プレリュード 開幕直後のランナウェイ。
奏音禁止法概要
:音楽(二十七音以上の規則性を持つ音の連なり)は聴く者に精神異常を引き起こすものである。よってこれを生み出す楽器・楽譜の所持、製作、携帯、譲渡、貸与、販売、拾得の一切を禁じ、これを犯した者は一千万円以下の罰金または四ヶ月以上三年以下の懲役に処す。また、無許可で楽曲演奏を行ったものは三千万円以下の罰金または一年以上五年以下の懲役に処す。
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運動部やスポーツクラブに所属する人間はともかくとして、帰宅部や文化部に属する人間というのは中学校にあがったくらいの頃から格段に運動量が減る。なぜかはわからないが、小学校までは普通に外で走り回り鬼ごっこや缶蹴りといったメジャー遊戯に興じていた少年少女も、ふと気が付くとインドア生活に浸ってゲームや駄弁りに精を出していたりするからだ。
別段それは悪いことというわけではないのだが、とにかくそういう生活になると「走る」ということが少なくなる。全力疾走など、通学の際にバスや地下鉄に己の身を滑り込ませるためのみの技と相成る。そして普段は運動しないというのにそのような酷使をしたがために、翌日は筋肉痛になるというのもままある話だ。
さて、そのように運動不足の人間にとってどのような運動が一番辛いのか。
答えは『全力で走り続ける』である。
「――目標、現在は錦通本町を南下中」
生まれてはじめて警官を敵に回した青年は、自分はなんら悪いことをしていないのに逃げたくなる心情というものを理解した。この無意識に感じる焦燥のきっかけとなったのは、やはり制服の持つ威圧感というものだろうか。ともかくも、威圧感と恐怖に背中を押されるようにして、青年はひたすら逃げる。
彼の片手にはジュラルミンケースがあった。やたらと重たいその箱は、追われていることと捕まることへの恐怖とが相まってさらに重たさを増していく。ばたばた、と聞こえるのは背後に迫る警官の足音か自分の心音か、酸素が枯渇しはじめた青年の頭ではもはやそれすら判別不可能になりつつある。
なのに、脳内を駆け巡るのはたったひとつの言葉を叫びだしたいという衝動。叫んだらそれこそ確実に酸欠になって倒れるだろうが、それでも構わないとさえ青年は思っていた。
(どう、してっ! なんっ、でっ、逃げなきゃ、いけないっ?)
本能のままに叫びだしそうな気持ちを押し殺し、心の中でのみ犬歯をむき出すように叫ぶと、ぐるぐると現状に至るまでの回想がはじまった。
事は今現在彼が大事そうに抱えているように見える、本心としては大切でもなんでもない、ごく一般的なこのジュラルミンケースに端を発する。
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「また捕まったんだ」
コーヒーを飲む片手間に新聞を読む鏑木好晴は、誰にともなくつぶやいた。狭いが居心地の良い喫茶店の奥は、昼のピーク時を過ぎて店主が暇を持て余しはじめたあたりから、鏑木の指定席となる。普段の鏑木ならそこでひとしきり文庫本でも読んで帰るのだが、今日は新聞を手に取り、しかも一面以外の記事を読んでいた。そんな鏑木を店主がひょいと見やって、驚く。
普段は新聞を読むといってもテレビ欄とその裏の四コマ漫画にしか目を通さないはずの鏑木が、がらにもなく熱心に記事を読んでいたからだ。客がいないことを確認してから、店主はカウンターの中から出てくる。
「どこのこと言ってんだ?」
「聞こえてたのか。ここだよ、ここ」
店主の村田安治は鏑木の叔父である。一八〇センチ近く上背があり、熊のように濃いひげと短く刈り込んだ頭髪、そして若い頃から徹底して鍛え上げた肉体のためにとっつき難い外見だが、笑うと柔和な表情も見せるため一見さんを除けば客受けは悪くない男だ。村田はカッターシャツの襟を緩めつつ腰の黒いエプロンをはたき、テーブルに片手をついて鏑木の指差す記事をのぞき込んだ。
