サイドストーリー 泥濘の中で見つけた光――壊された少女が「自分」を取り戻すまで
鏡の中に映る自分を見るのが、ずっと嫌いだった。
かつては、明るめの茶色に染めた髪を巻き、流行りのメイクを研究して、明日という日が来るのを純粋に楽しみにしていた。
けれど、あの日を境に、私の世界の色彩はすべて剥げ落ちてしまった。
今の私は、地味な黒髪を後ろで一つに結び、視線を隠すように深い前髪を下ろしている。
大学の講義には出席するけれど、学食には行かない。
華やかな笑い声が聞こえる中庭を避け、古い資料館や図書館の片隅で、ただ静かに時間が過ぎるのを待つだけの日々。
佐倉沙織。それが、一度壊されて、継ぎ接ぎだらけになった私の名前だ。
私の心を壊したのは、一人の男と、彼が支配する『楽園』だった。
豪徳寺蓮。
大学に入学してすぐ、右も左も分からなかった私に、彼は信じられないほど優しく接してくれた。
「沙織ちゃんは、原石だね。僕たちが、君をもっと輝かせてあげるよ」
その言葉を信じて足を踏み入れたインカレサークル『フェニックス』は、私にとっての救いではなく、底なしの沼だった。
一度飲まされた強い酒。意識が混濁する中で聞こえてきた、卑劣な笑い声。
目が覚めた時、私の世界は終わっていた。
豪徳寺は、絶望する私にスマートフォンを突きつけ、録画された動画を見せながらこう言った。
「これをバラ撒かれたくないだろ? だったら、これからも僕たちの言うことを聞くんだ。……大丈夫、君はまだ、僕たちの役に立てるんだから」
それからの数ヶ月間を、私はどうやって生きていたのか思い出せない。
脅され、利用され、心を殺して、彼の機嫌を取るだけの毎日。
逃げ出そうとしても、私の弱みはあちこちに張り巡らされ、もはやどこにも居場所なんてなかった。
結局、私は心身ともに限界を迎え、隠れるようにサークルを抜けた。
大学当局に訴えようとしても、豪徳寺の背後にある権力と、自分の醜い姿が公になる恐怖に足がすくみ、ただ逃げることしかできなかったのだ。
そんなある日。
資料館の裏にあるベンチで、私は一人の青年に声をかけられた。
瀬尾結希。
私より一つ年下の、どこにでもいるような普通の大学生。
けれど、彼の瞳には、かつての私にはなかった、静かだが激しい怒りの炎が宿っていた。
「……佐倉沙織さん、ですよね。阿久津くんから話を聞きました。力を、貸してほしいんです」
最初は、断るつもりだった。
もう関わりたくない。あの悪夢を、一文字だって言葉にしたくない。
「やめておいた方がいいです」
そう言って突き放そうとしたけれど、彼は諦めなかった。
自分の恋人が今、まさに私が辿った道と同じ地獄に堕とされようとしていること。
それを止めるために、自分のすべてを賭けて戦うつもりであることを、彼は切実に語った。
「俺一人の力じゃ、あいつらには勝てない。でも、佐倉さんたちの証言があれば、あいつらを社会的に抹殺できる。……もう、これ以上犠牲者を出したくないんです。君のような思いを、誰にもさせたくない」
その言葉が、私の凍りついていた心の表面を、ほんの少しだけ溶かした。
「君のような思いを、誰にもさせたくない」
あの日、誰かにそう言ってほしかった。
誰かに、私の痛みを見つけてほしかった。
私は、震える唇を噛み締め、彼にすべてを話すことに決めた。
それが、私の「自分」を取り戻すための、最初の一歩になると信じて。
それからの日々は、まるでスパイ映画のような緊張感の連続だった。
結希くんと阿久津くん、そしてかつてのサークル幹部だった藤代美咲さん。
私たちは、誰にも知られないように秘密の会議を重ねた。
結希くんは、私が震えながら語る過去の出来事を、一つ一つ丁寧に記録していった。
「大丈夫です、佐倉さん。無理に全部話さなくていい。俺たちが、あいつらを絶対に逃がさない証拠に変えてみせますから」
