夜半超過のインストゥルメンタリスト。
「昼間に忍足君がぶつかったの、あなただったのね」
窓から上がるのもなんだから、と今度は玄関からあがってきた少女は、鏑木にぶつかってきてジュラルミンケースを押し付けた突撃男の名を話題にのぼらせた。布団をたたんで座布団を敷いていた鏑木は、なんでもないフリをしながらその名を深く脳髄に刻み、少女に向き直る。
「でもそのケース、僕が白川公園の茂みに捨てちゃったはずなんだけど」
「うん知ってる。だから回収したのよ。で、やっぱり追われるようになったから必死に逃げてここまで――って、目を丸くしないの。別に白川公園から走って逃げてきたわけじゃないからね。ここから何駅離れてると思ってんのよ」
ごそごそと、部屋の中に散乱していた上着や帽子を着込んでいく少女。どうやら部屋に飛び込んだ瞬間にそれらも脱ぎ捨ててあの追っ手に服装を変えて見せていたようだ。あっぱれ、とんでもない早業である。
「じゃ、服も返してもらったしそろそろお暇を」
「待て」
がしっとジュラルミンケースを引っつかんで、鏑木は少女を引き止める。う~っと小さな唸り声をあげた少女は、鏑木の片手の力に対し両腕を駆使して応戦しようとした。慌てて鏑木ももう片方の手を使い、一瞬の拮抗状態を再度突き崩す。小柄な少女の体が、鏑木の方に倒れてきそうになった。
「う~……放してくれないと、『助けて! 変な男に手篭めにされる!』って叫ぶわよ」
「それで警察が来たら困るのはそっちもだろう」
「人の立場を利用して脅すなんて、卑怯ね」
「そっちもだよ。今の世の中、間違ったフェミニズムが横行してる」
一進一退の状況。五十歩百歩の言い合い。ぎりぎりとにらみ合いが続く中、電灯の下で見る少女は本当に小さく、身長など一五〇センチちょっとしかなさそうに見えた。少なく見積もっても鏑木より十五、六センチは頭の位置が低いだろう。そしてその頭は肩まで届く色の薄い髪を覆い隠すように、さるぼぼがかぶっているような頭巾の白いものを載せている。瞳はきっとこちらを見据えていて、その目力には迫力があった。鏑木は真っ向からその目を迎え撃つ。
「そら」
「あ」
そして目線を逸らさず、腕の力を少し抜く。少女は引っ張る力が勢い余ってひっくり返り、鏑木の手の中にケースが残った。慌てて起き上がって奪い返そうとする少女だが、悲しいかな、立ち上がった鏑木が天井に向けてケースを持った腕を伸ばすと彼女からは物理的に届かない。業を煮やした少女は果敢にもローキックで鏑木の脛を蹴り飛ばすが、無視して動ける程度のダメージでしかなかった。そうして腕を掲げながら歩く鏑木の行き先は、電話機。
「さて何が入ってるか知らないけど警察に電話しなきゃね」
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
ローキックで膝裏を打たれ、がくんと崩れ落ちる鏑木。膝が曲がったので当然腕も下がる。気づいた時には腕の中からケースは奪い返されており、三歩退いて壁際まで逃げた少女が恨めしげに鏑木を睨んでいた。
「こら、それを返して大人しくお縄につけ。なんのために僕が呼び止めたと思ってるんだ」
善良な一般市民として振る舞い、昼間に追いかけられることになった理由を話して潔白を証明し、堂々と表を歩けるようになるためだった。
「そっちの事情なんて知ったことじゃない! 服も返してもらったし、さよなら!」
少女は脱兎のごとく走り出し、狭く短く廊下と呼ぶのもおこがましい通路を抜け、玄関へ。しかし歩幅に差があるため、鏑木はすぐに追いつく。それでも、伸ばした腕は少女をかすめて空ぶった。さすが、二人の追っ手を振り切った健脚はダテではないようだ。だが、
「なんのっ!」
空ぶった鏑木の魔手は、玄関口に敷いてあるマットの端を捉えた。そこに足を踏み込んだ少女は、即座に危険を察知したがもう遅い。鏑木が腕を引くのと同時に、少女は時間がぎゅうっと引き延ばされるような感覚を味わう。
「フィーッシュ!」
「ひゃあぁ!」
一気に引っつかみ、マットを吊り上げた。上に乗っていた少女は自分の足がマットに乗ったまま床を離れるのを知覚し、同時に今度は重力という魔手に全身を捕まえられたことを悟る。ああダメだ、と思った時には、顔面を床に叩きつけていた。低い大きな音が、通路の壁まで震わした。
「あ、い、たぁ……」
下はハーフパンツだったのでまだいいものの、上に着ていたTシャツの裾は盛大にめくれ上がり、惜しげもなく白い腰のラインを晒して少女は倒れていた。落下の衝撃は、アパートの隣室には間違いなく轟いたであろう。見れば、少女はそれでもケースだけは手放さず、しっかりと上にかかげていた。
「大した根性だね」
「うっさい、しね、このばか男……」
「そんなにしてまで守るようなものなのか?」
屈んで奪い取り、ケースを開いてみる鏑木。さて中にあるのは白い粉か注射器か、はたまた拳銃か爆弾か。まるで現実味の無いそれら非合法なものが目の前に現れるかもしれない、と鏑木は内心びくびくしていた。が。
青いクッションに包まれて入っていたそれは、狭い通路のオレンジ色の電灯によって薄く輝きを返した。少しずつ開かれる隙間の中で、それは鏑木の驚いた顔を少しゆがめて映しだす。
「……これって」
「きんかん、よ」
柑橘類のことではない。
金管楽器。ポケットトランペットが、そこに納まっていた。
「僕はてっきり、危ない組織から白い粉とかを持ち逃げしたせいで追われてたのかと……で、なにこれ?」
「これは楽器。わたしを追ってたのはそういう道の人じゃなくて、警官。あなたも、追われたんでしょ?」
赤くなった鼻を押さえて、涙目でむくりと起き上がった少女はまたもケースを取り返すと静かにふたを閉めた。鏑木は村田の喫茶店で読んだ新聞に書かれていた、主婦が楽器所持で捕まった事件のことを想起する。ついでに記事の後半に書かれていた、奏音禁止法の概要も。
