サイドストーリー 影の守護者、あるいは記録者の独白――阿久津健太の戦い
レンズ越しに覗く世界は、時として残酷なほどに真実を突きつけてくる。
俺、阿久津健太は、高校生の頃からカメラを回すのが趣味だった。
文化祭の記録ビデオ、体育祭のダイジェスト、そしてなんてことのない放課後の風景。
そのファインダーの中に、いつも当たり前のように収まっていた二人の姿がある。
瀬尾結希と、氷見谷琴音だ。
「健太、また撮ってるのかよ。恥ずかしいからやめろって」
そう言って照れくさそうに笑う結希と、その隣で「あ、私も今の変な顔してたかも!」と顔を赤らめる琴音。
あの頃の二人は、この世界のどこを探しても見つからないほど、純粋で、眩しい「正解」のカップルだった。
俺は、そんな二人の幸せを記録し続けるのが好きだった。
平凡な俺にとって、誠実な結希と心優しい琴音が結ばれていることは、一種の希望でもあったからだ。
けれど、大学という巨大な装置は、そんなささやかな希望をいとも簡単に粉砕してしまった。
六月の蒸し暑い日の夜、俺は大学近くの居酒屋のテラス席で、最悪の光景を目にした。
派手な高級車から降りてきた豪徳寺蓮と、その腕に抱かれるようにして歩く琴音。
彼女の目は虚ろで、かつての清純な面影は、けばけばしいメイクと露出の多い服に塗り潰されていた。
俺は反射的に、鞄の中にあったビデオカメラを手に取ろうとしたが、手が震えて動かなかった。
「……嘘だろ、氷見谷さん」
その夜、俺は結希に電話をかけた。
親友が壊れていくのを黙って見ていることなんてできなかった。
だが、電話越しに聞こえてくる結希の声は、俺の想像以上に冷え切っていた。
彼はすでに、何かが起きていることに気づいていた。
そして、その悲しみを、静かな「決意」へと変換し始めていた。
「健太、頼みがある。俺一人の力じゃ、あいつらの牙城は崩せない。お前の技術を、貸してほしいんだ」
その言葉を聞いた瞬間、俺の迷いは消えた。
俺は、結希を救うためなら、どんな「影」の仕事だって引き受ける覚悟を決めた。
それからの一ヶ月、俺の生活は一変した。
大学の講義を適当にこなし、空いた時間のすべてを『フェニックス』という醜悪な集団の調査に捧げた。
俺の武器は、ハイスペックなパソコンと、これまで培ってきた映像編集のスキル。
そして、誰もが油断して垂れ流すSNSという名の情報の汚泥だ。
「結希、見てくれ。これが『フェニックス』のメンバーたちが鍵付きアカウントで投稿していた動画の断片だ」
俺のアパートの狭い部屋で、俺たちは無数のモニターと向き合った。
画面に映し出されるのは、見るに堪えない乱痴気騒ぎの記録。
豪徳寺たちが、抵抗できない女の子たちに酒を注ぎ、それを嘲笑いながら撮影している。
琴音もその中にいた。
彼女がどんな風に追い詰められ、支配されていったのか。
コマ送りの映像は、彼女が次第に心を失っていくプロセスを冷酷に描き出していた。
「……こいつら、自分たちが何をしているのか分かってないのか」
結希が隣で拳を握りしめているのが分かった。
爪が手の平に食い込み、血が滲んでいる。
俺は、彼の怒りを無駄にしないために、それらの動画を一つ一つ整理し、日付と場所を特定し、証拠としての価値を高めていった。
「健太、これに美咲さんから預かった帳簿のデータを組み込めるか?」
「ああ、任せろ。映像、音声、そして数字の証拠。これらが一つに組み合わさった時、あいつらに逃げ場はなくなる」
俺の仕事は、地味で孤独な作業だ。
何百時間という動画を見返し、その中から決定的瞬間を切り出す。
豪徳寺の自白に近い発言、薬物の取引を匂わせるやり取り、女子大生たちを「ランク付け」して笑っている会議の様子。
それらを一本の「地獄への招待状」として編集していく。
テロップを入れ、音声のノイズを除去し、視聴者が一目でその異常性を理解できるように構成を練る。
皮肉なことに、俺の映像制作のスキルは、この復讐という目的のためにかつてないほど磨かれていった。