テレビ欄の裏、四コマ漫画が掲載されているのと同じ頁に、大きめのフォントで書かれた『主婦が弦楽器を不法所持』の見出しがあった。呆れまじりに笑って、鏑木は腕組みする。
「あーあー。罰金にせよ懲役にせよ、きついだろうな」
「不法所持していたのは〝バイオリン〟か。これは俺も聴いたことねぇなぁ」
「おじさんはナマの演奏とか音色、聴いたことあるんだよね。僕なんて法律が改定されて施行された頃一歳だったから、聴いたことあるかもしれないけどさっぱり覚えがない」
「経験があってもだんだん記憶は薄れてくもんだ。今じゃほとんど思い出せやしねぇよ」
村田は机の上から角砂糖の入った小瓶を取ると、白い正方形の塊をひとつ取り出して口に含んだ。鏑木もそれにならうようにして、かりかりと甘味をかじる。
「早いもんだ。あれから二〇年、気づけば世紀末を乗り越えてやがった。一九九九年に世紀末を前にして世界滅亡ー、なんつって騒いだ時期もあったってのによぉ。知ってるか、ノストラダムス」
「……あの大嘘吐きのトンチキ野郎か。ちゃんと世界滅亡してれば僕はこんな沈んだ気持ちにならずに済んだのに」
なにやら思うところあるのか、鏑木は途端に不機嫌そうな表情になる。その表情の理由を知る村田は、縮こまった鏑木の肩をぽんぽん叩きつつ大笑いした。
「そんなに気にすんなよ。大卒ですぐ就職出来なかったくらいでは死にゃしねぇんだ、一年の間はアルバイトでもやって過ごせ」
励まされ、鏑木はさらに沈んだ気持ちになった。両腕で深く抱え込んだ頭の中には、つい数日前の悪夢が再生されている。採用試験を受けたほぼ全社から不採用通知が届き、愕然としている鏑木に電話がかかってきたあの瞬間。「ひょっとしたら最後の一社からの採用通知……」などと一縷の望みを懸けて受話器を手に取った鏑木は、次の瞬間に崩れかけた。
受話器から聞こえしは学友たちの「俺受かったよ」「受かった」「受かった、飲みに行こうぜ」という言葉、言葉、言葉。もちろん彼らは悪気などなく、鏑木がとうに受かっていると思いこんでいただけだそうだが、張り詰めていた緊張の糸が切れた鏑木は二日間寝込んだ。ちなみに追い打ちのように、最後の一社からも不採用通知だけが届いた。弱り目に祟り目だ。
脳内の回顧録が止まる。悲しみから生まれる震えを押し殺して、鏑木は村田を見上げた。
「この店でバイト、じゃ……ダメかな?」
「ダメだよ。俺ぁ独身で自分さえ食えりゃいいからなんとかなってんだ。この上余分に人を雇えば俺が食えなくなるし、何より骨董が集められなくなる」
「ちょ、ちょっとまて。僕の重要度はガラクタ集めの趣味以下か」
「趣味ってのは何にもまして優先されるもんだろ」
「ぬぅ……道楽オヤジ。だから結婚できなかったんだよ」
鏑木が舌打ちしてから悪口を吐き出せば、村田は鼻で笑って反論を口にする。
「好晴、俺は『できない』んじゃなく『したくない』だけだ。むしろ俺からしたら世間体なんざを気にして、自由をドブに捨ててまで束縛が欲しい奴らの気が知れんよ」
「いや、その束縛を欲した人がいた結果、今ここに僕がいるんじゃないの?」
「…………俺の兄貴はマゾだったんだな」
なぜか落胆している。間接的に自分の母親がサディストだとでも言われたようで、鏑木は微妙にいやな気分になった。誰だって、自分の親がそんな性癖を持つとは思いたくない。話題をそらすため、咳払いして新聞を畳む。
「と、ともかく。それならそれで何かバイトできるところを紹介してほしいんだけど」
「ふん。バイト先、か。まあ、ツテもいくつか無くはないが」
「何もしなくてもお金入るような仕事ない?」
「……おまえな、最初っから楽することばっか考えてんじゃねえよ」
「なら、日雇いとかで割のいい奴」
安直な要望だった。が、まったく無いわけでもないのか少し考え込む村田。じろじろと鏑木の体を見まわし、鏑木の方も期待をこめたまなざしを村田に向けていた。やがて村田は溜め息をつき、いくつかの候補を除外するか否かで迷う。