「え……あのさ。罰金にせよ懲役にせよ、結構きついものだってわかってる? このご時世に音楽活動なんて、正気とは思えないよ」
歯噛みしながら目を逸らす、少女の表情から法律とそれにより定められた罰則については承知しているとわかる。その上で、鏑木の一般論など聞き流しているのだ。当然、鏑木にはわからないような答えが返ってくる。人の考えは、様々だ。
「狂気の沙汰で結構よ。やらなきゃと思ったんだから、仕方ないじゃない」
「そんなものかな」
「あなた、ちゃんとした音楽を聴いたことないでしょ」
「一応法律は守ってるし、法律が施行される前の記憶は持ってないからね。きみもそうだろう?」
パッと見たところ少女は鏑木より五、六歳は年下に見えた。けれど少女は首を横に振って、どこか昔の記憶を探るように上を見る。これほどまでに追い詰められた状況にもかかわらず、その時だけは表情が緩んだ。
「わたしはあるわよ。そしてそれがすごいものだって思った。だのにそれがこの世から失われていくなんて、耐えられないと思ったの」
「……そこまでする価値があるのかな。今の世の中見てみなよ、音楽なんてほとんどないけど別に問題も滞りもなく動いてるじゃないか。僕からしたら、麻薬とかで身を貶めてるのと変わらないように見えるよ」
肩をすくめて宇宙人でも見るかのように少女を見る鏑木。現に奏音禁止法において、音楽というものは人間の精神に変調をきたすために取り締まられているのだ。それは麻薬などが禁じられるのと何ら変わらず、音楽とは縁の無い暮らしをしてきた鏑木には二つの差異がよくわからない。
「ちがう、それ偏見よ。音楽はもっといいものなの。麻薬みたいな扱いしないで」
「国が変われば大麻が合法なところもあるらしいけどさ。法治国家日本では少なくとも禁止なの。第一、たまに許可が下りた楽曲とかが流れることあるけど、聴いてても特に思うところないんだよ」
「それは色々な改竄を受けて元の形が無くなってるから! 国にとって都合のいい形を保った曲にされてるからで、」
「もういい、わかったから。おとなしく警察が来るまで待っててくれ」
耳を塞ぐジェスチャーをした鏑木を見て、少女は顔をくしゃりと歪めた。傷ついた様子の彼女に対して若干の気まずさを覚えるが、鏑木は立ち上がると同時にケースを引っ張った。少女は手離そうとしなかったので、ずるずると引きずって電話機まで歩く。自分も疑われるかもしれない可能性を考慮すると少しボタンを押す手が止まったが、日本の警察の優秀さに懸けようと思い再度指先を動かした。1、1、0と押して、通話ボタンを押そうと、
「ん?」
ケースが軽くなる。なぜ今になって手を離すのか、わけがわからず鏑木は後ろを振り返る。とたんに受話器を取り落とした。本体と繋がったコードの先でぶらぶらと受話器は揺れ、鏑木の顔が引きつる。
開かれたケースの中身、トランペットを少女は構えていた。鏑木にはそれがどう用いるものかわからなかったが、少女の恰好から指先の置かれたボタンのようなものを押して使うのだろうと推察する。どれほどの音が出るのか、どのような音が出るのか、その音が届く距離にまだ警察は居るのではないか。鏑木はぞっとして飛びかかろうとする。
「うごくな」
二度目の命令に、がちりと固まる鏑木。どうしてかその視線に射すくめられると、全く身動きが取れなくなる。目を逸らしたくともそれすら出来ない。先ほどなどは呼吸さえ奪われた。そうして止まった体の内から湧き上がるのはとても久しぶりの感情で、しばらくの間それがどういう種類のものなのか鏑木には理解出来なかった。静かに、少女は鏑木に告げる。
「黙って、聴いててよ」
今度は強制する命令ではなかった。なのに、鏑木は動こうにも動けない。静かに少女は深呼吸した。それが演奏をする前準備なのだとわかっていても、やはり鏑木は動けない。自分の身に危機を呼び込む行動であると頭では理解しているのに、心が頭を含む体を制している。頭と体を繋ぐ部分が混乱していた。
「ちょっと、ストップ!」
「だめ待たない」
「こんなのテロだろ! 自分の考えを僕に押し付けてるだけじゃないか!?」
「あなたもわたしに押し付けてるとは考えらんないの?」
言われて鏑木は口ごもる。その様を見てうつむいた少女は「ごめん、今の卑怯だった」と謝った。思わず「こっちこそごめん」と返しそうになり、鏑木はますます混乱した。
テロというには穏やか過ぎて、思想というには弱すぎる。けれど意志だけは鋼よりも固く。
そこまできてようやく、鏑木は自分の抱いている感情について把握する。
(――単純な恐怖、じゃなく、動揺でもなく)
畏敬の念。様になった、堂に入った少女の姿に、鏑木は思わずそのような感想を抱いていた。少女の薄く開かれた瞳は静謐さと鮮烈さを併せ持ち、手にした楽器と合わせて一個の存在を確立しているように思われた。
「……ほんとごめん。でもわたし、他に方法を知らないの」
「お互いに考えをぶつけあうしかない、ってこと?」
鏑木の問いかけにうなずいた少女は、おずおずと楽器に手を伸ばしたり、ひっこめたりを繰り返す。彼女と引き比べて、自分がずいぶんと矮小に思えた鏑木は、がしがしと頭を掻いて、仕方なく受話器を手に取る。
そして、本体の上に戻した。少女が目を見開く。
「いいの?」
訊ねられても、鏑木は何も言わず身じろぎひとつしなかった。少女は対応に困ったが、選択肢は己に委ねられたのだと気付くと小さく頭を下げ、トランペットを構えた。
やがて、小さく音が響き始める。
高い音が狭い部屋の中を満たした。まずは下地を作るように、いくつもの音が並べられていく。ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ……どこまでも増えていく。少女の指の下でうねるように押されるボタンのようなパーツはたった三個しかないというのに、なんという音の幅広さか。
