第8話「残留ルート」
朝の光が、机の上の書類を白く照らしていた。
目を開けた時、最初に見えたのは自分の腕だった。机に突っ伏して眠っていたらしい。台本の頁がわたしの頬に貼りつき、インクの匂いが鼻に残っている。窓から射す光の角度は低く、夜明けからそう経っていない。
体を起こした。首の筋が軋む。机の上に広げたままの工程表、照明配置図、座席表。その隅に、見覚えのない封筒が置かれていた。
宰相府の公式封筒。蝋の封印はない。代わりに、角が丁寧に折り込まれた封じ方。事務的でありながら几帳面な——クラウスの封じ方だ。
指先で封を開いた。中の書類を引き出す。
「婚約破棄後の身分保全及び宰相府付き文官への任用申請書」
文字を目で追った。申請者欄にわたしの名前。任用先は宰相府。職務内容は宮廷行事の管理補佐。そして最下段、保証人欄。
クラウス・ヴェルナー。
あの端正な筆跡が、保証人欄の中央に据えられていた。インクの色は昨夜のもの——まだ新しい。
書類を持つ手が震えた。指先ではなく、手首から先の全体が。
——これは台本にない。
わたしの台本には、断罪の後がない。完璧に退場する。それだけだ。退場した後のヴィクトリア・エーデルシュタインは、台本の中に存在しない。存在しない人間のために、誰かが書類を書く理由がない。
なのにこの書類は、退場しないヴィクトリアのために書かれている。婚約を破棄されても王都に留まり、宰相府で働き、生きていく——そういう未来のための法的な土台。
書類を机に置いた。置いてから、また手に取った。保証人欄の署名をもう一度見た。乱れのない文字。あの人はいつもそうだ。感情が動いた時ほど文字が整う。
宮廷行事管理局の扉を叩いた時、わたしの足取りはいつもより速かった。
「どうぞ」
クラウスは机に向かっていた。朝の光が執務室の窓から差し込み、書類の山を白く縁取っている。わたしが入ると顔を上げ、いつも通り灰色の目でこちらを見た。目の下に薄い影がある。昨夜も遅かったのだろう。
わたしは封筒を机の上に置いた。音が鳴るほど、ではない。だが普段より強く。
「これは台本にありません」
クラウスの目が封筒に落ち、すぐにわたしの顔に戻った。
「あなたの台本にないだけです。私の職務として必要な書類です」
「職務」
「婚約破棄が実行された場合、公爵令嬢の身分保全に関する行政手続きは宰相府の管轄です。事前に申請書を準備することは、品質管理の一環として合理的です」
声に揺らぎがなかった。理路整然とした、いつもの語り口。だがわたしは見ていた。クラウスの右手がペンを握ったまま、親指の腹でペン軸を一度だけ擦ったのを。
「ヴェルナー補佐官——」
「申請書の不備があれば修正いたします。内容をご確認ください」
遮られた。会話を業務に戻す手際は見事だった。わたしは唇を引き結び、封筒を鞄にしまった。
宰相の執務室は、王宮の西棟の最奥にあった。
扉の前で足を止めた。石造りの廊下は冷えている。壁に掛けられた燭台の火が、重い樫の扉を橙色に照らしていた。この扉の向こうにいる人物が、断罪劇の最大の変数だ。
面会を申し入れたのはわたしだ。宮廷行事の最終確認を名目に、宰相ディートリヒ・グランツとの直接対話を求めた。
扉が内側から開いた。
執務室は広い。だが調度は質素だった。机と椅子、書棚、窓際の小卓に茶器。壁に地図が一枚。王国の全域図だ。
宰相は机の向こうに座っていた。五十代半ばの痩せた男。白髪交じりの髪を短く刈り、深い皺が刻まれた顔に穏やかな笑みを浮かべている。だがその目は笑っていなかった。鋭く、静かで、計算の光を帯びている。
「エーデルシュタイン嬢。お父上にはご無沙汰しております」
「宰相閣下、お忙しいところ恐れ入ります」
深く一礼した。宰相が手で椅子を示し、わたしは腰を下ろした。茶が出た。侍従が注いだ琥珀色の液体から、林檎の花の香りがした。
「卒業舞踏会の件で、いくつかご報告がございます」
「ええ、聞いておりますよ。クラウスから逐次報告が上がっている。——だが、報告だけではないでしょう」
宰相の声は穏やかだった。穏やかであることが、この人の武器なのだと知った。
