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サイドストーリー 道化師に堕ちた王子様――豪徳寺蓮の傲慢な回想と無残な終焉

この世界は、捕食者と被食者の二種類で構成されている。

高級マンションの最上階、全面ガラス張りのリビングから見下ろす街の灯りは、俺にとって、いつでも好きな時に飲み込める宝石箱のようなものだった。

豪徳寺蓮ごうとくじ れん。それが俺の名前であり、この世界の勝者に与えられた記号だ。


「蓮さん、次はどの子にするんですか? 今月のターゲットリスト、更新しておきましたよ」


ソファに座る俺の足元で、サークルの幹部の一人がタブレットを差し出してくる。

画面には、大学に入ったばかりの無垢な新入生たちの写真が並んでいた。

俺が代表を務めるインカレサークル『フェニックス』は、大学という名の牧場に放たれた、飢えた狼たちの社交場だ。

もちろん、俺はその頂点に立つ王だ。


「……どれも似たような顔だな。もっとこう、『壊しがい』のある女はいないのか?」


俺が求めているのは、単なる快楽ではない。

誰かに深く愛され、守られている存在。それを自分の手で汚し、塗り替え、最後には自分自身の手でその絆を断ち切らせる。

その瞬間、彼女たちの瞳に宿る絶望こそが、俺にとっての最高のスパイスだった。


そんな時、俺の目に留まったのが、氷見谷琴音だった。

大学の掲示板の前で、地味な男――瀬尾結希とかいうモブ――と仲睦まじく笑い合っている姿。

彼女の瞳には、打算も汚れもない、透き通った信頼が宿っていた。


「あの子だ。あの『純愛』を、俺たちの色に染め上げてやろう」


俺は、獲物を決めた時の特有の高揚感に包まれていた。

瀬尾とかいう男は、どこにでもいる「いい人」だった。

真面目で、誠実で、彼女のことを心から大切にしている。

だが、そんなものはこの世界では何の役にも立たない。

金、地位、そして甘い嘘。

それらを持たない弱者が、俺のような捕食者から獲物を守れるはずがないのだ。


攻略は、驚くほど簡単だった。

最初は、偶然を装った親切から始めた。

サークルの勧誘という名目で彼女に近づき、瀬尾には決して与えられない「特別な世界」を見せつけてやった。

高級レストランでの食事、華やかなパーティー、そして俺の洗練された振る舞い。

彼女は最初こそ警戒していたが、次第に俺が与える「特別感」という毒に侵されていった。


「琴音ちゃん。君はもっと、広い世界を知るべきだよ。あんな狭い世界で、一人の男に縛られているのはもったいない」


俺の囁きは、彼女の心の奥にある承認欲求という名の火種を燃え上がらせた。

瀬尾への罪悪感を、俺は「君は悪くない」「彼が君を縛り付けているだけだ」という言葉ですり替えてやった。

さらに、サークルの飲み会で密かに提供する『魔法の薬』が、彼女の理性を少しずつ溶かしていく。

意識が朦朧とする中で、俺が彼女の体を自由に扱う。

その様子を動画に収めれば、もう彼女に逃げ場はない。


「見てごらん、琴音ちゃん。君はこんなにも、俺のことを求めているじゃないか。これを瀬尾くんが見たら、どう思うだろうね?」


泣き崩れる彼女に、俺は優しく、だが逃げられないように抱き寄せた。

これが、俺のいつもの勝ちパターンだ。

一度恐怖と恥辱に染まった女は、自分を守るために俺に従順な『姫』へと成り下がる。

