第7話「幕は待たない」
前世で一度だけ、結婚式の日程が三日前に変更されたことがある。あの時も、泣いたのは花嫁ではなくプランナーだった。
わたしは寝室の机に広げた台本を睨んでいた。マルガレーテの報告から一夜が明け、秋の朝の冷気が窓の隙間から忍び込んでいる。タイムラインを示す工程表の上に、赤いインクで書き込みが走っていた。「二週間前倒し」。
照明用の特注燭台はマルガレーテが手配先を確保したばかりだ。設置工事は本来五日かかる。装飾品の搬入は三日。座席配置の変更は二日。合計十日。二週間前倒しされれば、残りの猶予は数日しかない。
ペンを取った。工程表を白紙に描き直す。前世で三日前の日程変更をどう乗り切ったか。並行作業だ。装飾の搬入と照明の設置を同時に進め、座席配置は当日朝に一気に変える。人手が要る。通常の倍。
「マルガレーテ」
扉の向こうから即座に返事があった。眠っていなかったのだろう。
「会場設営の人員を倍に増やしてちょうだい。使用人ネットワークで、王宮の裏方仕事に慣れた者を集めて。装飾品の再手配も——特注燭台の設置を三日で終わらせるスケジュールに変更します」
マルガレーテが部屋に入り、わたしの机の上の工程表を覗き込んだ。赤いインクの書き込みと、その下に走る新しい黒インクの修正案を目で追い、一度だけ息を吸った。
「承知いたしました。倉庫番と昼までに打ち合わせを済ませます。人員は厨房経由で当たれば、明日には頭数が揃うかと」
「お願い」
マルガレーテが一礼して退室する足音が遠ざかるのを聞きながら、工程表の続きを書いた。装飾品のリストを優先度で並べ替える。削れるものと削れないもの。照明は削れない。座席配置も削れない。花は量を減らせる。布地は色数を絞れる。
ペンが走る。走り続ける。頭の中で前世の記憶が回転していた。会場変更、日程変更、新郎新婦の喧嘩による式次第の全面見直し——あらゆる修羅場を潜り抜けた体が、指にプランを書かせている。
宮廷行事管理局の執務室は、朝から書類で溢れていた。
わたしが修正した工程表を持ち込むと、クラウスはすでに机の上に日程変更の通達書を広げていた。宰相府の正規文書だ。王太子の要請により卒業舞踏会の日程を前倒しする旨の決裁印が押されている。
「承認の短縮処理をいたします」
クラウスはわたしの工程表を受け取りながら言った。
「会場設営の変更申請は本来、七日間の審査期間が必要ですが、宮廷行事の品質管理は宰相府の職務です。緊急の品質管理案件として、私の権限で即日承認を出します」
「ありがとうございます、ヴェルナー補佐官」
「正規の手続きです。礼には及びません」
クラウスはペンを取り、工程表の承認欄に署名した。それから別の書類を引き出しから取り出した。宰相宛ての報告書だった。
「昨晩、閣下に日程前倒しの件を報告いたしました」
わたしの手が止まった。
「閣下は、『王太子が舞踏会の日程を動かす。理由は聖女の要望か』と」
クラウスの声は淡々としていた。事実を並べているだけの声。だがその事実の中に、宰相が状況を把握しているという意味が含まれている。
「閣下は、どこまで」
「日程変更の背景と、私が業務上保管している調査記録について把握しておられます」
リゼットの虚偽申告の証拠。クラウスが一件ずつ照合し、引き出しに収めた報告書の束。それを宰相が知っている。
「閣下は何と」
「『まだ動く時ではない』と」
クラウスの灰色の目が、一瞬だけわたしを見た。それ以上は語らなかった。報告書を鞄に収め、工程表の確認に戻る。宰相の判断の意味を、わたし自身に考えさせるための沈黙だったのかもしれない。
——宰相は知っている。だが動かない。今はまだ。
その「まだ」がいつ終わるのかは、わたしの台本の出来にかかっている。
三日目の夜だった。
