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サイドストーリー 硝子の靴が粉々に砕けて――氷見谷琴音が彷徨う、終わりのない後悔

真っ白な天井を見つめながら、私は今日も動けずにいた。

かつては、朝が来るのが楽しみだった。

大学の講義、結希くんと一緒に食べるお弁当、放課後のカフェでの何気ないお喋り。

そんな「当たり前」の幸せが、私の世界のすべてだったはずなのに。

どうして私は、あんなにも簡単に、大切なものを手放してしまったんだろう。


実家の自室は、高校生の頃から変わっていない。

棚には結希くんと一緒に行った遊園地の写真や、彼がくれた小さなぬいぐるみが並んでいる。

けれど、今の私にはそれらが鋭い刃物のように見えて、正視することができない。

私は、自分の意志で、あの輝いていた時間を汚してしまったのだから。


大学に入学したばかりの頃、私は自分に自信がなかった。

地味で目立たなくて、周りの華やかな女の子たちに比べて、自分だけが取り残されているような気がしていた。

結希くんは「琴音はそのままで十分可愛いよ」と言ってくれたけれど、その言葉さえ、当時の私には「退屈な慰め」にしか聞こえなかった。


そんな時、私の前に現れたのが豪徳寺さんだった。

彼は、私が今までに出会った誰よりも強引で、それでいて甘い言葉を囁く人だった。


「琴音ちゃん、君はもっと輝ける場所にいるべきだよ。あんな狭い世界で、一人の男に縛られているのはもったいない」


その言葉は、私の心の奥底に眠っていた醜い承認欲求を、一気に呼び覚ました。

サークル『フェニックス』に入ったのも、最初はただ「自分を変えたい」という好奇心からだった。

けれど、豪徳寺さんという「王子様」に特別扱いされる快感は、麻薬のように私の思考を麻痺させていった。


「結希くんは、君の本当の魅力を分かっていない。僕なら、君をもっと高い場所へ連れて行ける」


豪徳寺さんに誘われるがまま、私は結希くんへの嘘を重ねていった。

最初は小さな罪悪感があった。

けれど、派手なパーティー、高価な酒、そして「サークルの姫」としてもてはやされる日常の中で、その罪悪感は薄れていった。

いつの間にか、私は結希くんのことを「私の新しい世界を邪魔する、古くて重い鎖」だと感じるようになっていた。


あの日のグループチャットで、私が打ち込んだ言葉を思い出す。


『結希くんって、本当に真面目すぎて退屈なんだよね。もっと早く別れればよかった』


あんな言葉、本心じゃなかったはずなのに。

でも、その場の空気に流されて、豪徳寺さんたちに認められたくて、私は自分を一番愛してくれた人を笑いものにした。

その時、私は自分の手で、結希くんという唯一の味方を殺してしまったのだ。


「……バカだった。本当に、バカだった」


私は枕に顔を押し当てて、声にならない声を漏らした。

豪徳寺さんたちが私に向けていたのは、愛情ではなく、ただの好奇心と支配欲だった。

私は彼らにとって、自分たちを「上位の存在」だと思い込ませるための、使い捨てのおもちゃに過ぎなかった。

それを「特別な関係」だと信じ込んで、誇らしげに振る舞っていた自分の姿を思い出すだけで、吐き気がする。


あの日、ホテルの大宴会場で見た映像。

スクリーンに映し出された私は、自分でも見たことがないほど醜い顔をしていた。

意識が混濁した状態で、男たちに弄ばれ、それを豪徳寺さんが冷笑しながら撮影している。

「チョロい」「次はどうやって遊ぼうか」

彼らの本当の声を聞いた瞬間、私の世界のすべてが音を立てて崩れ去った。


私は、自分が「姫」だと思っていた場所が、実は底なしの泥沼だったことを知った。

そして、その泥沼の淵で、私を必死に引き上げようとしてくれていたのが結希くんだったことも。

けれど、私は彼が差し出してくれた手を、あざ笑いながら振り払ったのだ。


「結希くん……助けて……」