「お前、力仕事とかは無理そうだよなー」
「まあ小中高と帰宅部だったしね。でも、少しくらいならなんとかなると思う」
「ようし、そんならこれなんかどうだよ。俺の知り合いに山頂で山小屋やってる奴がいてな、夏に山開きする時飲み物や食料を運ぶ仕事をしてくれねえか、と話があったんだ。数キロはある荷物を運ぶのに体力は相当要るが」「膝悪くしそうだからちょっとお断りします」「んだよ、もうちょい聞ぃとけよ。日給は悪くないぞ? 山の食糧のありがたみもわかる」
山で食料が高い理由は人件費がかかってるせいだったのか、と納得させられるバイト内容だった。すると村田は再び難しい顔をして考え込み、カウンター向こうのキッチンを見やる。そしてひらめいたのか、ぽんと手を打つ。古い動作だ、と鏑木は思った。
「なら、水とか苦手だったか?」
「泳げるよ。特に苦手じゃない。なに、水産系?」
「いやホスト」
「お水……僕の顔では無理じゃないかな」
なんとなく薄暗い暗闇のイメージが浮かび、次いでそこに自分が引きずり込まれる様子まで鏑木には容易に想像が出来た。そして、そんなところにまでツテがあるこの人はなんなのか、という問いも心中で頭をもたげたが、訊いても幸せにはなれないと判断して黙っておく。
村田は二連続で拒否した鏑木の返答にも特に気を悪くした風でもなく、飄々とした態度で肩をすくめた。
「なら無理強いはしない。けどなぁ、一年も時間空いたんならなんでもやってみるってのも一つの手だぞ? 色々やってるうちに自分に向いたことが見つかるかもしれねぇしな。実のところ、俺もバイト転々としてる途中でここに着いて、喫茶店やろうと思ったんだ」
「そうなの?」
「おうよ。誰か困らせたり悔しい思いさせたりしないで、それどころか癒しを提供できるってんだからこれ以上の仕事はねぇだろ? そういう『やってて楽しいこと』が小さくてもちょこちょこありゃぁ仕事は長続きするもんよ」
自分に合ったの探せよ、と言い残して村田はカウンターの向こうに戻っていく。見ればドアがぎィと音を立て開き、客が入ってきたところだった。カウンター越しに笑顔で接客する(が、一見さんだったため若干ひかれている)村田を眺めて、鏑木は真剣にバイト探さないとなあ、とぼやいた。
店の外は春爛漫、とまではいかない。明るい日差しが降り注いではいるものの、街中を吹き抜ける風は冷たい。三月半ばの気温にしては少々低めだった。
冷たい風が吹く大通りを避けるように、少し細めの路に折れる。そして、大きな観光ホテルの横を通り過ぎようとした時だった。人気の少ない路を歩いていたはずの鏑木に、後ろからぶつかってきた男が一人。路が狭すぎるわけでもないのに迷惑な、と思いながら一旦立ち止まると、男はものすごいスピードでだいぶ先の曲がり角まで走り去っていった。服装すら記憶に残らない速さで、一陣のつむじ風だけを残して。
「なんだったんだ、ったく」
襟を正した鏑木は、歩き出そうとしてすぐさまつまずく。
思わず手をついたそこには、見覚えの無いジュラルミンケースが置かれていた。
「……んん?」
もしや爆弾、と思って二、三歩後退する。ついでに辺りをうかがってみるが、自分のほかに人影はない。先ほどの突進男が置いていったのは明白だった。
置き引きならぬ置き土産だ。鏑木が持ち上げてみると、コンパクトなわりに結構重たい。軽く揺さぶってみたが、中には梱包材でも詰まってるのかまったく音がしない。鍵はかかっていないようなので中を検めることも出来ないではなかったが、さほど興味もなかったのでそのまま置いておくことにした。忘れ物は交番に、とも思ったが、鏑木はこの近辺で交番のある場所を思いつけない。
「まあ、やましいものかやらしいものかどっちかだろうし」
電柱の陰に安置して、その場を去ることにした。と、そう思った矢先に、男が消えていった大通りに通じる曲がり角より、一人の制服警官が歩いてきていた。これは渡せば交番に届けたのと同じになるのかな、などと愚考しながら、鏑木は軽く会釈をする。警官はそのまま歩いてくる。