彼の言葉は、不思議と信頼できた。
彼は特別な力を持っているわけではないけれど、地道に、泥臭く、被害に遭った女の子たちを一人ずつ訪ね歩いていた。
拒絶され、罵倒されることもあっただろう。
それでも彼は、決して挫けなかった。
その真っ直ぐな背中を見ているうちに、私の中にも、小さな勇気が芽生え始めた。
「藤代さん、これ……私が隠し持っていた、あの時の写真です。……いつか、証拠になるかもしれないと思って、消せなかった」
私は、スマートフォンの奥深くに隠していた、見るのも忌まわしいデータを藤代さんに託した。
藤代さんは、私の手をぎゅっと握り、力強く頷いてくれた。
「ありがとう、沙織。怖かったわよね。でも、もう大丈夫。この一歩が、あいつらの首を絞めることになるわ」
決行の夜。
私は弁護士の先生と一緒に、ホテルの入り口で警察の突入を待っていた。
雨が激しく降る中、パトカーの無線から聞こえてくるノイズが、心臓を直接叩くように響く。
ホテルの大宴会場では、今まさに豪徳寺たちが、勝利の美酒に酔いしれているはずだ。
その中に、新しい犠牲者である氷見谷琴音さんがいる。
私は、彼女のことが他人事とは思えなかった。
きっと、彼女も混乱しているはず。
優しくされた記憶と、踏みにじられた現実の間で、何が正しいのか分からなくなっているはず。
琴音さん。あなたは、私たちが助ける。
だから、どうか自分を責めないで。
「……突入開始します」
刑事さんの低い声が響いた。
その瞬間、私の前を何台ものパトカーが走り抜け、ホテルの玄関前に急停車した。
中から飛び出していく警察官たちの姿を見ながら、私は祈るような気持ちで拳を握りしめた。
数十分後。
ホテルの入り口から、何人もの学生が連行されてきた。
金色のジャケットを着て、喚き散らしている男――豪徳寺蓮。
その姿を見た瞬間、私の全身から、これまで感じたことのないほど冷たい汗が吹き出した。
あんなに恐ろしかった男が、今は警察官に押さえつけられ、みじめに泥を啜るような姿を晒している。
「瀬尾! 貴様、瀬尾だろう! 出てこい!」
豪徳寺の叫び声が、夜の雨音に消されていく。
そのパトカーの影から、ずぶ濡れになった結希くんがゆっくりと現れた。
彼は、豪徳寺を一瞥することもなく、そのまま私の元へと歩み寄ってきた。
「……終わりましたよ、佐倉さん」
彼の声は、微かに震えていた。
安堵なのか、それとも深い悲しみなのか。
私は彼の顔を見て、自然と涙が溢れ出した。
あの日、暗い部屋で一人で泣いていた私。
誰にも助けを求められず、消えてしまいたいと思っていた私。
その私が、今、ようやく救われたのだと、魂が震えるのを感じた。
「ありがとうございます、瀬尾くん。……本当に、ありがとうございます」
私は何度も何度も、彼に頭を下げた。
彼は、私の肩を優しく叩くと、そのまま琴音さんの元へと向かっていった。
遠くで、琴音さんが泣き崩れるのが見えた。
結希くんに縋り付き、許しを請う彼女の声。
けれど、結希くんは彼女を抱き寄せることはしなかった。
彼の背中は、どこまでも孤独で、けれど確かな意思に満ちていた。
一度壊れた絆は、二度と元には戻らない。
それを一番よく分かっていたのは、彼女を誰よりも愛していた結希くん自身だったのだろう。
事件の後、大学内は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
連日、メディアが詰めかけ、サークルの悪行が次々と明るみに出た。
豪徳寺家は破産し、彼らの盾となっていた有力者たちも次々と失脚していった。
私は、藤代さんと一緒に被害者窓口を設置し、声を上げられずにいた他の女の子たちのサポートを始めた。
最初は、自分の正体を明かすのが怖かった。
けれど、私が名乗りを上げることで、救われる誰かがいる。