パトカーに連行される豪徳寺さんの背中を見ながら、私は何度も心の中で彼の名前を呼んだ。

けれど、結希くんは私を見てくれなかった。

彼の瞳には、かつての私に向けられていた温かな光はもうなくて、ただ冷たい虚無だけが宿っていた。

彼にとって、私はもう「愛する彼女」ではなく、ただの「かつての知り合い」に成り下がっていた。


事件の後、大学から退学勧告を受け、私は実家へと連れ戻された。

両親は泣いていた。近所の人たちの冷たい視線が突き刺さる。

SNSを開けば、私の名前や写真が晒され、見知らぬ人たちから「自業自得だ」「汚らわしい」と罵倒される。

何より辛かったのは、豪徳寺さんが逮捕され、サークルが解散したことで、私の周りから誰もいなくなったことだ。

あんなに「友達」だと思っていた人たちは、蜘蛛の子を散らすようにいなくなり、誰も私のことを心配してはくれなかった。


それでも、私はどこかで結希くんが許してくれると信じていた。

彼は優しいから。私を三年間も愛してくれた人だから。

だから、あの日の放課後、私は最後の手続きのために大学へ行き、彼を待ち伏せした。

かつての思い出がある、あの食堂で。


「結希くん、本当はあの場所が嫌いだった。結希くんと一緒にいる時が、一番幸せだったの……」


私は必死に泣きつき、彼に縋った。

騙されていたんだと、無理やり飲まされていたんだと、被害者であることを強調すれば、また彼は私を抱きしめてくれると思っていた。

けれど、彼は私の言い訳を静かに、そして残酷に遮った。


「君が自分の意志で打ち込んだ言葉だ。……一度壊れた信頼は、どんなに悔いても、二度と元には戻らないんだよ」


彼が差し出した、あのチャットのログ。

自分が打ち込んだ冷たい言葉の数々が、今の自分を切り裂く刃となって返ってきた。

その時、私はようやく理解した。

私は、彼を裏切っただけじゃない。

彼が私に注いでくれた三年間という時間そのものを、永遠に奪ってしまったのだ。


「さようなら、琴音。もう、俺の名前を呼ばないでくれ」


去っていく結希くんの背中を見つめながら、私は叫んだ。

何度も、何度も、声を枯らして彼の名前を呼んだ。

けれど、彼は一度も振り返らなかった。

正門へと歩いていく彼の隣には、凛とした表情の藤代さんが並んでいた。

その光景を見て、私の心は完全に粉々に砕けた。


あの場所は、かつて私のものだった。

彼の隣で、一緒に笑い、一緒に歩く特権を、私は持っていた。

それを自分から捨てて、偽物の輝きに飛び込んだ。

「もう遅い」という言葉の重みが、ようやく私の全身を押し潰した。


実家での生活は、ただ息をしているだけの地獄だ。

外に出れば誰かに後ろ指を指されているような気がして、夜も眠れない。

たまに届くのは、警察や弁護士からの事務的な連絡。

そして、サークルの元メンバーたちが責任を擦り付け合うための、罵詈雑言のメッセージ。


私はふと、自分の左手首を見た。

高校二年生の誕生日に、結希くんがアルバイトで貯めたお金で買ってくれた、安いブレスレット。

あんなに大切にしていたはずなのに、豪徳寺さんに「安物だね」と言われて、どこかへ捨ててしまった。

あのブレスレットを捨てた時、私は自分の心も一緒に捨ててしまったのかもしれない。


もし、あの日に戻れるなら。

もし、豪徳寺さんに声をかけられた時、冷たくあしらって、結希くんの元へ走って行けたなら。


「結希くん、今日の講義、面白かったよ」


そう言って、彼の袖を掴んで笑い合えたなら。


けれど、現実に「もしも」なんて存在しない。

カレンダーの数字は無情にも進み、私は二度と戻れない過去に取り残されている。

大学では、結希くんが新しいサークルを立ち上げ、被害者の女の子たちのために頑張っていると聞いた。

彼はもう、私のいない世界で、新しい幸せを見つけ始めている。


私は、机の引き出しの奥から、一枚の紙を取り出した。

それは、結希くんが高校の卒業式の日に書いてくれた、短い手紙だった。