軽くお辞儀くらい返してくれてもいいだろうに、と、さらなる愚考を重ねる。その間に、彼我の距離は十メートルにまで迫る。そこまで近付いて、鏑木は警官の表情にようやく気づいた。重く、固く引き絞られたような表情。その目は、敵対する者を見る目だった。
「……あれ? えーと」
特に職務質問をかけられるような恰好をしていたわけでも、時間が深夜というわけでもない。うららかな春の午後、対峙するは一般市民と官憲。やがて、気圧された鏑木がざり、と半歩後ずさったのを見て、警官は飛び掛るようにスタートを切った。
「え? ええ!?」
なにがなんだかわからぬまま、鏑木の脚は追ってくる警官を振り切ろうと走り出してしまう。
かくして、帰宅部歴十二年・文化部歴四年の男は、数年ぶりの全力疾走を開始した。
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逃げに逃げて逃げ切って、十五分経過。
全力を使いきって警官を振り切った鏑木は、美術館の横にある公園の茂みへとジュラルミンケースを放り込んで一息ついていた。その後、浅知恵だろうなと思いつつも上に着ていたジャケット(税込み一二八〇円)をゴミ捨て場に置き去りにし、公衆トイレの手洗い場で髪型を整える。Tシャツもコンビニで買った無地の安いものに変えて、こそこそと人目を気にしつつ地下鉄に乗って自宅へ戻った。
「……さすがにまだ包囲されてたりはしないな」
物陰から様子をうかがって、一人暮らしをしているアパートの周囲に人気が無いことを確認してから、素早くドアを開けて滑り込む。
星ヶ丘、という都市部近郊の町に住む鏑木は、自宅であるアパートに安心感を覚えた。少しして気持ちが落ち着くと、恐怖が滲み出させた脂汗と冷や汗をシャワーで流す。本当は湯船に浸かりたい気分だったが、鏑木は水道代を倹約すべく浴槽に水を溜めていなかった。
こざっぱりした様子で風呂場から出てくると冷蔵庫から缶ビールと焼き鳥を取り出し、一人早くも晩酌の態勢に入る。焼き鳥を電子レンジに入れて、中でぐるぐると皿が回転するのを見やりながらプルタブを起こした。冷凍されていた枝豆も水に浸けて解凍し、戸棚にしまっていたあたりめやチーズ鱈などのおつまみを机の上にばらまく。
満足げにその景色を見下ろして、一人悦に入った。その時。
「お、なんだよなんだよもうはじめてんの?」
「ひっ」
玄関から聞こえた声に、鏑木は頭を抱えて屈み込んだ。ついさっきまで追われていた身ゆえに仕方の無い反射行動だったのだが、そんな鏑木の事情は知らないその男はおかしそうに笑う。
緩くうねる金髪が印象的な、しかしそれゆえに他の個性が大方埋もれたような男。平均的な体格の鏑木よりやや細身で背も小さく、それでいて手足は長いという日本人から少々外れた体付き。赤いスウェットシャツと首に下がるシルバーネックレスがまぶしい、良くも悪くも現代風の若者だった。
「どした? いつにも増して変な顔しやがって。髪振り乱した鬼みてぇな女が包丁持って襲いに来たとでも思ったのか?」
「……そんな人が来たらちゃんと応対するよ。『もしもし、おたく部屋を間違えてますよ。その男はここの上です』って」
「おいおい、俺はそんな執念深い女と付き合ったこたねーよ。そんな上級者向けの女、どう対処すりゃいいのかわっかんねえ」
「口説いてみたら? それだけ執念深いんだから愛情も深いと思うし」
「なるほど、一考の価値はあるな」
馬鹿なことを真剣に考え始めた男、阿取透は鏑木の向かいの席に座って両手に抱えていたものを机の真ん中、ちらばった雑誌の上に置く。それは大きめの土鍋で、蓋を開けると湯気と味噌の香りが放たれた。湯気が晴れると、中には豆腐やねぎ、白菜にきのこ類、糸こんにゃくに春菊、肉類などが浮かんだ夕食が現れる。
ただ、春菊を見て鏑木はげんなりした。
「アトリ、僕は春菊入れてほしくないって言わなかったっけ」