瀬尾の前で平然と嘘をつき、俺の腕の中で快楽を貪る彼女の姿を見るのは、最高の気分だった。


あのホテルの創立記念パーティーの日。

俺は自分の人生の絶頂にいると確信していた。

隣には、完全に俺の所有物となった琴音が、虚ろな笑みを浮かべて座っている。

そして、目の前には復讐心に燃えながらも何もできない、無力な瀬尾結希が立っていた。


「さあ、瀬尾くん。君の愛した彼女の、今の姿をよく見ておくんだな」


俺は、彼の絶望した顔を拝むのを心から楽しみにしていた。

だが、事態は俺の予想を遥かに超える形で崩壊した。


スクリーンの映像が切り替わった瞬間、俺の全身の血が凍りついた。

映し出されたのは、俺たちが隠してきた、汚泥のような真実の記録だった。

女の子たちを薬で眠らせ、弄んでいる証拠映像。

サークルの運営資金という名目で、親の会社の金を横領し、違法なルートに流していた裏帳簿のデータ。


「……な、なんだこれは! 止めろ! 早く止めろ!」


俺の声は、自分でも情けないほどに震えていた。

周囲の学生たちの視線が、憧れから嫌悪と蔑みへと一瞬で変わっていく。

俺が築き上げてきた『楽園』が、足元から音を立てて崩れていくのが分かった。


「豪徳寺蓮さん。同行を求めます」


刑事たちが現れた時、俺は初めて「死」よりも深い恐怖を感じた。

親父の名前を出せば、どうにかなると思っていた。

金さえあれば、どんな不祥事も揉み消せると信じていた。

だが、瀬尾は俺が最も恐れていた場所を、正確に撃ち抜いてきた。


俺がパトカーに押し込まれる際、一瞬だけ、雨の中に立つ瀬尾の姿が見えた。

彼は怒鳴るわけでもなく、泣くわけでもなく、ただ冷徹な、無機質な瞳で俺を見下ろしていた。

その瞳は、ゴミを見るような、あるいは道端の石ころを眺めるような、完全な無関心に満ちていた。

俺は、自分が彼を見下していたのではなく、最初から彼の盤面の上で転がされていた道化師に過ぎなかったのだと、その時ようやく悟った。


それからの日々は、まさに地獄だった。

留置場の中、俺を待っていたのは、絶望的な報せの連続だった。


「蓮、もう終わりだ。お前の不祥事のせいで、会社の株価は紙屑同然だ。取締役会は私を解任し、背任罪で訴えると言ってきている。……お前のような息子を持ったことが、私の人生最大の汚点だったよ」


面会に来た親父の顔は、一晩で十歳も老け込んだように見えた。

かつての威厳はどこにもなく、そこには保身のために息子を切り捨てようとする、哀れな老人の姿しかなかった。

実家は破産し、豪邸も、高級車も、すべて差し押さえられた。

俺の名前は、ネット上で「稀代のクズ」として拡散され、顔写真も住所も、何から何まで晒し上げられた。


接見に来た弁護士からは、さらに追い打ちをかけるような言葉を投げられた。


「豪徳寺さん。今回の件ですが、被害者の女性たちが次々と被害届を出しています。強制性交、麻薬取締法違反、強要罪……それから、お父様の会社の資金流用についても、あなたの指示だったと証言している幹部がいます。……正直、執行猶予は絶望的です。十年前後の実刑は免れないでしょう」


弁護士の声は事務的で、一欠片の同情も感じられなかった。

俺のために必死になってくれる味方は、もうこの世に一人もいなかった。

それどころか、かつて俺に媚びを売っていたサークルのメンバーたちは、自らの刑を軽くするために、すべての罪を俺に擦り付け、俺がいかに卑劣な男であったかを法廷で詳細に語り始めた。