顔を上げて聞き入る鏑木がさらに思い知るのは、音の連なり。多様に形を変える耳に快い音色は、繋がりを持つことで留まることを知らない広がりを持つ。機械を通した特殊処理を施され、気分が浮き立たないように作りかえられた無機質な音楽とはちがう。
もちろん、現象として言葉に表すならば所詮電子音も生の演奏も等しく「人の鼓膜を震わす空気の振動」で終わりなのだが、それは事実でこそあれ十分な表現ではない、と鏑木は感じていた。耳だけでない、肌に感じる音は体の内側まで響く。どこまでも高く澄んだ音は、階となって夜空に舞う。
言葉では足りないものを伝えるための手段として作られたのが音楽だ、と言われても、今の鏑木なら納得できてしまいそうだった。音を介して伝わる気持ちは、少女の心の在り様を示しているように思われてならない。音と音の隙間に生まれる無音の時間さえ、時に激しく時に静まる演奏の流れ全てを構成するひとつの材料だった。
心が動かされた、ということが、厳然たる事実として浴びせかけられる。音楽を初めて経験したこともそうだったが、何より鏑木は、人がこんなにも何かに打ち込んでいる姿というものに心を動かされていた。
「……ふう」
三分ほどして、少女はマウスピースから唇を離した。茫然自失の体で立ち尽くしていた鏑木は、なんと言っていいやらわからずただただ少女を注視する。
「おそまつさまでした」
「あ、ああうん」
少女から視線を外す鏑木。そうすることでようやく精神が現実に帰ってきたのか、見る見るうちに顔が青くなってゆく。
「あ、ああ、あー! 今の音、隣部屋の人とかに聞かれてたら!」
「西側の二部屋は人いなかったよ。東側は明り点いてなかったし多分寝てるんじゃない?」
「上の階は!?」
「さあ」
「うがぁ!」
半狂乱になって頭を抱えこむ鏑木。すぐそこに絶望の二文字が見えていた。少女はそんな鏑木にそろそろと近づくと、ぽんぽんと肩を叩いて慰めた。
「まだ見つかってないじゃない」
「時間の問題だよ!」
「いや、小さめの音で演奏したから。この部屋の中だと大きく聞こえただろうけど、さっきわたしが転んだ時の音よりは小さいわよ。それに、少なくとも追っ手だった警察には音が届いたりしなかったみたいね」
耳を澄ましても警官が走ってくる音などはしない。油断はできないものの、とりあえずの安心を得たことで鏑木はへなへなと力なく崩れ落ちた。少女は軽く笑って鏑木の横に座り込む。
「ところで、どうだった? わたしの演奏」
自分を指差しながら肘で鏑木の頬をつつく。すっかり疲れた様子の鏑木は、声を出すのも億劫そうにその肘を払った。
「どうもこうも。比べる対象とか知らないから、評価はできないよ。まあただ、少なくともアッパー系じゃないね。ダウナー系の方向で僕の精神に変調をきたした」
「ちょっとやめてよ、そういうなんか麻薬の種類分けみたいな感想」
「事実だ。でも……なんか、聞き入っちゃったな」
それもまたお世辞抜きの事実だった。シンプルな鏑木の感想に少女は笑う。嬉しそうな顔を見ていると、さっきまで自分の中にあった「音楽は悪しきもの」という常識がガラガラと崩れていきそうになるから恐ろしいものだった。
結局のところ、自分にとっての常識などというのは、狭い視界の中に作った偏見でしかないのかもしれない、と。そう思ってしまいそうだった。
「よかったと思ってくれるなら、拍手」
「拍手?」
「ん」
ぱちぱちと少女は自分で手を打ってみせる。つられて数回、鏑木も手を叩いてしまった。
「そう。昔あった音楽の演奏会とかでは、最大の賛辞としてスタンディングオべーションって言ってね、満場総立ちで拍手喝采するっていうのがあるの」
「へえ……」
「そういう賛辞をもらえたら最高よね。……わたしの音楽は観客あってのもの。あなたは、今の演奏聴いてどう思ったのか。それがわたしの音楽にとっての真実だから。あなたがやっぱり禁止されるべき悪行のひとつだ、と思うならもう止めない。警察に連絡するなり好きにしていいわ。わたしはただ、聴いてから判断して欲しかっただけ」
胸を張る少女に、どう言葉をかけるか躊躇う鏑木。二十年以上も積み重ねてきた〝常識〟は法に従うことを主張していたが、今の音楽に対する感想とそれを生み出した心は法に抗うことを望んでいた。たった一度の演奏によりぐらつく自分の精神に、鏑木はなんとなく脆弱さを感じる。そしてそのことに対する後ろめたさが、簡単に判断することを拒んでいた。
黙り込む鏑木に、少女はそれ以上の言葉をかけようとはしない。その態度もまた、鏑木の精神に揺さぶりをかける。鏑木の中では、音楽家というのは武装テロリストと同じく、思想を押し付け他者の迷惑を鑑みない〝悪党〟というイメージしかなかったのだが。少なくとも少女は鏑木自身に選択してもらうことを望み、公平な態度で接しようとしている。
なにより、その瞳を見ていると、大多数の人間の抱く普遍的な意向であるというだけの法律が、いやに薄っぺらいものに思えた。
「……わからないよ」
長い沈黙の後にようやく絞り出した声は、それだけの言葉だった。
どれほど薄っぺらなものに思えても、そうした法律が積み重なって六法全書はあんなにも分厚い。今持っている自分の中の感覚としては音楽を許容したい、という方向に天秤は傾いていたが、長い時間をかけて根付いた法律への意識は、感覚の天秤とは別の秤として鏑木の中にあった。
無理やりにでもその天秤を傾けてしまえば、音楽を許容することも容易いことに成り下がるのだろうと鏑木は思った。未成年で煙草を嗜むことや無免許でオートバイを運転するようなことと同じに、一度やってしまえば「こんなもんか」と鼻で笑うこともできるのだろう。けれどそれはリスクを知らないか、忘れられている場合の話であり。ほんの半日前に警官に追われる体験をした鏑木には、再び警官に追われる未来が、明確に想像出来てしまうのだった。