「うるせーなぁ、なんか春って字が入ってて季節的にいいじゃんかよぉ」
「春菊って一年中食べれる気が」
「んなら季節感出すためにたんぽぽでも入れるか?」
「なんでそうキク科植物にこだわるんだよ」
「そのツッコミもどーかと思うぜ」
文句を言いつつ鏑木はアトリの分も白飯をよそい、箸も用意して席につく。窓の外を見ると日は暮れ始めたくらいの時間帯で、だいぶ日が長くなったものだと鏑木は思った。
「ほい、いただきまっすと」
「いただきます」
二人ともまずはビールに口をつけた。アトリは一口だけ飲んで鍋の中を漁り始めたが、走って汗をかき水分を消費した鏑木は一気にコップをあけた。しびれるような刺激と喉越しが、わずかなアルコールの熱と共に体の内側に沁みわたる。捕まらずに済んだことを感謝したくなるような味だった。
「あーおいしい。労働のあとの一杯はキくなあ」
「ひはは。労働って何のことだよ、おまえ入社試験全部ボツったんだから働けねーじゃ……あ」
瞬時に、あたたかな春の空気に氷点下の寒気団が流れ込んだ。沸点に達したお湯も二秒で凍りつきそうな空気の中、うつむいた鏑木のコップを持つ手はわなわなと震えていた。アトリはしどろもどろになりながら、フォローの言葉を探している。
「……ま、まあ。そういうこともあらぁな。気にすんな。一年はフリーターやってりゃいいじゃん。いいぞーフリーター生活」
「いやだ……」
「そんなに悪い道じゃねーってばさ」
「……そうかな。ところでアトリ、ただいま僕の目の前に〝フリーターの末路〟みたいなのがいるんだけど」
「んだとこら」
「だってそうだろう。おまえがこの前女の子に告白して振られた理由、『経済的に無理』だったじゃないか。というか初っ端からヒモを目指すな」
「敏腕にして辣腕フリーターの過去から痛いところつつきまわすなよな」
「おまえが先に僕をつついたんだ」
鏑木が箸をかざすと、牛と豚が三:七で納められていた鍋内肉比率が大きく傾いた。それを見てとったアトリも慌てて箸を入れるが、既に牛はいなくなっていた。全体を総計して出る金額もがくっと下がった鍋の上、アトリの箸を持つ手がぷるぷると震えていた。鏑木は無視する。
「でもホント、どこで働こうかな。叔父さんとこの喫茶店はだめだったし」
「あん? 別に自分のところはダメっつっても、村田さんならへんに人脈持ってるし、色々仕事斡旋してくれたんじゃねーの?」
「なんかまともそうなのが無かったよ」
「ああ、マグロ拾いとかか?」
「アトリ、今食事中。あとそれ都市伝説だから」
もぐもぐと豆腐を頬張りつつ、鏑木は弱り切った声を出す。なにがダメで落ちたのだろう、と不毛な考えのスパイラルにはまりこみそうになった。アトリはぱんぱんと手を叩いてその思考を断ち切らせ、鏑木のコップにビールを注ぐ。もちろん、自分にも注ぐのも忘れない。じとっと湿って光が無くなった鏑木の目をのぞきこみ、コップをかかげる。
「げーんき出せよー。ほれほれ乾杯しようぜ。チアーズ! 全然関係ないけどチアーズってなんかいい響きだな」
「別にチアリーディングとはなんの関係もないよそれ」
「おまえの一言でなんか夢が無くなった。しかしそれでも、チアーズ」
こん、と陶器のコップが打ち鳴らされる。今度はアトリもがぶがぶ飲んで、空になったコップを机に叩きつける。鏑木も続くように飲み干して、唇の周りについた泡を舐めた。久々に、ビールに対して「苦い」という感想を抱いた。どちらともなく、箸も止まる。
「……どの会社も、おまえの良さをわかってねーのさ」
アトリがぽつりとつぶやいた。
「そうなのかな」
「絶対そうだ。たしかにおまえの通ってた大学は三流どころか四流の大学だったし、法学部でさえも〝アホの法学部 〟略してアホウ学部と呼ばれてたけど」
「うるさい黙れもうそれ以上言わないで」
「だが、少なくとも好晴。おまえは文学部だ!」
「救いどころはそこなの? あと黙れって言ったろう」
「痛った!」