『大学に行っても、ずっと琴音のそばにいるよ。二人でたくさん思い出を作ろう』

その文字をなぞるだけで、涙が止まらなくなる。

彼は約束を守ろうとしていた。

私を信じて、私との未来を誰よりも大切にしようとしていた。

それを一方的に破り、泥靴で踏みにじったのは、紛れもなく私自身なのだ。


「……うう、あああ……っ!」


私は手紙を胸に抱きしめ、畳の上に泣き崩れた。

いくら泣いても、喉が枯れるほど叫んでも、失った時間は一秒も戻ってこない。

私は、これから一生、この孤独と罪悪感の中で生きていかなければならない。

誰にも愛されず、誰にも必要とされず、ただ「裏切り者」というラベルを貼られたまま。


テレビをつければ、豪徳寺さんの実家が破産したというニュースが流れている。

彼はこれから長い年月を刑務所で過ごすことになるだろう。

ざまぁみろ、なんて思う余裕すらない。

彼が地獄に堕ちたところで、私の人生が元に戻るわけではないのだから。


窓の外では、蝉の声がうるさく響いている。

季節は夏。

本来なら、結希くんと一緒に海へ行ったり、花火を見たりして、新しい思い出を作っていたはずの夏。

私は薄暗い部屋の中で、ただ一人、過去の残骸を抱えて震えている。


「結希くん……。ごめんなさい、ごめんなさい……」


届くはずのない謝罪を、私は何度も繰り返す。

けれど、部屋の静寂がそれを嘲笑うように包み込む。

私は、一瞬の虚栄心のために、一生分の幸せをドブに捨てた。

その代償は、あまりにも重く、あまりにも冷たい。


ふと、鏡に映った自分の顔を見た。

ひどい隈ができ、肌は荒れ、目は濁り、生気のかけらもない。

豪徳寺さんが言っていた「輝ける場所」なんて、最初からどこにもなかった。

私は、ただの平凡な女の子として、結希くんに愛されているだけで、十分に輝いていたのだ。

そのことに気づいた時、私はすでにすべてを失っていた。


「……もう、戻れないんだね」


私は鏡に映る自分に、そう問いかけた。

鏡の中の私は、ただ絶望に染まった瞳で、私を見つめ返してくるだけだった。


夕暮れ時、私は一人で近所の河川敷へ歩いて行った。

高校時代、結希くんと一緒に自転車で走り抜けた道。

オレンジ色に染まる川面を見つめながら、私はポケットからスマートフォンを取り出した。

彼の連絡先は、とっくに消されている。

けれど、暗記してしまったその番号を、何度も入力しては消した。


一度だけ。

一度だけでいいから、彼の声を聞きたい。

「琴音?」

そう呼んでくれる、あの優しい声。

けれど、私が電話をかけたとしても、彼が出ることはないだろう。

それどころか、着信を見ただけで、彼は不快な表情を浮かべるに違いない。

私はもう、彼の人生において「不必要な不純物」でしかないのだ。


私はスマートフォンを強く握りしめ、そのまま川へ投げ込もうとした。

けれど、私にはその勇気さえなかった。

唯一、彼との繋がり(といっても、ただの番号だが)を感じられるものを手放すことが、怖かった。

私は結局、スマートフォンをポケットに戻し、その場に座り込んだ。


「……ああ、寒い」


夏だというのに、体の芯が凍えるように冷たい。

誰の手の温もりも感じられない夜が、またやってくる。

明日も、明後日も、一年後も、十年後も。

私はこの冷たさの中で、結希くんの名前を呼び続け、そして拒絶され続けるのだろう。


硝子の靴を自分から脱ぎ捨て、裸足で茨の道を歩くことを選んだのは、私だ。

足から血が流れても、誰も絆創膏を貼ってはくれない。

「もう遅い」

その四文字が、私の人生のすべてを決定づけた。


私は、暗くなっていく川を見つめながら、ただ静かに、終わりのない後悔の涙を流し続けた。

夜の帳が降り、街に明かりが灯り始める。

その明かりの中に、私の居場所はもう、どこにもなかった。

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