「そう」
少しだけ残念そうな顔をしながら少女ははにかむ。なんだか申し訳ないような心地がして、鏑木は軽く頭を下げた。
「けど、判断できないから通報もしないよ。よかったかどうかはわからないけど、なんかすごいとは思ったから」
「十分な褒め言葉をどうもありがと」
茶化すように言って、少女はトランペットに視線を落とす。少しの間、電灯の光を照り返すその表面を撫ぜていた。そして腕時計を見て、ばね仕掛けのように勢いよく立ち上がる。
「だいぶ時間おしてるのね……それじゃ、そろそろ逃げるわ」
「逃げるんだ」
「いつかの勝利のための遁走よ。あ、いいねこのフレーズ。〝いつかの勝利のための遁走曲〟」
うんうんと一人頷いて、トランペットをケースの中に仕舞うと小脇に抱える。ポケットから取り出したメモ帳に今のフレーズを書き取りながら玄関に歩いていき、スニーカーを履いて爪先を床に蹴りつけた。
「それじゃあね。もう遭うことはないかもだけど。あ、もし警官に何か訊かれたら、昼のことも今あったことも『脅されてやってました』で済ませといてくれればいいから」
「そんなことしたら余計罪が増すだろ」
「かもしれない。でも、わたしたちの活動って険しい山を登るっていうより、断崖絶壁を転がり落ちるのに似てるのよ。どんなに活動が実を結んでも、たぶんわたしたちが辿りつくのは奈落の底。世間にもてはやされるエベレスト登頂、じゃあないのね。だから重荷が増えてもそんなに変わらない。堕ちた時、ああこんなに背負ってたんだと思うだけ」
あっけらかんと言い放ち、あっさりしすぎたその態度に鏑木の方が困惑する。ついさっきまで自分も彼女を追い詰めようとしていた側なのに現金な奴だ、と自己嫌悪に陥った。その間に、少女はドアの鍵をひねって外に半歩踏み出していた。
「曲聴いてくれてありがとね。普通の人なら大体、聴かずに石投げてきたりするから。一般の人に聴いてもらえたのは久しぶりで、嬉しかったわ」
「ああ、うん」
「じゃ、さよなら」
ぱたぱたと夜道に消える足音は、ドアが閉じるとほとんど聞こえなくなった。
リビングの掛け時計を見ると時刻はとうに真夜中。問題はこれでほぼ全て片付き、再び退屈な時の流れが部屋の中に流入した。
本日は月曜日。だが今日も明日も鏑木に予定は無い。
「……寝よう」
空しい気分を無心に眠ることで埋めようと、ごそごそ布団にもぐりこむ。せっかく酒を呑んだにも関わらず、身体には酔いの代わりに疲労感だけが沈殿していた。けれどそのおかげですぐ眠りについた。
耳の奥では先ほどのトランペットがいまだ鳴り響いてるような気がしたが、夢も見ないほど深く眠り込む。不採用通知の届く夢を見ないのは、久しぶりのことだった。
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一ヶ月数万円無職生活、何日目だろうか。
終わらない春休みがこんなにも退屈で恐ろしいものだとは鏑木は思ってもみなかった。好奇心は猫をも殺し、退屈は人をも殺す。明確な目標がなく、生活リズムを刻むものもなく、ただ漫然と時間が過ぎてゆく。割と近所にあるハローワークに行ってはみたものの、いまいちぴんとくる仕事はなかった。というよりも、どこも断られそうですよと遠まわしに言われたのだ。心を折られた。
「完ッ全に無職じゃねぇかお前。やる気あんの?」
「あったけどなくなっちゃったよ」
「今からでも、専門学校に行くって手もあるぜ」
「手に職とか無理、ホント無理」
「このダメ人間が!」
「うるさいなフリーター」
不毛な言い争いをアトリ相手に繰り返す。そんなことをしても関係性が崩れないのは、口では悪態をつくものの、実のところアトリは鏑木の堕落をやむなしとも思っているからだった。アトリは高卒で働き始めたクチだが、最初の仕事場で首を切られた時、今の鏑木と同じくらいに大きな挫折を味わっていた。
「で、話に気を取られたと思ったらクソ、またソニックブームかよ。こっちはリーチ短いってのによくそんな残虐ファイトできるな」
「戦略に文句つけないでほしいな」
テレビ画面を見据えつつ格闘ゲームに興じる二人は、完全に現実から目を逸らしていた。外ではスズメが鳴いており、まだ朝が訪れたばかりの時間帯。もちろん、ゲームは今始めたばかりというわけもなく、昨日の夜中からずっとやり続けている結果だ。いやな感じにハイになった人間特有の、笑みとも苦悩ともつかない表情がその証。
「次はお互い弱パンチだけな」
「投げ技はアリにしようよ」
プレイ内容に制限をつけての勝負。もはやゲーム自体に飽きていることは明白なのだが、二人共意固地になっていた。そんな二人に、珍しく来客があった。ピンポン、と安っぽい電子音が鳴り、鏑木は顔をしかめる。コントローラを床に置いて、立ち上がった。
「勝手にはじめるなよ」
「やるわけねーだろ」
ゲームを一旦中断して、玄関に急ぐ。魚眼レンズの向こうを見ると、人影はなかった。
「どしたン?」
「いや……なんか、ピンポンダッシュされたみたい」
「あっそ。じゃあ始めようぜ」
よっこいしょと座りなおし、鏑木はコントローラを握り締める。そしてスタートボタンを押そうとしたところでぴたりと動きを止め、再び玄関に向かって走る。アトリは怪訝な顔をした。
「おーい、どうしたんだよ」
「ノックする音が聞こえた」
「はあ?」
ドアチェーンを外して開けようとすると、ドアが重くて開かない。もしやと思いリビングに移動して、キッチンの上に身を乗り出して表通りに面した曇り窓を開け、ドアの前を見る鏑木。
そこには、力尽きたようにドアの前に横たわる物体があった。魚眼レンズの死角、真下に転がっていたのだ。
「……アトリ、そこの窓から庭に出て、ドアの前に居る奴起こしてきて」
