第3話「リハーサルの条件」
「——本当の目的、ですか」
宮廷行事管理局の執務室は、前回訪れた時と同じ羊皮紙とインクの匂いがした。ただし机の上の書類の山は左側が低くなっている。数日で処理済の束が増えたらしい。この人の仕事の速度が、目に見える形で机に表れていた。
クラウス・ヴェルナーは椅子に座ったまま、わたしが差し出した再提出の企画書を開いている。前回と同じ灰色の目。けれどその目は、今度は企画書ではなくわたしの顔を見ていた。
「ヴェルナー補佐官。率直に申し上げます」
わたしは企画書の最終頁を指した。前回は書かなかった項目が追加してある。「想定される突発的事態とその対応策」。
「卒業舞踏会の場で、断罪が起きます」
クラウスの指が頁の端で止まった。表情は変わらない。だが瞬きの間隔がわずかに狭まったのを、わたしは見逃さなかった。
「断罪、というのは」
「王太子殿下がわたくしを公衆の前で弾劾し、婚約破棄を宣言なさいます。聖女リゼット・フォンティーヌさまへの加害を理由として」
「その根拠は」
「殿下の行動パターンと聖女の介入時期から推測が可能です」
嘘ではない。三周分のデータがある。一周目は春の終わりに断罪された。二周目は秋の舞踏会。三周目は卒業舞踏会。回を重ねるごとに時期は変動したが、アルベルトが断罪に至る心理の段階——リゼットへの傾倒、わたしへの敵意の蓄積、「正義の宣言」への衝動——その順序は変わらなかった。聖女の訴えが加速し、殿下の庇護欲が臨界を超え、公の場で「正しいこと」を為す。毎回、判で押したように。
「分析結果を基に、断罪の発生を予測しました。これを最高の演出で実行したい——というのがわたくしの本当の目的ですわ」
クラウスは企画書を閉じた。机に置く。指先で紙の角を揃える、あの几帳面な仕草。
「断罪を阻止するのではなく」
「ええ」
「演出する、と」
「ええ」
沈黙が落ちた。窓の外で鳥が鳴いている。秋の風が書類の端をかすかに揺らした。クラウスの灰色の目がわたしを見据えている。そこに嘲りはなかった。困惑もない。何かを計算している目だった。企画書の精度と、わたしの言葉の精度と、その二つが示す意味を秤にかけている。
「条件があります」
クラウスが立ち上がった。棚から空の報告書用紙を取り出し、わたしの前に置く。
「演出計画の全工程を宰相府に報告していただきます。工程表、変更履歴、関係者リストのすべてを。提出先は私です」
計画の全容を宰相府に預ける。わたしの退場計画の骨格が、この人の手元に残るということだ。
喉の奥が乾いた。だが選択肢はない。この人の協力なしに、会場の照明も動線も変えられない。
「承知いたしました」
わたしは報告書用紙を受け取った。クラウスの指とわたしの指の間に、紙一枚分の距離があった。
「では、条件付きで協力を承認します」
クラウスがペンを取り、受領票に署名した。端正な筆跡。文字の傾きに一切の乱れがない。
「ヴェルナー補佐官」
「はい」
「なぜ、信じてくださるの。わたくしの予測を」
クラウスのペンが受領票の上で一瞬止まった。
「信じたのではありません。企画書の精度を評価しました。あの会場見取図は、実際に大広間を繰り返し観察しなければ描けない。——あなたが何を見ていたかは、図面が語っています」
それだけ言って、受領票をわたしに渡した。もう座り直している。次の書類に手を伸ばしている。会話は終わりだ、という所作だった。
学園の中庭は昼の陽射しで暖かかった。
渡り廊下を歩いていると、前方に人だかりが見えた。噴水の前。中心にいるのはアルベルトだった。取り巻きの学生たちに囲まれ、その隣にリゼットが寄り添っている。
アルベルトの視線がわたしを捉えた。碧い目が冷えている。
「ヴィクトリア」
足を止めた。周囲の学生たちの視線が集まる。秋の風が中庭の落ち葉を巻き上げ、乾いた音を立てた。
「殿下」
「最近、お前は宮廷行事局に出入りしていると聞いたが」