「私も、あなたと同じでした」
その一言が、どれほど相手の心を軽くするか、私は身を持って知っていたから。
「佐倉さん、最近表情が明るくなったね」
昼休みの学食で、阿久津くんが声をかけてきた。
私は今、一人で学食に通えるようになっている。
まだ大勢の人の前では緊張するけれど、それでも、逃げるように隠れることはなくなった。
「そうですか? ……自分では、あまり分かりませんけど」
「いや、本当に。瀬尾も言ってたぜ。佐倉さんが前を向いてくれて、本当に良かったって」
私は窓の外の青空を見上げた。
あの日、結希くんが私の隣に座ってくれなかったら。
私が自分の恐怖に負けて、首を横に振っていたら。
私は今でも、あの暗い資料館の影で、自分を呪いながら生きていたに違いない。
瀬尾結希。彼は、私の人生を変えた恩人だ。
けれど、彼は決して自分の功績を誇ることはしなかった。
彼は今、藤代さんと共に、大学の自治を正すための活動に精を出している。
彼の隣には、もはや琴音さんの姿はないけれど、その横顔には、新しい信念が宿っているように見えた。
「……ねえ、阿久津くん。私、次のボランティアの集まり、司会をやってみようと思うの」
「えっ、マジで? 大丈夫かよ、緊張しすぎて噛むなよ?」
阿久津くんが茶化すように笑う。
私は少しだけ、ふふっと笑みを返した。
「大丈夫。私、もう逃げないって決めたから」
鏡の中の自分を見るのが、少しずつ怖くなくなってきた。
傷跡はまだ残っている。
ふとした瞬間に、あの時の手の感触や、冷たい笑い声が蘇って、動悸がすることもある。
けれど、今の私には、それを分かち合える仲間がいる。
泥濘の中に沈んでいた私を引き上げてくれた、結希くんたちがいる。
大学のキャンパスを歩く。
風が心地よく、肌を撫でていく。
かつては恐怖の対象でしかなかったこの場所が、今は、私が私の人生をやり直すための舞台に変わっていた。
ふと見ると、掲示板の前に立っている結希くんの姿があった。
彼は、新しいサークルの設立許可証を眺めていた。
それは、かつての『フェニックス』のような、誰かを踏みにじるための組織ではない。
孤独な学生たちが、安心して繋がれるための場所。
私は彼に近づき、そっと声をかけた。
「瀬尾くん、お疲れ様」
彼は振り返り、驚いたような顔をした後、いつものように穏やかに笑った。
「佐倉さん。……似合ってますよ、その髪型」
私は、前髪を少しだけ上げて、額を出した新しいヘアスタイルを指でなぞった。
「ありがとうございます。……瀬尾くんのおかげで、ようやく新しい自分に出会えた気がします」
「俺のおかげじゃありませんよ。佐倉さんが、自分の力で歩き出したんです」
彼はそう言って、眩しそうに空を見上げた。
その瞳には、もはや過去の執着も、怒りも残っていなかった。
ただ、どこまでも続く未来だけを見据えている、一人の青年の眼差し。
私たちは、誰からともなく歩き出した。
それぞれの道は違っても、目指す場所は同じだと分かっていたから。
踏みにじられた記憶は、消えることはない。
けれど、その記憶があるからこそ、私たちは他人の痛みに寄り添い、優しくなれる。
私は、もう二度と、豪徳寺のような人間に自分を預けたりはしない。
私の心は、私のものだ。
私の人生は、私が決める。
「……よし」
小さく呟き、私は前を向いた。
世界はまだ、泥濘に満ちているかもしれない。
けれど、そこには必ず、共に歩んでくれる誰かがいる。
泥を這ってでも、真実を暴き、光を掴み取ろうとしたあの夏の日を、私は一生忘れない。
キャンパスの鐘が、昼休みが終わることを告げる。
その音は、私にとっての「終わりの合図」ではなく、新しい自分としての「始まりの合図」だった。
私は大きく一歩を踏み出し、講義棟へと向かう人混みの中へと、力強く歩き出していった。