「ああ? なんだ、またあいつかよ」
鏑木の嫌そうな口調から、アトリに思い当たる人物は一人しかいない。アトリは背伸びしつつ備え付けのサンダルを履いて、表に回る。
「そう、あいつ。野良猫だ」
だるそうな顔で、鏑木はそう呟いた。
「あ、う、おなか、すいた……」
「それはわかったけどなぁ、その前に風呂入れそして着替えろ」
「アトリ、僕は貸さないから。着替えはお前が用意しなよ」
玄関からアトリに引きずられてきたのは、どことなく薄汚れた上下緑のジャージに袖の余った黒いカーディガンを着た人物だった。肩にかからない長さだが跳ね放題散らかり放題の頭髪も砂埃がついていて、常時半目の瞳の下には薄くクマが出来ている。どう見ても、怪しい。
「こんなんなるくらいならもうちょい早く来いって前も言ったろーがよ」
「ごめんー、わすれてた」
少々ハスキーな声で喋るものの、前述の理由で腹に力が入らないのか声に張りがない。そのままずるずると脱衣所まで連れて行き、一旦放置したアトリは冷蔵庫からゼリー飲料とチョコレートを持って戻る。
「それうちのものなんだけど」
「あとで金払わせりゃいいだろ。おら瀬古起きろ、メシ持ってきてやったぞってお前まだ脱ぐなよ風呂沸いてねーよ恥じらい持てよ!」
「へ? ああー、ごめんー」
キッチンに居る鏑木からは見えないが、アトリはなにやらまずいものを見たらしいということだけは音声で確認が取れた。
瀬古奈々子は市内を転々と渡り歩きながら暮らしている少女で、ひょんなことから鏑木ら二人の知り合いになった人物である。彼女の主な収入源は空き缶拾いと古本拾い……というところからもわかる通り、自宅と職が無い。そして変動の激しい収入であるせいか時折完全なる無一文になるらしく、そうなると決まって星ヶ丘にある鏑木たちのアパートまでやってくるのだ。
「食事はあとでもいいだろう、風呂にしたってどうせシャワーしか浴びないだろうし」
「今のこいつふらふらだぞ。浴室の中で倒れかねないっつの」
「……だいじょーぶ。死にはしないからー」
余計不安になりそうな発言を残して、浴室の扉を開閉する音がした。戻ってきたアトリは鏑木と目を合わせて、はあーと深く嘆息した。鏑木は冷ややかな目でそれを見ている。
「上行って適当なシャツでも持ってくれば? その間に僕があのジャージとカーディガン洗濯しておくよ。もちろん有料だけどさ」
「有料っても、いつ取り返せんのかわかんねーけどな。前にこうやって来た時の負債、まだ残ってるだろ」
「有料といっても労働で返してもらってるからね。前回は途中で逃げたから、総額四〇〇〇円くらい残ってる。でも今日から日給四〇〇円で働いてもらえば、十日で返せるんじゃないかな? 今のゼリーとチョコの代金で既に負債が三〇〇円増えたけど」
「……ひょっとしてお前怒ってる?」
「べつに。ただ、こっちも収入無いのに人を気遣う余裕はないんだよ」
むすっとした顔で唸る鏑木。恒産無き者は恒心無し。その言葉の意味を深く叩きつけられたアトリは、苦笑いするほかない。それから、上の階の自室に着替えを取りに行った。
風呂から上がって出てきた瀬古は、上気させた頬にチョコレートとゼリー飲料を詰め込んでリビングに現れる。着ているのはアトリが二階から持ってきたスウェットシャツとパジャマのズボンだが、アトリの背が低いためこの場で一番背の低い瀬古でもそれなりに着こなすことが出来ていた。
体を洗い、少し雰囲気も明るくなった瀬古だが、眠たげに開かれた目とその下のクマ、そして生来のものらしい猫っ毛はさっぱり治っていない。その髪をタオルでこすり上げるように拭きながら、椅子に座る鏑木の横にひょこひょこ歩いて来た。
「お湯、さきにいただきましたー」
切羽詰っていた先ほどまでとは違い、のんびりと間延びした声で礼を言い、鏑木に頭を下げる。それに対し鏑木は腕組みして口角を思い切り下げ、眉根を寄せた。
「入浴料一五〇円」
「ところで牛乳あるー?」
「牛乳代一三〇円」
「ありがとお。でもほんとーはコーヒー牛乳がよかったなー」
「ミルメーク一袋二〇円」
「わあ。給食以外で見たの、初めて」
料金提示しかしない鏑木のせいで微妙に会話が成立していない二人。鏑木は机の上にあった小さめのバスケットの中から、牛乳に混ぜて味付けをする粉末調味料を数種類、瀬古に突きつけていた。アトリはそれを見て指折り、種類を数えてみる。
「ひいふうみい……つーか好晴、お前何種類持ってんだよそれ……」
「コーヒー・バナナ・イチゴ・きなこ・ピーチ・メロン・ココア・抹茶きなこの八種類だけだよ」
「毎日違う味にしてもまだ余るじゃねえか」
「僕は牛乳好きじゃないんだけど、これ混ぜたものは好きなんだ」
「味覚が子供のまま止まってんじゃねえの、お前……」
「わたしはフルーツ牛乳のほうがすきー」
「あれは鼻につくから僕は好きじゃないな」
言い合いしながらも三人はそれぞれコップに注いだ牛乳にミルメークを溶かし込み、飲み干し、はー、と一息ついた。
「なつかしー味だねぇ」
瀬古がつぶやき、鏑木とアトリは軽くうなずく。だが鏑木は雰囲気に飲まれて流されかけていることに気づき、かぶりを振って瀬古をにらみつけた。
「あーもう、さっきから人の家のもの飲み食いして。タダで済むと思うなよ、この野良猫」
「またそう呼ぶー。わたし、瀬古。猫じゃないよー」
「うるさい猫で十分だ。お前の抱える負債額、これで四六〇〇円なんだよ。早く勤労奉仕して返せそら返せ早く返せ頼むから返せお願い返して」
命令する側であるはずなのに、弱腰というか泣きつくような表情で鏑木は言う。日に日にデッドラインが近づいてきていることを実感している彼の目には、四六〇〇円というのはかなり大きな金額に映っていた。ところが瀬古はそんな鏑木に向かって半笑いで頭を掻き、ぼそぼそと彼女自身の懐事情を述べる。