一方で、潜入調査も並行して行った。
俺はサークルの下っ端が使いそうな服を着て、あいつらの溜まり場である駅前のラウンジの周辺をうろついた。
阿久津健太という存在を消し、背景に溶け込む。
隠しカメラを仕込み、現場の音を拾う。
ある夜、豪徳寺が取り巻きたちを連れて、琴音のことを「使い古したおもちゃ」のように扱っている場面を録音できた時は、怒りで意識が飛びそうになった。
「あいつ、マジで殺してやりたい……」
そう漏らした俺に、結希は静かに首を振った。
「殺す必要はない。あいつにとって一番の苦しみは、自分が手に入れたすべてを失い、誰からも相手にされず、惨めに生き続けることなんだから」
結希のその言葉を聞いた時、俺は確信した。
彼は、ただの被害者ではない。
正義という名の剣を正しく振るうための、執行者になろうとしているのだ。
決行の三日前。
俺は、会場となるホテルの音響・映像システムをハッキングし、バックドアを仕掛ける作業に取り掛かった。
幸いなことに、あいつらが使っているシステムは、見た目こそ豪華だがセキュリティは甘かった。
俺は管理者権限を奪取し、当日のメインプログラムをいつでも上書きできるようにセットした。
「結希、準備は完了だ。俺が『Enter』キーを押した瞬間、あの中庭のような華やかなパーティーは、公開処刑場に変わる」
「ありがとう、健太。……お前を、こんな汚い仕事に巻き込んで悪かった」
結希が申し訳なさそうに俺を見た。
俺は、そんな親友の顔を見て、初めて本音を漏らした。
「馬鹿言うな。俺は、お前と一緒にあの日々の『続き』を作りたかったんだ。氷見谷さんのことも、俺は信じてた。……だから、あいつらを許せないのは俺も同じだ。汚い仕事だろうがなんだろうが、俺にとっては最高に意味のある制作活動だよ」
決行当日。
俺はホテルの機材室に、アルバイトのスタッフを装って潜入した。
インカムからは、豪徳寺の楽しそうな、それでいて下品な笑い声が漏れ聞こえてくる。
モニターには、何も知らずに着飾った学生たちが、シャンパングラスを傾けている姿が映っている。
そして、その中央で、王のように振る舞う豪徳寺。
彼の隣で、心ここにあらずといった様子で立ち尽くす琴音。
「……さあ、パーティーの時間だ」
俺は、キーボードの上に指を置いた。
結希が壇上で豪徳寺と対峙するのを確認する。
インカムを通じて、結希の冷徹な声が聞こえてきた。
『……そうか。なら、その万能感も、今日で終わりだ』
それが合図だった。
俺は、震える指で『Enter』を叩いた。
一瞬の静寂。
そして、会場のスピーカーから、爆音とともにあの不快な嘲笑が流れ出した。
メインスクリーンには、俺が何百時間もかけて編集した、あいつらの罪の記録が鮮明に映し出される。
機材室のモニター越しに、会場がパニックに陥る様子が見えた。
豪徳寺の顔が驚愕に染まり、やがて土気色に変わっていく。
泣き叫ぶ女子学生、逃げ出そうとする幹部、そして、呆然とスクリーンを見つめる琴音。
俺は、そのすべての光景を別のカメラで記録し続けた。
これは復讐の記録であり、正義が執行された瞬間の証拠だ。
あいつらが隠してきた「裏の顔」が、白日の下に晒される快感。
俺の指先一つで、あれほど強大に見えた権力の城が瓦解していく。
「ざまぁみろ……」
思わず言葉が漏れた。
俺は、決して特別な人間じゃない。
ただの映像オタクで、友達思いなだけの平凡な大学生だ。
けれど、その平凡な俺が、結希という友のために牙を剥いた。
それが、これほどまでに巨大な結果を生んだのだ。
会場に警察が突入し、豪徳寺が連行されていく。
パトカーの赤色灯がホテルの窓を不気味に赤く染めている。
俺は、機材室を片付け、静かに裏口から外に出た。
夜の空気は、激しい雨のせいでひどく冷たかった。
玄関先で、ずぶ濡れになった結希を見つけた。
彼は一人、パトカーが走り去るのをじっと見送っていた。