「ええ。卒業舞踏会の演出をお手伝いさせていただいておりますの。婚約者として、最後のご奉公ですわ」
「最後の」とわたしが言った時、アルベルトの眉がかすかに動いた。意味を拾ったのか、拾わなかったのか。リゼットがアルベルトの袖に指を掛け、不安そうに見上げている。
「余計なことをするな。舞踏会は宰相府の管轄だ」
「ですから宰相府と正規の手続きで進めておりますわ」
アルベルトの顎が上がった。言い返す言葉を探しているようだった。だが見つからなかったらしい。舌打ちに似た息を吐き、リゼットの肩を抱いて噴水の向こうへ歩き去った。取り巻きの学生たちが後を追う。
背中を見送った。
——予定通り。
これは断罪劇の第一幕だ。対立の激化。アルベルトがわたしを遠ざけ、リゼットを庇い、「悪役」の輪郭を太くしていく。その輪郭が太いほど、断罪の瞬間は劇的になる。そして劇的であるほど、崩れた時の落差も大きい。
台本に組み込む。冷静に、正確に。
手帳を開いて書き留めようとした指先が、一瞬だけ震えた。秋の風のせいだ、とわたしは自分に言い聞かせた。
その夜、マルガレーテが新たな情報を持ってきた。
「お嬢様。フォンティーヌ男爵家について、少し分かったことがございます」
寝室の書き物机に向かっていたわたしは、ペンを置いた。
「男爵家は相当な借金を抱えているようです。額までは掴めておりませんが、使用人の間では『聖女さまの実家は火の車』と囁かれております」
「借金」
「はい。債権者の名前まではまだ——」
「引き続き調べてちょうだい。債権者が誰かが鍵になるわ」
マルガレーテが頷いた。退室しかけて、足を止める。
「お嬢様」
「なに」
「——今日のお食事、半分しか召し上がっておりません」
わたしは微笑んだ。
「演出家は裏方ですもの。食べる暇もないのは前世からの職業病ですわ」
前世、という言葉が口を滑った。マルガレーテは意味を掴めなかっただろう。首を傾げただけで、「では温かい汁物をお持ちいたします」と言って部屋を出ていった。
一人になった部屋で、手帳を開く。フォンティーヌ男爵家の借金。聖女がアルベルトに縋る理由が、純粋な好意だけではない可能性。これが確定すれば、断罪の構造を根本から揺さぶる材料になる。
計画を預けられる相手がいる。クラウス・ヴェルナー。あの人は感情ではなく精度で判断する。わたしの企画書を「信じた」のではなく「評価した」と言い切った人だ。計画を預けるなら、そういう人がいい。
だが同時に、あの人はわたしの台本の余白も読む。本当の目的を書いてくれ、と言ったあの声が、まだ耳に残っている。
マルガレーテが汁物を運んできた。湯気から立ち上る根菜の香りが鼻先を温めた。
匙を口に運びながら、明日の工程を頭の中で組み立てた。会場見取図の修正、照明配置の再計算、座席表の素案。そしてもう一つ——リハーサル。本番の段取りを確認するための、予行演習。
断罪劇のリハーサルをするなら、主演を動かさなければならない。主演はアルベルト・レグランディア。王太子殿下ご本人。あの人を舞台に乗せる方法は一つしかない。
汁物を飲み干し、匙を置いた。手帳の新しい頁にペンを走らせた。
翌朝、宮廷行事管理局の扉を叩くと、クラウスの「どうぞ」が返ってきた。わたしは机の前に立ち、工程表を広げた。
「ヴェルナー補佐官、リハーサルを行いたいのですが」
「リハーサル」
「ええ。舞踏会場の動線確認です。ただ、王太子殿下にもご参加いただく必要がございます」
クラウスのペンが止まった。灰色の目が企画書からわたしの顔に移る。
「殿下を説得する必要があります。——どう説得なさいますか」
わたしは口の端を持ち上げた。
「婚約者として最後の共同作業を申し出ます」
クラウスの眉がわずかに上がり、すぐに戻った。何かを言いかけて飲み込んだようにも見えた。代わりにペンを取り、工程表の余白に一行書き加えた。
「リハーサル日程——調整中」
その筆跡はいつも通り、一切の乱れがなかった。