「いやーあ。それが最近、缶があんまり落ちてないんだねぇ。どーも、わたしが来る前にほかの人にとられちゃってるみたいー。だから古本拾いでお金つくろーとしたんだけど、ここのとこ雨ざーざーだったでしょ」
「売れるような状態じゃなくなってた、っつーことな」
「うんー。きのうは晴れたけど、そしたら今度はさむくなってー。二日もごはん食べてなかったから、たおれそーだったの」
「だから来たと」
「そー。わたし文無し、あなた金貸し」
立てた人差し指を自分に向け、次いで鏑木に向けた。その手を払いのけながら鏑木はしっしっと蝿でも追い払うような所作をしてみせる。
「うちはアトリに加えて余計なペット飼う余裕はないよ」
「ちょい待て今の問題発言だぜ」
「四六〇〇円置いて帰ってくれ」
「おい無視すんな」
「りょーかい」
了解と言っても金ないだろ、と首をかしげる鏑木とアトリ。瀬古は二人の前でスウェットの胸元に手を入れると、首からぶら下げていた家内安全のお守りを引き出す。そしてその中に指をつっこむと、中からくしゃくしゃになった新渡戸稲造の顔が見えた。驚く鏑木にそれを差し出し、瀬古は大あくびをかます。
「利子つけてかえすね。ほんとーは一万円にするつもりだったけど、さすがにそれは無理でした」
大したことでもないように言うが、あっけらかんとした瀬古の表情を見て鏑木は心底驚いていた。その日暮らしの身の上でこつこつ貯蓄をしていくというのは想像を絶する忍耐力と倹約精神とが必要になるはず、ましてや今の瀬古は鏑木の自宅前で倒れるほどの空腹とも戦っていたのだ。それすなわち生存本能との闘争にさえ〝鏑木への借金返済〟を打ち勝たせたということであり、それはもはや人間のやることではない。
「……お前のことが時々怖くなるよ、僕」
「ちゃんと返したのにぃ。そのいいぐさはひどいー」
「そりゃそうだけどさ。……いやそもそもお前が借金するから悪いんじゃないか」
正論を言われて追い詰められるとばつが悪そうに苦し紛れに笑い、瀬古は鏑木から視線を逸らした。それでも鏑木の視線は瀬古から外されない。じっと見据えて逃さない。
「だいたいなあ、お前そんなナリしてるけど十七歳の女の子だろう。路上とかで生活するのはリスクが大きいんじゃないのか?」
「え? それ、どんな意味?」
「どんな意味ってそれは、あれだよ、あれ」
「あれ、って?」
聞き返されて、説教を行う予定だった鏑木は言葉に詰まる。さて自分はどういう意味で瀬古の行為が背負うリスクというものを考えていたのか、と思い返してみると、それは少し口にするのは憚られるものだった。横を向いて、鏑木はアトリの肩を叩く。
「どんなって、ねえ……アトリ。頼むよ」
「おう。要するにだな、たとえお前みてぇな奴相手でも時として男は欲求に負けてしまうこともあるのだよって何言わすんだこのやろう」
「このようにアトリはのせるとすぐ引っかかる。多分自分から崖っぷちに突っ込むことであっても、一時目立てればそれでいいタイプなんだろう。これも一種の欲求に従うってことかもね」
「清水の舞台に飛び乗るタイプってか」
「それ、まちがってるねぇ」
瀬古につっこまれ、アトリは首をかしげる。どう見てもアトリの方が年上なのだが、語彙量は瀬古に劣るらしい。鏑木は悪友を憐れみの目で見つめた。そこで瀬古は、得意満面の顔で続ける。
「清水の舞台だよー」
「お前……」
鏑木はそのまま瀬古に視線を移した。
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「いまの世の中、あんていしたお仕事なんて公務員だけだねー」
瀬古が言う。
朝日が昇ってだいぶ経った。ゲームをやり続けていたため間食程度しか腹に入れていない二人と、倒れるほど空腹だったため当然まだまだ食べ足りない瀬古を加えた三人は、徒歩一〇分のところにあるファーストフード店へ向かう。座った席は窓側で、外に見える地下鉄への出入り口には、出勤や登校のためにやってきた人々が吸い込まれてゆく。働き蟻のようだった。
「そして職業安定所では精神が不安定にさせられる。病んだ時代だよ」
「ハロワのことまだ引きずってんのかよ。俗世のことは気にすんな、俺たちは俺たちだろ」
「そーそー。けど、あとりみたいになりたくない気持ちはわかるー」
「テメエ俺をどういう目で見てやがる」
「反面きょーし、かなぁ」
「アトリを指す代名詞はよく言えば自由人、悪く言えば規格外、だからね」
適当に会話しつつ、通常サイズより大きめのハンバーガーを小さな一口を繰り返して割と行儀よく食べる瀬古と、ぱくぱくとポテトばかり口に運ぶ鏑木。二人から嫌な称号を授かりうんざりした顔のアトリは、ヤケになってやたらと食べた。普通サイズのハンバーガーが四個ほど、アトリの胃袋に消える。ポテトもMサイズのものがひとつ消えた。
「クソ! フリーターを脱出したらお前らのことめちゃくちゃ見下してやるからな!」
「おおう。現実を見ずに夢をかたる若人だねぇ」
「お前の方が若いだろう。しかしまあ、夢が定職獲得っていうのも、器の小さい話だよね」
鏑木にざくざくとものを言われたアトリの心は引き裂かれ、出血多量で瀕死に追い込まれた。
「でも今は仕事につけない、って話をしてる最中じゃなかったっけか?」
「うんー。どこもやとえるほど景気よくないみたいー」
放置に移行して話を戻した二人の態度は、アトリを視界から締め出していた。あまりの扱いの悪さに、アトリは机に突っ伏して泣き始める。
「日雇い労働でさえ見つからないとはね。僕が採用試験で落とされたのも、景気が原因か」
「景気のせいばっかしにするのもだめでしょー。どこかにかぶらぎも悪かったところあるかもしれないよ……あ、そーだ思い出したぁ。わたしが今日きたのは、もうひとつ理由あるの」
「借金返済と、朝食たかりに来たんじゃないの?」
