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エピローグ 刻まれた傷跡と、穏やかな凪の朝に

あの騒乱の夏から、十年の月日が流れた。

窓の外には、抜けるような青空が広がっている。

都心のオフィスビルの高層階、俺、瀬尾結希せお ゆうきは、デスクに置かれたカレンダーをぼんやりと眺めていた。

三十歳という節目を目前に控え、俺の人生は、あの頃には想像もできなかったほど「普通」で、そして「平穏」な場所に辿り着いていた。


俺は今、企業の法務部門で、コンプライアンスやハラスメント対策を専門とする法務コンサルタントとして働いている。

大学時代、あのサークル『フェニックス』の実態を暴き、法的に追い詰めた経験は、皮肉にも俺のその後のキャリアを決定づけることになった。

「理不尽に踏みにじられる者を、法の力で守る」

それが、あの日、泥を啜るような思いをしながら戦った俺が、自分自身に課した一生の命題だった。


「瀬尾さん、お疲れ様です。明日の理事会の資料、まとめておきました」


声をかけてきたのは、後輩の社員だ。俺は「ありがとう」と短く返し、資料を受け取る。

かつては他人の顔色を窺い、誰かに嫌われることを極端に恐れていた俺だったが、今の俺の言葉には、確かな重みと自信が宿っていると自分でも感じる。

地獄を潜り抜けた経験は、優しさだけでは守れないものがあることを、俺に嫌というほど教えてくれた。


仕事を終え、オフィスを出ると、夕暮れの街には心地よい風が吹いていた。

駅へ向かう人波の中で、俺はふと、スマートフォンの通知に目を落とす。

親友の阿久津健太から、動画のリンクが送られてきていた。


健太は今、中堅の映像制作会社のディレクターとして活躍している。

彼はあの事件の後、ドキュメンタリー制作にのめり込み、社会の裏側に隠された問題を鋭く切り取る映像作家として、業界ではそれなりに知られる存在になっていた。

送られてきた動画は、彼がライフワークとして続けている「更生と転落の記録」というシリーズの新作だった。


俺は歩きながら、ワイヤレスイヤホンを装着し、その動画を再生した。

画面に映し出されたのは、地方の寂れた工業地帯にある、古びた土木作業員の宿舎だった。

そこに、一人の男の姿があった。

使い古された作業着に身を包み、日焼けで黒ずんだ肌、そして何よりも、目に生気を失ったその男。

かつて「王子様」と呼ばれ、金と権力で女性たちを弄んでいた豪徳寺蓮ごうとくじ れんの、現在の姿だった。


「……豪徳寺さん、今、何を考えていますか?」


カメラの後ろから、健太の冷ややかな声が聞こえる。

豪徳寺は、地面を見つめたまま、力なく首を振った。

彼は懲役十二年の刑を終え、数年前に出所した。

けれど、出所した彼を待っていたのは、かつての煌びやかな世界ではなく、自分の名前を検索すれば即座に現れる「性犯罪者」という消えないレッテルだった。


「考えたところで、何も変わりませんよ。俺には、もう何もない……」


その声は掠れていて、かつての傲慢な響きは一欠片も残っていなかった。

実家は破産し、父親は獄中で病死。

かつての仲間たちは誰一人として彼に手を差し伸べることはなく、彼は偽名を使ってその日暮らしの肉体労働を繰り返しているという。

SNSで拡散され続けた彼の顔写真は、彼から「普通の生活」を永遠に奪い去っていた。

彼がかつて誰かの人生を壊したのと同じように、彼の人生もまた、誰にも顧みられることなく、静かに朽ち果てようとしていた。


俺は、動画を停止した。

「ざまぁみろ」という感情すら、もはや湧いてこない。

ただ、因果応報という言葉の重みが、夕闇の中に沈んでいくのを感じるだけだった。

彼は一生、自分が踏みにじった人々の幻影に怯えながら、孤独の中で生きていく。

それが、彼に与えられた本当の刑期なのだ。


電車に乗り、俺は自宅のある静かな住宅街へと向かった。

最寄り駅を降りて、商店街を抜ける。