大広間の設営は佳境に入っていた。マルガレーテが手配した人員が燭台の設置と装飾品の搬入を並行して進め、わたしは広間の隅で全体の進行を監督していた。特注燭台の位置を一台ずつ確認し、照明の角度を微調整する。正面からの光が舞台の中央に集まる配置。リハーサルで確認した動線に沿って、座席の仮配置が進んでいく。
手帳に書き込む。燭台の高さ、光の到達範囲、座席との距離。数字が頁を埋めていく。ペンを持つ指の感覚が鈍い。昨夜はほとんど眠っていない。一昨日もその前も。
マルガレーテが裏方の人員に指示を飛ばしている声が、広間の反対側から聞こえた。「そこの布地は壁面の三番目。間違えないで」。実務の声だ。頼もしい。
アルベルトが断罪の演説内容を変更したという情報は、今朝マルガレーテ経由で入った。リゼットの助言を受け、ヴィクトリアへの罪状に「聖女の祈りを妨害した」という項目が追加されたらしい。
台本を修正した。新しい罪状は根拠が薄い分、反論材料も多い。アルベルトの「正義の暴走」がより鮮明になる構成に組み替えた。演説が長くなれば、それだけ観客の注意が壇上に集まる。集まった注意の中でリゼットの涙が照明に照らされる。長い演説は、崩壊の落差を大きくする。
手帳を閉じようとした時、視界が揺れた。
燭台の灯りが傾く。床が傾く。わたしの体が傾いている。膝が折れかけた瞬間、背中に硬いものが当たった。腕だった。誰かの腕がわたしの肩を支えている。
「——クラウス」
声が出ていた。考えるより先に。
支えている腕の主を振り仰ぐと、灰色の目がすぐ近くにあった。クラウスの顔が、燭台の灯りの中で影を帯びている。わたしの肩に置かれた手のひらの温度が、服の布地を通して伝わってきた。
クラウスの動きが一瞬止まった。目がわずかに見開かれ、すぐに戻った。それから、口の端がかすかに持ち上がった。
「お呼びですか、エーデルシュタイン嬢」
わたしは体を起こした。クラウスの腕から離れる。頬が熱い。疲労のせいだ。そう判断した。
「——失礼いたしました。少し目眩がしただけですわ」
「設営の監督は、本日はここまでにされてはいかがですか」
「タイムラインが押していますの。あと燭台が六台」
「残りは明朝、私が確認いたします。宮廷行事の品質管理は職務ですので」
その声は穏やかだった。だが譲る気のない声だった。わたしは口を開きかけ、閉じた。体が正直だった。膝がまだ震えている。
「——お言葉に甘えますわ」
手帳を鞄にしまった。クラウスの名を呼んでしまったことが、喉の奥に引っかかっている。ヴェルナー補佐官、と呼ぶべきだった。なぜ名前が出たのか。疲労のせいだ。防壁が下がっていた。それだけのことだ。
広間を出る時、マルガレーテが駆け寄ってきた。
「お嬢様、お顔の色が」
「大丈夫よ。明日の朝までに座席の仮配置を終わらせてちょうだい。あとは——」
言いかけて、振り返った。広間の中央でクラウスが燭台の位置を確認している姿が見えた。手帳を片手に、わたしが書き残した数字を読み取っているようだった。
振り返るのをやめた。廊下に出た。石壁の冷気が火照った頬を冷ました。
自分の名前を、あの人の声で呼ばれたわけではない。わたしが呼んだだけだ。それなのに、耳の奥にまだ残っている。「お呼びですか」と応じた声が。
深夜の宰相府。
クラウスの執務室には灯りが一つだけ灯っていた。机の上に、一通の書類が広げられている。
「婚約破棄後の身分保全及び宰相府付き文官への任用申請書」
申請者欄に、ヴィクトリア・エーデルシュタインの名前。保証人欄に、クラウス・ヴェルナーの名前。クラウスのペンが保証人欄の署名を仕上げ、インクが乾くのを待った。
書類を封筒に入れ、封をした。
翌朝、ヴィクトリアの王宮の居室の机の上に、その封筒が置かれていた。




