第6話「台本を降りる者」
クラウスは報告書の束を机に置いた。一つも事実と合致しなかった。
宰相府の執務室は深夜の静けさに沈んでいる。燭台の炎が報告書の表紙を橙色に照らし、インクの匂いが鼻の奥にこびりついていた。
聖女リゼット・フォンティーヌの被害申告、五件。いずれもヴィクトリア・エーデルシュタインによる嫌がらせを訴える内容。クラウスは一件ずつ、日時、場所、目撃者の有無を照合した。
一件目。「廊下で突き飛ばされた」——当該日時にヴィクトリアは宮廷行事管理局にいた。クラウス自身が応対していた。二件目。「食堂で飲み物をかけられた」——食堂の使用人に確認したところ、当日ヴィクトリアは食堂を利用していない。三件目以降も同様。すべて、ヴィクトリアが別の場所にいた時間帯に起きたとされる事件だった。
虚偽。
だが聖女の申告を公式に否定するには、宰相の承認が要る。宰相府が主導して聖女を告発すれば、王太子と宰相府の政治対立が表面化する。今はまだ、その時ではない。
クラウスは報告書の束を引き出しに収めた。証拠として保管する。使う時が来るまで。
翌日の午後、宮廷行事管理局。
ヴィクトリアが扉を叩いた時、クラウスは彼女の顔色がまた白くなっていることに気づいた。目の下に薄い隈がある。だが所作には乱れがない。完璧に仕立てられた令嬢の微笑みで椅子に座り、書類挟みを開いた。
「ヴェルナー補佐官、本日は照明設計の最終案をお持ちしました。それと——もう一つ」
ヴィクトリアの指が書類の端で止まった。微笑みが消え、目がまっすぐにクラウスを見た。
「あなたをこの計画から外させていただきたいの」
クラウスの手が書類の上で静止した。
「これ以上関わると、補佐官の立場が危うくなります。殿下の断罪に協力していると知れたら、宰相府の中立性に傷がつきますわ」
声は落ち着いていた。だが指先が書類の角を折っている。無意識の所作だろう。
「職務ですので」
「職務で断罪の演出に協力する人がどこにいますの」
ヴィクトリアの口元がかすかに笑った。諦めと皮肉が混じった笑みだった。
クラウスは椅子から立ち上がらなかった。ペンを机に置き、灰色の目でヴィクトリアを見た。
「ここに」
沈黙が落ちた。廊下を歩く書記官の足音が遠くで鳴り、やがて消えた。ヴィクトリアの唇がわずかに開き、閉じ、もう一度開いた。言葉を探しているようだった。
「——ヴェルナー補佐官」
「照明設計の最終案を拝見します」
クラウスは手を伸ばし、書類挟みから照明配置図を抜き取った。話を戻す所作だった。ヴィクトリアが一瞬目を伏せ、それから姿勢を正した。プランナーの顔に切り替わるのが見えた。
「照明についてご説明します。断罪の場面で、聖女が涙を流すタイミングがあります。通常の舞踏会照明では、涙は美しく見える。光が斜めから当たり、頬の曲線に沿って影を落としますから」
ヴィクトリアの指が配置図の上を滑った。燭台の位置を示す印が、通常の配置とまったく異なっている。
「この配置では、正面からの光が強くなります。頬の影は消え、表情のすべてが観客の目に映る。涙が本物か、顔の筋肉がどう動いているか。——美しく見せる照明ではなく、はっきり見せる照明です」
クラウスの目が配置図の上で止まった。燭台の数は通常と変わらない。位置だけが変わっている。追加予算はかからない。だが効果は劇的に違う。
「承認します」
ペンを取り、配置図に承認印を押した。インクの匂いがふわりと立った。
その夜、マルガレーテが新たな調査結果を持ってきた。
寝室の書き物机に向かっていたわたしは、手帳を閉じて振り返った。マルガレーテの表情がいつもより硬い。
「お嬢様、フォンティーヌ男爵家の借金について、債権者が判明いたしました」
「誰」
「グラーフ伯爵家です。殿下の筆頭側近の実家ですわ」
わたしの指がペンの軸を握り締めた。
グラーフ伯爵家。アルベルトの側近の中で最も影響力を持つ家。その家がフォンティーヌ男爵家に金を貸している。リゼットの侍女がアルベルトの側近と接触していたのは、借金の返済猶予と引き換えに情報を流していたからではないか。
リゼットが王太子に縋る構造的な理由が、これで確定した。純粋な好意だけではない。家の借金が首を絞めている。王太子の寵愛を失えば、フォンティーヌ男爵家は債権者に潰される。
「予定通りですわ」
マルガレーテが首を傾げた。
「この情報は台本に組み込みます。直接使うのではなく、断罪の後で宰相府が調査に動くための根拠として」
「お嬢様は、すべてご存じだったのですか」
「知っていたのではなく、予測していたの。この種の構造は——」
言いかけて、止めた。前世の知識を説明する言葉がこの世界にはない。
「——貴族社会では珍しくないことですわ」
マルガレーテはそれ以上問わなかった。代わりに机の上の手帳に目を落とし、「お茶をお持ちいたします」と部屋を出ていった。
一人になって、台本の照明設計の頁を開いた。リゼットの涙が流れる瞬間。正面からの光。観客の目に映る、作り物の悲しみ。
ペンを走らせ、演出ノートに書き加えた。「聖女の涙——照明で美しくするのではなく、真実を照らす。涙の質を、観客に判断させる」
これで照明の設計は確定した。あとは燭台の手配だ。マルガレーテに任せる。通常の舞踏会では使わない正面照射用の特注燭台が要る。手配先は——マルガレーテの使用人ネットワークなら見つけられるだろう。
戻ってきたマルガレーテに茶を受け取りながら、特注燭台の調達を指示した。
「この燭台、通常の舞踏会では使いませんが」
マルガレーテが首を傾げた。だがわたしの目を見て、それ以上は聞かなかった。
「手配先に心当たりがございます。王宮の倉庫番に伝手がありますので」
「お願い」
茶を一口含んだ。薄荷の香りが鼻を抜けた。台本の頁をめくる。照明、座席、動線、演説の想定原稿。すべてが噛み合い始めている。
あとは本番を待つだけだ。
「ここに」と言ったクラウスの声が、不意に耳の奥で鳴った。わたしはそれを聞こえないふりで押し込み、次の頁に目を落とした。
翌朝、マルガレーテの顔が青かった。
寝室に入ってくるなり、盆を机に置く手が震えている。茶碗が皿に当たって小さな音を立てた。
「お嬢様」
「どうしたの」
「聖女が殿下に泣きつきました。——卒業舞踏会の日程が二週間前倒しになります」
わたしの手が、茶碗を掴んだまま止まった。
二週間。照明の設置、座席配置の変更、装飾品の搬入、特注燭台の調達——すべてのタイムラインが崩壊する。
薄荷の香りが鼻先をかすめた。茶碗の中で湯気が揺れている。マルガレーテの青い顔が、その向こうに見えた。
茶碗を皿に戻す音が、静かな朝の部屋に響いた。




