ひとり旅を追って
気だるい授業の真ん中で、僕はそっと窓辺に目を向ける。
ベランダの向こうでは、すっかり日差しを強くした梅雨明けの青空が広がっている。その手前数メートルのところに由愛の席はある。
由愛は、今日も学校に来なかった。もう、このままずっと来ないつもりなのだろうか。成績の良い彼女にとって、学校の授業など、もはや不必要になったのかもしれない。でも、学校って勉強の為だけじゃないと僕は思うのだけどな。第一、出席日数が足りなくなったら、いくら成績が良くたって卒業できなくなるじゃないか……。
授業が終わると、僕はため息交じりに由愛の席のプリントを取りに行く。
「カノジョが来なくて、寂しいな」
クラスメートがそう茶化してきた。
「そんなのじゃないよ」
云いながら僕は、ソンナノについて考えた。実のところ、僕は、由愛がソンナノだったら嬉しい。でも、こんなに心が離れてしまっては、たとえ冗談でもカノジョなんてありえない。
僕と由愛は、家も近所のいわゆる幼馴染だった。でもクラスが同じになったのは、これまで小学校二年生のときだけ。中学校に進んで、再び僕の前に現れた由愛は、崇高と云えるまでの進化を遂げていた。背丈は相変わらず小さいままだったが、彼女が黙々と養ってきた知性は、滲み出んばかりに膨らんでいた。要するに彼女はとびきり大人の女性なっていたのだ。僕がサッカーの補欠選手であり続けたうちに、彼女はどんな世界にでも行ける翼を手に入れてしまっていた。進路希望調査票を見ると、僕はいまさらになって愕然とする。
誤解の無いように云うが、僕は友人らと汗を流した日々は誇りに思っている。しかし、僕と由愛の過ごした時間の遠さは、ただひたすらに切なかった。
塾の帰り道、僕は彼女の家の前を訪れた。空は夜になっても明るさを維持するようになっていた。プリント類をポストに差し入れてから、何気なく二階の彼女の部屋の窓を見上げると、淡い桃色のカーテンは今日も閉めきられたままだ。
悩みとか、無いのだろうか──。僕は自分の事を棚に上げて、彼女の心配をする。いや、それは彼女の事を想ってのことよりも、彼女が離れて行ってしまうことへの焦りのような感情が大いに混じっていた。閉ざされた彼女の部屋。それは堅牢な城か何かのように感じられた。
僕は踵を返す。由愛、明日は学校に来てくれないか。話したいことがたくさんあるんだ。そんなテレパシーが伝わることを祈った。
翌朝、僕は由愛の家の前を通った。この道が通学路になっていることが一応の言い訳だが、ストーカーをしているようで後ろめたさがあった。
顔を伏せて通り過ぎようとする僕の横で、ガチャン、という音が聴こえた。僕は驚き、思わず身を隠す。私服姿の由愛が、玄関のドアを閉めたところだった。
僕は息を呑んだ。懐かしい横顔だった。僕は彼女の姿に、一瞬、安堵したものの、よく見るとその横顔が憂いを帯びていることにすぐ気付いた。
何処に、行くのだろう。
やわらかそうなその肌に触れることはおろか、声をかけることすらはばかられる。
僕は、由愛をこっそり追いかけることにした。
かつて横に並んで歩いたアスファルトの上を、今は一定の距離を空けて歩いている。彼女の洒落た私服姿をつぶさに観察し尽くすと、虚しさがこみ上げてきた。
由愛は通学路を外れ、駅のほうに向かった。僕はいよいよストーカー行為に足を踏み込んでいることを自覚した。しかし、彼女が何処に行くのかどうしても知りたくて、今を逃したら、もう二度と会えない気すらして、僕は震える指で切符を買った。
彼女に気付かれないよう、ドアを介した隣の車両に乗り込んだ。時計を見ると、始業時間の五分前だった。もう、後戻りはできない。
冒険に胸を高ぶらせる僕とは正反対に、由愛は携帯音楽プレーヤーで音楽を聴きながら、そっと瞳を閉じている。彼女の周りは静かな空気に包まれていた。電車はどんどん都心を離れ、人影は疎らになっていったが、彼女が僕に気付く気配はなかった。
彼女は七つ先の小さな駅に降りた。僕はドアが閉まるギリギリまで粘ってから外に出た。初めて来る場所だった。海が近いらしく、潮風が鼻先をよぎる。僕は一瞬、帰れるかどうか不安になった。これでは、何が何でも、彼女を見失うわけにはいかない。僕は勇むような気持ちで、改札を出た。
幸いにも、彼女はゆったりとした足取りで、海へと続くシンプルな道を歩いて行った。海に向かっていることはほぼ明らかだった。しかし何をしに行くのか、僕はまだ首をひねるしかない。
浜辺に着くと、由愛は防波堤の上にちょんと座り、じっと海を眺め始めた。僕は彼女の視線の先を探った。平日の浜辺は静かで、たまに犬を連れて散歩する人が見えるだけだ。彼女と関係があるとは思えない。
由愛はイヤホンを外し、風と漣の音に耳を澄ましている。
そうして五分以上経ったとき、僕は、ようやく理解した。
由愛は、水平線を見に来たのだ。
波を待つサーファーのように、由愛は一心に海を見つめていた。
由愛の黒髪が潮風になびく。
それはもうじき飛び立つ鳥のように、僕の目には映った。
風待ち。
渡り鳥の中には、高い山を越えるために、頂上付近で気流を待つ鳥がいるという──。
由愛にもきっと、超えるべき山があるのだ。僕はとたんにそう理解したけれど、同時に、堪えきれに感情に気付いた。彼女の背中を押す、風になりたい。
「由愛」
僕は呟く。彼女は微動だにしない。声が小さいのだ。僕は息を吸い、全速力で走り出した。最近、勉強ばかりで脚がなまっているようだ。少し息が切れてしまった。
慌ただしく迫ってきた足音に、由愛が振り向いた。彼女の両目が僕をしっかりと捉え、驚きの表情を見せる。その顔が、アイスが融けるようなスピードで、穏やかな笑顔に変わっていく。
ひとり旅を追って、僕はイマの由愛と出会った。
END
最後までお読みいただき、ありがとうございました。