その途中、俺はふと、一人の女性の後ろ姿に足を止めた。

スーパーの袋を提げ、少し猫背気味に歩くその背中。

一瞬、心臓が跳ねたが、すぐにそれが別人であることに気づく。


琴音。

彼女が今、どこで何をしているのか、正確なことは知らない。

ただ、風の噂では、彼女は実家のある町でひっそりと事務員として働いていると聞いた。

あの事件の後、彼女は何度も俺に連絡を取ろうとしてきた。

手紙、メール、共通の友人を通じた伝言。

「もう一度だけ会ってほしい」「謝らせてほしい」

そんな言葉が並んだメッセージを、俺は一度も開くことなく削除し続けた。


彼女が後悔していることは分かっている。

彼女が苦しんでいることも、想像に難くない。

けれど、俺たちが過ごしたあの三年間を、自らの手で汚泥の中に投げ捨てたのは彼女自身だ。

一度壊れた硝子の靴は、どんな名医が繋ぎ合わせても、元の輝きを取り戻すことはない。

彼女は一生、俺という「かつて自分を一番愛してくれた存在」を失った喪失感を抱えて生きていく。

それは、死ぬよりも残酷な罰かもしれない。


「ただいま」


玄関のドアを開けると、温かな光と、出汁のいい香りが俺を迎え入れた。


「おかえりなさい、結希さん。今日は少し遅かったわね」


キッチンから顔を出したのは、妻の美咲――藤代美咲だ。

彼女は大学卒業後、一度は一般企業に就職したが、その後、俺と同じように被害者支援の道を選んだ。

今はNPO法人の代表として、困難な状況にある若者たちの支援に走り回っている。

俺たちが結婚したのは、三年前のことだった。


「ああ、ちょっと健太からの動画を見ててね」

「……また、あの人のこと?」


美咲は少しだけ寂しげに、けれど優しく微笑んだ。

彼女もまた、あのサークルの犠牲者の一人であり、俺と共に戦った戦友だ。

俺たちの間には、言葉にしなくても通じ合う「痛み」の記憶がある。

それは決して甘いものではないけれど、その痛みを分かち合えるからこそ、俺たちは今の穏やかな生活を何よりも大切に思えるのだ。


「いや、もう過去のことだ。それより、今日のご飯は何?」

「結希さんの好きな、肉じゃがよ。沙織さんから送られてきたジャガイモを使ったの」


佐倉沙織さん。

彼女もまた、自分の人生を取り戻した一人だった。

彼女は今、故郷で農業を営みながら、地元の子供たちに勉強を教えているという。

時折、彼女から送られてくる季節の野菜は、彼女が今、自分の足でしっかりと大地に立って生きていることの証だった。


夕食のテーブルを囲みながら、俺たちは他愛もない会話を交わす。

職場の出来事、週末の予定、そしていつか生まれてくる子供のこと。

そこには、高校時代に俺が夢見ていた、けれど一度は永遠に失われたと思っていた「幸せ」の形があった。


ふと、窓の外に目を向ける。

夜空には、都会の喧騒に負けじと、いくつもの星が輝いていた。

あの夏、俺の心は怒りと絶望で真っ黒に染まっていた。

琴音を愛していた自分を呪い、人を信じることを拒絶し、復讐のためだけに生きていた。

けれど、その暗闇の中で手を差し伸べてくれたのは、他でもない、俺と同じように傷ついた仲間たちだった。


俺は、引き出しの奥に仕舞い込んだ、一つの古いスマートフォンの存在を思い出した。

そこには、かつての琴音との写真や、あの日暴いた証拠の数々が保存されている。

何年かに一度、俺はその電源を入れる。

過去を懐かしむためではない。

自分がどれほどの痛みを越えてここに辿り着いたのか、その足跡を忘れないためだ。


復讐は、何も生まないと言う人がいる。

けれど、俺はそうは思わない。

あの時、俺が戦うことを選ばなかったら。

豪徳寺たちの悪行を黙認し、琴音への未練を抱えたまま逃げ出していたら。

今の俺は、間違いなく存在していない。

戦うことでしか守れない誇りがあり、暴くことでしか救われない魂がある。

俺は、自分の選んだ道に一片の後悔もなかった。