半ば以上真剣に鏑木はそう言った。すると瀬古はなにやら寂しそうな目をして溜め息をつき、うつむき加減の上目遣いに鏑木を見る。そうすると目の下のクマやら顔の陰影が濃くなって少々不気味だったので、鏑木はデコピンで瀬古の頭を上げさせた。額を押さえて涙目になりつつ、瀬古は理由を述べる。
「ちーがうー。ちゃんと利益のある話。いま、かぶらぎはお仕事もなくてたいくつしてるって聞いたからー」
「退屈はしなくなるってことか」
「うんー。でもあとりは……あー、やっぱたいくつしてそーだし、ちょーどいいと思う」
「おいこらテメエ、俺はきちんと労働やってんだよ。お前ら無職の退屈と一緒にすんな」
今度は鏑木がうつむいた。うなだれしおれた頭に瀬古は手を伸ばし、すりすりと慰めるように撫でる。アトリは居たたまれなくなって、ごほんと小さく咳払いをした。と、地の底から響くように低い声音が、アトリの耳だけにはっきりと聞き取れる声量で発される。
「アトリ、目くそ鼻くそを笑い五十歩百歩の距離をとりどんぐりと背比べする気分はどんなものなのかな」
「とうとう好晴が自虐を俺への攻撃手段として用いることが出来るようになっちまったよ! こんな男に誰が変えた!」
「社会と政治だよ」
ふふふと笑う鏑木は突如として冷笑主義に目覚めてしまったのではないかと思わせるほどに冷ややかだった。アトリには慰めの言葉が見つけられない。気まずい沈黙が席の間に沈殿した。
……だいぶ逸れてしまった話を仕切りなおそうと、瀬古がぱんぱんと手を打ち鳴らす。
「ともかくもー、しごとが見つからないなら時間あるでしょぅ」
「これでも就職セミナーとかあるんだよ」
「そこに行ったからってかくじつに仕事につけるのー?」
微妙に痛いところを突かれる。実のところ確実な就職先などというものはこの世には存在しないと言ってよい。「内定出たよ」というのに似た電話が入った企業からも、最終的に鏑木が受け取ったのは不採用通知だった。そう考えると、セミナーなどに足しげく通っても明日のごはんは食えるのだろうか? そんな疑心が鏑木のなかで芽生えた。だが。
「でもお前の今から薦めようとしてるそれも、決して給金入るわけじゃないだろう?」
安定を求める鏑木の心の城壁は堅固だった。ところが、瀬古は首を横に振る。
「んーん。バイトみたいなものだからー、お金もらえなくもないよぅ」
「け、けど将来の就職口というわけじゃない」
「働きしだいでは社員になれるかも、ってきいたけどねー」
鏑木は目を閉じた。大きな衝撃を受けたような心持ちだった。
対面に居る瀬古に向かってわずかに身を乗り出し、机に肘をつく。黙ってしばし考え込むように見せるが、心の中ではだいぶ押され気味だった。とりあえず話だけ聞いてみるか、と思い、目配せして続きをうながす。うなずいた瀬古の方も辺りを少しうかがうようにして、それから鏑木の方に身を乗り出して手で周りから口元を隠す。小声でぼそぼそと、ごく近い距離だけに聞こえるように話し始める。
「……おっけー。じゃ、話すよー。ただまず最初に、かんこー令をしきます」
緘口令。他言無用・口外禁止ということである。つまりそれは社会的にまずいことや危ないことが会話内容に含まれることを示す。それを聞いた鏑木は少し尻ごみして、口の端を引きつらせながら瀬古に問う。
「えっと、それは――非合法なことをやるの?」
「いちおう。つかまったら、罰金か懲役」
そこまで聞き終えて、鏑木は一旦机から距離をおく。最初の一言からしてすでに、爆弾を抱えることになりそうな発言だった。アトリも聞こえていたのか、腕を枕にしていた体勢から顔だけ上げた。男二人の表情は硬く、口も真一文字に引き結ばれている。鏑木は机の下で組んだ指先を見つめて、それから瀬古の眠そうな目を見た。
「……あのさぁ、猫。お前は裏通りとかも含めた薄暗い方の街の住人だけど、これまで僕らはそれなりにうまく付き合えてきた。初対面のときを除けば、特にお互いの環境とか状態も気にせず。そうだろう?」
「うん」
まじめでしっかりした表情で瀬古はうなずく。鏑木もうなずき返して、続ける。
「そのわけは、お前が悪いことだけはしない奴だったからなんだよ。金無しでもお前は真っ当に生きてた。そうでなきゃ知り合いになんてならないよ。だからこそ、いくらお前の薦めてくることでも、僕は犯罪とかには手を染めたくない。まだお前も手を出してないならやめておけ。けど、もうやっちゃってるなら自首しな。僕ら、ついていってやるから」
静かに諭す。アトリも鏑木に意を同じとしていたため、身を起こして軽くうなずく。瀬古の方はというと一言一句漏らさず聞き終えていたようだが、真摯な声音に押されたのか、机から離れる。
そして椅子の背にもたれかかって、ぼーっとした顔で天井を見上げた。うつらうつらとした目は、しかし力が失われているわけでも危ない光を湛えているわけでもない。澄ました顔して危ない奴、という人間も往々にして居るものかもしれないが、それにしても瀬古の姿は鏑木も見慣れたいつも通りだった。なにか犯罪の匂いがするものに触れていたような痕跡はない。
しばらくはそうしていたが、やがてゆっくりと顔を天井から鏑木の方へ戻し、長すぎて余った袖口を振り回すように鏑木に向ける。思わずぞくりとして、なぜそんな感覚をおぼえたのかわからずにかぶりを振る鏑木。瀬古はゆっくりと口を開く。
「でも」
「なにさ」
「いっしょに警察いったら――かぶらぎも、つかまる」
見据えられ放たれた一言で、息が詰まる。吐く息も呑む息も凍りつき、停滞した。
「何言ってんだお前。好晴は別になんもしてねーだろ」
アトリは突っ伏したまま、訳がわからないという顔で瀬古を見上げた。ところが横を見て鏑木の表情を見ると、なにやら様子がおかしいということに気づく。