机の下でアトリの脛に足刀で蹴りをいれたらしい。悶絶して机に顔面から突っ伏すアトリに、なおも鏑木は追撃を加える。
「言ったよな?」
「言った!」
「だから少し黙れって」
一方的に傍若無人なやりとりはしばらく続いた。
少し経って、あざになってないか黒いスラックスの裾をまくって足を確認するアトリは、何事もなかったかのように食事を再開した鏑木に恨みごとをささやくでもなく笑いかけ、言う。
「……ま、さっきの乾杯にはテキトーに意味を持たせてくれりゃそれでいい。とにかく前向け、元気出せ。なんか次イイことあったら、そん時は勝利の美酒って意味にしようぜ」
「良いこと、あるといいんだけどね」
無くはないだろ、とアトリは笑った。
アトリが土鍋を持って上の部屋に戻ったあと、鏑木はさっさと布団を敷いた。
そして「シャワーはもう浴びたし今日は疲れたし。歯ぁ磨いて寝よ……」
……と言って枕に顔をうずめたのが一時間前。眠りは一向に訪れない。
「明日、月曜なのに」とつぶやいたところで平日になっても何も予定がない種類の人間になってしまったことを思い出して枕が濡れた。なんだかこのまま布団にこもっていたら余計に眠れなくなりそうだったので、電灯は消したまま庭に面した窓をあけてそこに腰掛け、独り月を眺めて麦焼酎の瓶を傾ける。十時過ぎの月光が降り注ぐ庭は、小学生が走り回るにも狭そうだが、わずかながら花を咲かせた桜が植わっていたのでそれなりに風情はあった。
センチメンタルな気分に浸ろうとしている、感傷的というよりはナルシストな面。そんな感情が鏑木の中でむくりと頭をもたげていたが「己に浸るのは時として己を見つめなおすに不可欠な行動なのだ……」と鏑木は自分で自分を誤魔化していたので、例え注意する者が居たところで意味は無かったろう。恥じたりはしたかもしれないが。
――そうして過ごすこと三十分ほど経っただろうか。
最初から自分に酔っていたせいか、酒による酔いも早くまわった。ただ、心地よい酩酊の中でふと「僕はなにをしてるんだろう」と我に返ることがあり、幻想からの疎外感という現実感が足元を埋めていった。次第に薄まってゆく酩酊に見切りをつけ、鏑木は焼酎の酒瓶を閉じる。寝よう、と自分に言い聞かせて、窓を閉めようとした。その時、風が吹く。
今日の夕方も強く吹いていた、冷たい風。ほろ酔い気分を一気に連れ去っていったその風は、庭の桜をざわめかせて花びらを一纏めに巻き上げる。突然の風は、夜天の暗幕に空いた風穴のような月へと、吸い込まれるように高く上がった。そして、この風の纏まりからはぐれたほんの一枚が、どうした風の吹き回しか鏑木の部屋に舞い込む。
ひらりひらりと部屋に舞う、その間二秒、飛行距離は十センチ。けれどその二秒が鏑木に窓を閉めることを留めさせ、結果としてひとつの偶然を生む。
窓の隙間にねじ込まれる、銀の輝きはジュラルミン。
「……っな、なぁっ!?」
「黙って」
よろけて窓から手を離す鏑木の前に、その隙間から身体を押し込んできた侵入者が言う。侵入者はそのまま月光を照り返すケースを振りかぶり、部屋の隅へと滑らせた。次いで鏑木の重心を崩すように、低く構えたタックルをぶちかます。頭突きと言った方がよさそうなそれ自体は威力もさほどなかったが、もんどりうって布団の上に倒れた際に鏑木は後頭部を打ち付けた。眼前に閃光が点滅し、鼻腔の奥で痛みが弾ける。
「ってえ!」
「黙ってって言ったでしょ」
「勝手なことをっ、もごふぐもが……」
五時間ほど前に自分がアトリにしたことを棚に上げて発言しようとしたが、体重をかけた前腕で口を塞がれて鏑木はものも言えなくなる。ここにきてようやく、押し入り強盗に遭ったのだろう、と現状を把握した。早く逃げなきゃ逃げ道は、と窓を見るが、あの一瞬でよくもそこまでと思うことに二重ロックをかけてある。とても逃げられない。
「もごっ、むごごご! ふぎー」