「閣下。率直に申し上げます」
茶碗を置いた。両手を膝の上に揃えた。
「卒業舞踏会の場で、王太子殿下がわたくしを断罪なさいます。聖女の被害申告に基づく弾劾です。その申告がすべて虚偽であることは、ヴェルナー補佐官の調査で確認されております」
宰相の表情は変わらなかった。知っていたのだ。すべて。
「当日、閣下には事後追認ではなく、その場でのご判断をお願いしたい。断罪が宣言された時点で、追認を保留していただきたいのです」
沈黙が落ちた。宰相の指が茶碗の縁を撫でた。一周。もう一周。
「面白い」
声に温度がなかった。面白い、という言葉が、この人の口から出ると別の意味を持つ。
「だが、私が動くのは条件がある」
宰相は茶碗を置いた。
「聖女の虚偽が、公衆の前で明らかになった瞬間だ。私が——宰相府が先に告発すれば、これは王太子と宰相府の政治問題になる。そうではなく、王太子自身の選択の結果として破綻させなければならない。殿下が自ら断罪を宣言し、その根拠が衆目の前で崩れる。その瞬間であれば、宰相府の介入は政治対立ではなく秩序の維持として成立する」
わたしは頷いた。この人の論理は正確だった。そして冷徹だった。
「そのように設計しております」
「設計、か」
宰相の目がわずかに細くなった。初めて、興味に似た色が灯った。
「——それと、もう一つ」
宰相は机の引き出しから一通の書類を取り出した。見覚えがあった。今朝、わたしの机の上にあった書類と同じ書式。
「クラウスが持ってきた任用申請書だ。保証人欄に自分の名を書いている」
宰相はクラウスの署名を指で示した。
「——お前の仕事か、と聞いた。『職務です』と答えおった」
宰相の唇が微かに持ち上がった。笑みとも苦笑ともつかない表情だった。
「職務、か」
書類を机の上に戻し、引き出しにしまった。受理した、という所作だった。
「エーデルシュタイン嬢。私は条件が満たされれば動く。——お前の設計が、当日成功することを期待している」
わたしは深く一礼して執務室を出た。廊下の冷気が首筋に触れた。膝が震えていることに、扉が閉まってから気づいた。
夜、王宮の居室に戻った。
机の上に、朝しまったはずの任用申請書がまた出ている。自分で鞄から取り出したことを覚えていなかった。保証人欄のクラウスの署名が、燭台の灯りに照らされている。
椅子に座った。書類を手に取った。胸の前で抱えるように持って、そのまま動けなくなった。
退場しなくていい未来。それが紙の上に書かれている。法的な根拠として、宰相の受理印として、クラウスの署名として。
だがわたしの台本には、この書類は載っていない。完璧な退場。それだけがわたしの計画だ。退場すればループが終わる。終わらなければならない。
——残りたい。
その言葉が胸の底に浮かんだ瞬間、体が強張った。認めてはいけない。計画が崩れる。
扉が開いた。マルガレーテが入ってきて、書類を抱えたまま椅子に座っているわたしを見た。何も言わなかった。静かに茶器を取り出し、湯を沸かし、茶を淹れた。温かい湯気がわたしの手元を包んだ。
舞踏会前日。
大広間の最終確認を行った。照明、座席、動線。特注燭台の位置、正面照射の角度、壇上と観客席の距離。すべてがわたしの設計通りに仕上がっている。
マルガレーテが裏方の最終チェックを終えて戻ってきた。
「準備は万端です、お嬢様」
「ええ。完璧な——」
言いかけて、止まった。
背後から足音が聞こえた。規則正しく、軽い靴音。
「最終確認に参りました」
クラウスの声だった。振り返った。灰色の目がわたしを見ている。夕暮れの光が広間の窓から差し込み、彼の横顔を照らしていた。
「——台本通りにいかないかもしれません」
声が出ていた。考えるより先に。
クラウスの足が止まった。わたしとの間に、壇上の階段三段分ほどの距離があった。灰色の目がわたしの顔を見ている。何を読み取ろうとしているのか。わたしの台本の、最後の空白を。
マルガレーテが視線を伏せ、音を立てずに広間の奥へ下がった。
夕暮れの光が、広間の燭台に火を入れる前の薄暗がりの中で、ゆっくりと傾いていった。