鏑木はいまだ生々しい鮮烈さで残っている、警官に追われた記憶を思い返していた。だがそのことを話すとその後の出会いについても触れてしまいそうなので、アトリにすら話していなかったはずなのだ。
追われたことと、追われた理由。その二つは不可分なものであり、同時に犯罪の匂いを漂わせるもの。そこで臭いものにはふた、ということで鏑木はそのことを誰にも話すことなく、ここ数日を過ごしていたはずなのに。
もし仮にあの日警官に追われていた男が居たということを人づてに瀬古が知ったとしても、それが鏑木であるとまではまず判明しない。そうだ、あの時のことを正確に知っているのは、追われた鏑木の名前や居所までつかんでいそうなのは、たった一人だけ。
「瀬古。お前、あの女を知ってるのか?」
「さあねぇ。わたしが知ってるのは、団長ってよばれてる女の子。わたしよりちっちゃくて変わってるけどー、でもすごい人」
――〝すごい〟その言葉は、鏑木が彼女の演奏を聴いた時に言ったものだ。良し悪しがわからずとも、圧倒されるひとつの大きなもの。山のようにそびえる、彼女の思いや信念、信条。そしてそれらを伝える手段であり目的である、音楽。鏑木は瀬古と、彼女に対しての感覚を共有していることを知り、少なからず戸惑いを覚える。
「おいおい、俺だけ話が見えねえよ……いったいどういうこった? 好晴、お前もなんかしでかしちまってんのか?」
「そーいうこと。だからわたしを自首させようとしたらー……かぶらぎのことも話すね」
困惑するアトリを置き去りにして、二人の間で鋭い空気が生まれる。互いに突き刺し合う痛ましいその空気は、誰かが口を開くたびにより鋭く研ぎ澄まされてゆく。
「脅しか」
「言っとくけど団長のかんがえじゃないよー、わたしがじゃまされたくないから言うだけなのね。あわよくば二人もひきこめたら、ってかんがえてたけど。無理みたいだからなぁ」
「おい好晴お前何やったんだよ」
「音楽活動につかう楽器をはこぶお手伝いを、しちゃったんだよねー」
今にも笑い出しそうな目をして、瀬古はカーディガンの袖口で口元を隠す。アトリは何も言えず、ただただ呆れたような困ったような顔をするだけ。鏑木の胃が、朝から重たいハンバーガーなどを食べたから、という以外の理由でしくしくと痛んだ。黙り込んでしまった鏑木をおいて、今度はアトリと瀬古が対話を始める。
「つーかよお、それってホントに利益なんてあんのか」
「あれ、あとりの方はやる気だしてくれた?」
「違うっての。俺にしろ好晴にしろお前にしろ、生まれてこの方音楽ってのは危険物として取り扱うように教えられてきただろうが。しかもいつだったかのテロの後にも規制はさらに強化されて、今や懲役刑にまで発展してやがる。そこまでリスクの高いもんに挑戦して、どんだけのリターンがあるってんだ」
アトリはいまだ迷いの抜けきらない顔で問いかける。彼も今の瀬古の顔を見ていて、悪いものにハマっているようには思えなかったのだ。
瀬古は語る。
「おっきなリターンだよぉ。やりがいが、あるもん」
「他には?」
「ない」
「ねぇのか…………は?! ねぇのか、それ以上! ないのかそれ以外!」
「なーし。けどねぇ」
いいものだよ、と頬を綻ばせる。
嘘偽り、まやかしのない感情の発露がそこにはあった。それだけで毒気も怒気も抜かれ、張り詰めた空気が静かに緩む。アトリは深く溜め息をつく。重ねるように鏑木も溜め息をついて、二人して横目で互いを見合わせる。
「おい、どう思うよ」
「今の猫の感情は悪いものではなさそうだけどね」
肩をすくめて鏑木は言った。アトリは頭の後ろで手を組んで、眉根にしわを寄せて唸る。
「でも犯罪ってのはなぁ、片足突っ込んじまったらもう抜け出せねえじゃん。わりーけど俺、今頭の中いっぱいいっぱいだぜ。つーか好晴よぉ、お前もどういう経緯でそんな運び屋みたいなことしちまったんだよ」
「偶然とかいうよくあることがいくつか重なって起こってそうなっただけさ」
「そうかい。相変らず不運なことで」
「いえいえ、お前ほどじゃありません」
再び溜め息が長く細くたなびいた。鏑木はどうしたものか、と眼前に居る瀬古に視線を浴びせかけるが、答えを返してくれるはずもなし。
「このまま放置か、猫についていくか、それとも捨て身で犯罪検挙と乗り出すか」
「お前無職の上に前科まで上乗せしてどーすんだよ。周りへの心証悪くなりすぎて、ホントにこれからの人生波風だらけだぜ」
「もうあの時道を右折した瞬間に、波風だらけの道に足を踏み入れちゃったような気もするんだけどね。……ま、そういうことだから僕はどうやらきれいに逃れることは出来ないらしい。退くにせよ進むにせよ、ある程度覚悟は決めないとならない。その点、アトリ。お前はまだここで黙って引き返せるんじゃないか」
「あん? お前、瀬古についてくってのか? らしくもねぇ。普段だったら適当に放置すんのが常道じゃねーか」
「そうそう、それがいつもの僕のやり方なんだけどさ。今日のところは、見てから判断しようかなと」
「らしくねぇ」
半笑いで言って、コップの中にあった氷を噛み砕くアトリ。鏑木はまた一本ポテトをつまんで、それをかじりながら自分の放った言葉を再度口の中だけでつぶやき、飲み干す。『見てから判断しよう』。それは、あの日部屋に侵入してきた少女が鏑木に向けた言葉とよく似ていた。
少女はあの時言った。『聴いてから判断してもらおう』。
「感化されちゃってるのかな、すでに」
「なんか言ったかよ」
「別に」
「で、どーするの? ふたりはー、わたしと来るの?」
瀬古は机に頬杖ついて二人の言葉を待っていた。鏑木はこちらをにらむように見据える瀬古から視線を逸らし、床にある汚れに焦点を合わせながら手探りでまた一本、ポテトをつまむ。それの先端で瀬古の方を指しながら、軽く笑って答えを返した。
「一度行って見てから考えるよ。……どうせ暇だからね」




