第10話「第二幕」
——台本には、この先がない。
クラウスがわたしの前に立っていた。アルベルトとわたしの間に体を入れ、広間の中央で背筋を伸ばしている。燭台の光が彼の黒髪の輪郭を白く縁取っていた。
「宰相府付き文官としてのヴィクトリア・エーデルシュタイン嬢の任用を、本日付で正式に申請いたします」
クラウスの声が広間に響いた。静かな声だった。アルベルトの叫びの残響を飲み込むような、凪いだ声。
「保証人は私、クラウス・ヴェルナーです」
ざわめきが広間を満たした。貴族たちが隣の者と囁き合う声、衣擦れの音、誰かが椅子から立ち上がる気配。その中でクラウスだけが動かなかった。灰色の目は壇上のアルベルトを見ている。
「台本にない」
わたしの口から言葉が漏れた。声が小さすぎて、隣のクラウスにしか届かなかっただろう。
アルベルトの顔が歪んだ。碧い目が宰相を見、クラウスを見、わたしを見た。唇が震えている。「正義の味方」の根拠が崩れ落ちた男の顔だった。
「婚約破棄は撤回しない」
アルベルトの声は掠れていた。それでも王族の意地が背筋を支えているようだった。顎を上げ、わたしを見下ろす。三段分の高低差。三度見た構図。だが四度目の結末は違った。
宰相が一歩前に出た。穏やかな声が広間に通った。
「破棄自体は王太子殿下の権限です。ただし理由は『冤罪』として記録されます」
会場の空気が変わった。ざわめきが止み、代わりに重い沈黙が降りた。冤罪という言葉が石の壁に反射し、天井まで昇り、すべての席に落ちた。アルベルトの顔から最後の血の気が引いた。
壇上の端で、リゼットが泣き崩れていた。両手で顔を覆い、肩を震わせている。だが正面照射の照明の下、その姿に手を差し伸べる者はいなかった。先ほどまで同情を集めていた涙が、今は虚偽の記録と結びついて、別の意味を帯びている。
宰相が声を加えた。
「なお、フォンティーヌ男爵家に対しては、宰相府より借財に関する調査を行う旨、追って通達いたします」
リゼットの肩が跳ねた。顔を覆う指の隙間から覗く目が見開かれている。借金のことを知られている——その認識が、涙とは別の震えを体に走らせたようだった。
わたしは広間の中央に立っていた。
台本通りなら、ここで退場する。完璧に幕を引く。背を向けて歩き去り、二度と振り返らない。そうすればループも終わる——はずだった。
足が動かなかった。
退場すれば終わる。十五歳の朝に立てた仮説。二年かけて準備し、命を賭けた台本の前提。完璧に退場すれば、もう傷つかない。もう巻き戻らない。
だがクラウスがわたしの隣に立っている。台本にない場所に。台本にない言葉を持って。
クラウスがわたしに向き直った。灰色の目がまっすぐにわたしを見ている。広間の喧騒が遠くなった。蝋燭の炎の音、石の床を踏む誰かの足音、それらが水の底のように薄れていく。
「あなたの第二幕を、私に書かせてください」
右手が差し出された。リハーサルの日に白手袋を差し出した手。任用申請書に署名した手。台本の外側をずっと書き続けていた手。
わたしの胸の底で、二つのものがぶつかった。
退場すれば終わる。
残りたい。
指先が冷えていた。三度の断罪の記憶が肌に貼りついている。巻き戻るかもしれない。また十五歳の朝に目を覚ますかもしれない。また鏡の前で、削れた頬を見つめるかもしれない。
クラウスの手は動かなかった。差し出されたまま、待っていた。
わたしは台本を手放した。
比喩ではない。手帳を——断罪プロデュース計画を書き連ねた、革表紙の手帳を、左手から離した。手帳が床に落ちる小さな音が、広間の沈黙の中で響いた。
右手を伸ばした。クラウスの手に触れた。指先が冷たいのはわたしの方で、彼の掌は温かかった。あの白手袋の裏地に残っていた温もりと同じだ。
「——書かせてあげますわ」
声が震えた。頬を涙が伝った。台本にない涙だった。一周目の涙とも、二周目の涙とも違う。自分で選んだ涙だった。
「ただし、私の方が演出は上手いので、覚悟なさって」
笑った。泣きながら笑った。喉の奥が熱くて、目の奥が灼けるようで、それなのに体の内側から何かが剥がれ落ちていくのが分かった。
十五歳の朝からずっと肌に貼りついていた感覚——「また巻き戻るかもしれない」という、呼吸のたびに喉を締めていた恐怖が、消えた。
消えた。
指先の冷えが溶けた。クラウスの手がわたしの手を握り返している。灰色の目の奥に、初めて見る光が灯っていた。表情は変わらない。この人は感情が動いた時ほど顔が静かになる。だが指の力が、すべてを語っていた。
数週間が過ぎた。
宰相府の一室は、朝から書類の匂いで満ちていた。
わたしは窓際の執務机に向かい、宮廷行事の管理資料を整理している。机の上は几帳面に左右で仕分けられていた——クラウスの影響だ。まだ慣れない。前世のデスクはもっと散らかっていた。
マルガレーテが茶を淹れてくれた。宰相府の執務室でも、彼女の淹れる茶の温度は変わらない。
「お嬢様、アルベルト殿下の件ですが」
マルガレーテが声をひそめた。
「国王陛下からの叱責があったそうです。冤罪での断罪が公式記録に残りましたから。使用人たちの間では『殿下の面目は丸潰れ』と」
湯気の向こうで、マルガレーテの表情は淡々としていた。だがわずかに口元が引き締まっている。十年間仕えてきた主の名誉が回復されたことへの、抑えた感情がそこにあるように見えた。
「そう」
わたしは茶碗に口をつけた。林檎の花の香りがする。宰相の執務室で出されたのと同じ茶葉だ。
扉が開いた。クラウスが書類を片手に入ってきて、わたしの机に茶菓子を一つ置いた。包み紙を開きもせず、もう自分の机に向かっている。
「ヴィクトリア」
振り返らずに呼ばれた。名前で。
「はい」
「宰相閣下が、今後の公式舞踏会について事前審査を義務化する制度案をまとめられた。確認をお願いしたい」
「承知しました」
書類を受け取った。宰相の署名入りの制度案。公式の場における弾劾宣言について、宰相府の事前審査を必須とする改正案。過去の不作為への自己是正だった。あの穏やかな老人が、自分の判断の遅さを制度で補おうとしている。
書類を読みながら、茶菓子の包みを開けた。焼き菓子の甘い匂いがした。
マルガレーテが机の端に封書を一通置いた。
「お嬢様、他国の公爵令嬢から書簡が届いております。『断罪の演出について相談したい』と」
ペンが止まった。封蝋を見た。見覚えのない紋章が押されている。
「——まさか依頼が来るとは」
思わず苦笑が漏れた。
クラウスの机から声が聞こえた。視線はこちらに向けず、ペンを走らせたまま。
「あなたの第二幕は忙しくなりそうですね」
窓から差し込む朝の光が、二つ並んだ執務机を白く照らしていた。マルガレーテが新しい茶を淹れる音がする。封書の紋章がわたしの指先の上で、光を受けて小さく輝いた。
(完)
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