それでも逃れようと鏑木は全身を揺さぶった。すると薄闇の向こうに見える侵入者の影は意外と小さく、鏑木が身体を動かせば途端にバランスを崩しそうになる。これならいけるんじゃ、と思い、昼間のランニングで既に筋肉痛の足を必死にばたつかせる。振り上げた膝が侵入者の内腿に当たり、小さく悲鳴があがった。勝利を確信した鏑木は、もう一押しとばかりに暴れようとする。そこで、侵入者の目に明らかな苛立ちの色が輝いた。
「ああもう元気のいい奴…………う ご く な !」
外までは聞こえないだろう、小さな声。しかしそれはか細いわけではなく、聞き取り易く尚且つ脳の芯に沁みる命令だった。強制力の強い、背筋を伸ばさざるを得ないような声。その言葉の異常な重さに金縛りをかけられたのか、いかに動かそうとしても鏑木の全筋肉はこわばり、まったく動けなくなっていた。力が、篭りすぎている。
「そのまま」
続けざまに命じて、微かに身をよじりながら、鏑木を押さえ続ける侵入者。暴れる気力を言葉で削ぎ落とされた鏑木は、困惑状態で目を白黒させる。さすがにその表情を見て罪悪感が働いたのか、侵入者は少しだけ語気を緩めて「もう少しだから」と囁いた。なんだかよくわからないまま、鏑木はその言葉が真実であることを祈る。
祈りながら、それを見る。口を塞がれていなければ、叫んでしまっていたかもしれない。
「…………、」
「……、……」
月下だからか少しだけ明るい窓の外を、真っ黒な三つ揃えの服装の怪しい男二人が辺りを窺うように歩いていく。服装とおぼろげにわかる人相、それだけなら大して怪しくもないのだが、時間帯と居る場所が余りにも不自然だった。その不法侵入者BとCは一瞬、室内に居る二人に視線を向ける。が、何かお取り込み中の男女だとでも思われたのか、たじろいだ様子で窓の前から去っていった。それを見てとったのか、鏑木の上に乗る不法侵入者Aがふうと安堵する。
ややあって、鏑木の上から重みが抜けた。
「ごめんね、突然お邪魔しちゃって。謝るわ」
いけしゃあしゃあとそんなことをぼやく侵入者Aは、よく見てみると鏑木より頭一つ低いくらいの少女だった。声でも性別になら気づきそうなものだが、唐突に起こった出来事に気が動転していたらしい。だがいまだ息苦しい、と鏑木は喉下に手をやる。息苦しさは収まらない。侵入者少女は訝しげに鏑木を見て、自分の喉を指差してみせた。
「……息、してる?」
「…………っは! ぜはっ、はあ! はあ!」
動揺しすぎだろう僕、とさしもの鏑木でもそう思った。息切れした鏑木に少女は少しだけおかしそうに含み笑いを漏らす。暗闇ゆえに輪郭のぼやけた表情が、鏑木の目にはやけに鮮明に映った。ぼんやりと光っているような存在感に、しばし圧倒される。けれどすぐ、少女は顔をそらして外を向いた。ジュラルミンケースを抱えて再び窓の外へ出る。ほとんど散ってしまったものの、残り香のように辺りに漂う花びら。月下に桜のカケラと共に降り立った少女は、ぺこりと頭を下げると一言を残し、立ち去ろうとした。
「じゃ、どうもお騒がせしました」
押し入り強盗の真似ごとをしておきながら、たったそれだけの謝罪で済ませて駆け出そうとする。もちろん鏑木は釈然とせず、少女に向かって何か叫ぼうとした。けれどどう叫んだらよいかわからず、その間にも二人の間の距離は開いていく。と、走る際に大きく前後に振りかぶるようにしている、ジュラルミンケースが鏑木の目に入った。思わず叫ぶ。
「そ、そのジュラルミンケース!」
さほど大きくはなかった鏑木の叫びに足をとめた少女は、ゆっくり振り向いて首をかしげた。呼び止めたのは、立て続けに降りかかった災難に対して文句を言いたかったからか。それとも何かを予感させるものが少女にあったからか。どちらなのか、どちらでもないのかさえ鏑木にはわからなかったが、ただ呼びかける。
少女はケースを軽く持ち上げ、問い返してきた。
「……これ?」
「うん。それ」
かくして、彼は足を踏み入れることと相成った。暗く狭い地下の宴。虐げられた物たちを持ち寄る、賑やかなアンダーグラウンド。
二〇〇一年・三月某日。音の歴史の一幕が、するすると音もなく開けられた。