「結希さん、どうしたの? ぼんやりして」


美咲が心配そうに俺の顔を覗き込む。


「いや……今の生活が、本当に幸せだなって思ってさ」


俺がそう言うと、美咲は少し顔を赤らめ、嬉しそうに俯いた。

その表情を見ているだけで、俺の心は温かな凪の海のように静まっていく。


寝る前、俺は一人でベランダに出た。

夜風が火照った頬を冷やしてくれる。

ふと、遠くの街明かりを見つめながら、俺は一瞬だけ、もう会うことのない彼女のことを思った。


琴音。

君は今、どんな夢を見ているだろうか。

俺が贈ったあのブレスレットを、今でも思い出しているだろうか。

それとも、新しい誰かの隣で、あの頃と同じような「純粋なふり」をして生きているのだろうか。


けれど、それももう、俺には関係のないことだ。

君がどれほど後悔しようと、どれほど絶望しようと、俺の隣に君の居場所はもうない。

俺が守るべき人は、今、俺の後ろで静かに眠りに就こうとしている女性だけだ。


俺は、心の中で静かに、最後の一葉を切り離すように呟いた。


「さようなら、琴音。……元気で、なんて言わないけれど。精一杯、自分の犯した罪を背負って生きてくれ」


それが、俺から彼女への、本当の意味での最後の言葉だった。


翌朝、俺は眩しい朝日の中で目を覚ました。

隣で眠る美咲の寝顔を確認し、俺は静かにベッドから抜け出した。

キッチンでコーヒーを淹れる。

立ち昇る香ばしい香りが、今日という新しい一日の始まりを告げていた。


大学時代、俺は「普通の大学生」として、理不尽な暴力に立ち向かった。

特別な力も、裏の顔も持たなかったけれど、俺には真実を求める意志と、支えてくれる仲間がいた。

その結果として手に入れたのが、この何の変哲もない、けれど宝石のように輝く日常だ。


俺はベランダに出て、大きく深呼吸をした。

空はどこまでも高く、澄み渡っている。

あの騒乱の夏、俺が流した涙も、叫んだ怒りも、すべてはこの空の下に溶けて消えていった。

後に残ったのは、泥の中から咲いた、小さな、けれど決して枯れることのない絆の花だ。


「結希さん、おはよう。早いのね」


美咲が眠そうに目を擦りながら、ベランダにやってきた。


「おはよう、美咲。……空が、綺麗だよ」


俺がそう言って空を指差すと、彼女は俺の腕にそっと寄り添った。

その温もりが、俺が今、生きているという確かな実感を運んでくる。


俺の人生の物語は、これからも続いていく。

かつて負った傷跡は、消えることなく俺の心に刻まれている。

けれど、その傷跡はもう、俺を苦しめることはない。

それは、俺が逆境を乗り越え、自分の人生を自分の手で掴み取ったという、誇らしい勲章なのだから。


「さあ、朝ごはんを食べよう。今日は忙しくなりそうだ」

「ええ。頑張りましょう、瀬尾先生」


美咲が悪戯っぽく俺を呼び、俺たちは笑い合いながら部屋の中へと戻った。

朝日に照らされた食卓には、希望に満ちた新しい一日が広がっている。

俺はもう、過去を振り返ることはない。

一歩ずつ、一歩ずつ、愛する人の手を握りしめながら、輝かしい未来へと歩んでいく。


俺が用意した地獄の招待状。

それを受け取った彼らが、今、どのような闇の中にいようとも。

俺はもう、その闇を振り返る必要はない。

俺の目の前には、ただ真っ白で、どこまでも自由なキャンパスが広がっているのだから。


高校からの純愛は、確かにあの日、粉々に砕け散った。

けれど、その欠片の中から、俺は新しい「愛」の形を見つけた。

それは、痛みを知り、裏切りを越え、それでもなお、誰かを信じ抜くという強い意志。

それこそが、俺がこの戦いを通じて手に入れた、最高の宝物だった。


静かな朝の光の中で、俺は心からそう思った。

物語は終わった。

そして、新しい物語が、今ここから始まっていく。

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