俺は傘も差さずに彼に近づき、その肩に手を置いた。
「結希。……終わったな」
「……ああ。終わったよ、健太。ありがとう」
結希の横顔は、憑き物が落ちたように穏やかだった。
けれど、その瞳の奥には、二度と戻らない幸せへの未練が、ほんの少しだけ残っているように見えた。
彼は、琴音を救った。
けれど、救った後の世界に、彼女と一緒にいる自分の姿を描くことはなかった。
それが、どれほど残酷で、正しい決断か、俺には分かっていた。
数日後、俺は自分のアパートで、これまでに集めたすべての証拠データを外付けハードディスクに移動させた。
警察に提出したものとは別に、結希のためにバックアップを取っておくためだ。
作業を終え、俺はふと、高校時代の動画ファイルを一つ開いてみた。
そこには、昼休みの屋上で、俺に向かってピースサインをする結希と琴音がいた。
「阿久津、また撮ってんのかよー!」
笑いながら画面を指差す結希。
「いいじゃん、記念だよ」
そう言って、隣で微笑む琴音。
その映像の中の二人は、あんなに幸せそうだった。
あんなに、お互いを必要としていた。
俺は、その動画を再生し続けながら、一本の缶ビールを開けた。
一口飲むと、喉を焼くような苦味が広がった。
「……もう、撮れないんだな」
俺のファインダー越しに映る世界から、あの「正解」のカップルは消えてしまった。
これから俺が撮るのは、きっと別の景色だ。
一人で立ち上がり、前を向いて歩き出す結希の背中。
新しく出会う人々。
そして、自分自身の未来。
数週間後、大学の食堂で俺は結希と落ち合った。
彼は、以前よりも少しだけ精悍な顔つきになっていた。
事件の残務処理や、被害者支援の活動で忙しそうにしているが、その表情には迷いがない。
「健太、お前に見せたいものがあるんだ」
結希が差し出してきたのは、新しく設立するボランティアサークルの企画書だった。
そこには、俺が編集したあの映像の一部を、啓発活動のために使いたいという希望が書かれていた。
「……いいのか? あれを見ると、お前も辛いだろ」
「辛くないと言えば嘘になる。でも、あれを単なる復讐の道具で終わらせたくないんだ。二度と同じような被害者を出さないために、あの『記録』には価値があると思うんだよ」
結希の言葉に、俺は胸が熱くなった。
俺の技術が、今度は誰かを守るための「盾」になる。
復讐という「毒」が、結希の手によって「薬」に変えられようとしている。
「分かった。最高の編集をしてやるよ。今度は、絶望させるためじゃなくて、希望を見せるための映像にな」
俺たちは笑い合い、いつも通りのラーメンを食べに行った。
話題は、次の講義のことや、最近面白かった動画のこと。
かつての三人の話題は、あえて出さなかった。
それは、俺たちの心の中に大切にしまっておくべき、聖域のようなものだから。
俺は、食後にスマートフォンのカメラを立ち上げ、結希に向けた。
「おい、やめろって健太」
「いいじゃん。今日からが、俺たちの新しい物語の第一話なんだから」
ファインダーの中に収まった結希は、少し照れくさそうに、けれど力強く笑ってみせた。
その背景には、青く晴れ渡った大学の空が広がっている。
俺はシャッターを切った。
世界は残酷で、理不尽で、時として善人を踏みにじる。
けれど、それを記録し、抗い、共に戦う仲間がいる限り、物語は終わらない。
俺は、これからもレンズ越しに結希の歩みを見守り続けるだろう。
彼が本当の幸せを掴むその日まで。
俺のカメラが捉える世界は、少しずつ、新しい色彩を帯び始めていた。
泥を這った後の、澄み切った空の色。
それは、どんな映画の特殊効果よりも美しく、俺の胸に響いた。
「よし、いい画が撮れた」
俺はカメラを鞄にしまい、結希の隣を歩き出した。
俺たちの前には、まだ何もない、真っ白な未来が広がっている。
そこにどんな映像を描き込んでいくのか、それはこれからの俺たち次第だ。
俺の仕事は、まだまだ終わらない。