狭く冷たい独房の中で、俺は何度も自問自答した。

どこで間違えたのか。

なぜ、あんな「モブ」に負けたのか。


答えは、明白だった。

俺は、人を愛するという感情の重さを知らなかった。

瀬尾が三年間かけて築き上げてきた絆。それを壊された怒りが、どれほどの執念を生むのか。

彼は三年間、彼女を守るために真面目に生きてきた。

その「真面目さ」という武器が、最後には法と証拠という形で俺の喉元を切り裂いたのだ。


ある日の夜。俺は夢を見た。

俺がまだ何者でもなかった頃、あるいは、普通に生きていれば手に入ったかもしれない未来の夢だ。

そこには、誰かに愛され、誰かを愛し、ささやかな幸せを享受する自分の姿があった。

だが、夢の中の俺の顔は、今の俺とは似ても似つかない、泥に汚れた化け物の顔をしていた。


「……助けてくれ……誰か……」


俺は独房の壁に縋り付き、声を上げて泣いた。

だが、その声を聞いてくれる者は誰もいない。

看守の足音だけが、遠くで冷たく響いている。


数ヶ月後、俺の裁判が始まった。

傍聴席には、かつての被害者たちの姿があった。

佐倉沙織、藤代美咲。

彼女たちの瞳には、俺に向けられた強い敵意と、同時に、自分たちの過去を清算しようとする強い意志が宿っていた。

そして、その中に、氷見谷琴音の姿もあった。


彼女は、俺がプレゼントした高価な服を脱ぎ捨て、安物の地味なワンピースを着ていた。

その顔には、隠しきれない疲労と絶望が刻まれている。

俺と目が合った瞬間、彼女は激しく顔を歪め、吐き捨てるように呟いた。


「……死ねばいいのに」


その言葉は、どんな暴力よりも深く俺の胸に突き刺さった。

俺が「姫」として祭り上げ、弄んできた女。

彼女は今、俺への憎しみだけを糧に、かろうじて生きているように見えた。

俺が彼女から奪ったのは、瀬尾という恋人だけではない。

彼女が自分自身を愛せるという、人としての根本的な尊厳を、俺は奪い去ってしまったのだ。


判決は、懲役十二年。

未決勾留日数を差し引いても、俺がこの冷たい塀の外に出られるのは、三十歳を過ぎてからだ。

だが、外に出たところで、俺を待っている場所はどこにもない。

数億円にのぼる損害賠償、前科者の烙印、そしてネット上に永遠に残る悪評。

俺の人生は、この二十代前半で事実上、終了したのだ。


刑務所での生活は、俺がこれまで享受してきた贅沢とは対極にあるものだった。

起床、労働、食事、就寝。

すべてが時間で管理され、個性も自由も奪われる。

食事は味の薄い麦飯と、冷え切ったおかず。

冬の寒さは骨まで染み渡り、夏の暑さは逃げ場を許さない。

同室の囚人たちからも、「女を薬で眠らせたクズ」として蔑まれ、陰湿な嫌がらせを受ける毎日。


俺は鏡を見るのが怖くなった。

そこに映っているのは、かつての面影を微かに残した、ただの衰えた犯罪者の姿だった。

肌は荒れ、髪は短く刈り込まれ、目は生気を失い、濁っている。

これが、俺が手に入れた『特別な世界』の終着駅だった。


ある日、刑務所の図書室で、古い新聞の切り抜きを見つけた。

そこには、かつてのフェニックス事件が特集されており、被害者支援のボランティア団体を立ち上げた瀬尾結希と藤代美咲のインタビューが載っていた。

写真の中の瀬尾は、穏やかな笑顔を浮かべ、新しいパートナーと思われる藤代さんと並んで立っていた。


「……あいつは、前を向いてるんだな」


俺は、その写真を震える指でなぞった。

俺が地獄の底で泥を這っている間、彼は自分が守りたかった人々のために、新しい道を歩み始めている。

彼は復讐という毒に飲み込まれることなく、それを薬に変えて、誰かの力になろうとしている。


その瞬間、俺の中にあった最後の一片のプライドが、音を立てて崩れ去った。

俺は、彼に勝ちたかった。

彼を嘲笑い、踏みにじることで、自分の優位性を証明したかった。

だが、結局のところ、俺は彼に何一つ勝てていなかったのだ。

富も、地位も、容姿も。そんなものは、一人の人間の持つ「誠実さ」という、目に見えない力の前には無力だった。


俺は、新聞を閉じて俯いた。

目から、熱いものが溢れ出してきた。

それは、後悔というにはあまりにも遅すぎ、懺悔というにはあまりにも身勝手な涙だった。


俺はこれから、十数年の歳月を、この灰色の壁の中で過ごす。

その間も、瀬尾は幸せを積み重ねていくだろう。

琴音も、いつかはこの傷を癒やし、誰か別の人間と新しい人生を歩むかもしれない。

だが、俺には何もない。

俺が残したのは、数え切れないほどの人々の悲鳴と、自分自身の無残な破滅だけだ。


「……俺は、何のために生きてきたんだ」


その問いに答える声は、やはりどこからも聞こえてこない。

窓の外、鉄格子の隙間から見える空は、あまりにも遠く、青かった。

かつて俺が、自分のものだと信じて疑わなかったその空は、今では手の届かない場所に、ただ冷たく広がっている。


俺は、冷たいコンクリートの床に額を擦り付けた。

謝罪の言葉を口にしても、それは誰の耳にも届かない。

俺が犯した罪の重さは、俺自身の魂を、これから永遠に縛り続けるだろう。

道化師に堕ちた王子様は、暗闇の中で、ただ静かに、絶望の終わりを待ち続けることしかできなかった。

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