいんだから。それなのに横から取り上げられちゃうのよ? そんなの……これ以上耐えられない。これ以上奪われたくない。だから進むの、他人の意見なんて聞いてない。わたしの好きなものにわたしが目を背けるなんて、わたしに対して不実でしょ」


 ずんずんと距離を詰める。額も息もぶつかりそうな距離で、団長はなおも声を荒げる。吐き出したかった気持ちが、鏑木の一言で決壊したのだ。


 きっと何度も聞いてきた言葉でもあったのだろう。非合法な活動をすることに対する一般的な見識は。狂人ではない団長は、そんな一般の見方など当然理解していた。その上で続けることへのジレンマ。ストレスは溜まる一方で、おまけに彼女には立場に伴う責任までもがあった。


「それならあなたはなに? 他人の否定ばっかり繰り返して、ニヒルを気取って。あなたが同じような立場なら、好きなことを今この時に投げ出せるの? どうなのよ」


 今回、一応放免されたとはいえ警察に拘束されたことは、鏑木だけでなく彼女にとっても非常に重たい出来事だった。直接的な形で自分の好きなことを法と警察に否定され、これから先でもミスをすれば今回以上の事態になるであろうことも予想図として明確に見えてしまった。


「……どうなのよ。ねえ……」


 そのことが、彼女の心中に影を落とさないわけもなく。鏑木がしたことは、彼女自身が深く自覚している矛盾にも似た苦い想いを、抉って暴き出したに等しかった。


 だが今の彼女の一言もまた、鏑木の中の琴線に触れる言葉であった。


「好きなこと、か」


 あさっての方向を見て、しらけた顔に見えるよう、取り繕う。燃えるような団長の目から逃れようとする鏑木の目は、ひたすらにうつろで何も映そうとしない瞳だった。あまりにも弱く小さい、すがるものなど何も無い、助けを求める弱者の目。


 そこにあるのは、夜の海面の照り返しより薄い光。覗き込むうちに団長は、自分が相対しているのが感情をぶつけていい相手ではないことに気づく。その儚すぎる光に触れて、少しずつ少しずつ落ち着きを取り戻していった。


 わずかに距離を空けて、再び互いにあらぬ方向を見て座り込む。


「……ごめん、取り乱したりして」

「べつに。気にしてないよ」


 鏑木は本心からそう言う。彼は脚色や虚飾を加えて話を灰色に染めることは得意だったが、根元から真っ赤な嘘をつくことは苦手だったから。


「無事だったんだから、さ」


 ――本当に、真っ赤な嘘が苦手だった。少しだけでも嘘を混ぜる気でいれば、団長も何か適当に返して会話を繋げることが出来たろうに。鏑木の言葉は、裏を返せば『無事でなかったなら気にする』ということになる。団長は言葉につまり、うつむく。鏑木は彼女の表情に気づけない。


 実のところ、鏑木が語った『自己保身のために案をひねり出した』という言葉には何の裏も無いのだ。彼はまず誰より何より自分を守る。寄る辺も支柱も目指す場所も無い彼は、それ以外に思いつかない。常に自分で手一杯だ。


 自分を助けたら、もう積載量を超えている。鏑木はいつでも、沈むか沈まないかというところで、暗い海を漂っている。今回の一件はそんな彼にさらに冷や水を浴びせるような出来事だった。それに対して「つめたいなあ」と愚痴をこぼすのと同じに、彼は嘘のない言葉を吐き出した。だから、団長はなにも言えない。


「……あ、の。その」


 団長は何かかける言葉を探そうとしていた。けれど彼女は迷い、ぐらつくばかり。彼を引き上げる言葉を持たない。


 ほどなくして、団長の分の缶も拾い上げて、鏑木はその場を去る。色あせたジャケットに包まれた背中は狭く小さく、道の向こうへと遠くなっていった。それから少しして、署の方から五人が歩いてくる。鏑木がいないことにアトリと瀬古は首をかしげたが、追及してくることもない。二人とも眠そうにしていて、先ほどの鏑木と同じ様に缶コーヒーを買った。


 今度は、ルーレットが当たることはなかった。



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